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江戸時代の金と銀の悪用と石見銀山の代表性
- 江戸時代には、金や銀が悪用されることがありました。特に時代劇では、小判に加工された金や銀を現金として使えるようにする悪の一味が登場しますが、最終的には正義の味方によって成敗されます。
- 一方、島根県の石見銀山は江戸幕府が管理していた代表的な銀山でした。この銀山は銀の採掘ができなくなったという嘘の届け出をし、実際には廃鉱から銀を抜け荷で仕入れていました。この銀を商人が売りつけ、その利益は悪のボスのワイロや幕府内での出世に利用されました。
- 江戸時代に金や銀が悪用される理由としては、現金の代わりに使用できる銀を利益やワイロにすることで利益を得るため、宝飾品など物品として悪用するためなどが考えられます。石見銀山が代表的な銀山とされた理由は、銀の採掘が続けられたことや、江戸幕府がその管理に関与していたことによるものです。
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> 「江戸時代、金だけで無く、銀も悪用する人間が居たのは、主にどう言う理由からなのか? 江戸では、金が通貨の中心でしたが、商人の町「大坂(大阪)」では銀が通貨の中心だったから。 で、江戸で使うために大坂の銀を金に替え、大坂で使うために江戸の金を銀に替えるから「両替商(本両替)」。 各藩の米蔵は大阪に置かれていて、米相場などは大坂でたっていました。そこで銀が使われていたので、(金を悪用する人がいれば)当然銀を悪用していた人もいたでしょうね。 > どうして石見銀山が、代表的な銀山だったのか…? えっと、あの地に良質の「銀鉱脈」ができた地質学上の質問ではないのですよね? 歴史的には、「生野銀山と並んでたくさん、かつ簡単に銀を産出したから」というほかないと思います。 石見銀山は、鎌倉幕府が滅亡したころ発見され(当時は発見しただけ)、大内氏、「吾に七難八苦を与えたまえ」と月に祈った山中鹿之助が仕えた尼子氏、毛利氏という具合に、石見銀山の銀をめぐって係争地になっていましたので、武将の間では非常に有名でした。 今「米と言えばコシヒカリ」という感じで、金と言えば佐渡金山。強欲官僚と言えば、お代官様。悪徳商人と言えば越後屋。銀と言えば石見銀山、だったわけです。 そうやって争ってきた銀山を秀吉が自分のものにし、それを徳川幕府が奪い、鉱山奉行の大久保長安が産出額を倍増させたので、ますます有名になったという経緯です。 ちなみに、「石見銀山ねずみ取り」という「殺鼠剤」が庶民の間でも有名でしたので、これも石見銀山の名前を有名にする上で役だったかもしれません。
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No.3です 補足を頂戴しました。 >問題 のシーンは、考証的には大体は会ってると、言う事でしょうか? 概ね合っています。 多少薀蓄を追加させて下さい。 ただし、ゴタゴタ言うと文芸作品としての番組に水をさすことになりますので読み捨てて下さい。 「加工し易い金で、一番新潟県の佐渡金山か、山梨県の甲府の金山、」 →金鉱石中の金の含有量の差の意味か? 金は元々含有量が少なく、目で見てわかるのはトン当たり30g程度の含有量と言われています。 現在でも通常はトン当たり3g程度です。 金鉱山というのは土砂を掘りだしているようなものです。 あるいは、佐渡では小判の鋳造をやっていた時期がありますので、幕府の目を盗むにはやり易かったということか? 「佐渡奉行か甲府勤番等、江戸幕府側で、管理を担当する役職に就いてる、悪のボスが、現金として使える様にする」 →この辺がややこしい話になります。 通貨としての小判や一分金を作っていたのが、江戸の金座です。 現在の日銀の場所です 後藤家が世襲で任に当たっていました。 現在の首都高の呉服橋ランプの前に一石橋というのがあります。 この橋の両側に後藤家があったことでつけた名前です。 後藤(五斗)と後藤(五斗)で一石です。 江戸っ子の洒落です。 幕府で管理を担当してるのが、勘定奉行ですので、下役が悪だくみを実行するには後藤家を抱きこむ必要があります。 さもなくば、職人を抱きこんでチョロマカスことになりますが、これでは金額がしれたものです。 残りは贋金作りということになります。 「例えば、江戸幕府で銀山の管理を担当する、役職に就いてる悪のボスが、その江戸幕府に対して、「銀が、掘り出せなくなったので、廃鉱にする」旨、届け出るが、」 →1675年(延宝3年)に産銀量が減ったために石見銀山の銀山奉行の職は大森代官に格下げされました。 後に飢饉の際に幕府に無断で年貢の免除などの救済策をやって石見の人々を救い、その責任を取って切腹して名代官として顕彰された人もいました。 「基本的には商人である準ボスが、裏ルートで売って」 →密貿易品は中国産の絹織物が主でした。 反物ですから簡単に大量にさばけます。 中国の蚕は日本の蚕よりも細い糸を吹きますので、風合いが柔らかく、超高級品のシースルーの薄絹に好まれました。大奥では歓迎されたでしょう。 日本の生糸が主要輸出品になったのは、明治以降に蚕の品種改良と手で紡いでいたのを機械化して均一な糸にしたことによります。 前回も御説明しましたが、ここまで手をかけなくても銀が手元にありますから贈答用の白銀にした方が簡便で目立たなかったでしょう。 今でいえば商品券を贈るようなものです。 目立つ反物や珊瑚などの品物をウンチク運ぶよりもさりげなく文字通り袖の下に入れれば済みます。
>江戸時代、金だけで無く、銀も悪用する人間が居たのは、主にどう言う理由からなのか? ご質問にもありますように背景には南蛮密貿易があります。 金は確かに世界共通の通貨でしたが、何分にも産出量が限られていて、通商が拡大するのに従って銀が使われるようになりました。 南蛮船や中国船はこの銀を好みました。 中国の銀を手に入れるために英国がアヘンを売ったのがアヘン戦争の原因です。 秀吉は金が好きで、セッセと銀を持ち出しては金に換えていました。 番組の御説明では色々な品物に換えて贈賄していたとされておられますが 江戸時代には白銀などといって御褒美に良く銀の板が使われました。 白銀3枚で約2両の価値がありました。 お金そのものではありませんので贈答品としては好都合だったでしょう。 銀の国外持ち出しを禁じたのは、ペルー来航以降の幕末です。 銀と金との交換レートが日本と海外とで違っていました。 結果として二朱銀などを使って両替を繰り返すと1$が2$に化けるということが起きていました。 下田に居たハリスなどはこれが目当てで日本へやってきた山師で外交官という代物ではありませんでした。 >現在の島根県の石見銀山と言うのは、良く聞くが、どうして石見銀山が、代表的な銀山だったのか…? 日本は16世紀にペルーの銀山が発見されるまでは世界一の産銀国でした。 豊臣時代から江戸時代初期にかけては、岩見銀山が世界の三分の一を産出していたとされています。 江戸時代には枯渇してしまいました。 佐渡金山といわれますが、実際は銀のほうが産出量を上回っていました。 江戸幕府はその他にも銀山を開発していましたが、石見銀山の名前だけが残りました。 老舗の名前が残ったのと同じことです。 銀を製錬する際にでてくるヒ素が殺鼠剤として使われ、岩見銀山猫いらず、と言われて販売されていたことも影響しています。 >見たのが、連続テレビドラマとしての時代劇番組なので、ほぼと言って良いが、架空な話である お話は架空でも論拠といいますか考証は合っていますので、それほどバカには出来ません。
補足
回答、有難うございます。 私が見た、問題の時代劇番組で登場した、問題 のシーンは、考証的には大体は会ってると、言う事でしょうか?
- trytobe
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日本と海外で、銀と金の交換比率が違ったので、日本で銀を金の小判に交換して外国に持ち出して、日本から持ってきた小判を溶かして金地金にして海外で銀に交換する、という往復をすると、最初より多くの銀に交換できたのです。 為替レートと通貨についての考察 - 財務省 (PDF形式、9ページ=10枚目に記載あり) https://www.mof.go.jp/pri/research/discussion_paper/ron176.pdf 江戸時代 日本 海外 銀 金 為替 - Google 検索 https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3+%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E6%B5%B7%E5%A4%96+%E9%8A%80+%E9%87%91+%E7%82%BA%E6%9B%BF
お礼
「岩見銀山が、有名になったと思われる、主な理由込みで、詳しく回答して頂いたので、BAにしたい」と、思います。 回答して頂き、有難うございます。 又、質問した時は、よろしくお願い致します…。
補足
回答、有難うございます。 確かに、「石見銀山ねずみ取り」と言えば、どの時代劇でも、「長屋住まいの住民が、自分達それぞれの自宅で、用意してる」シーンは、良く登場してるのは、何回か見てます。 ただ、「幕府に対して、管理を担当課する、悪のボスは、「銀が、掘れなくなったので、廃鉱にする」旨、届けを出してから、裏では、商人である準ボスに、用意させた人夫を使って、掘り続けさせた銀を、悪用する」内容のストーリーによる、時代劇では、現在の兵庫県の生野銀山を、悪用する悪の一味が、登場した回は、長七郎天下ご免では1回だけですが、他の時代劇でも、何回か見た様に、記憶あります。 長七郎天下ご免で見た、問題の回では、俳優の横内正さんによる、ナレーションでは、「生野銀山は、天領なので、銀もたくさん出た…」と言う内容で、視聴者に対して、説明してました。 この生野銀山ですが、歴史的に見ても、石見銀山と共に、どれ位、重要だったのでしょうか?