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《オシへを信じる》という幼稚にしておろかなこと

 オシへは いかに神秘をあつかっているにしても 人間のことばで書かれた命題である。人間の思考であり判断である。  思考は思考するものであり 判断はさらに本人自身の・またほかの人のよりよい判断にゆだねるものである。  このオシへを無条件に受け容れる・つまり信じることはあり得ない。精神錯乱である。  このシュウキョウ批判について さらになおご教授ください。  ブッダのオシへを信じるとか キリスト教を信じるとかあるいは人間たる教祖を信じるといった狂気の表現から自由になりたい。ゆえ。

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  • Nakay702
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回答No.1

bragelonneさん、お久しぶりです。 おっしゃることに概ね賛同します。ということは、お答えする意義があまりないかも知れませんが、まあいつもの調子で同感したり、いちゃもんをつけさせていただきますね。 > オシへは いかに神秘をあつかっているにしても 人間のことばで書かれた命題である。人間の思考であり判断である。 ⇒そうですね。ですから私は、神秘や奇跡の類より、その教え・聖典の個々の文言が拠って出てきた時代背景や歴史的状況に興味があります。そこには、何らかの物語性とかエピソードが読み取れるものですから。 > 思考は思考するものであり 判断はさらに本人自身の・またほかの人のよりよい判断にゆだねるものである。 ⇒「思考は、(個々の人間が自前の英知を働かせて)思考するもの」であり、「思考されたもの」である。したがって、その知的営為の過程や思考の主体たる個人には時空の隔たりを超えてこよなく愛着を抱き得るものではある。 > このオシへを無条件に受け容れる・つまり信じることはあり得ない。精神錯乱である。 ⇒まあ、そうですね。 ただ、「オシへを受け容れる・つまり信じる」ことは個々人の自由ですから、「精神錯乱である」とは申しませんが、少なくとも私は、みずから進んで「オシへを無条件に受け容れる・つまり信じる」ことはないと思います。 > ブッダのオシへを信じるとか キリスト教を信じるとかあるいは人間たる教祖を信じるといった狂気の表現から自由になりたい。ゆえ。 ⇒私も、そういう「狂気の表現から」は自由でいたいと思います。 ただし、個々の聖典には関心があります。例えば、仏教の経典、キリスト教の聖書、イスラム教のコーラン、儒教の四書五経などは大いに興味があります。その他、ユダヤ教のタルムード、バラモン教のヴェーダ、ジャイナ教のアンガとウパンガ、道教の太上感応篇などにも関心があります。これらを紐解けば、得ることがいっぱいあるに違いありません!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ですから私は、神秘や奇跡の類より、その教え・聖典の個々の文言が拠って出てきた時代背景や歴史的状況に興味があります。そこには、何らかの物語性とかエピソードが読み取れるものですから。  ☆ 聖書や仏典などについても かなり研究はすすんで来ているように見えます。    ただ ひとつにその――オシへと言うよりは――思想や物語(歴史や文学)そのものと合わせて捉えないと なかなかいい研究だとは思われない場合もあるかに感じます。(ちらっちらっと読んだりしただけですが)。  もうひとつに たとえばクムラン文書を例に出しますが これなどは史的価値が大きいにかかわらず その文章の内容としては それほどあたらしいものが明らかにされたとも思えないでいます。というように 歴史的な背景についての研究がすべて あたらしい成果を挙げるとも思えないようなところがあるのではないかと。  天の邪鬼としては そういう一面をも触れておきたいところです。  ★ ⇒「思考は、(個々の人間が自前の英知を働かせて)思考するもの」であり、「思考されたもの」である。  ☆ ですね。  ★ したがって、その知的営為の過程や思考の主体たる個人には時空の隔たりを超えてこよなく愛着を抱き得るものではある。  ☆ ゆえにも 自分自身でさらに吟味・検証していくものでしょうし ほかの人たちも大いに批判を加えて行くものと思います。  ★ ただ、「オシへを受け容れる・つまり信じる」ことは個々人の自由ですから、「精神錯乱である」とは申しませんが、  ☆ ここ じつは 微妙に大きな問題があると思っています。  主観の内面における信教・良心の自由がどこまでも保証されることと そして今度はその信教にかかわる主観内容を他人にむやみに指図するようなこととは 別だという点ではないでしょうか。  すなわち 後者の振る舞いは シュウキョウないしその組織においては 日常茶飯事のごとくおこなわれているものと思います。――これについては やはりどこから見ても 精神錯乱だと考えます。  ★ ただし、個々の聖典には関心があります。例えば、・・・  ☆ オシへは 倫理・思想であるという取り扱いであれば 何の問題もないと考えます。  そして オシへを通り越して 信じるものを信じること これも まったく自由です。《オシへを信じる》ということが 言い回しも実際の事態もが 多すぎるように思います。  

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     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

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