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昔の人々の旅
- 昔の旅人が宿泊できなかった場合、どうしていたのか?
- 旅籠が満員で宿泊できなかった場合の対策
- 戦国時代以前の旅の旅籠の状況はどうだったのか?
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1. 基本的に「相部屋」です。まあ余程のことがなければ「相部屋にしても満杯」ということはなかったと思いますよ。戦後以前の日本人にはプライバシーってのはほとんどありません。私は記憶にはないけれど、私が子供のときくらいまではバスや電車でお乳をあげるお母さんがいました。電車の中で若いお母さんがぺろんとおっぱいを出すのです。 幕末に日本に来た外国人が、財布を置く場所、今でいうセーフティボックスがないと宿屋の主人に相談したそうですよ。そしたら宿屋の主人が「ここなら安全で、盗まれることはありません」といわれた場所が床の間だったそうです。「ここに置いておけば大丈夫」と。他に手段がないのでやむを得ずそこに財布を置き、数日経って帰ってきたら、見事に財布がそのままだったそうです。 2. 「旅の者でございます。一夜の宿をお借りしたい」とやったのです。万国共通で、「旅人は歓迎する」という習慣があります。もちろん例外もございますけどね。 当時の田舎に住む人にとって旅人とは「行ったこともない場所の話をしてくれる貴重な情報源であり、娯楽をもってきてくれる人」なんですよ。もし自宅に宇宙人がやってきたら、いろいろ話を聞きたくなるじゃないすか・笑。 3. 物品の流通路としての街道はあったりしましたが、戦国時代以前は商人以外の人の流通そのものがほとんどなかったのです。戦国時代で戦乱により人が行き来するようになりました。やがて軍隊が街道に沿って行ったり来たりするようになると流通が活発になり、商取引が活発になれば人の動きがさらに活発になり、それと共に共通の決済方法として貨幣が全国に広まるようになったのです。日本では戦国時代に貨幣がほぼ全国に行き渡るようになりました。 もともと「女性の一人旅」や「子連れの旅」なんてのはよほどのレアなケースでなければなかったのですよ。「源頼朝が伊豆に流された」なんてのが子連れの旅でしょうかね。現代人の感覚では「島流しって、伊豆は繋がってるじゃないか」と思いますが、伊豆は山がちな地形で現代でも広い道路がほとんど整備されていないところです。当時はその道さえもほとんどなかったので実質的に島流しだったんですよ。
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- oska
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>旅籠が宿泊客で満員で、宿泊できなかった場合には、旅人はどうしていたのでしょうか? 基本的に、旅籠の宿泊客数が決まっていない状態ですから「雑魚寝で詰めるだけ詰める」状態です。 TVドラマの水戸黄門で、「相部屋ですみませんねぇ」と女中が旅人を部屋に案内している状況です。 相部屋でも満員の場合は、空いている部屋を安くして宿泊させますよ。 それでも満員の場合は、木賃宿です。 こちらも「雑魚寝」ですが、食事がありません。素泊まり専用。 ※木賃宿も、旅籠の一種です。 >宿場町以外には、旅籠はなかったのでしょうか? 原則、ありません。 宿場町には、多くの公用義務が幕府から命じられています。 その代わりとして、宿泊の独占権が認められているのです。 東海道でも、2里程(約8キロ)の間隔で宿場町がありますよね。 宿場以外で泊まる必要も、なかった様です。 途中で具合が悪くなっても、旅人は「印篭」等に「薬」を持っています。 次の宿場町までは、なんとか辛抱出来たようです。 >戦国時代以前の旅では、旅籠というのは、旅人(女性のひとり旅や、子供連れの旅など)に困らない程度に整備されていたのでしょうか? 場所によって、異なります。 古代の五畿七道に沿った町・神社仏閣近辺には、宿屋が存在しました。 有名なのは、四国八十八ヶ所霊場の「遍路宿」ですかね。 当時は、物見遊山の旅は非常に希です。 皇族・貴族・役人など、あくまで「公用の宿」が中心です。
お礼
ありがとうございました。 「TVドラマの水戸黄門で、「相部屋ですみませんねぇ」と女中が旅人を部屋に案内している状況です。」……よくわかります。しかし、今のドラマは何処まで、時代に忠実なのか、私のような素人には分かりません。 「東海道でも、2里程(約8キロ)の間隔で宿場町がありますよね。」……私も、質問をする前に計算をしてみたのですが、脚力に応じてかなり融通は利くようになっていたと思います。 「有名なのは、四国八十八ヶ所霊場の「遍路宿」ですかね。」……テレビで見たことがあります、今でも「おもてなし」の精神が残っているとのことでした。
(1)村落には共同集会所を兼ねたようなお堂がありました。 現在の神社の社務所のような役割を果たしていました。 普段は農作業中の雨宿りなどにも使われていました。 一般に辻堂などと呼ばれ、現在も地名として残っています。 古い物には落書きなどが残されていて、民俗学の貴重な史料となっています。 江戸時代は治安維持の面から、旅館(旅籠)として認定されていない場合には原則として他人を宿泊させることが禁止されていました。 そうは言っても困窮した旅人を放りだしておく訳にもいかないので、この辻堂の場所を教えました。 建前上勝手に泊まったということにして、村人は譴責を回避しました。 客引きは派手にやっていました。 これを上手く振り切るのも旅の要領の一つでした。 裕福な商家であれば、事前に手紙で懇意な旅籠に予約を入れていました。 旅籠側も次々と同業者へ申し送りをしていました。 旅は女性だけではなく、下手をすれば大の男でも難儀しました。 人別帳から除外されて定住できなくなってウロウロ歩き回っていたヤクザ者が一宿一飯の恩義というのも宿泊が簡単ではなかったことを意味しています。 犯罪を犯して捕縛されそうになり逃げだすのを長い草鞋を履くというのもここからきています。 お互いに脛に傷を持つ者どうしの互助習慣です。 川止めの際には大騒ぎでした。 旅籠も廊下だろうがなんだろうが詰め込めるだけ詰め込みました。 事前に手前の宿場に情報が入り、そこで待つか回避していました。 (2)全く無かった訳ではありませんでした。 ただ宿泊代だけでは商売が成り立ちませんので茶店などの休憩所を主体としていました。 これも近隣の農家が兼業でやっていました。 夜間は自宅へ帰り閉店していました。 農作業が難しくなった年寄りが老後の暇つぶしに暮らしていることもありました。 元々、木賃宿と言って寝る場所を提供するだけのシステムの旅籠が宿場のはずれに必ずありました。 木賃というのは炊事や暖房に使う薪代という意味です。 食料は旅人持参が原則です。 そんな物を持って歩いていたのでは負担になりますので、実費を払っていました。 囲炉裏の周りに集まって雑炊などを食べていましたから、チャッカリご相伴にあずからズウズウシイ輩もいました。 途中で具合が悪くなれば、後は運を天に任せて誰かが通りかかるのを待つ以外に方法はありませんでした。 従いまして一人旅というのは余程旅慣れた連中だけがやっていました。 お互いに声を掛けあって複数で歩くようにしていました。 旅は道連れ世は情け、という言葉はここからきています。 (3)街道筋に一般人向けの宿泊施設が整うのは江戸時代からです。 領内の治安維持の面から、大名も、幕府の代官も整備に努力しました。 特に参勤交代で大名が大量の家臣団を連れて定期的に移動していましたので、旅籠という生業も成立するようになりました。 国家統治のための、街道や宿泊施設などの設備は奈良時代から整えられていましたが、あくまでも公務のためのものでした。 防人に駆り出された人もいわば兵役ですから公務扱いです。 自力での旅とは言えある程度の庇護はありました。 更級日記というのも、上総の国司だった父親と京へ帰る道中の日記です。 公務での移動ですから、全てが整えられていました。 一般人にとっては文字通り命がけでした。 謡曲鉢木にもありますように鎌倉時代でも宿泊は人の善意頼りでした。 この善意を偽装して悪事を働く者がいて浅茅ヶ原の鬼婆伝説などが語り継がれました。 現在の木母寺の創建由来になった謡曲隅田川の梅若伝説なども旅がどれほど難儀なものであったかを伝えています。 禅僧の雲水という修行方法も一人旅が簡単なことではなかったことからきています。 東京渋谷の道玄坂と名称も道玄という山賊の居住地であったことに由来しています。 今でも追い剥ぎまがいはいる??マァマァ 常に集団で移動していました。 交易もキャラバン隊を組んで商品を運んでいました。 このキャラバン隊を組んで交易を独占していたのが座という組織です。 この組織を破壊したのが信長の楽市楽座制です。 蛇足 江戸時代になって街道筋が整備された結果、日本は旅行者天国になっていました。 幕末に日本へきた外国人は街道筋の旅行者の数が多いのに驚いていました。 老若男女身分を問わずに楽しそうに旅をしているのに驚いていました。 お伊勢さんへは最盛期には年間20万人がお詣りしたとされています。 東海道膝栗毛などという旅行物の読み本が盛んに売れていたのも旅が身近だったことに由来します。 東北山形の豪商の奥さんが江戸や京見物や伊勢参りを兼ねて旅行した旅日記が残っています。 きよのさんと歩く大江戸道中記 金森 敦子 ちくま文庫 一度お読みになられることをお勧めします、鹿爪らしい芭蕉の奥の細道などよりも面白いです。 何せ江戸では吉原で花魁を呼んでドンチャン騒ぎをしています。 (当人は三十路の女性です)
お礼
まったく関係ありませんが、「辻斬り」というのも「辻堂」から由来しているのですかねぇ? 落書きの内容が知りたくなりました。(*^_^*)「現代の落書き」も将来の貴重な資料になるのでしょうかねぇ?それとも、「落書き」に頼らなくても良いように、立派な資料を後世に残しているのでしょうか? 「客引きは派手にやっていました。」……そうなんです。何の浮世絵だったか分かりませんが、「客引き」というよりも「客の奪い合い」といった感じの絵だったと記憶しています。 「これを上手く振り切るのも旅の要領の一つでした。」……昔の旅人も苦労が多かったのですね。気の弱い私などは、宿場ごとに泊まらされそうです。昔に戻って引かれてみたい気もしますが。(*^_^*) 「途中で具合が悪くなれば、後は運を天に任せて誰かが通りかかるのを待つ以外に方法はありませんでした。」……とはいっても、病院があるわけでもないでしょうから、旅の途中で、「あの世へ」ということも多かったのかも知れませんね。 渋谷の道玄坂というのは、伝統的に、「追いはぎ」を受け継ぐような「何か」があるのですかねぇ?(*^_^*)それとも、道玄の亡霊が夜ごと、夜ごとに……。 昔の旅がかなりイメージできるようになりました。ありがとうございました。
- D-Gabacho
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旅籠のほかに、貧乏な人向けに木賃宿という薪代相当の最低限の宿代で泊まれる安宿もありました。旅籠が満杯で断わられた場合、しかたなくそちらに行くこともあったと思います。また、一般の民家や寺などにたのんで泊めてもらうということも考えられます。 古代、中世にも宿駅というのがあったようですが、これは庶民のためのものではなく、貴族や武士のためのもので、戦国時代以前、庶民が旅をする場合は野宿が基本でした。
お礼
今、室町、戦国時代の小説を読んでいて、ふと、当時の旅の様子はどうだったのかというのが気になり質問しました。「戦国時代以前、庶民が旅をする場合は野宿が基本でした。」……考えてみると、庶民が旅をするということは極めて稀だったのかも知れませんね。
- 中京区 桑原町(@l4330)
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一部屋に複数が泊まる雑魚寝が基本だから人数の融通は簡単で泊まれない事は無かったのでは?
お礼
ありがとうございました。
お礼
一つ一つ、感想は述べませんが、わかりやすくて大変興味深いご回答をいただきありがとうございました。