キリストが勝手に人間となり磔に遭って死んだ。それは自己主張ではなく、信じることを示した

このQ&Aのポイント
  • キリストは自己主張ではなく、人間として磔に遭って死んだ。
  • キリストは人間の原罪をあがなってくれたと思われていたが、彼の側から見ればただの人間としてふるまった結果だった。
  • キリストの行いは信じることを示し、神を超えた存在を指し示した。宗教は必要ないことを教えた。
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キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

 =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

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noname#221368
noname#221368
回答No.3

 ddt×3です。他の事に関わっていて、返答が遅れました。  自分は、あなたの質問の意図を現状では理解していませんので、今回はウェーバーの意図について述べます。もちろん自分が理解したと思っている範囲でです。その上で、これ以上ddt×3と関わる価値があるかどうかを、判断して下さい。もしくは、こういう話をしたいのだ、という方向に誘導して下さい。誘導結果に応答可能ならば、必ず応答します。例によって、あなたの補足を継ぎ接ぎします。 >勤勉とガリ勉との違いを言えばよいものを ガリ勉をわざわざひとつの行動形式として勤勉に並ぶカテゴリーに仕立て上げたものだから あとでこのガリ勉資本主義に対して ぼろくそにけなす結果となる。  ウェーバーにはもともと、ガリ勉君をぼろくそにけなす意図がありました。ただしこのガリ勉君は、当時のヨーロッパの後進国の一つであった、彼の出自でもあるプロイセン帝国のガリ勉君です。プロイセンのガリ勉は、同じではないですが、明治の日本のような上からの近代化によって生まれました。彼が意識した資本主義は、プロイセン帝国という歴史的文脈に限定された、非常に特殊な資本主義(帝国主義)です。彼はそこと、それを生み出した政治体制に、プロイセンの後進性を見出します。この後進性を何とかしたかった、というのが彼の本音でしょう。  ウェーバーは本当は歴史学者です。彼自身、自分を社会学者と言った事は、一度もないと思います。社会学者は後年の評価です。なので歴史学者として、資本主義の成立過程は無視できない訳です。なぜプロイセンには、本当の資本主義がないのか?、と問うために。個人的意見ですが、ウェーバーは資本主義の申し子だと思います。  産業革命が起こったのはイギリスですが、イギリスの資本主義は手垢が付き過ぎています。そこで当時の新興国であったアメリカを、純粋な資本主義成立のモデルケースとして選んだと思います。  当時のプロイセンは、政治意識も工業レベルも、国民性の点でも二流だ、というのが彼の認識でした。ところが哲学だけは、評価されていました。ヘーゲルです。そして後進性の根底には、ヘーゲルの予定調和(歴史的宥和)の観念があると睨みます。彼にはそれが、観念論的嘘っぱちに見えました。だから現実を、手に取るようにわかりやすく分析しようとします。その意図の下に出てきたのが、意識的にステレオタイプ化を狙う理念型モデルです。  ここでは、 >前略・・・《思考にあらざる信仰(≒無根拠)にもとづき 経験行為としては経験合理性にもとづく経験思考をはたらかせ・・・(ここまで引用) 「ない」行動類型を、心情倫理と呼んでおきます。 >前略・・・つまりは いま心情倫理に対するもう一方の理念型である責任倫理のことです――が 泣いても笑ってもついて来ます。 という事を、理念型モデルを用いて明確化する意図がありました。 >☆ けっきょくヱーバーの議論は 人間の自己表現としては《責任倫理》がともなわれるという当たり前のことを推し出しているに過ぎません。この責任を回避することは ただただおのれの心情に従っているという子供じみた心性であると やはり当たり前のことを指摘しているのみです。 という事を、理念型モデルを用いて指摘したかったのだ、と思います。 > ふたつの理念型に分かれるなどということは 有史以来じんるいのあいだではあり得ないことなのである。マックスくん 発狂せり。  極論すれば、あり得るというのがウェーバー観察結果です。何故ならそう考えない人もいるからです。しかし上記の引用は今から見れば、余りにも常識的です。それが「ウェーバーは古い」という自分の感想です。 >言いかえると 責任倫理の責任を回避しようとたくらむ。そのための理屈をこしらえる。現実の責任(=自己表現にともなわれる答責性=説明責任)を超えるようなさらに高度に政治的な内容を持つ理説だと言いたいようで そのことを《集団の力を借りて或る種の倫理命題をあたかも絶対規範とする宗教教義》に求めた。  この宗教教義をかかげていれば そのもとに《無私で純心な》心情をつらぬくなら 何ごとも実際上の責任をまぬかれるとうそぶいた。ただそれだけのことである。ただそれだけのことを 仰々しくわざわざいちいち マックスくんは 《ゲジンヌングズエティーク》と言って取り立ててしまった。ちょんぼである。  当時のプロイセンのビスマルク体制が、まさに上記の通りだったのです。「職業としての学問(学問価値自由論)」,「職業としての政治」を読んでわかる事は、これらは当時の政治体制への政治批判だったという事です。 ビスマルク体制に歴史的理論的根拠付けを与えたのが、ウェーバーも属していた、シュモラーを領袖とする、ドイツ歴史学派でした。彼は、歴史学派の鬼っ子になります。上記2つは、政治批判であると同時に、歴史学派への学会批判でもあります。政治と学問は癒着するな、と言っただけです。今から見れば、余りにも当たり前です。  ウェーバーは、以上のような事を論理的に明確化するために、理念型モデルを考え出しました。今では明確化する必要すらないのかも知れませんが、少なくとも彼の生きた歴史的文脈では、その価値がありました。  こんな当たり前の事を言う必要があったのは、当時は誰もそういう事を言わなかったからです。その根底には、ヘーゲルの観念論がある、というのが彼の意見です。  ウェーバーがいかに歴史的文脈に規定された人物であるか、おわかり頂けたでしょうか?。そしてもう一回言いますが、論理的にはどうであれ理念型モデルは、そう考えない人もいるという、観察結果に基づく外延的定義です。

bragelonne
質問者

お礼

 でーでーてーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ▼ (ヱーバー:社会科学方法論) 理想型(=理念型)は 歴史的個体(*つまり 主観)またはその個々の〔* 行為にかんする〕部分を発生的概念(genetische Begriffe)において捉えようとする試みなのである。(恒藤恭校閲 富永祐治・立野保男共訳 1936 p.78)  ▼ (同上) かくて成熟しつつある科学とは 実にいつでも 理想型が経験的に妥当するものとして または 類概念として(* 類型的な概念ないし一般的な法則として)考えられている限りにおいて その(* =理想型の)克服を意味するのである。(p.96)  ☆ かくして  ▼ (同上) だから社会生活を取り扱う科学の歴史は いつでも (1) 概念構成によって事実を思想的に整序しようとする企て ――(2) かくして獲た思想像の 科学的視野の拡大および移動による解消 ――および(3) かく変化した基礎にもとづく諸概念の新構成―― この三者の絶えざる交替である。(p.97)  ☆ だからと言って 《勤勉》に対して《ガリ勉》は そして《責任倫理》に対して《心情倫理》は この理念型としての概念には成り得るとは思えない。こうわたしは考えます。  勤勉とは おのれ個人としては 自由な自己表現をその自由と同時に答責性(つまり責任倫理)を引き受けつつ日々一歩一歩すすめて行く動態である。おそらく社会としては それぞれの自己表現の自由な交通かつ構造的な錯綜をつうじて その社会力学的な運動を互いに共同自治する動態である。  ガリ勉は この個人としての自己表現の動きをそれとして究極の目的と見なすことによって生じる行動形式である。  勤勉の負う責任は 共同自治の中で主観の共同化という話し合いをつうじて取り決め合ってすすめるその過程としてのやはり動態である。  ガリ勉の負おうとする責任は 社会力学上の運動が繰り広げられる場で人びとの動きや主張を受けとめてその力学上どうしても押しとどめることのできない力に対するもののみである。その意味では ガリ勉は 《信念・信条の人》なのであるから その責任倫理は 信条倫理としておのれの主観の中ではかたちづくられてしまっている。その信条が きわめて狭い範囲の人びとにとっての共生(繁栄)を目指すものであるとすれば 単なる心情倫理(お山の大将)となる。  ちなみに資本主義の歴史としては このガリ勉による勤勉( industry )が 多くの人びとの生活を経済的に支えるという歴史的・社会的な現実が現われて来た。危険を冒してでも 生活の安定・向上を求めるという行動様式をも生んだ。  ――以上のように考えるとき わたしがヱーバーの学説に異を唱えるのは かれが《ガリ勉》や《心情倫理》を独立した理念型として立てたこと しかもこれをそもそもの初めに 勤勉や責任倫理と互いに対等のかたちにおいて同じ場に《発生》したと見ること ここにあります。  悪貨が ふつうの貨幣の発行されたあとに 造られるように ガリ勉も心情倫理(=子どもの論理)も ふつうの勤勉とその倫理のいとなまれるその生活の場から鬼っ子として現われる。と考えます。《大人がそれに走るところの子どもの論理かつ倫理》。  ヱーバーの頭の中には《経験的に妥当するものとして》浮上したのでしょうが 《類概念として》は考えられていない。と見ます。それは 文字どおり《バブル》でしょう。  人間は《物象化》はし得ないと思われますから。せめて哲学は ガリ勉資本主義を あだ花と見ざるを得ないと考えます。(ここまで来てしまったなら このあだ花を冷温停止にまで持ちこむことは 相当むつかしい歴史行為になるでしょうが。一品種大量生産を見込み生産という体制においておこなうというからには その景気循環はバブルをともなう浮き沈みがつきものだと考えられます)。  ですが ヱーバーは プロテスタンティズムの倫理を ベンジャミン・フランクリンの思想として――《時は金なり》等々として――むしろ持ちあげていませんでしたか? 初めは持ちあげておいて あとでケチョンケチョンにけなしています。まんじゅうがこわい まんじゅうがこわいと言い続けて まんじゅうが出されてこれを食べたあとは こんどはお茶がこわい お茶がこわいと言うようなものです。こんな歴史過程は 既存の理念型の克服でもなければ あたらしい概念のあたらしい構成でもないでしょう。  じっさい禁欲が営利活動のガリ勉を生んだというのだから まんじゅう怖いと言いながら まんじゅうにありつけるというような理念型の扱い方になっているかに思えます。  おそらく《禁欲》あるいは 初めのわれわれのやり取りに戻って《山上の垂訓を絶対の命令と見なして この観念の神に仕えてしまうその心性》 こういったところに すでに《ふつうの勤勉や責任倫理》の生活態度(つまり思想)からの逸脱が発生しているのではないでしょうか。  学問は そこらあたりのことを 歴史的にも思弁的にもしっかりと明らかにして行くのだと考えます。  ★ ~~~~~~    >前略・・・《思考にあらざる信仰(≒無根拠)にもとづき 経験行為としては経験合理性にもとづく経験思考をはたらかせ・・・(ここまで引用)  「ない」行動類型を、心情倫理と呼んでおきます。  ~~~~~~~~   ☆ ではなく そうではなく その呼称を理念型として立てるといった初めのボタンの掛け方を問いたいと思います。  ★ 論理的にはどうであれ理念型モデルは、そう考えない人もいるという、観察結果に基づく外延的定義です。  ☆ それを《ふつうの理念型》の方から派生するものだという見方を もしそうだとすれば ないがしろにすることは出来ない。  ★ ウェーバーにはもともと、ガリ勉君をぼろくそにけなす意図がありました。ただしこのガリ勉君は、当時のヨーロッパの後進国の一つであった、彼の出自でもあるプロイセン帝国のガリ勉君です。  ☆ もしそうでしたら 哲学としても歴史学としても まさにその《発生 ないし 起源》において認識することが肝心だと考えます。勤勉と同時に対等の関係において発生したのかどうか。  ★ 後進性の根底には、ヘーゲルの予定調和(歴史的宥和)の観念があると睨みます。彼にはそれが、観念論的嘘っぱちに見えました。  ☆ どうなのでしょうか。ヘーゲルには 動態の概念は 弁証法としてでも あると思うのですがねぇ。つまり 初めに定義した勤勉についてならそれの動態ということを説いていると思うのですが。  ★ だから現実を、手に取るようにわかりやすく分析しようとします。その意図の下に出てきたのが、意識的にステレオタイプ化を狙う理念型モデルです。  ☆ ですから そのことが《発生的概念(つまり 起源ですね)》においても捉えられていたなら 文句は出ないのだと思うのです。  ★ 今から見れば、余りにも常識的です。それが「ウェーバーは古い」という自分の感想です。  ☆ 《起源》論に もし欠けるところがあるとすれば その当時から古いと言いますか 保守反動の学問でしょう。天下を取ればいいぢゃないかと。  ★ ~~~~~~~  ビスマルク体制に歴史的理論的根拠付けを与えたのが、ウェーバーも属していた、シュモラーを領袖とする、ドイツ歴史学派でした。彼は、歴史学派の鬼っ子になります。上記2つは、政治批判であると同時に、歴史学派への学会批判でもあります。政治と学問は癒着するな、と言っただけです。今から見れば、余りにも当たり前です。  ~~~~~~~~~~  ☆ ここらあたりは わたしには分かりませんが もし《価値自由》ということを言っているのでしたら それは どうなのでしょう? ひと言で批判するとすれば 《政治と学問は癒着して 互いに自由にその考えるところを理論づけして競いあえ》というのが 哲学だと考えますが どうでしょう? 政治も学問も 同じ芸術ですから。  《責任倫理をともなった自由な自己表現としての勤勉》 こういった思想(生活態度)は 非思考としての信仰のもとに打ち出されて来るということ その信仰を――神を指し示すことによって――明らかにしたのが キリスト・イエスではないか? じつは歴史上そのほかにいないのではないか?   同じような信仰の概念を述べている場合があるとしたら おそらくキリストの《非思考の庭が成ること》といったその境地から初めて その同じような概念や思想を把握することができる。こう考えています。それを問うています。いかがでしょう。

その他の回答 (2)

noname#221368
noname#221368
回答No.2

 ddt×3です。 >▲ (心情倫理――日本大百科全書(小学館)) ~~~~~ については、仰られているように一つの解釈と思えますが、間違いとは言えないので、これについては何もいいません。  次は、自分の論点に合うように、補足を勝手に継ぎ接ぎした事を、最初に認めておきます。 >まづ《心情倫理》は 《信条倫理》と訳すべきだという議論があります。 > 《心情倫理》を《キリストの指し示した神を信じる》というコトに対応させることには 反対します。ヱーバーにも一般にも 信仰についての誤解があると考えます。 >前略・・・でもこの信条に従うというのならば それは けっきょく観念に従うことになります。思考をはたらかせており 非思考の信仰ではないからです。  ウェーバーは、少なくとも最後の引用にあるような分析を行うために、心情倫理を持ち出したのではないのは、確かと思えます。そこまで踏み込む気はなかった、というのが実情でしょう。非思考の信仰に従ったとしても、その結果の信条の観念に従って行動したとしても、責任倫理の行動類型に対立する結果をもたらす傾向がある、というのが彼の観察結果です。行動類型は観察結果ですから、心情/責任倫理どちらも外延的定義で、内包までは考慮していません。非思考の信仰も、その結果の信条観念に従った行動も、いっぱひとからげです。それを心情倫理と呼んだわけです。  こうなると、心情でも信条でもどっちでもいい訳で、用語定義や訳語の良し悪しの問題になってしまう気がします。  日本大百科全書まで読ませてしまって、申し訳なく思っています。これは、あなたの意図に気づきもせず、不用意に応えてしまった自分のせいです。  すいませんでした。  ウェーバーは、あなたの意図に応えられる概念装置を、持っていないと思います。自分も「そこまで踏み込む気はない」です。不用意でした・・・。  ただ、日本大百科全書などでウェーバーついて読まれてしまったようなので、次の事は言わせて下さい。   (1)ウェーバーは古いです。彼が言った事のほとんどは、今や常識になってる気がします。   (2)それを200年も前に、当時の後進国(差別用語なのは知ってます)であるプロイセンで言いました。   (3)そこで必要だったのが、理解社会学です。それは人や社会を「意識して」ステレオタイプ化します。   (4)なので彼の言葉は、往々にして過激になりますが、それは彼の生きた歴史的文脈からは理解できます。   (5)例えば、心情倫理と責任倫理の理念型モデルは、それらを対比させる方にむしろ目的があり・・・、   (6)・・・個々の理念型モデルの定義内容は、場合によっては、お粗末かも知れません。   (7)そのような視点がないとウェーバーは、危ないことばっかり言ってるようにも見えます。    (職業としての政治や、学問価値自由論など)  自分の究極的な行動類型(パターン)は何だろう?、とたまに思うのは、意味のある事に思えます。ウェーバーが200年前に唱えた現代的常識は、今や世界中で起こっているようにも見えるからです。その意味でウェーバーは、現代的だと自分には思えます。

bragelonne
質問者

お礼

 ディーとティーの多くから成る回答者さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。ここはヱーバー論でもないでしょうから それに素人の批判を聞いてもおもしろくないでしょうから それについては 深入りしません。ですが 今回ヱーバーの説として触れておられる次の一節については なお批判的な見解を持ちますので こちらの言い分を述べて 互いの問い求めを充実した確かなものにしてまいりたい。こう考えます。  次の一点に集中します。  ★ 非思考の信仰に従ったとしても、その結果の信条の観念に従って行動したとしても、責任倫理の行動類型に対立する結果をもたらす傾向がある、というのが彼の観察結果です。  ☆ まづすでに触れた批判をふたたび掲げます。結論は 次でした。  ○ ひとつに これらふたつの理念型に分けることじたいについて 意味をなさないと考えます。  ☆ どういうことか?   ☆☆(No.1補足欄) ~~~~~~~~   ▲ (徳永 恂:心情倫理)~~~~~~~~~   心情倫理においては・・・   (う) キリスト教でいえば、たとえば「山上の垂訓」を絶対視し、「神の命令に従って正しく行動し、結果は神にゆだねる」という形をとる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ・・・(* 中略しますが この中略の箇所では 《個人のキリスト信仰》と《組織宗教としてのキリスト教》とがまるっきり違うという趣旨で  非思考の信仰を説明しています。教義や教義を倫理規範としてその命令にしたがうというのは 思考に非ずの信仰ではあり得ないと説明しています)。・・・   ☆ 《神の命令》は そもそも《あなたの神を愛し あなたの隣人を愛せ》のみです。〔* これらふたつにして一つの要請のほかには命令はありません。人の自然本性にそなえられた志向性としての自己命令のような要請――たとえば 仏性のごとき――のほかには 命令はありません〕。  この場合の《愛》も けっきょくのところ《思考にあらざる信仰(≒無根拠)にもとづき 経験行為としては経験合理性にもとづく経験思考をはたらかせて 具体的なその愛のかたちを考え おのれの自己表現の中で推し進めて行きなさい》という意味になるはずです。  しかもその行為の《結果は 神にゆだねる》ですって? 冗談ではありません。経験行為については とうぜん自己表現にはその表現じたいに その自由と同時に答責性がついて来ているし 自己はこれを引き受けているのです。それが 経験行為です。  相対的なただしさや確実性しかない人間の理性による経験思考については つねにあやまちがあり得ます。したがって その行為は 自由であるとともに つねに答責性――つまりは いま心情倫理に対するもう一方の理念型である責任倫理のことです――が 泣いても笑ってもついて来ます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ けっきょくヱーバーの議論は 人間の自己表現としては《責任倫理》がともなわれるという当たり前のことを推し出しているに過ぎません。この責任を回避することは ただただおのれの心情に従っているという子供じみた心性であると やはり当たり前のことを指摘しているのみです。  人の行動形式には・つまりは従って人間関係としてはその交通の或る種の決まりである倫理には 責任倫理があるのみです。自己表現の自由とともにです。  これを――おのれの自由意志によってへそを曲げて――ないがしろにしておのれの力を振るいたいというやからが現われる。(アマアガリ・シンドロームと言っていますが)。言いかえると 責任倫理の責任を回避しようとたくらむ。そのための理屈をこしらえる。現実の責任(=自己表現にともなわれる答責性=説明責任)を超えるようなさらに高度に政治的な内容を持つ理説だと言いたいようで そのことを《集団の力を借りて或る種の倫理命題をあたかも絶対規範とする宗教教義》に求めた。  この宗教教義をかかげていれば そのもとに《無私で純心な》心情をつらぬくなら 何ごとも実際上の責任をまぬかれるとうそぶいた。ただそれだけのことである。ただそれだけのことを 仰々しくわざわざいちいち マックスくんは 《ゲジンヌングズエティーク》と言って取り立ててしまった。ちょんぼである。  ふたつの理念型に分かれるなどということは 有史以来じんるいのあいだではあり得ないことなのである。マックスくん 発狂せり。  ▼ (ヱーバー:職業としての政治) ~~~~  たしかに 政治は頭脳でおこなわれるが 頭脳だけでおこなわれるものでは断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。   ☆(ぶらじゅろんぬ註。以下同様です) そんなことは 当たり前なの    だから そもそも初めにふたつの理念型に分けたことが ボタンの掛    け違いなのだ。  しかし心情倫理家として行為すべきか それとも責任倫理家として行為すべきか またどんな場合にもどちらを選ぶべきかについては 誰に対しても指図がましいことは言えない。   ☆ 二つの倫理は 理念型としてであっても 互いに対等な二項対立と     としての概念ではないと知るべきである。したがって その前提を破    って議論することには 意味がないと言わねばならない。  ただ次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に――諸君はこの興奮を《不毛》な興奮ではないと感じておられるようだが いづれにしても興奮は真の情熱ではない 少なくとも真の情熱とは限らない――突然 心情倫理家が輩出して 《愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き 彼らの愚かさ 卑俗さを根絶するであろう》という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合 私ははっきりと申し上げる。   ――まづもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題    にするね。そしてこれに対する私の印象はといえば まづ相手の十中    八九までは 自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感    動に酔いしれた法螺吹きというところだ と。  人間的に見て 私はこんなものにはあまり興味がないし またおよそ感動しない。これに反して 結果に対するこの責任を痛切に感じ 責任倫理に従って行動する 成熟した人間――老若を問わない――がある地点まで来て 《私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる》(=ルッターの言葉)と言うなら 測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。  なぜなら精神的に死んでいないかぎり われわれ誰しも いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく むしろ両々相俟って《政治への天職》をもちうる真の人間をつくり出すのである。   (脇 圭平訳書 pp.102-103)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 鳩山由紀夫は 《人間 うそをついてはいけません》と言う前にひとこと 《わたしはだまされた》と自覚し 自覚しているならば公共の発言として自認し明らかにしなければ話は始まらない。その責任について負うことから始めなければならない。  だからと言って この政治家は ただの心情倫理家であるなどと わざわざひとつのカテゴリーを提供してそこに当てはめるなどというマックス坊やの愚挙は いただけません。本末転倒とは このことです。おそらく 無意味な組織宗教であるクリスチアニズムの知り合いか誰かにごまをすっただけではないだろうか。大幅に甘くみれば 菅直人でさえルッターのことばを言っているではないか。  《私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる》と。  ヱーバーには深入りしないと言いましたので ウワベをかすった程度でしょうが だからかえって逆効果であるかも分かりませんが ボタンの掛け違いとしてのマチガイがかれの議論にはあるという批判です。というのも プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の議論にもあると見通してのことです。(勤勉とガリ勉との違いを言えばよいものを ガリ勉をわざわざひとつの行動形式として勤勉に並ぶカテゴリーに仕立て上げたものだから あとでこのガリ勉資本主義に対して ぼろくそにけなす結果となる。うんぬん)。  以上のように質問者からは応答します。どうでしょう。  

noname#221368
noname#221368
回答No.1

 社会学者マックス・ウェーバーは、(宗教などの)心情倫理と(政治などの)責任倫理を対比し、心情倫理に理由はない、信じるだけだと言いました。  自分は少しウェーバーフリークなので、前半の(a)~(e)は、概ね賛成です。後半は、少なくとも(j)については賛成です。

bragelonne
質問者

お礼

 ディーディーティー三つさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ (宗教などの)心情倫理と(政治などの)責任倫理  ☆ これについての咀嚼に手間取っています。  ディーさんには申し訳ないですが わたしはヱーバーには批判的です。  このふたつの理念型としての倫理は 内包する意味においてか外延としての意味としてか いづれにせよ 複雑で取り組むのにややこしいように思います。  きょうはこれで休むことにします。ので 補足欄にてお応えしたいと思いますので お待ちいただけますか。

bragelonne
質問者

補足

 次のように考えます。  まづ先に結論を述べます。  ○ ~~~~~~~~~  ひとつに これらふたつの理念型に分けることじたいについて 意味をなさないと考えます。  もうひとつに 《心情倫理》を《キリストの指し示した神を信じる》というコトに対応させることには 反対します。ヱーバーにも一般にも 信仰についての誤解があると考えます。  ~~~~~~~~~~  まづ ひとつの解釈例を掲げます。  ▲ (心情倫理――日本大百科全書(小学館)) ~~~~~  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BF%83%E6%83%85%E5%80%AB%E7%90%86/   Gesinnungsethik [ドイツ語]  (あ) M・ウェーバーの用語で、責任倫理 Verantwortungsethik と対をなす。彼は、あらゆる倫理的行為を律する二つの対立した原則として、この二つを理念型的に区別する。行為の類型からすれば、心情倫理は価値合理的行為に、責任倫理は目的合理的行為に対応する。  (い) 心情倫理においては、ある行為がどのような結果をもたらそうとも、それを意に介することなく、ひたすら自分が正しいと信じる究極的価値ないし倫理的命令に従って行為することが求められる。事の成否は問わない。「人事を尽くして天命を待つ」という態度である。  (う)キリスト教でいえば、たとえば「山上の垂訓」を絶対視し、「神の命令に従って正しく行動し、結果は神にゆだねる」という形をとる。  (え) ここでは純粋な心情の炎に燃えて無条件かつ一義的に献身することだけが求められるから、もしその目的に成功の望みがなく実現不可能な場合には、破滅的な結果ともなりかねない。それが宗教的には殉教者の場合であり、政治的には心情的ラディカリストの態度にも通じる。  (お) 他面、結果に対する無関心は、自分の行為の責任を神や社会や他人に押し付ける「あなた任せ」の無責任さにも通じ、価値目的のために手段を選ばないアナーキーな態度となることもある。  (か) 一見カントの「よき意志」や動機の純粋さに似通っているが、あくまで行為論のレベルに設定された理念型であることに注意すべきである。   [ 執筆者:徳永 恂 ]  ~~~~~~~~~~~  ☆ まづ《心情倫理》は 《信条倫理》と訳すべきだという議論があります。  ● 心情倫理は、信条倫理?(1)  http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/06/post_49b6.html  ☆ 煩瑣を嫌って紹介のみとしますが 基本的には 《心情》ではただ《気持ち》を言うと捉えられやすいのに対して 原語は《態度 信念 信条》を指すはずだということのようです。  ただしこの気持ちという意味が 上の説明(徳永解説)にはうんと現われているように思いますが いかがでしょう? しかも《信念・信条》とした場合にもその信条倫理と キリストの示す信仰とは 根本的に異なっている。こう考えます。  その違いは じつはかんたんです。  ▲ (う)キリスト教でいえば、たとえば「山上の垂訓」を絶対視し  ☆ ここが 《絶対的な》まちがいです。たとえば パウロは《文字は殺し 霊は生かす》(コリント後書3:6) と言って 文字ないし律法ないし規範化した倫理観念に従うなら おのれを殺す結果となると言います。なぜなら 観念や思考によるのであれば 非思考としての信仰に従っているのではないからです。  目に見えない・そして心に目にも見えない霊――ただし 或る種の予感がある――に従う信仰から 心の目に見えるその心もしくは信念・信条がたしかに芽生えます。でもこの信条に従うというのならば それは けっきょく観念に従うことになります。思考をはたらかせており 非思考の信仰ではないからです。  まして なぜその観念を規範としつつ《絶対視し》なければならないのか?  ◆ (マタイ福音 5:3) 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。  ☆ ただ《貧しい》という訳でもよいと思いますが たとえばこれが山上の垂訓のひとつです。そもそも なんでこの一句なら一句を《(う)・・・絶対視し、「神の命令に従って正しく行動し、結果は神にゆだねる」という形をと》らなければならないのか? 霊は無根拠で非思考だと言っているのですから 思考しうるところの観念ではあり得ません。  《神の命令》は そもそも《あなたの神を愛し あなたの隣人を愛せ》のみです。この場合の《愛》も けっきょくのところ《思考にあらざる信仰(≒無根拠)にもとづき 経験行為としては経験合理性にもとづく経験思考をはたらかせて 具体的なその愛のかたちを考え おのれの自己表現の中で推し進めて行きなさい》という意味になるはずです。  しかもその行為の《結果は 神にゆだねる》ですって? 冗談ではありません。経験行為については とうぜん自己表現にはその表現じたいに その自由と同時に答責性がついて来ているし 自己はこれを引き受けているのです。それが 経験行為です。  相対的なただしさや確実性しかない人間の理性による経験思考については つねにあやまちがあり得ます。したがって その行為は 自由であるとともに つねに答責性――つまりは いま心情倫理に対するもう一方の理念型である責任倫理のことです――が 泣いても笑ってもついて来ます。  一気に 責任倫理についても触れることが出来ましたので これでひととおり全体の議論が出来たかと考えます。  ヱーバーの理論もしくはそれを解釈して一般的に受け取られているこの《心情倫理と責任倫理》の理論 これは けっきょく何も物語っていない。こう結論づけます。  ○ ~~~~~~~~~  ひとつに これらふたつの理念型に分けることじたいについて 意味をなさないと考えます。  もうひとつに 《心情倫理》を《キリストの指し示した神を信じる》というコトに対応させることには 反対します。ヱーバーにも一般にも 信仰についての誤解があると考えます。  ~~~~~~~~~~  ☆ 心情倫理ないし気持ちの倫理 もしくはお望みならばもっと日本人に合わせて言えば《無私の精神というごとくの無心の状態をとうとぶ互いの触れあいのあり方》なる倫理 これは けっきょく《付和雷同の精神》であり《いちど盛り上がって団結したと思ったらただちに砂粒のごとく離れ離れになり どこまでも浮動する精神》であるでしょう。  信条倫理とすれば 多少は 信仰者の信念に合っているかに思うかも知れませんが そのとき何を基礎としているかによって 天と地の違いがあります。第一位において霊(無根拠)にもとづくか 観念(思考による根拠)にもとづくかです。(霊に拠る場合も 経験行為については 思考によって根拠づけることを とうぜん します)。  ヱーバーに対しても批判をおこないます。  ▼ (ヱーバー:職業としての政治) ~~~  国家も 歴史的にそれに先行する政治団体も 正当な(レギティーム; 正当なものとみなされている という意味だが)暴力行為という手段に支えられた 人間の人間に対する支配関係である。  だから 国家が存続するためには 被治者がその時の支配者の主張する権威に服従することが必要である。では被治者は どんな場合にどんな理由で服従するのか。この支配はどのような内的な正当化の根拠と外的な手段とに支えられているのか。  ・・・  (脇圭平訳 pp.10-11)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんな古い議論はありません。国家という社会形態は 人びとの共生のために そのような二階建て構造にして社会秩序を築くという手段が たぶんよかろうと考え合った結果つくられているのだと見ます。お二階に上がった人間は その居心地の良さにあぐらを掻いていたかも知れませんが そんな支配関係は 長い目で見れば屁の河童です。  《被治者》などという言葉が まだあったのかと思います。統治の方式つまり 基本的には共同自治の方式は したがって社会形態のそのかたちは つねに人びと一般が考え合って変えて行けばよいというだけです。服従もへちまもありません。  正当化は とうぜん 人びと一人ひとりが 共生の手段としてその手段に対して与えているというに過ぎません。困ったものだ そろそろ二階から引きずりおろしてやらねえばなんねぇな だがその前に 自分の考えと意志でみづから降りて来るように それとなく話しを向けてみっかといった話が 人間と社会と歴史との真実です。   ヱーバーは ふるい。です。  いかがでしょう?

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      ある人の考え。 ある人によるとイエス・キリストなる男は大酒飲みであり、大食漢であり、おまけに大嘘つきであったとゆー。 ある人によるとイエス・キリストなる男は常日頃から自分は神であると嘘ぶいていたとゆー。 ある人によるとイエス・キリストなるその男は人間のクズの部類であったとゆー。 ところがそのある人によるとイエス・キリストなるその男は人間のクズであると同時に神でもあったとゆーのである。 私にはなぜ人間のクズが神になれるのか、さっぱり分からないのである。 まったくどんな発想をすればこのよーな考えが生まれ得るのかも分からないのある。 どなたかこれを解説できる人がいたなら解説して下さい。       

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。