キリストは勝手に人間イエスとなり磔に遭ったのか

このQ&Aのポイント
  • キリストは自己主張ではなく罪を取り除くために人間イエスとなり磔に遭ったのか?
  • 弟子たちは原罪を救われたと信じたが、キリストは勝手に人間としてふるまった結果であり、信じることで神を示した。
  • キリスト・イエスの教えは組織宗教や宗教体制ではなく、宗教は要らないという指針である。信仰は心の庭を育む過程だ。
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キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。

 ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

お久しぶりです。 以前は失礼しました。反省しています。 どのような関係かはわかりませんが 私のことでご心配かけましたようで 申し訳ありませんでした。反省の弁を述べたほうが良いとのことで こちらで失礼させていただきました。 そしてありがとうございます。 質問の件ですが、勝手に。というのはどうかな、と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 いえいえ わたしのほうこそ わたしのクセに従って 相手に発奮させる方法を採ってしまい およそきつい言葉を投げかけています。まづは――そのこと自体については後ろめたいとの思いはありませんが―― 何にも力になれずにいることについては おあやまり致します。申し訳ありません。  でもよかった。かなりくるしいトンネルでしたね。その人がつき添ってくれたとの思いでしょう。  返す返す 何の力にも成れませんで 申し訳ありません。援助は何も出来ないけれど 宿だけはあると言おうと思ったところまでは行きましたが 全部けっきょくその人にやっていただいたことになります。  情けないですが それが実際です。と同時に そのようなわたしでも 堂々と胸を張ってまいります。  元気になりましたか。  ご回答をありがとうございます。  ★ 質問の件ですが、勝手に。というのはどうかな、と思います。  ☆ ところがところが この一点が いちばんのミソなのです。  たいていのクリスチャンは かの人が人類のために またこの罪深いわたしに代わって そのありとあらゆる罪を一身に背負ってその根本としての原罪をあがなってくれた。と言うのが つねです。  ところが イエス・キリストは このような盃を飲むことを 自分が勝手におこなった。それだけのことだというのが この問いの主眼です。  なぜって もし人のためにこれ見よがしに 磔の刑に就いたとしたら いったいどうなりましょう?  そんなみみっちい心を人は受け容れましょうや?  キリスト・イエスは まったく自分勝手に 十字架にのぼったのです。人間イエスとしては 大泣きに泣きながら。神の子であり神であるキリストとしては むしろサンヘドリンの大祭司らにこの死刑を求刑するようにすらその心をみちびき みづから望んで このような贖罪のかたちをえらび そのように成らしめた。ユダに対しても――そのユダの裏切りがなくても 神を冒涜した罪で捕らえられるでしょうが―― 裏切りをむしろさせるようにした。  すべて 神が――イエスという人間の貌(かお・かたち)としては別だが 神が――はからってそうさせたのだし キリストは父の示すところに従って 勝手にそう振る舞った。  この主題を問うています。  いかがでしょう?  考え甲斐があると思いませんか?    《勝手に》ゆえに それが神の愛であると。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の文章を見直しました。おぎないます。  ☆☆ (お礼欄) ~~~~  キリスト・イエスは まったく自分勝手に・・・神の子であり神であるキリストとしては・・・  ユダに対しても――そのユダの裏切りがなくても 神を冒涜した罪で捕らえられるでしょうが―― 裏切りをむしろさせるようにした。  ~~~~~~~~~  ☆ 後半の部分を 次のように書きなおします。  ○ ユダに対しても――そのユダの裏切りがなくても イエスは神を冒涜したという罪で捕らえられるでしょうが――  ユダが裏切りをしようと思っていたところを察知して 神の貌(キリスト)としては むしろユダに好きなようにさせた。  

その他の回答 (9)

回答No.10

ナニワからグッドニュースが届かなくなりどうしたものかと心配する日々です。 汝の敵を愛せよ はギリシャ語だと思うのですがこの愛はギリシャ語とヘブライ語でそれぞれなんですか?アハブ?ヘセド? ハガダーも手に入れて調べる必要がありますかね?

bragelonne
質問者

お礼

 ゆきやまさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    ▼ (Blue Letter Bible:Matthew 5:44) ~~~~  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Mat&c=5&t=KJV#conc/44   ○ Love your enemies :ἀγαπᾶτε  τοὺς  ἐχθροὺς  ὑμῶν,   ☆ この文例と原文を示すページです。  ▼ ( ibid.:KJV Concordance for -"love"- ) ~~~  http://www.blueletterbible.org/search/translationResults.cfm?criteria=love&page=5&sf=5&t=KJV   ☆ KJV( King James Version )で " love " と訳された語例を全部挙げて それぞれの原語をも参照できるかたちになっています。  旧約のヘブル語および新約のギリシャ語それぞれの原語が 一覧できますし それぞれについてさらに参照できます。  ▼ ( ibid.:KJV Concordance for -"love"-) ~~~   http://www.blueletterbible.org/search/translationResults.cfm?criteria=love&page=5&sf=5&t=KJV     ☆ たとえば Isa.61:8 の文例の中の“ love ” が赤みがかった色でほかの語から区別されています。その右肩に 数字が打たれ この場合は 157 です。ここをクリックすると その原語のページが示されます。ちなみに この場合 アハブです。  次の Isa.63:9 の文例では “ love ”の右肩の数字は 160 です。これをクリックすると アハブの名詞形が出て来ます。  ▼ ( ibid:KJV Concordance for -"mercy"- )~~~  http://www.blueletterbible.org/search/translationResults.cfm?Criteria=mercy&t=KJV&sf=5  ☆ ここで ヘセドが出て来ます。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ハッガダーは 知りませんでした。そこまでは詳しくまなんでいません。過ぎ越しの祭りのときの式次第でしょうか?  いちばんのん気なことを言いますと それぞれの翻訳された言葉をとおして キリスト・イエスには出会えると思いますよ。  その大前提で まなんで行かれるとよいと思います。    ★ ・・・心配する日々です。  ☆ 日々ですか? つまり 数日経っているということですか?   分かりませんが ひとつには 心配しなくてよいような状態であると判断されたのではないでしょうか?  その方の判断がお有りですから 一概にわたしが口をはさむことはむつかしいと考えます。きのうきょうは休みの日ですし この前の投稿は 9日ですから そんな情況ではないでしょうか。きょうは このように思います。

回答No.9

彼の助けがなければ生活できない現状は既に末期なのですが、その助けでも苦しい経済状況は皆大変なんだ、必死に生きているんだってことなのかもしれません。現状を維持するのですらマイナスが多い現状は穴の空いた船。 ノアの箱船に穴があったという感じなんですかね…

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます ゆきさん。ご回答をありがとうございます。  今回のご見解については なかなか〔さすがの――つまりいいほど大法螺を吹いているあの――〕わたくしでも 判断がむつかしいと思いました。    判断材料がまだまだ足りないと言って言い訳をすることも出来ないわけでもありませんが ことは おそらくいま 現在進行中の主題であると思われます。  ということは むしろほんとうはコトの渦中にあってふさわしい判断を下し得ればそれが境地の高さを明かすということでしょうが ここでわたしは残念ながら弱音を吐かなければなりません。  ひとつには わたしは――或る程度お伝えしているように――不如意の生活をしています。と同時に 脳天気です。それが  ★ 現状を維持するのですらマイナスが多い現状は穴の空いた船。 / ノアの箱船に穴があったという感じなんですかね…  ☆ という分析についても 脳天気ぶりが先に来て はぁ何だかナぁといった感じだというのが ほんとうのところです。ぶっちゃけた話。  そうですね。《理論》としては こうなりましょうか。  ▼ (パウロ:ピリピ書3章) ~~~~  14:兄弟たちよ。わたしは・・・ただこの一事を努めている。   すなわち、後ろにあるものを忘れ、前にあるものに向かって   からだを伸ばしつつ、   目標を目ざして走ろ・・・うと努めているのである。  15:・・・しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、   神はそのことをも明らかにしてくださいます。  16:いづれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて   進むべきです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  そうですね。もし方舟に穴が空いていたとするなら それはそれぞれの人にとっての方舟であり穴であると考えますから あくまで当人の主観がどう捉えるかだと言うほかになかなか思いが出て来ません。  いいほうに解釈するなら その穴が空いていたことも本人にとって何らかの理由があったというような見方が出来るかも知れません。  ▼ 15:・・・しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。  ☆ というようなことを連ねると 特に日本人のあいだでは つめたいと思われるかとおそれますが これが 正直な思いです。  あぁ ただしあなたは  ★ 現状は既に末期なのですが  ☆ という分析ないし判断はお持ちなのですね。だったら 《船底に穴が空いている》と気づく段階をはるかに通り越して すでに水があふれているのでしょうか?  《前にあるものに向かって》と言っても 前には何もないということなのでしょうか?  それはそれで 人生なのでしょうけれど。  せっかく声をかけてくださっているのに いいお応えを成し得ませんで。  でもこの情けないわたしの状態にもかかわらず わたしは堂々とあゆんで行きたいと思っていますので ご心配なく。  

回答No.8

自由意志の問題の気がします。 誰かの自由な振る舞いが実は第三者の決定した予定と一致するなんてそんなことがあり得るんでしょうか? 何時何分地球が何周した日誰かとケンカした。しかし実はそれはすでに誰かがそうなるのだと決定したとか? すると誰それが病気になって文句を言いまくるのは決定事項だったとかタチの悪い話になりますよ。 作家なら読者から苦情がきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ゆきやまさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ご見解をまとめてくれたのですね。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~  すべて 神が――イエスという人間の貌(かお・かたち)としては別だが 神が――はからってそうさせたのだし キリストは父の示すところに従って 勝手にそう振る舞った。  この主題を問うています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりから ご回答をいただいたでしょうか?  ★ 自由意志の問題の気がします。  ★ 誰かの自由な振る舞いが実は第三者の決定した予定と一致するなんてそんなことがあり得るんでしょうか?  ☆ つまり 人間はすべからく イエスのごとくに イエス・キリストとなったかたちで 父なる神のはかりごとを身におびて生き切るようになるのだ。こう受け取ったということでしょうか? そしてそれはおかしいと。  そうですね。  ひとつに 《第三者》と《神》とは別だと思います。前者は 人間です。人間であるのみです。  ひとつに 人には神の霊がやどると見ますが このことと 神キリストが人間イエスとなったというかたちで霊なる人間存在として登場したこととは やはり別だと見ます。キリスト・イエスの事例は 歴史に一回きりだと見ます。  ひとつに イエスなる人間がその自由な振る舞いを神キリストの意志のためにゆづった。すべて 神の みこころのままにと願った。ということと われわれふつうの人間が 神の霊をやどしてその霊のはからいに従って生きることとは 同じ共通の部分もあるかも分かりませんが 基本的に別だと見ます。  イエス・キリストは 人類史上 一回きりの出来ごとです。  それにわれわれが もし仮りに神のはかりごとに従って生きたとした場合 それは じつは神の力のはたらきによって人間としての自由意志もそのはかりごとに従うことが出来るようになる。こういうことだと見ます。  しかももしそのように――神に従って生きているというように――なったとしても それは おそらく事後的なヒラメキをとおして知らされることでしょう。分かるようになるでしょうが 時差があるでしょう。  人が神の――仮りに――世界計画に使われるとしたら そうして神に仕えるとしたら それは 初めに神の意志によるのであり ふたつにその神の意志を身におびるということであり みっつにそれをとおして じつに おのれの人間の自由意志をはたらかせているというかたちにおいて それが成される。つまり 人形使いの人形として動くのではないということ。  よっつに その状態は もっとはっきりその中身の有り方を明らかにしてみなければならないことには けっきょくそのように神に使われ神に仕えるというのは すべておのれの欲するがままに生き動き存在しているという恰好になるのだ。こういうことです。  ただし違った観点からの見方もあり得るかも知れません。   ★ すると誰それが病気になって文句を言いまくるのは決定事項だったとかタチの悪い話になりますよ。 作家なら読者から苦情がきます。  ☆ これは そのまま実際のことであるかも知れません。その意味は あくまで ゆきやまさんなら ゆきやまさんの心ないし主観における見方として ということになる場合です。ほかの人の観点や主観は入らないし もともとどうでもよいという場合です。  その意味では 読者からの苦情は 筋が違うと言えます。  ただし その《タチの悪い話》は おのおのの主観において・その中で完結するかたちで 実際のことであるかも分かりません。ないかも分かりません。  ★ 決定事項だった  ☆ というよりも――というふうに なおさらタチの悪いことに第三者のわたくしが 批評をくわえるというのですが―― 上に触れましたように あくまで《神に仕える》という場合のことです。神の世界計画の中の一環として もともと決まっていたといった見方を その本人がその主観内のこととして持つことはあり得ましょう。  つまり何のためという筋道が じゅうぶんに納得行くかたちで すでに自然に自分の心の中で腑に落ちてしまっている。というのなら その出来ごとは 前から決まっていたという場合が なきにしもあらず。ではないでしょうか?  これは ほんとうに どうなのでしょうか? とたずねてみなければならない事柄ですね。

回答No.7

混沌の可能世界は、たとえ絶対無の状態で存在していましょうとも、合目的的に運命へ働き掛けてくれず、自己目的的に機能していくのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 混沌の可能世界  ☆ けっきょくこの経験世界のことを意味していましょうか? それとも その中で秩序を見出しがたい分野 しかもそれを想像にまかせていかようにも想定してみる分野のことでしょうか?  ★ 混沌の可能世界は、たとえ絶対無の状態で存在していましょうとも  ☆ 混沌ないし無秩序が ひとつの独自の世界となって あたかも絶対無のごとくであると捉えられる場合を想定してみる。でしょうか?  ★ 混沌の可能世界は、・・・合目的的に運命へ働き掛けてくれず、  ☆ 混沌ないし無秩序なるひとつの宇宙が 人間とその世界に対して想像をとおしてにせよあるいは実際のモノコトとしての状態や情況としてにせよ 《はたらきかける》ものなのか?  はたらきかけることは あるでしょうね。自然のうちに(自然史過程として)人間にはたらきかける。あるいは人間が意識的に意図的にその混沌状態を 何らかのみづからの目的のために用いようとする。  ★ 合目的的に運命へ働き掛けて  ☆ これは 《はたらきかけること》一般の内に入ると見られるでしょうね。《合目的的にか否か》あるいは《運命へかそうでないか》などにかかわらず 一般的にはたらきかけはあるでしょうね。  と思いますが  ★ 混沌の可能世界は、・・・合目的的に運命へ働き掛けてくれず、  ☆ になりましょうか?  ★ 混沌の可能世界は、・・・自己目的的に機能していくのではないでしょうか?  ☆ 混沌ないし無秩序なる実際のモノコトとしての世界は 《自己運動》をおこなうものと思われます。人間からのはたらきかけを受けようと そのままその力を受けたかたちとしても 自己運動をあゆむものと思われます。  ★ 自己目的的に機能していくのではないでしょうか?  ☆ その自己運動が 《自己目的的に》であるかどうなのか? 人はそこに或る種の法則や根拠を見出すと言えるかどうか?  たぶん――としか言えなくて 残念ですが―― 法則や根拠は(つまり自己目的は) 見出されても一部分として機能しているというようなことではないでしょうか?  それとも 世界のすべては 一定の法則のもとに――物質の自己運動は神も手に負えないというがごとく――うごいているでしょうか?  あるいはぎゃくに もしその法則があるとした場合 その法則も神のもとに制御されていると見るべきなのでしょうか?  わたしの考えでは 神はモノに対しては その自己運動にまかせている。言いかえると 人間がモノのその自己運動をしかるべく活用するにまかせている。と思えますが。  よく活用するのも あしく活用するのも 人間の為すにまかせられている。仏性があるなら・神の霊がやどるなら あしき方向をなおすすべも 人間にそなわっていると考えられます。  混沌の可能世界について 人間は その自己運動が手に負えないのだけれども 何がしかの方向性をあたえることも(つまり いわゆる加工という作業も) 出来るかも知れません。ちょっと言い過ぎですかね?  

回答No.6

『キリストが人間イエスになった』という事情の肯定は、『神の子孫・末裔が天皇になった』という言説の肯定と同じなのではないでしょうか? ※私が過去に伺っていた質問の中で、或る常連さんが天皇の王権神授説の説明を試みて下さっているのですが、古来には、『天皇家の系譜が神の血縁に立脚している』と見做されていた様ですので、上記の回答を纏めさせて頂きました。

bragelonne
質問者

お礼

 じどうしゃがいしゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1) じつはこの質問は 先の先がある――つまり どこまでも展開して行き得る――というふうに思っております。  (2) 言葉づかいだけとして受け取って欲しいのですが:   ( a )【Q:なぜ神を勘違いしたままでいるのか?】での神学:       一般絶対性理論 / 一般神論   ( b )【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。】の神学:       特殊絶対性理論 / 特殊神論  といった構図で捉えています。  (3) ( a )の一般神学――または 信仰類型論――においては 次のようなことがらを明らかにしようと問い求めています。   (あ) 《絶対》なる神は ひとつの類型にまとめられる。それは 一元論として成り立つ。   (い) 絶対については 有神論として抱こうと無神論として処理しようと どちらも同じ一元論のもとに 類型的に同じ広義の信仰である。非思考として成る。   (う) 有神論の中で 神の名前がそれぞれ違っていても あるいは唯一神であろうと多神や汎神のかたちを採ったとしても やはり一元論の類型は変わらず 互いに同等である。  (4) ( b )の特殊神学――つまり実際の個別の信仰が みづからの信仰にもとづきその信じる神を人間の言葉で物語ったものの理論的内容――について ここで取り上げているのは 聖書がしるした神の物語です。    (4-1) そうして ご指摘のように いわゆる《現人神》なる理論も 同じような個別神学として ここにかかわってくるかも分かりません。  (4-2) 《人間イエスは 神なるキリストなり》あるいは《人間として顕わになった明つ神》といった神論は 非経験かつ非思考としてわが心に成る信仰が 非経験なる神を経験存在としてのかたちにおいても捉えたのだとうったえているかたちである。  (4-3) ただし《神なるキリストが人間イエスに成った》の神学は じつは 《神が人間という経験存在として歴史に現われた》と言っているのであるが それは 《直接に顔と顔を合わせて見る》かたちでの登場ではなく そうではなく 《きみはわたしの後ろ姿を見るであろう》と神が述べたというそのかたちにおいてだと言われる。  言いかえると 十字架上にキリスト・イエスが去ったそのあと イエスという人間でもあったその後ろ姿を(あるいは そのキリストなる神の背面を)見ることになった。というものである。  (4-4) 《現人神》なる理論のほうは どのように自己の信仰の中に神および人を捉えるであろうか? 残念ながら 神話の中の神々の物語に毛が生えた程度ではないかと考えられる。すなわち 多神のかたちをも採っているのと連れ立って 一元論としての神の分身があたかも現(うつつ)にも顕われたというその姿を言っている程度だと考えられる。  (4-5) ★ 古来には、『天皇家の系譜が神の血縁に立脚している』と見做されていた様ですので、  ☆ というように《血縁に立脚する》という話になると 大いに経験思考の世界であると思われます。  それとも 神の血縁というのは 単なる比喩であると言うべきでしょうか? その場合も神学をいま少し分かるようにまとめることが出来ればよいかと思われます。    (5) ( b )の個別神論としてのキリスト学について あらためて尋究するなら。  (5-1) ひとつに《いわゆるアダムとエワからの神ないしみづからの心への背反としての原罪を 罪のない身と心なる存在が いけにえとなることによって贖った。ゆえに人びとの原罪は消えた》という物語の要素は 《キリストが勝手にイエスなる人間となり 勝手に磔の刑に遭った》というものだ。(No.4のお礼欄をも参照されたし)。  (5-2) もうひとつに。神なるキリストは 確かに現実にこの経験世界なる歴史に現われたが その現われたということの確認は けっきょくかれキリスト・イエスが十字架上にこの世を去ったあとであった。去って行ったあとに イエス・キリストの生前の言葉を思い起こしそれらをとおして その人は神の子であり神であったと分かったという物語となった。  すなわち 《あなたがたは わたし(=神)の背面を見るであろう》というかたちでの《歴史的登場》であった。〔=(4-3)〕  (5-3) (5-1)は 神の愛とはどういうことか? を示そうとしているのではないか?  (5-4) (5-2)は 《この経験世界ないし歴史または社会としての鏡をとおして ナゾにおいて神を人は見ている》という信仰のかたちを示唆すると思われる。《わが心に非思考の庭が成る》というその動態として。  (6) 王権神授説 これは どうなんでしょう? 神が人になったという話ではなく この世の権力や権威が 神の・霊としての力にうらづけられているか? という議論だと思われます。    吟味・検討・検証していただけるとさいわいです。      * 《きみはわたしの背面を見る》についての参考:   【Q:《神を見た》という命題は 共有できない。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6889097.html  ○ (出エジプト記33章) ~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちここからの類推がゆるされるならばですが キリスト・イエスは 磔の場から去って行くまで人びとを手で覆っていた。かれが通り過ぎたあとに人びとは わづかにその後ろ姿を見ることが出来るようになった。  これが 非思考の庭が成るという《信仰》であると。そしてしかも この個別で特殊の神論としての信仰が その類型として取り扱うとき すべての信仰の現実におけるかたちを示したものと思われます。個別で特殊が 一般を示したのだと。  《一般神》が人びとに共有されたなら キリストはそのキの字ももはや要らなくなると思われます。  こういった方向へ問い求めをすすめたいと思っております。  組織にあってはその教義や規則のもとに――タテマエとしてだけでも――人びとが従わざるを得なくなったその宗教あるいは 社会集団の慣習として広く文明といったかたちでハタラキを持つ宗教 この宗教は要らなくなり 個人の信仰についてさえそれぞれ一人ひとりの内面におさまるようになる。類型としてすべてが同等であると分かるようになるから。

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回答No.5

#2です. 質問者 bragelonne さんへ 重箱の隅をほじくっても仕方ありませんよ! やはり「イエス・キリスト」が正しいのには間違いありません! それと「キリスト」は,あくまで,救世主(メシア)と言う意味の称号です. いろいろと楽しい,やり取りでした. 遊んで頂いて,ありがとうございました. では,さようなら.   「なんじの敵を愛せよ」

bragelonne
質問者

お礼

 まだ《敵》なの?  くのとぽろぐさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  けっこう深いでしょう この問いも?  と自分で言わないと なかなか誰も言ってくれません。  勝手に十字架の上にのぼったのは 神であるキリストのほうです。    人間イエスは その盃を取り除いてください けれども み心のままにと言ったり あるいは大泣きに泣いたりしています。  どちらも 現実です。わたしの原点です。特異点です。  また遊びに来てください。  ドラえもんのじゃんけんやボウリングもあります。では。  

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回答No.3

#2です. 補足に対する回答: >> ( d ) キリストの側から見れば  >> ▲ はじめに 〔キリストなる〕ことばがあった。・・・かれは 〔人間イエスとして〕世に来た。・・・自分のところにきた。 >> ☆ となりませんか? ● なりません!!  またまた,これらも間違いです. 「キリスト」という言葉は,ナザレのイエスを指す単なる「称号」のことなのです.ですから,「称号」の側から見れば・・・,の様な議論はナンセンス,無意味,支離滅裂で間違いです. >> ☆ これは どちらでもよいでしょう。決まっていないと思います。 ● 決まっています.日本中のどこの聖書・書物・書籍・本や”wikipedia”などでも,日本語では「イエス・キリスト」と表記し,「キリスト・イエス」とは書きません.「イエス・キリスト」,これは「キリスト(救世主【メシア】)であるところのイエス(ベツレヘムで生まれた,ナザレの人)」という意味があるのです. 例えば,或る雑誌社に論文などを投稿したとします.この時,投稿原稿に「キリスト・イエス」と書けば,これは間違いなく,論文の査読者から,「イエス・キリスト」と書き直すように指導されます. 以上のような理由で,「イエス・キリスト」と表記するのが正しいのです.つまり,「キリスト・イエス」という書き方は,世間一般には受け入れられない,という事です.この意味からも「イエス・キリスト」が正しい表記なのです. 「ヨハネによる福音書」にも「イエス・キリスト」とあります.「キリスト・イエス」ではありません.

bragelonne
質問者

お礼

 くのとぽろぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  (お名前の由来を ただちに 判読し得ればとの言語探究についての貪欲さを持っていますが 残念ながら よく分かりません)。  (どうせ冷やかしの投稿で いちど言った切りだと思っていましたから テキトウにお応えしていました。これは 失礼いたしました)。  さて 二点の問題は あるいはそこに大きな主題が潜んでいるかも知れないとは思うものの 現段階では・またわたしには それは分かりません。という意味は その入り口でしっかりとした探究をしておくことも重要であることに違いありませんが さらに奥に入って大きな主題について問い求めて行ければとは思っております。  次のようにお応えして前へすすみたいと考えます。  §1 イエス・キリストか キリスト・イエスか?  これは ヰキぺをちらった見たところ 福音書は 前者でほぼ統一されており 一般にもそのイエス・キリストが用いられるのだとのことです。  ただし パウロ書簡では 後者の表記も見られると述べています。  一例のみですが 取り上げます。後者の事例です。  ▲ (パウロ:ローマ書 1:1) ~~~~  キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、・・・   (新共同訳1987 / 共同訳1978 / 口語訳1954 )  ~~~~~~~~~~~~  ☆ じつは テクスト(ギリシャ語原典)によって 前者すなわちイエス・キリストの事例もあるとのことです。そのテクストに従って 欽定訳聖書は訳されているそうです。  ▼ (King James Version (KJV) ――Romans 1:1) ~~~  Paul, a servant of Jesus Christ, called [to be] an apostle, separated unto the gospel of God,  ~~~~~~~~~  ☆ ほらね。どっちでもいいでしょ?  §2 キリストは単なる称号だから 神を表わすことはない。か?  これは マッシーアハを訳したのが クリストスですから 元の語に従って そもそもはイスラエルの王として聖別されたときの《塗油》を表わすからには おっしゃるとおりに単なる称号です。  そしてそれと同時に ただしイエスについて添えられるときには ただの王の称号であることを超えた意味をつけ加えられて用いている。このことも すでに当然だと言ってよいでしょう。  いわゆる救世主というよりも 要するに神の独り子であり 神であるという意味です。  争う余地はないのではないですか?  ▲ (ヨハネによる福音書4:25-26) ~~~~  〔サマリアの〕女が言った。   「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知って   います。    その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてく   ださいます。」  イエスは言われた。   「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 聖書記者ヨハネは その冒頭で《神の子であり神である〈ことば〉》のことをこれから物語るのだと言って始めているのですから このサマリアの女のくだりでも その《ことば》が イエスのことであり 《キリストと呼ばれるメシア》のことである。このことに何の疑いもないでしょう。  ぎゃふんと言わせ過ぎましたか?

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回答No.2

>>( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。 逆だワサァー.   支離滅裂だよぉーー.  面白いお人だなぁーーー. ● ナザレの人間イエスがキリスト(メシア)となったのだよー!!  間違えないでね! >>( h ) キリスト・イエスが・・・・・ これも変!! ● 「キリスト・イエス」じゃぁなくて,イエス・キリスト が正しい! >>( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって ・・・・・. この文章も,間違い!! 「勝手にイエスというふつうの人間となって」ではなくて,イエスと言う人間が,キリストになったのよ! お分かり?? 言ってみれば,すなわち,キリスト教では「ナザレ」の「イエス」が「キリスト」であると信じている.ワケですよ. 「旧約聖書」「新約聖書」を,もう一度,確かめるぅ??・・・・・.

bragelonne
質問者

お礼

 そうでしたね。  まちがえましたかね。  暑かったからね。      たぶん ちがった見方もありましょうよ。たたき台のような。  ごめんね。なぐり書きで。

bragelonne
質問者

補足

 ▼ (ヨハネ福音1:1-11) ~~~~~~~~  はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめに かみとともにあった。  すべてのものは これによってできた。・・・  〔この《光=ことば》は〕世に来た。かれは世にいた。  ・・・かれは自分のところにきた・・・。  ・・・父の独り子・・・。  ~~~~~~~~~~  ☆ この《ことば》が キリストのことを言っています。  ▲ 〔このことばは〕世に来た。かれは世にいた。  ☆ というとき おっしゃるとおりナザレのイエスとして世に来たのだと。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば   ★ イエスと言う人間が,キリストになったのよ!  ☆ という時系列における説明になりますが  ( d ) キリストの側から見れば   ▲ はじめに 〔キリストなる〕ことばがあった。・・・かれは 〔人間イエスとして〕世に来た。・・・自分のところにきた。  ☆ となりませんか?  ★ ● 「キリスト・イエス」じゃぁなくて,イエス・キリスト が正しい!  ☆ これは どちらでもよいでしょう。決まっていないと思います。  もし正しいという判断を為すとしたらそれは どういう理由によってでしょうか?

noname#207242
noname#207242
回答No.1

文章が幼稚で解釈が困難です。もう少し論点を整理されてはいかがでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 たとえばどのようなところでしょうか?  ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 そうですね。  ★ 文章が幼稚で  ☆ ある場合には (1) 内容も幼稚であるときと (2) 内容は幼稚ではなく一定の命題が示されているけれども その表現が幼稚であるとき このふたつの場合があります。  だとすれば いづれの場合にも  ★ 解釈が困難です。  ☆ ということはあり得ません。    ★ もう少し論点を整理されてはいかがでしょうか。  ☆ 《解釈が困難である》文章について 《論点が整理されているかどうか》をうんぬんするというのは 自己矛盾でしょう。  表現が幼稚であるか そのとき内容も同じく幼稚であるか これらの場合には たしかに《論点は たとえ整理されていなくても 分かる》ということを意味させています。  したがって前文と後文とのあいだに脈絡がありません。  せっかくのご投稿ですから 誠心誠意お応えしようと思えば このようになります。  なお論点が整理されていないから 回答を寄せることが出来ないということでしたら 無理に投稿されなくてよいと考えます。  どうしてもおしえてやりたいということでしたら ひとつふたつの例示を述べるという方法を採ることをお勧めします。

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