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大東亜共栄圏 資源目的?

Ganymedeの回答

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  • Ganymede
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回答No.5

あれこれおっしゃる前に、東南アジアの国々の教科書を読んでみてください。外交辞令(日本向けのお世辞)とは異なる内容を、人々が学んでいることが分かります。 私の好きなインドネシア―インドネシア歴史教科書「日本軍占領時代」 http://www.geocities.jp/indo_ka/buku_pelajaran/bahasa_jepang2.html 〔引用開始〕 インドネシアの高等学校で使われている歴史教科書の一部を翻訳し、内容を紹介いたします。〔中略〕 2006年6月、メダンのGramedia(大手書店チェーン)で購入したもの。記述の対象となる時期は、1942年の日本軍による占領時代開始から現在まで。高校3年生向け。〔中略〕 日本による占領期間は短かったとはいえ、長期にわたったオランダ時代に受けたよりも遥かに重い苦しみをインドネシア国民は体験することとなった。〔中略〕 よく見てみれば、日本の方針は反生産的(つまり、目的と結果でお互いに矛盾している)であるように見える。つまり、食料増産のための努力は、次のような原因のため失敗した;〔中略〕 多くの地域で飢饉が発生した。〔中略〕 つまり、日本によって占領された他の地域と同様に、インドネシアはその国民が極めて苦しめられた国であったと言えよう。日本民族による残虐行為は西欧民族が犯した残虐行為を超えていた。〔中略〕 インドネシアでの日本による搾取は天然資源に対してだけではなく、人的資源に対しても行われた。〔中略〕 労務者の動員はしばしば非人間的なものだった。労働環境は劣悪だった。重労働であり、食料は十分に与えられず、衛生状態も不適切だった。そして厳重な監視下の元、休息時間は短く、ミスは重く罰せられた。多くの労務者たちが、ビルマ、マラヤ、サラワク、ベトナム、ソロモン諸島などの海外へ送られていった。その多くが、送られた先で死亡した。 〔中略〕 また別の側面もあった。〔中略〕 肯定的な影響としては次のようなものである;〔中略〕 d. 多くの青年達が軍事知識・技能を習得した。それはやがて独立を守るための土台となった。 〔引用終り〕 学びの場.com(事務機器・学校教材の専門商社大手「内田洋行」の教育総合研究所) 海外の教科書は、日本をどのように教えているか?(堀内一秀) http://www.manabinoba.com/index.cfm/6,6424,13,html 〔引用開始〕 そこで今回はアジアの国を中心に、海外の教科書が日本、特に戦争時代の日本をどのように教えているか調べてみた。 〔中略〕 マレーシア 「日本は、マレー人の解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本人の支配はイギリスよりずっとひどかった」。 (中学2年生用『歴史の中のマレー』1988) フィリピン 「フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領した時です。日本軍は、来たばかりの頃は、自分たちはフィリピン人の友達だといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。彼らは、人々の食料や家財道具をはじめ、乗り物や大きな家々も取り上げました。彼らはまた、とらえた人々を拷問し、殺しました」。 (小学校4年生用『歴史』1977) 台湾 「二十余万人に達する台湾籍の軍人・軍婦が前線に送られ、さらに少なからざる少女が異郷で淪落し慰安婦にさせられた。これらの計り知れない辛酸血涙は、みな日本の植民地統治が残した歴史の傷跡である」。 (中学生用『高級中学歴史下』2000) シンガポール 「日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がたくさんある。スパイによって日本軍に通報された者はケンペイタイの建物に連れて行かれた。そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを人に告げることなく死んでいった。最も一般的な拷問のひとつは「水責め」で、とらわれた人は寝かせられ、大量の水が鼻や口に流し込まれた」。 (中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』1985) 〔引用終り〕 さて、大日本帝国が唱えた「大東亜共栄圏」は禍々(まがまが)しいプロパガンダだったが、戦後のアジア各国独立の契機にもなった。とは言え、「日本が独立させてやったのだ」などと恩に着せると、ネトウヨに転落する。 なぜなら、「戦後の世界はアメリカ中心に回っている」という現実認識を欠いて、戦前戦中並みの妄想に耽っているからだ。例えばインドネシア独立を概観しよう。 1945年に日本が降伏して第二次世界大戦が終わると、インドネシアは独立を宣言した。しかし、宗主国のオランダが戻ってきて、インドネシアと戦争になった(独立戦争)。泥沼化するとも思われたが、アメリカがオランダに「戦争を続けるなら援助を止めるぞ」と言い渡した。 第二次大戦で疲弊した西ヨーロッパ諸国は、戦後、アメリカから莫大な援助を受けていたのである。オランダはそれを打ち切られたくなかったので、しぶしぶインドネシアと戦うのをやめた。 これこそ、インドネシア独立の決め手となったのであり、それを知らない日本人が多いらしいのは不思議である。戦後の世界はアメリカが中心だったのだから、「インドネシア独立に関しても、日本よりアメリカの影響力が大きかったのでは」と調べてみる気にならないのは、怠慢ではないか。 そして、戦後の世界は第二に共産勢力中心に回っていた。インドネシア独立に関してもそれが見られるのであり、インドネシアの共産主義勢力が独立闘争を支えた。 だいたい、共産主義のように非道(ひど)いものが、なぜ第二世界(いわゆる東側諸国)だけでなく第三世界(発展途上国)でも勢力を張ったか。彼らは、独立闘争などになると侮れない強みを発揮するからである。共産党は「民主集中制」、「政治将校」などの仕組みを備えていた。 インドネシア独立を果たしたスカルノも、共産党の影響力を認め、気配りせざるを得なかった。のちにスカルノは失脚し、代わってスハルトが政権を取ると、インドネシアは反共国家に転じた。 そもそも、日本がインドネシアを侵略する前から、スカルノらはオランダの植民地支配に抵抗し闘争していたのである。その後、日本が引き起こした太平洋戦争が、「インドネシア独立の妨げにはなっても、助けには全くなっていない」と言えば、へりくだり過ぎでもあろう。しかし、「日本のおかげでインドネシアは独立できた」というのはキチガイである。事実はその中間、「一つの契機ではあっただろう」と思われる。 日本が降伏したからこそ、インドネシアは独立できた。大東亜共栄圏も共産主義も、いわば暴風雨であり、独立の地固めには役立った。「雨降って地固まる」である。 1960年、国連総会で「植民地独立付与宣言」が採択された。「外国による人民の征服、支配及び搾取は、基本的人権を否認」するものであり、「国際連合憲章に違反」していると、高らかに宣言された。長年にわたって暴威をふるった植民地主義は、ついに公式に否定されたのである。 追悼の政治――戦没者慰霊をめぐる第二次世界大戦後の日比関係史(中野聡、国際関係史、一橋大教授) http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/mono/2000japh.PDF 〔引用開始〕 駐フィリピン大使を務めた湯川盛夫(在任一九五七年六月~一九六一年一月)は、赴任当時の印象について「あらかじめ覚悟してはいたものの、対日感情の悪いことには驚いた。新聞などにも、日本の悪口の出ない日は、めずらしいくらいだった」と述べている。 〔引用終り〕 一方、東南アジアの国々が日本を賞賛しているというコピペは、おもに名越二荒之助(なごし ふたらのすけ)の著作からの孫引きらしい。しかし、二荒之助といえばデマ拡散家として悪名高い。パラオ国旗とか、東郷ビールとか、アインシュタインの予言とか。 また、マレーシアのマハティール首相(任期1981-2003年)の日本賛美発言は、黄文雄の『罠に嵌った日本史―日本は再び米中二大覇権国家の餌食になるのか!?』からの孫引きらしい。黄は、マハティールが1992年10月14日に香港で「欧州・東アジア経済フォーラム」において発言したと書いている。このフォーラムは、有名な「世界経済フォーラム」の系統である。首相在任中の発言ということになる。 そこで、マレーシア首相府の公式サイトを見ると、下記URLに全文が載っていた。 http://www.pmo.gov.my/ucapan/?m=p&p=mahathir&id=1111 しかし、ネトウヨコピペにあるような、「日本の戦争責任を問うならば、それより以前、非人間的な支配収奪をつづけた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来たことで植民地支配から解放され近代化がもたらされた」というくだりは見当たらない。黄文雄の捏造だろう。 マハティールは首相退任後、2005年に来日して早稲田大学で講演した。同大学のサイトに収録されている(http://www.waseda.jp/jp/global/guide/h_doctors/mhm.html)。首相在任時よりも、もっと日本にリップサービスしてよい立場になったはずだが、やはりネトウヨコピペのようなくだりは見当たらない。

Earth_Music
質問者

お礼

>「インドネシア独立に関しても、日本よりアメリカの影響力が大きかったのでは」と調べてみる気にならないのは、怠慢ではないか。 調べる気が無いわけではないのですが、なかなか大変なのです。w ありがとうございます。 しかし、「神風特攻隊はフィリピンで英雄だった」や、「インドネシアの独立宣言文では、西暦ではなく皇紀が使われている、またその他の大日本帝国への賞賛、また、マッカーサーの「日本は自衛戦争した」発言は、どのように考えるのでしょうか。パラオ国旗の話など、大半が捏造でしょうか。 http://www.geocities.jp/ryokuin_seidan/img1/japan1_index.htm また、台湾でも強制的な慰安婦が存在したのは、初耳でした。 しかし台湾は、それをネタにする中韓とは違い東日本大震災でも多大な援助をしていただきました。どのように理解すべきでしょうか。

Earth_Music
質問者

補足

>あれこれおっしゃる前に、東南アジアの国々の教科書を読んでみてください。 それこそが困難ではないでしょうか。 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編 (教科書に書かれなかった戦争) 単行本 – 1995/6/1 越田 稜 (著) このようなものもありますが、それとて、正しい記録かどうか分かりません。

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