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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人間が神を揚棄する。あなたはどのように棄てるか?)

人間が神を棄てる方法とは?

このQ&Aのポイント
  • 人間が神を揚棄する方法について考えましょう。神のことばを人間の命題として表現するにはどうしたらいいのでしょうか?
  • 忠実だった町がなぜ遊女になってしまったのか、公平と正義が失われ、悪が蔓延しています。主なる神は逆らう者を罰し、正義を取り戻すと宣言されています。
  • 終わりの日には主の神殿の山が高くそびえ立ち、多くの人々が主の山に向かって行くでしょう。主は国々の争いを裁き、人々を戒めます。

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  • ura_22398
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回答No.2

No 1 です。頭に留めて 今は 回答を送ります。 教えてくださりありがとうございます。 言葉 観念 その他もろもろのデータベース は 道具であり 『わたし達が』つかうものであり つかわされるなよ。 ですね。 手に 馴染む までは、苦労します。 とか言ってないで ・・・ ベストを尽くしきって、早く ゼロ地点に立ちたいものです。 ここで意見。 例えばこの〈哲学カテゴリー〉が ゼロ地点にたった上で、話し合える、要は哲学を専門に扱う知識交換の場所になればいいな と思う一方で 自分の身を燃やせる場所であってほしいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。あとは 一歩一歩ですね。いっしょにあゆみましょう。  ご回答をありがとうございます。うら_22398さん お久しぶりです。くまさんのアイコンですね。  ★ ゼロ地点  ☆ については わたしは 樅の木と言っています。クリスマスツリーのカザリは ほとんどどうでもよく 樅の木本体で勝負ですね。  そうするならば  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  言葉 観念 その他もろもろのデータベース  は 道具であり 『わたし達が』つかうものであり  つかわされるなよ。  ですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と行けると思っています。  まぁ もういちど言って 一歩一歩ですよね。  また いい質問を挙げれればよいがと思います。

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その他の回答 (1)

  • ura_22398
  • ベストアンサー率100% (1/1)
回答No.1

Bragelonneさん、こんにちは。 たぶん ひとは(わたしが勝手に 人を代表できないですね。わたしは、) 解らないこと 理解していないこと ・・今の じぶんにとって、 未知数のもの 神の叡智におもえる もの ・・ を 理解しようとするが故に、 その 理解したい 仮説たちに 神という概念を与え 『かみ』ということば にも 幾つかの使われ方 があるにせよ それらを 研究をしているのでは ないのでしょうか。 今の自分に 満足するときに 神を 放棄する の かな。 神を感じるなれど『内に神を感じる』『神と共にある』 一元的な 見方とでも いうのでしょうか。 今のところ、わたしはそのように感じています。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  おっしゃっている神は 普遍神でしょうね。どの名の神でもなく――普遍神のもとに どの名の神であってもよく―― いわゆる宗教の説く神は まったく関係ないことでしょうね。  ★ 神を感じるなれど『内に神を感じる』『神と共にある』 一元的な 見方とでも いうのでしょうか。  ☆ この神は 普遍神だと思います。  しかも  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~  論じ合おうではないか、と主は言われる。   たとえ、お前たちの罪が緋のようでも  雪のように白くなることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とすでに成った人間の状態で 話をすすめたい。とも考えます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。  彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。  国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった展望をすでに内におさめ そのような――むしろ――終わりから始めるといったような状態(境地)にある人間として。  ★ 神の叡智  ☆ は分からないのですが・われわれ人間には一向に分からないのですが それでもすでにその――霊としてのハタラキがそなわった状態になってのような――チカラを信じている。というところまで 伸びて行きたい。とも考えています。  言いかえると 《神》はもう棄ててしまう。なぜなら 神が普遍神であるなら すでにわたしたちの生まれつきの自然本性にやどっている・そなわっているというところまで伸びて行きたい。  どうでしょうか。

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  • 聖書のヨハネ11:49~53で質問があります。

    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。

  • 神のめぐみが 何ものにも先立つということ

     を問います。  △ (詩編/ 59編 15-16節) ~~~~~~  15: 夕べになると彼らは戻って来て    犬のようにほえ、町を巡ります。  16: 彼らは餌食を求めてさまよい    食べ飽きるまでは眠ろうとしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という世の中にあって    《神のめぐみが 何ものにも先立つということ》  がいちばん大事である。と考えます。すなわち:  △ (詩編/ 59編 11-12節) ~~~~~~~~~  11: 神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。    わたしを陥れようとする者を    神はわたしに支配させてくださいます。  12: 彼らを殺してしまわないでください    御力が彼らを動揺させ屈服させることを    わたしの民が忘れることのないように。    わたしたちの盾、主よ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  言ってみれば 《何もしないたたかい》。  人間の知恵や知識 判断力や意志 度胸や度量や境地その他その他よりも何よりも それが何であるかナゾであるめぐみ(只・無料)が先に来るという議論です。  世界の理論として これしかないという見方です。これを問います。どうでしょう?  意味が分かりにくいときには ツッコミを入れてください。

  • 《神を見た》という命題は 共有できない。

     その人の主観において まぼろしとしてでも《見た》ということを人に話すことに問題はない。けれども これをほかの人が たとえそのことをほんとうだと思うと賛同したとしても 一般には妥当な命題として共有することは出来ない。  これについて 当否を問います。  いちばんの引っかかりとしては かのモーセが神と会い話をしたと伝えられているその中身をどう解釈するかだと思われます。  ▼ (出エジプト記  33章) ~~~~~~~  11: 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。         *  15: モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。  ・・・  17:主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」       *  18: モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、  19: 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」         *  20: また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」       *  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ひとつの解釈としては 《神の背面を見た》あるいは《神を見たという将来の起こるべき事件を予感した》であるのではないか?  あるいはまた 一般に《声を聞いた》という場合には 《見た》よりは何らかの経験現実としての・人間にも分かる意味を伴なったヒラメキにかかわると思われる。上に引いたような言葉による記事の中身じたいは ヒラメキにかかわっていると思われる。    ゆえに《見た。話した》という話は 一般としては共有できないのだと。  ご教示ください。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。