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オシへを信じるなどと どうして考えるのか

 キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか。  いったいどうなっているのか?  オシへは 人間の言葉で書いた命題であり思想である。  倫理規範をもふくむゆえ オシへにするのは自由だが だからと言って《考える》べき人間の自己表現をどうして 無条件に丸飲みするのか?   また そう信じなさいと他人に説くおろかさがまかり通っているのか?  信じる対象は 人間の思考を超えているに決まっているぢゃないか。  いったい人間は どこまでおろかなのか。

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  • stmim
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回答No.6

> (い) もし伝えるとすれば それは 非思考の庭なる動態にあってそこで起きるヒラメキをとおしてである。 どうして「言語で伝えることはない」と決めつけられるのかが、わからないです。 予言者の心に人間の言語で伝えたかもしれない。その1回きりのことが起きなかったとどうして言えるのか? >(お) つまり ここですでにすべてを端折って結論づけるなら:   或るひとりの人の内面における心の問題としては 神とその我れとの交流は あらゆることが――想像として――考えられる。と同時に 神の心が人間の言葉でそのまま表現されたという事態は たとえあったとしても決して検証しうることではない。 検証ですって?これはおかしい。神は人間の言葉では意思を伝達しないという主張をされているのはbragelonneさんの方ですよね。でしたら立証責任はbragelonneさんの方にありますよね。神が言葉で伝達したという立証をする必要はない。神が人間の言葉で伝達しなかったということが立証された場合以外は、神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており、bragelonneの主張は成立しないことになります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ どうして「言語で伝えることはない」と決めつけられるのかが、わからないです。  ☆ 《言語》というだけでは はっきりしません。  神がその心を人間にヒラメキをとおして伝えるというとき 《神語》でなら いつでも・どこでもあり得ると 論理的には考えられます。  人間の言語に翻訳して人びとに伝え得るというかたちがあるかどうかは 何とも分からない。と捉えるわけです。  つまり もし伝え得たとしても そのことが神の心として その人間本人を超えて人びとに共同の思想となることは 神語としては当然のごとくありません。  共同主観を形成するのは あくまで人間の言葉に翻訳した神の心です。仮りの表現です。  《神語》としてなら つねに起こり得ると見ますが いかんせん神語とはどういう言語かから始まって 人間にはさっぱり分かりません。  ★ 予言者の心に人間の言語で伝えたかもしれない。その1回きりのことが起きなかったとどうして言えるのか?  ☆ 本人の主観内面の問題であり そこにとどまります。  もっと細かく言うなら いま周りの人びとがその預言者の主観内で起こった神からの人間語による伝達が その本人だけでなく その通りだと見て共感したとしましょう。ところが これを検証するすべはありません。  ですから 神の心の言葉を預かったと言っても・そしてそれを人間の言葉に表わしたと言っても それはあくまで神の心の仮りの姿であり 実際は人間の自己表現である。となります。  ★ 検証ですって? これはおかしい。神は人間の言葉では意思を伝達しないという主張をされているのはbragelonneさんの方ですよね。  ☆ びみょうに違います。   ○ 神がその心を神語でではなく人間語で人間に伝えたとした場合 けっきょくその伝達内容が 人間語で表わされているからには 人間が考えて互いに自由に批判しあう対象であるとなる。  こう言っています。検証は 人間語の文章についておこないます。神語については もともと伝わっていないのですが 検証できません。  そして 人間語が神語の忠実な翻訳であるか? これについても 最終的な決定を誰もがみとめるというかたちでは 検証ができません。もう一方の側の神語が分からないのですから。  ★ でしたら立証責任はbragelonneさんの方にありますよね。神が言葉で伝達したという立証をする必要はない。神が人間の言葉で伝達しなかったということが立証された場合以外は、神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており、bragelonneの主張は成立しないことになります。  ☆ ですから 預言者や預言者でなくても任意の誰でもですが 神の言葉を聞いたということは あり得ますし 人びとに発表することも自由です。周りの人たちが 共感を寄せることも自由であり あり得ることです。  ですが その内容が神の言葉であるかどうかは 検証できませんし 証明できません。  ★ 神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており  ☆ は そのとおりですが その通りだと言う意味は そこには だから神からの伝達内容が いづれ万人に明らかになるということは含まれていません。  主観内における神とわれとの関係が その人の固有の時においてさらにヨリ強く深まって行くことがあり得る。という意味です。

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  • stmim
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回答No.5

「神は自身の考えを人間の言葉で表現する能力に欠けている」かどうかについて吟味してみましょう。3つの可能性があると思います。 1)人間の言葉で表現する能力に欠けている、もしくは決して人間の言葉で神の考えを表現することはない場合 この場合、確かにbragelonneの主張は成立しますね。しかし、そのことを言い切れるのかどうか疑問に思います。 2)神が自身の考えを人間の言葉で表現可能な場合。 これはbragelonneさんの考えが否定される場合です。bragelonneさんはこれはないという考えですね。 3)どちらだか不明の場合。 bragelonneさんの考えはおそらくこれだと思います。この場合、人間の書いた教えは神の考えではないということは否定できません。どちらだかわからないので。もしかしたら、神が自分の考えを人間の言葉で表現して伝えたかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  誤解があります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   1)人間の言葉で表現する能力に欠けている、もしくは決して人間の言葉で神の考えを表現することはない場合  この場合、確かにbragelonneの主張は成立しますね。しかし、そのことを言い切れるのかどうか疑問に思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの言うのは いづれか一方の内容に固まって規定されるということは 神については あり得ないということです。  《能力に欠けている》というのも ひとつの極への片寄りです。片寄りだけではなく それを言い切っている場合ですので それは神については当てはまりません。  神が《決して人間の言葉で神の考えを表現することはない》といった決めつけには 神はなじみません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   2)神が自身の考えを人間の言葉で表現可能な場合。  これはbragelonneさんの考えが否定される場合です。bragelonneさんはこれはないという考えですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの言っているのは 《神もその考えを人間の言葉で表現しうる》というように一つの内容のみ規定し決めつけることは できない。それは 神にはなじまない。ということです。  ぎゃくに言うと (1)をも合わせてみるに 神はどういうことでも それが おかしなことでなくまた必要有益なことであるなら おこなうことが出来るし おこなうかも知れない。ただし 行なわないかも知れない。――と言っています。  つねに そういう全体観として言っています。  ひとつのことに規定し決めつけることは ないと言っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   3)どちらだか不明の場合。  bragelonneさんの考えはおそらくこれだと思います。この場合、人間の書いた教えは神の考えではないということは否定できません。どちらだかわからないので。もしかしたら、神が自分の考えを人間の言葉で表現して伝えたかもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 厄介ですね。基本的に言えば わたしの考えとは異なります。  部分観に固まらない。決めつけはしない。  全体観に立って あらゆることが神には可能であるとも言える。ただし そのことをそのまま規定することはないし そのように決められるというものではない。  別の観点から説明を広げれば:  (あ) 神は その考えを人間の心に人間の言葉で伝えるか?  (い) もし伝えるとすれば それは 非思考の庭なる動態にあってそこで起きるヒラメキをとおしてである。  (う) 言いかえると ヒラメキ(直観ないしインスピレーション)は 家族揃って同時に起きるとか国民がこぞって同時に与えられるといったことは考えられないので――ただし ペンテコストの日にそのような集団ヒラメキが起きたとも書かれていますが―― 基本的にひとりの人の主観内面の問題だと考えられます。  (え) つまり 主観の内では ひょっとしてその人間は 人間であるにもかかわらず 神とツーカーの間柄であるかも分かりません。というところまで 想像ですが 可能性は考えられます。  (お) つまり ここですでにすべてを端折って結論づけるなら:   或るひとりの人の内面における心の問題としては 神とその我れとの交流は あらゆることが――想像として――考えられる。と同時に 神の心が人間の言葉でそのまま表現されたという事態は たとえあったとしても決して検証しうることではない。  (か) だから オシへが 神の意志そのものであるという命題は そのまま人びとの生活共同の中で共通のものとして認められることはない。  

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.4

>人間の言葉で表わされているかぎりそれは 人間の自己表現であるしかありません。 そうすると「神は自身の考えを人間の言葉で表現する能力に欠けている」という意味でしょうか? 神様ならそれぐらいたやすいことだと思うのですが、違いますか? >☆ まさか すとみむさんは その《憲法9条》の精神に丸め込まれたわけではないでしょうね? >すっかりいい心地になりますか? 何のことでしょうか?意味不明です。 私は憲法9条は時代にも、現実にも、あわなくなってきているので改正したほうがいいと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いづれか一方に神を規定することができると考えるのは 神を知らないあたまです。  人間が規定できたら その規定する能力の枠内にしかその神は存在していないことになります。  人間が神をこしらえているというおかしなことにしか成りません。    憲法9条というのは いわゆるお花畑のことです。  人間が神をこしらえるといったその理性ないし理念を この上なきとうといものと考え そう思い込むといった傾向のことです。  神観についてもあてはまると考えます。  すとみむさんは 別だとしても。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.3

宗教の教えは、神から聞いた言葉ということになっていると思いますが、それはありえませんか?キリスト教だったら預言者が神から聞いてそれを文字にした。あるいは神であるキリストの言動が聖書に書かれている。仏教ならシッダールタは大日如来の化身であるとか。書いたのは人間でしょうけど、その内容は神や仏?の言葉ということになっっているのですけど。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 宗教の教えは、神から聞いた言葉ということになっていると思いますが、それはありえませんか?  ☆ もちろん そのとおりです。  すなわち 《神から聞いた言葉〔をその人が自分の言葉で表現した〕ということになっていると思います》。  人間の言葉で表わされているかぎりそれは 人間の自己表現であるしかありません。  次の場合も 何ら変わりありません。  ★ キリスト教だったら預言者が神から聞いてそれを文字にした。  ★ あるいは神であるキリストの言動が聖書に書かれている。  ☆ なるほどイエスという人間は キリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言ったしそう――神学で――想定されています。  そうして 文字になれば・言語表現されたなら それは人間の言葉ないし思考能力を介しているからには 相対的な経験思考としての命題であり思想であるとなります。  神キリストの心を仮りに表わしたものとなります。  思考の緑野でではなく《非思考の庭》にあって聞いた言葉は いくらかはキリストの声そのものに似ていると言えるかも知れない。という場合にも けっきょくいくらかは似ているが むしろその隔たりについてしっかりとわれわれは知らなければならない。  なにしろ 絶対と相対とであり 無限と有限とであるのですから。      ★ 仏教ならシッダールタは大日如来の化身であるとか。書いたのは人間でしょうけど、その内容は神や仏?の言葉ということになっっているのですけど。  ☆ まさか すとみむさんは その《憲法9条》の精神に丸め込まれたわけではないでしょうね?  すっかりいい心地になりますか?

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回答No.2

おそらく、 あんた、世話好きなんだろ。 生きる屍を面倒みている。 しょうがねーよな。 ケラケラしながら、私も結局そうしている。 悪を決め込んだ私は、怒ったりしないで絞め上げているがね。 たまには頭に血が上ることもあろうさ。 苦労がうかがえてほほえましいよ。

bragelonne
質問者

お礼

 もしそうだとして その割りには 回答が来ない。  やっぱり感情に走っている。らしい。  ご回答をありがとうございます。

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回答No.1

> いったい人間は どこまでおろかなのか。 いや、 人間扱いが不要なんだ。 我を歌い上げそれを人間の心だと主張したまえ。 そして私は人間であるが、貴方がたは人間以外だと明言しろ。 ケラケラ。 やめちゃいなよ。 人間なんて。

bragelonne
質問者

お礼

 この質問は 怒って挙げたものです。  前後の見境なく。・・・でもないんだけれど。  ご回答をありがとうございます。

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    http://okwave.jp/qa/q6729443.html です。  哲学カテであるのに関らず、質問者は復た私をブロックされました。対象が不明なことを信ずるのは誰もできせん。  何か人がいっていることや書いてあることなどは、自分が正しいと思わなければ、正しいとは思えません。信じるのでなく確認して確信するだけです。  そうやってわたしも宗教といわれるものをここ40年以上勉強し精進してきました。10年ほど前、46年いた大学を66でやめてからはお陰で2時に起き、不束(ふつつか)ながら朝晩勤行しています。  仏教ではありませんが、対象として外にあるのではなく、全体(部分と全体ということの意味の全体ではなく)のなかにまったくぽっこり入っていられるという事でして。  そういう自分の原初的であることを努力しての精進です。だから他人のいうことでも、書いていることでもありません。  そして道具としての思考や観念、知的操作を脱け出て、一切の前提、自己や世界の存在もない無前提での行なんです。  哲学って無前提、普遍、永遠見つめます。私たちはそれをしています。そして私たちの組織は自分自身の問題・課題ですといい、方法だけは教えます。  一切の強制と影響はしません。自分の家で、せいぜい数人のグループでの行。それもそれ以外の付き合いや雑談はいけない。  ○私の質問:私をブロックしている質問はこういう宗教組織もあるべきではないといっているのでしょうか?   そして私たちを無知の盲目的信仰といっているのでしょうか?  《以下は私をブロックしている質問文から書き出しました。》  なお、私をブロックしているこの質問の認識の範囲での宗教や組織に対しての質問者さんの批判は私もそういう面もあると存じます。  でもどの宗教いろんなレベルや側面がありますから、質問者さんの断定される前提観念では非常に狭隘かと存じました。   宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 【それは 思考に非ず つまり非思考という行為である】【思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること】【その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。】【そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと】【非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる】【一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である】【無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている】【言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである】【この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である】【キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない】【キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない】【せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる】【ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである】【結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である】【仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ】【すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である】

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     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 被災者とわれらにとって 芸術とは何か

     エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら   ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと   して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも   なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった命題を得る。  この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。  あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに?   つまりは この生活日常がわれらが芸術行為であり この芸術が 互いに差し伸べる支援の手であるのか。そこにわれらがきづなはあるであろうか。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。

  • 「万人が一味に帰す」という意味を教えてください

    現在、中村 元著作の『東洋人の思惟方法1 インド』を読んでいます。 そうしたら、意味が理解できないフレーズが118ページに出てきたので、その意味を分かりやすく教えて頂きたいです。よろしくお願いします。 私が理解できないフレーズは、タイトルにある通り、「万人が一味に帰す」という部分です。 文脈は以下の通りです。 自己と他人とが究極の根底においては同一のものであり、両者の対立はかりの対象形態にすぎない、という思惟方法は、おのずから自他不二の境地を理想とするにいたる。ウパニシャッドにおいては、『汝はこの全世界たり』と教え、『われは汝なり』というのが、自他不二の倫理の基礎にある確信となっている。バラモン教およびインド教の倫理思想は結局このような基礎的見解にもどついているのである。 仏教においては、個々の人間を形而上学的実体と考えてそれらの間の同意関係を考究するということを拒否していたが、しかしすでに述べたように、仏教教団に入るならば万人が一味に帰すという思想があり、そのうちにはやはり自他不二の思想が働いているのである。 この『万人が一味に帰す』とは一体どういう意味でしょうか? 皆様の知恵をお借りしたいです。よろしくお願いします。

このQ&Aのポイント
  • DCP-J963Nでの印刷時に紙詰まりが頻発し、印刷物が二重に霞んでしまいます。お困りの方に解決策をご紹介します。
  • DCP-J963Nの紙詰まり問題と、印刷時に起きる二重霞みについて詳しく解説します。トラブルに対する対処方法もご紹介します。
  • DCP-J963Nの印刷で紙詰まりが頻発し、印刷物が二重に霞む問題について解決策をまとめました。トラブルの原因や対処方法についても詳しく解説します。
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