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オシへを信じるなどと どうして考えるのか
キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか。 いったいどうなっているのか? オシへは 人間の言葉で書いた命題であり思想である。 倫理規範をもふくむゆえ オシへにするのは自由だが だからと言って《考える》べき人間の自己表現をどうして 無条件に丸飲みするのか? また そう信じなさいと他人に説くおろかさがまかり通っているのか? 信じる対象は 人間の思考を超えているに決まっているぢゃないか。 いったい人間は どこまでおろかなのか。
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- 《オシへを信じる》という幼稚にしておろかなこと
オシへは いかに神秘をあつかっているにしても 人間のことばで書かれた命題である。人間の思考であり判断である。 思考は思考するものであり 判断はさらに本人自身の・またほかの人のよりよい判断にゆだねるものである。 このオシへを無条件に受け容れる・つまり信じることはあり得ない。精神錯乱である。 このシュウキョウ批判について さらになおご教授ください。 ブッダのオシへを信じるとか キリスト教を信じるとかあるいは人間たる教祖を信じるといった狂気の表現から自由になりたい。ゆえ。
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哲学として定義してくださいませんか? 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
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- 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか
(α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか? (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか? (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか? (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか? (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは? *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか? *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?
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- 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?
《信じる》とは 人間にとって どういう行為か? ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。 まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。 * 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。 ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。 ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。 あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。 《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。 ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。 考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。 根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。 言いかえると ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。 ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。 * さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。 1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。 7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。 8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。 11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。 13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。 16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。 17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。
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- 信じるということについての質問がありました
http://okwave.jp/qa/q6729443.html です。 哲学カテであるのに関らず、質問者は復た私をブロックされました。対象が不明なことを信ずるのは誰もできせん。 何か人がいっていることや書いてあることなどは、自分が正しいと思わなければ、正しいとは思えません。信じるのでなく確認して確信するだけです。 そうやってわたしも宗教といわれるものをここ40年以上勉強し精進してきました。10年ほど前、46年いた大学を66でやめてからはお陰で2時に起き、不束(ふつつか)ながら朝晩勤行しています。 仏教ではありませんが、対象として外にあるのではなく、全体(部分と全体ということの意味の全体ではなく)のなかにまったくぽっこり入っていられるという事でして。 そういう自分の原初的であることを努力しての精進です。だから他人のいうことでも、書いていることでもありません。 そして道具としての思考や観念、知的操作を脱け出て、一切の前提、自己や世界の存在もない無前提での行なんです。 哲学って無前提、普遍、永遠見つめます。私たちはそれをしています。そして私たちの組織は自分自身の問題・課題ですといい、方法だけは教えます。 一切の強制と影響はしません。自分の家で、せいぜい数人のグループでの行。それもそれ以外の付き合いや雑談はいけない。 ○私の質問:私をブロックしている質問はこういう宗教組織もあるべきではないといっているのでしょうか? そして私たちを無知の盲目的信仰といっているのでしょうか? 《以下は私をブロックしている質問文から書き出しました。》 なお、私をブロックしているこの質問の認識の範囲での宗教や組織に対しての質問者さんの批判は私もそういう面もあると存じます。 でもどの宗教いろんなレベルや側面がありますから、質問者さんの断定される前提観念では非常に狭隘かと存じました。 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 【それは 思考に非ず つまり非思考という行為である】【思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること】【その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。】【そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと】【非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる】【一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である】【無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている】【言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである】【この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である】【キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない】【キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない】【せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる】【ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである】【結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である】【仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ】【すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である】
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(α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは? 言いかえると――同じような内容ですが―― (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか? (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか? (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか? (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか? 個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。 (ζ) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか? (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは? (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか? (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは? (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?
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- 被災者とわれらにとって 芸術とは何か
エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。 ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。 こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。 神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。 といった命題を得る。 この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。 《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。 あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。 果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。 ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに? つまりは この生活日常がわれらが芸術行為であり この芸術が 互いに差し伸べる支援の手であるのか。そこにわれらがきづなはあるであろうか。
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1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。 2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。 3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。 4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。 5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。 どうでしょう。
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- 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説
1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。 2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。 3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。 3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。 3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。 4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。 4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。 4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。 4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。 5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。 6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。 7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。 いかに。
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現在、中村 元著作の『東洋人の思惟方法1 インド』を読んでいます。 そうしたら、意味が理解できないフレーズが118ページに出てきたので、その意味を分かりやすく教えて頂きたいです。よろしくお願いします。 私が理解できないフレーズは、タイトルにある通り、「万人が一味に帰す」という部分です。 文脈は以下の通りです。 自己と他人とが究極の根底においては同一のものであり、両者の対立はかりの対象形態にすぎない、という思惟方法は、おのずから自他不二の境地を理想とするにいたる。ウパニシャッドにおいては、『汝はこの全世界たり』と教え、『われは汝なり』というのが、自他不二の倫理の基礎にある確信となっている。バラモン教およびインド教の倫理思想は結局このような基礎的見解にもどついているのである。 仏教においては、個々の人間を形而上学的実体と考えてそれらの間の同意関係を考究するということを拒否していたが、しかしすでに述べたように、仏教教団に入るならば万人が一味に帰すという思想があり、そのうちにはやはり自他不二の思想が働いているのである。 この『万人が一味に帰す』とは一体どういう意味でしょうか? 皆様の知恵をお借りしたいです。よろしくお願いします。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ どうして「言語で伝えることはない」と決めつけられるのかが、わからないです。 ☆ 《言語》というだけでは はっきりしません。 神がその心を人間にヒラメキをとおして伝えるというとき 《神語》でなら いつでも・どこでもあり得ると 論理的には考えられます。 人間の言語に翻訳して人びとに伝え得るというかたちがあるかどうかは 何とも分からない。と捉えるわけです。 つまり もし伝え得たとしても そのことが神の心として その人間本人を超えて人びとに共同の思想となることは 神語としては当然のごとくありません。 共同主観を形成するのは あくまで人間の言葉に翻訳した神の心です。仮りの表現です。 《神語》としてなら つねに起こり得ると見ますが いかんせん神語とはどういう言語かから始まって 人間にはさっぱり分かりません。 ★ 予言者の心に人間の言語で伝えたかもしれない。その1回きりのことが起きなかったとどうして言えるのか? ☆ 本人の主観内面の問題であり そこにとどまります。 もっと細かく言うなら いま周りの人びとがその預言者の主観内で起こった神からの人間語による伝達が その本人だけでなく その通りだと見て共感したとしましょう。ところが これを検証するすべはありません。 ですから 神の心の言葉を預かったと言っても・そしてそれを人間の言葉に表わしたと言っても それはあくまで神の心の仮りの姿であり 実際は人間の自己表現である。となります。 ★ 検証ですって? これはおかしい。神は人間の言葉では意思を伝達しないという主張をされているのはbragelonneさんの方ですよね。 ☆ びみょうに違います。 ○ 神がその心を神語でではなく人間語で人間に伝えたとした場合 けっきょくその伝達内容が 人間語で表わされているからには 人間が考えて互いに自由に批判しあう対象であるとなる。 こう言っています。検証は 人間語の文章についておこないます。神語については もともと伝わっていないのですが 検証できません。 そして 人間語が神語の忠実な翻訳であるか? これについても 最終的な決定を誰もがみとめるというかたちでは 検証ができません。もう一方の側の神語が分からないのですから。 ★ でしたら立証責任はbragelonneさんの方にありますよね。神が言葉で伝達したという立証をする必要はない。神が人間の言葉で伝達しなかったということが立証された場合以外は、神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており、bragelonneの主張は成立しないことになります。 ☆ ですから 預言者や預言者でなくても任意の誰でもですが 神の言葉を聞いたということは あり得ますし 人びとに発表することも自由です。周りの人たちが 共感を寄せることも自由であり あり得ることです。 ですが その内容が神の言葉であるかどうかは 検証できませんし 証明できません。 ★ 神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており ☆ は そのとおりですが その通りだと言う意味は そこには だから神からの伝達内容が いづれ万人に明らかになるということは含まれていません。 主観内における神とわれとの関係が その人の固有の時においてさらにヨリ強く深まって行くことがあり得る。という意味です。