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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《宗教の国連》? どうなんですかねぇ。)

宗教の国連? ローマ法王に提案

このQ&Aのポイント
  • イスラエルのペレス前大統領がローマ法王に「国連形式の宗教組織」の創設を提案しました。
  • ペレス氏は宗教対立に対処するために「宗教国連」が必要だと述べました。
  • ローマ法王は提案を慎重に聞き入れ、宗教間対話の担当者が検討する予定です。

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回答No.25

こんにちは。 友人は、結局聖書が戻らないので、こちらから送った質問だけに手短かに答えてきました。まず下の個所ですが、erはやはりすべて「悪魔」を指すのではないかとのことでした。訳を訂正します。 Ich halte nämlich dafür, daß er, einmal Fürst unter dem Himmel geworden, auch nach dem Sündenfalle seine Herrschaft nicht verloren hat. - "Der noch jetzt", heißt es weiter, "in den Söhnen des Unglaubens wirksam ist". Siehst du, daß er nicht mit Gewalt und Zwang, sondern durch Überredungskunst verführt? Er gebraucht den Ausdruck Unglaube, was so viel besagen will als: durch Betrug und Überredungskunst zieht er alle an sich. つまり私は思うのだが、かつて天の下の頭となった悪魔は、罪に堕ちたあともその支配権を失わなかった。―こう続く、「不信心の息子たちの中で未だに威力を発している者」お前は、悪魔が権力や強制ではなく、説得術で誘惑しているのがわかるか。悪魔は不信心という表現を使うが、これは、欺瞞と説得術ですべての者を自分に引き付ける、と言うよりもはるかに重要なことを言おうとしている。 友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。あの国の人たちは、真面目な発言と不真面目な発言の境目が不明瞭なので迷惑します。ただ、悪魔の行為については、わかりやすくこう書いてくれました。 人間をまんまとだました後、悪魔は神に悪態をつく、「見てみろ、お前の創造した者たちを、哀れじゃないか」と。 そして、下の個所なのですが、「was er anführt」のerは「神」でよいそうなので、No.22でした訂正は誤訂正ということになります。ただ、最初の訳はbragelonneさんのおっしゃるように、意味が通りにくいと思います。たぶん、anführtの方が誤訳だと思います。「手引きしているのは」ではなく「理由として挙げていることは」の方が正しいと思います。 "Erbarme dich meiner nach deiner großen Barmherzigkeit". "... um seiner großen Liebe willen, womit er uns geliebt hat." Der Apostel zeigt, woher die Liebe Gottes zu uns stammt. Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen. 「あなたの大いなる慈悲で私をお憐み下さい。」「神が我々を愛した、その大いなる愛のために。」使徒は、神のわれわれへの愛がどこからくるものか示す。なぜなら、神が指摘していることは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値するようなことだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。 これなら少しわかりやすいと思いますが、いかがでしょうか。 この件について、もう一つだけ補足します。昨日、偶然、スイスの若い神父の説教を見つけました。その神父が読んでいるのは、完全な現代ドイツ語訳で非常に分かりやすいのですが、「空気」という言葉はもう使用してありませんでした。もしかすると、ἀήρはもう空気とは訳さなくなっているのかもしれません。冒頭部分だけ書き取っておきました。 Auch euch hat Gott zusammen mit Christus lebendig gemacht. Ihr wart nämlich tot aufgrund der Fehlungen und der Sünden, die euer frühes Leben bestimmten. Ihr hattet euch nach den Maßstäben dieser Welt gerichtet und wart dem gefolgt, der durch die Mächte der unsichtbaren Welt zwischen Himmel und Erde herrscht. 最後に、この御質問本来の話題に戻します。 「宗教の国連」については、外国のネット上でもまだ報道のみの情報が多く、賛否については把握できません。ただ、自然発生的なものとは言えないようです。また、メタ・アマテラス的なものでもなさそうですし、世界宗教者平和会議(WCRP)とも目的が異なるものです。 「宗教の国連」が提案された理由の一つは、この数年、国連内での宗教間の問題解決が行き詰っていることのようです。つまりこの点に関しては、国連はもう機能していないということです。宗教の非難に関する決議が、西側諸国とイスラム協力機構の不和を招き、決議は放棄されました。また、宗教に対する非難により、特定の宗教を信仰するという理由で個人が差別されることになり、人権問題や、意見の自由に触れることになります。そういう事情から、「宗教の国連」は、今の国連とは違う憲章を立てる方向だそうです。つまり、現在世界で宗教の名のもとに行われている殺人や大量虐殺は、宗教とは無関係な行為、つまり、いかなる宗教によっても正当化されない行為であることを明言するつもりのようです。世界宗教者平和会議(WCRP)は、宗教に関するあらゆる問題を扱うのに対して、「宗教の国連」は、戦争やテロ行為に対することを主目的としており、国連が今のシステムで機能できないのならば、今回の提案はそれなりに理解できます。ただ、トップにローマ法王を据えるということになると、どうしても西側先導という印象になりますので、その辺がどう出るかです。 以上のような事情から、御質問(あ)~(え)は、「宗教の国連」の構想に至る経過と目的を考えると、お答えできなくなります。 とりあえず、これでまとめとさせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  だいたいそのように落ち着くのでしょうか。  最初の件につきましては 最後の一文の《 er 》も 悪魔のことなんですね。正直 気持ちが宙ぶらりんになってはいますが たぶんそういう文章をクリュソストモスは書いたのだと思って飲み込みました。  二件目は なるほど。うんと 分かりやすくなったと思います。神の《怒り》と《神が怒りを持たざるを得なかったその人たちへ なお憐みを垂れる》とがつながるように思うときにはです。   ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen.  ・・・なぜなら、神が指摘していることは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値するようなことだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。まったく これがよいと思います。  つまり ここから深読みをして 《怒りと厳しい罰》も――あたかも悪魔による何かよくないことの指し示しと同じように―― 広く大きく神の愛であると言おうとしている場合にどうか。という贅沢な変な気持ちが出て来るというおまけがあるというだけのことです。  ★ 友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。  ☆ これは 真面目な――生真面目な――方面での意味もあるように思います。蛇の誘いに負けたのは あくまでエワであるという議論です。そのあと アダムは エワに――あたかも思いやりでおつき合いするかのように――従って 同じく善と悪とを知る木から採って食べた。のだという議論が ふるくにはあったようです。男尊女卑の考えですね。  でもこれは 過去の遺物でしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、悪魔の行為については、わかりやすくこう書いてくれました。    人間をまんまとだました後、悪魔は神に悪態をつく、   「見てみろ、お前の創造した者たちを、哀れじゃないか」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは そうなんですけれど・つまり 人間は女も男も意志が弱く心がきよらかではなかったのですけれど これは 自然本性における自由意志の自由度として(わが心にさえさからう自由として)すでに織り込み済みであった。とは 考えます。  そうでなかったなら 人間という生物が おかしいことになると。  けれども ヨブの場合には あの義人とかいうヨブをちょっと打ってやってもよいですかと悪魔が神に願ってそれがゆるされたあと ヨブは身も心も地に落ちたごとく沈んでしまった。けれどもそのとき 悪魔はこの悪態をつくことは出来なかったのだと思います。  ヨブが弱くなかったということでもなく きよらかそのものだったとも言えないにもかかわらず サタンは ヨブをいいほど虐めたあと やはり ヨブめ ざまあ見ろとは言えなかったと思いますから。神によって ヨブは人間の分際であることを忘れないようにと注意を受けただけだと思います。  そうしてその後 イエスによって死の製作者たる存在とのおつき合いをとことんするというお持て成しを受けて その悪魔は ナメクジのように溶けてしまったものと思います。  ★ スイスの若い神父の説教を見つけました。その神父が読んでいるのは、完全な現代ドイツ語訳で非常に分かりやすいのですが、「空気」という言葉はもう使用してありませんでした。もしかすると、ἀήρはもう空気とは訳さなくなっているのかもしれません。  ☆ これは おもしろいですね。もう言葉へのこだわりもないようなのですね。ありうるのでしょうね。  すなわち《クウキ》という言葉にしても じつは 《シューニャター》の空観に立つならば ただカザリつけたような・じつはシガラミであって 取り立ててこのクリスマスツリーのようなクウキは 人間の存在と共生にとって要らないものだと考えられるからです。  空気と言うのなら それをいちいち読むか読まないかを考えるようなクウキだと言わなくとも 互いに自由に批判をも含めて発言をおこなって行けるような場こそが のぞましい空気だと思われるからです。  ★ 世界宗教者平和会議(WCRP)は、宗教に関するあらゆる問題を扱うのに対して、「宗教の国連」は、戦争やテロ行為に対することを主目的としており、国連が今のシステムで機能できないのならば、今回の提案はそれなりに理解できます。  ★ つまり、現在世界で宗教の名のもとに行われている殺人や大量虐殺は、宗教とは無関係な行為、つまり、いかなる宗教によっても正当化されない行為であることを明言するつもりのようです。  ☆ なるほど。あまり重く受け留めていませんでした。ただし 実際にはむつかしいようにも感じてしまいます。ジハードは クルアーンから取り消すことが出来ないでしょうし へブル語聖書にかんしては 民族殲滅といった話が出て来ていますし。  むつかしいですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、トップにローマ法王を据えるということになると、どうしても西側先導という印象になりますので、その辺がどう出るかです。  以上のような事情から、御質問(あ)~(え)は、「宗教の国連」の構想に至る経過と目的を考えると、お答えできなくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほどですね。この場合・つまり 《宗教の国連》という提案の場合には 正面からのシュウキョウ批判とは やや筋を別にして事務的な作業をつうじて現実の問題を扱うようにして取り組む必要がある。のかも知れません。出直したほうがよいようです。  長いあいだにわたって いろいろとお世話になりました。脇が甘いということを知ったと言いますか 問題はいくつかの視点から捉えて行かねばならないということ。また 議論や理論は ひととおりすでに西欧では豊富な蓄積があるので ウワベの情報をかすった程度ではまだきちんと消化したとは言えないこと。歴史の重みがありますね。  つまり ちょっぴり反論しますと 必ずしもその結論には 従わなければならないとも言えないような。つまりむしろ従ったあと なおあたらしい見方を われわれ日本人としても 打ち出して行ってよいではないか。こうも――いままでのデカイ顔を小さくしつつも 基本線においてこうも――思われて来ます。  わたしは 日本人の神と信仰についての理論(思い)とそしていわゆる宗教についての評価 これらは それほど間違った内容ではないと思っています。それを きちんと思想として自己表現することが出来るようにして行く必要がある。こうも考えます。いままでずっと考えて来ました。  ありがとうございます。表題がややずれたかなとは思うものの いいスレッドをつくり残すことが出来たと思っております。これからも ご指導のほどをお願いいたします。  しばらく開いていて 閉じることにします。

bragelonne
質問者

補足

 このご回答で 表題の《宗教の国連》についての少なくとも取り組みをめぐるしかるべき姿勢が明らかにされたと考えます。  派生する主題としてのエペソ書2章(その初めの部分)についての解釈などをめぐる議論は――おおよその答えとしても―― ご回答No.22にて承りました。訪問者の方々は そちらのほうをも参照なさってください。  

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その他の回答 (26)

回答No.16

続きです。 バルバロ訳の聖書の解説によると、パウロの手紙は難解で、今日まで神学者を悩ませているそうです。クリュソストモスの注釈は、紀元4世紀のものですから、まだ初期の解釈ですね。アウグスティヌスには、この部分の注釈があるのでしょうか。比較できると面白いと思いますが。 それから、今日、偶然ほかの説明を見つけました。コンラート・シュテファン・マッティース著「パウロのエフェゾ人への手紙の解説」という書物のようです。当該ページをざっと読んでみると、「空気」というのは、ユダヤ的な観念、とくにラビによるもの、という記述、そして、聖書に基づけば、悪魔というのはもともとゾロアスター教の悪神、アンラ・マンユ(アフリマン)と同一であるという記述がありました。また、「空気」と訳されているギリシャ語は、もともと「濃い靄」「闇」という意味の語であるとの指摘があります。ギリシャ語は読めませんし、入力の仕方もわからないので、下のリンク先をご覧ください。 http://books.google.co.jp/books?id=dnUsAAAAYAAJ&pg=PA57&lpg=PA57&dq=epheser+luft&source=bl&ots=ZP1-9hnZEl&sig=GTu2EAOXWs4ikJoYJS8iErEJnRM&hl=ja&sa=X&ei=1-cTVKqSGcPo8AXRo4KACA&redir_esc=y#v=onepage&q=epheser%20luft&f=false http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%A6 最後に、今回注釈を見つけたサイトのリンクも張っておきます。今後、お役にたつかもしれません。 https://www.unifr.ch/bkv/index.htm http://wol.jw.org/de/wol/d/r10/lp-x/2008607 意味の取れなかったか所について、何かわかりましたら、また回答します。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。こちらから先にお応えしてまいります。  ★ 「空気」と訳されているギリシャ語は、もともと「濃い靄」「闇」という意味の語であるとの指摘があります。  ☆ 確認しました。《闇》は 保留かも知れません。(ぷらぽた師匠 よろしくお願いします)。  ▽ Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon  ▽ ἀήρ ( aer アエール) ~~~~~~~~~~   http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*a%3Aentry+group%3D38%3Aentry%3Da%29h%2Fr  ・ in Hom. and Hes. always  ≫ mist, haze, ≪    not (as Aristarch.) 《lower air 》(opp. αἰθήρ, q.v.)  ▽ αἰθήρ ( aither アイテール) ~~~~~~  http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*a%3Aentry+group%3D47%3Aentry%3Dai%29qh%2Fr   A. ≫ ether, the heaven ≪ (wrongly distinguished by Aristarch. from ἀήρ (q.v.) as upper from lower air);   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 「空気」というのは、ユダヤ的な観念、とくにラビによるもの、という記述  ☆ これは たぶんですが 前の質問で あめんほてぷ2000さんからおそわったことがあります。第一から第三までの天があるという宇宙観です。第三の天は 楽園とも呼ばれるとか。  ⇒ 【Q:《空中の権能》とは 何でしょう?】その BA (=回答No.7)   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8735720.html  ★ 悪魔というのはもともとゾロアスター教の悪神、アンラ・マンユ(アフリマン)と同一であるという記述がありました。  ☆ まづ ヰキぺの解説を引きます。:  ▲ (ヰキぺ:アンラ・マンユ ) ~~~~~~~~  § 1 概要  ( a ) 善悪二元論のゾロアスター教において、最高善とする神アフラ・マズダーに対抗し、絶対悪として表される。  § 2 キリスト教への影響  ( b ) 黙示録の赤い竜や善悪二元論、最後の審判といったキリスト教の要素にはゾロアスター教からの影響が見てとれる。  ( c ) キリスト教のサタンも旧約聖書のヨブ記を見る限りは神の僕であり、試練を与える天使という位置付けであったが、  ( d ) 新約聖書のサタンは完全に敵対者である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( e ) 善悪二元論は 理論としては成り立たないはずなんですが よく引き合いに出て来ます。善と悪とが対立し合うのであれば しかもどちらも絶対であるというのならば 並び立つことはあり得ないはずなのです。  ( f ) ザラトゥシュトラでは 終末において 善神が悪神に勝つという物語になっていたかと思うですが そのような記事が見当たりません。救世主としてサオシュヤントという人物が出て来るとか。これが ブディズムでのボディサトワ(菩薩)なる概念に採り入れられたとか。  ( g ) つまり 絶対者としての元が 相対立するかたちでにせよ親和的であるにせよ 二元や三元あるというのは 論理的におかしいはずです。言いかえると キリストの神は 三位一体として想定されていますが この三つのペルソナは その個がほかの個とひとしく また三位一体なる全体ともひとしい。となります。  ( h ) つまりは 絶対ないし無限は 二で割っても三で割っても 商はつねにやはり無限であるという理解ですから 神なる元は つねに《一元》でしかありえない。この《一》は 全体という意味になるはずです。  ( i ) ( b )はそのとおりだと思います。そういう影響があったということだと見ます。  ( j ) ( c )は これも そのとおりに理解しています。言いかえると この理解が 聖書の《悪魔》観だと見ます。神に仕える者であるとしてです。  ( k ) 問題は ( d )です。例示がないので これは 保留します。《完全な敵対者》であっても それとして神に仕える者だとすれば 問題ないと考えます。  ☆ 教父たちの聖書講解が 読めるのですね。  アウグスティヌスは エペソ書講解は いまのところ知りません。  書簡集の中に 触れているかも分かりません。  共観福音書やヨハネ福音などあるいは 詩編や創世記の講解があります。  エホワの証人のサイトがあったのですね。

bragelonne
質問者

補足

 No.15補足欄におけるアウグスティヌスからの引用文につき エラーが出てしまいました。つつしんでお詫びし あらためて 掲げます。  ▼ (アウグスティヌス:エペソ書 2章に寄せて) ~~~~~~  〔第13巻 § 12 [16]〕 人類は神の義によって 悪魔の権能の中へ引き渡されたのである。最初の人(アダム)の罪が両性の結合によって生まれるすべての人の中へ原初的に( ogirinaliter )移り行き そして最初の親の負い目が子孫全体を拘束する。  この悪魔への引き渡しは先づ『創世記』において意味表示されている。そこにおいては 神は蛇に《お前は地(つち)を食べるであろう》と言われた後で 人間に 《お前は 地である。そして地の中へ行くであろう》(創世記3:14、19)と言われた。この 《お前は地の中へ行くであろう。と言われたことは 身体の死を予告するものである。なぜなら もし人間が正しく造られたままにあり続けたなら 身体の死そのものも経験しなかったであろうから。  ところが 生きている人に 《お前は地である》という言葉は人間全体がより悪いものに変えられたことを示す。《お前は地である》という言葉は 《私の霊はこれらの人間のうちに留まらないであろう。彼らは肉であるから》(創世記 6:3)という言葉と同じ意味である。だから あのとき 神は人間を 《お前は地を食べるであろう》と語られたものに引き渡されたのである。  使徒はこのことを一層 明らかに次のように述べる。    あなたたちは先に自分の罪過と罪によって死んでいた者で   あって かつてはそれらの中で この世の霊に従って 空中   の権能の君主 すなわち不従順の子らの中に今も働くこの霊   の君主に従って 歩いていたのである。    また私たちもみな かつては彼らの中にいて 肉と情念の   意思を行ないつつ 肉の欲望において日を過ごしていたので   ある。そして私たちは他の人々のように本性的に怒りの子ら   であった。(エペソ書2:1-3)  不従順の子らとは不信実な者である。信実な者になる前には誰がそうでないだろうか。このゆえに すべての人間は原初から《不従順の子らの中に働いている》空中の権能の君主の下にある。原初から と私が言ったのは 自らも他の人々と同じように 《本性的に》そうであった という使徒の言葉と同じ意味である。つまり 本性的に とは罪によって堕落した限り ということであって 初めから正しく造られた限り ということではない。  しかし悪魔の権能の中に人間が引き渡されたその仕方は あたかも神がこれをなさった あるいは そうなるように命じられたかのように理解すべきではなく 神がただそれを許された しかも正当にも許された と理解しなければならない。  なぜなら 神が罪人を見棄てられることによって罪の制作者(悪魔)がそこに侵入したからである。しかも神は 創造し 活かしたまう神として また悪しき者には罪の罰である悪しきものと共に多くの善きものをも与えたまう神として 御自分の被造物に御自身を示さないまでに被造物を見棄てられたのではない。  なぜなら 神は御怒りにおいてもその憐みを抑制されなかった(詩編 76:10)からである。神は人間を悪魔の権能の中にあることを許されたときも 人間を御自身の権能の法から除去されなかった。なぜなら 悪魔でさえも全能者なるお方〔の善性から無縁でないようにその権能からも無縁ではないから 悪逆の天使たちも 万物を活かしたまうお方〕によるのでなければ その生命がいかなるものであれ どうして存在し得るであろうか。だから もし罪の行為が神の正しい怒りによって人間を悪魔に服せしめたなら たしかに罪の赦しは 神の憐みに満ちた和解によって人間を悪魔から救い出したのである。    〔第13巻 § 13 [17]〕 悪魔は神の権力によらず その義によって克服されなければならなかった。だが全能者に優って力あるものとは何であろうか。あるいは いかなる被造物の権能が創造主の権能に較べられ得ようか。ところが 悪魔は自分の邪曲(よこしま)な悪徳によって 権力を愛すもの そして義の背棄者 また敵対者になった。かくて人間は義を無視し あまつさえ憎んで 権力を求め それを獲得することによって悦び あるいは情欲によって燃え上げられるにしたがっていよいよ悪魔を模倣するようになるのだ。  それゆえ 人間を悪魔の権能から引き抜くために 神は悪魔を権力によってではなく 義によって克服することを嘉しとされたのである。かくして キリストに倣う人間は権力によってではなく 義によって悪魔を克服しようと求めるべきである。権力は或る悪しきもののように回避されるべきであるのではなく 義を優先せしめる秩序が守られなければならない。死ぬべき者の権力はどれほどのものであり得ようか。  だから 死ぬべき者は義を保持すべきである。権力は死ぬべからざる者にこそ与えられるであろう。この力に較ぶれば地において力ある者と呼ばれる人の力がどんなに大きかろうとも 畢竟 笑止千万なほど無力なことが分かる。  悪しき人の力極まるところでこそ罪人のために墓穴が掘られるのである。されど義人は歌って言う    主よ あなたが訓練したまう人は幸いなるかな。    あなたは あなたの律法(のり)もて彼を教えたまうのです。    あなたは罪人のために墓穴が掘られるまで     その人に禍いの日に和らぎを与えたまう。    主は義が裁きに変わり 義を持つ人がみな正しい心になるまで    御民を拒絶なさらず その嗣業を見棄てたまらないからです。     (詩編 93(または 94) :12-15 )  だから 神の民の力がまだあらわれないこの時に 《主は御民を拒絶なさらず またその嗣業を見棄てたまわない》のである。今 敬虔な人々の弱さが持つ《義が審きに変わるまで》 言い換えると義が審きの権能を受け取るまで 謙虚にして弱き義はいかに大きな苦悩と不正を耐え忍ぶであろうか。審きの権能を受け取ることは力が その秩序によって先行せる義に随伴する時の終末まで 義なる人々に留保されているのである。・・・   (『三位一体論』 中沢宣夫訳 1975)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次の三点につき 入力間違いをただしました。つつしんで お詫び申し上げます。  ・第4段落:  x  使徒はこのことを≫一番≪ 明らかに次のように述べる。  ○ 使徒はこのことを≫一層≪ 明らかに次のように述べる。  ・§ 12 〔16〕 の最後の段落  x なぜなら 悪魔でさえも全能者なるお方≫・・・(この箇所を抜かしてしまいました)・・・≪によるのでなければ  ○ なぜなら 悪魔でさえも全能者なるお方≫の善性から無縁でないようにその権能からも無縁ではないから 悪逆の天使たちも 万物を活かしたまうお方≪によるのでなければ  ・§ 12 〔16〕 の最後の一文:  x だから もし罪の行為が神の正しい怒りによって人間を悪魔に服せしめ≫る≪たなら たしかに罪の赦しは 神の憐みに満ちた和解によって人間を悪魔から救い出したのである。  ○ だから もし罪の行為が神の正しい怒りによって人間を悪魔に服せしめたなら たしかに罪の赦しは 神の憐みに満ちた和解によって人間を悪魔から救い出したのである。

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回答No.15

こんばんは。 やはり意味は取りにくかったです。とりあえず、第5詩行までの注釈を全部訳しました。直訳に近い、まだこなれていない訳で、訳語も推敲していませんので、このままではまだわかりにくいと思います。[ ]は原文にあるもの、( )は、私の補足です。erという代名詞は、毎回「彼」と訳すと誰のことかわからなくなるので、適宜、「パウロ」「神」「悪魔」と言い換えました。また、聖書本文ですが、注釈の中で細切れにして引用している関係上、既存の日本語訳が使えませんでした。すべて、ドイツ語訳からの私訳となります。「空中の権能」を「空中の頭」と訳したのは、私が使っている独和辞典の訳語に、聖書の用語として、「この世の頭、悪魔のこと」とあったからです。一か所、どうしても意味の取れないところがあり、オーストリアの友人に、今日メールで問い合わせておきました。あとでその個所がどこかお話しします。とりあえず訳です。 第1詩行:お前たちもだ。お前たちは、掟破りと罪によって死んでいた。第2詩行:かつてお前たちは、不信心の息子たちの中で未だに威力を発しているこの世の霊、空中の帝国の頭、[空中の]霊に従って、その掟破りと罪の中をさまよっていた。第3詩行:彼ら(不信心の息子たち)のなかで、我々もみなほかの人々と同様に、肉と心の意志を使い、また生まれながら怒りの子であったため、かつては肉欲の中にさまよったのだ。 肉体の死というものがあり、また精神の死というものもある。前者に陥ることは、罰せられることでも危険なことでもない。なぜならそれは自然の摂理であり、自由意思とは無関係だからだ。それは、最初の人間が掟を破ったことに由来するものではあるが、継続する間に自然的必然性となり、どっちみちすぐにまた帳消しになった。それに対して後者の死、精神的死は罪を引きずってゆくものであり、帳消しにはならない。パウロが、すでにずっと前に非常に偉大なるものとして証明したものを、今またいかにして大いなるものとして示しているか見るがよい。つまり、死した魂を癒すことの方が、[肉体的]死者をよみがえさせるよりもはるかに偉大なものであるということだ。「お前たちもだ」、と彼は言う。「お前たちはかつて、不信心の息子たちの中で未だに威力を発しているこの世の霊、空中の帝国の頭、[空中の]霊に従って、掟破りと罪の中をさまよい、それによって死んでいたのだ」みたまえ、パウロがいかに寛容に物事を始め、あらゆる場所で、耳を傾けるものを落胆させる代わりに元気づけているかを。つまり彼は言う、お前たちは悪の極限まで行き着いた、と。なぜならこれは、死んでいたこととして理解できるからだ。 彼らを完全に落胆させないために―というのは、人は、自分たちが過去に犯した誤りをおおやけにされたとき、たとえそれがすでに消し去られ、何の危険も意味しなくなっていたとしても、それを恥じるからだ―神は彼らに一人の共犯者―強力な共犯者―を与え、それによって彼らが、自分たちだけが罪を負わなければいけない、と思わずに済むようにした。ではこの共犯者とはだれだろうか?それは悪魔である。パウロは、コリント人への手紙でも同じように言う。「思い違いをするな。淫乱者も偶像崇拝者も、神の帝国を手に入れることはできないだろう(コリント人への第1の手紙、第6章9行)」とまず言い、続けて、「お前たちは、一部においてそうであった(罪を犯していた)だけだ」、と言う。「お前たちはそうであった」と決めつけるのではなく、「一部においてそうであっただけ」、つまり、「意図せずにそうであっただけだ」と。 ここで異端者たちは、生意気にも我々を攻撃しようと勢いづく。つまり彼らは主張する、それは神が言ったことだと。そしてずうずうしい口のきき方で、悪魔にしか当てはまらないことを、神に関係づけようとする。では我々は、どうやって彼らを黙らせることができるだろうか。聖句の言葉そのものによってできるのだ。お前たちも認めると思うが、神は公正である。しかしパウロはこう言った[お前たち、知るがよい]、そのような行いをする者はもはや公正ではなく、非常に非公正かつ下劣である、しかし神は、決して下劣ではありえない。-ではなぜ使徒は悪魔をこの世の頭と呼んだのか。なぜなら、ほとんどすべての人間が悪魔に屈し、自由意志と故意により悪魔に仕えたからだ。あまたの良き人々を希望へ導いたキリストを尊敬するものは、ほとんどいなかった。しかし、このようなこと(希望へ導くこと)を約束せず、むしろ地獄へ落ちる悪魔には、すべての人が従う。そして悪魔の支配はこの世だけに限られたものであったにもかかわらず、悪魔は―我々の軽率さゆえに―ほとんど神よりも役に立つ、より従順な召使であった。―さらにこう続く、「空中の帝国の頭、[空中の]霊の意思に従い。」この言葉が言おうとしているのは、悪魔が天より下の空間を支配していること、そして、空中の霊たちが肉体を有しない存在であり、それをもって活動しているということだ。悪魔の支配が一時的であるということ、つまり現在と同時に終わるのだということについては、我々の手紙の終わり近くの言葉を聞きたまえ。「我々が戦うべき相手は、肉や血ではなく、頭たちの帝国、権力、この時代の闇の世界支配者である(エフェゾ人への手紙第6章12詩節)。」「世界支配者」という表現を、お前が、悪魔は創造されていないものと誤解しないように、パウロはこう付け加える、「この時代の闇の」と。パウロは、この誤った時代の霊を、また違ったやり方で、被造物として解することなく、悪しき時代として特徴づける。つまり私は思うのだが、かつて天の下の頭となった悪魔は、罪に堕ちたあともその支配権を失わなかった。―こう続く、「不信心の息子たちの中で未だに威力を発している者。」お前は、パウロが権力や強制ではなく、説得術で魅惑しているのがわかるか。彼は不信心という表現を使うが、これは、「悪魔が欺瞞と説得術ですべての者を自分に引き付ける」と言うよりもはるかに重要である。 しかしパウロは、彼らを力づけるために、一人の共犯者を与えるだけでなく、彼らとともに壇上に上がる。彼は言う、「彼ら(不信心の息子たち)のなかで、我々もみなかつてはさまよった。」ここで「みな」と言っているのは、それに当てはまらない者がいたとは言えないからだ。「…肉欲の中にさまよった、ほかの人々と同様に、肉と心の意志を使い、また生まれながら怒りの子であったためだ。」これは、精神的なものに対する感覚がなかったということだ。しかしパウロが、これらの言葉によって肉を貶めようとしていると疑われないように、また人々が肉の責任を過大に受け止めないように、いかに証明しているかみたまえ。我々が「肉と心の意志を使い」と彼は言う、つまり感覚的欲望のことである。我々は神をいらだたせ、いからせた、つまり我々は、怒りの対象以外の何ものでもなかったのである。人間の子が生まれながら人間であるように、我々も「ほかの人々と同様、怒りの子であった」、つまり、捕らわれていないものはひとりもおらず、すべての者が神の怒りに値することを行ったのだ。 第4詩行:「しかし憐みに富んだ神は…」 慈悲深い、と断定するのではなく、憐みに「富んだ」という言い方は、ほかの場所にもある。「あなたの憐みの大きさにより(詩篇第68篇17行/バルバロ訳では第69篇)。」そしてまた、「あなたの大いなる慈悲で私をお憐み下さい(詩篇第50篇3行/バルバロ訳では第51篇)。」「神が我々を愛した、その大いなる愛のために。」使徒は、神のわれわれへの愛がどこからくるものか示す。なぜなら、神が手引きするのは、愛を受けることではなく、怒りと非常に厳しい罰であるからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。 第5詩行:「そして、私たちが掟を破ることで死んでいたにもかかわらず、神は我々をキリストの中にともによみがえらせた。」 再びキリストが中心に立ち、この出来事が信頼できる。というのは、最初の子が生きているのなら、われわれも生きている。神が最初の子をよみがえらせたのであれば、われわれもよみがえらせたのだ。   意味がよくわからなかったか所はここです。 「世界支配者」という表現を、お前が、悪魔は創造されていないものと誤解しないように、パウロはこう付け加える、「この時代の闇の」と。パウロは、この誤った時代の霊を、また違ったやり方で、被造物として解することなく、悪しき時代として特徴づける。 これだと、悪魔が創造されているといっているのかそうでないのかわからないので、誤訳ではないかと思っているのですが、この箇所については、友人の教えを待つばかりです。 要点は大体次のようになると思います。 1 肉体の死には罪がないが、精神の死には罪がある 2 罪を犯すのは、自由意思によることである 3 肉欲そのものは否定していない 4 悪魔を空中の頭と呼んだのは、ほとんどすべての人間がそれに従ってしまったから 5 精神的に死んだ者をよみがえらせる方が、肉体的に死んだ者をよみがえさせるより偉大な行為である 6 罪を犯し、悪の極限まで行き着いた者は、ただ精神的に死んでいただけであり、完全に落胆する必要はない 7 罪を犯したものを落胆し切らせないために、その自由意志の目を曇らせた共犯者として、悪魔の存在が与えられる 4000字に収まらないので、次の回答に続きます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1)  悪魔が 被造物か否か。この点で 翻訳の文章にマチガイの疑いがかかるということですね。   ▼ パウロは、この誤った時代の霊を、また違ったやり方で、被造物として解することなく、悪しき時代として特徴づける。Auch anderweitig bezeichnet er als böse Zeit den verkehrten Zeitgeist, ohne darunter die Geschöpfe zu verstehen.  (2)  悪魔は 天使から成ったとも言います。堕天使であるとか。  では 天使は 被造物か? 創世記の初めに造られたとは書いてない。なら 被造物ではない。では 何か?  (3) ですから けっきょく神の知らせが人間にとどくというとき わざわざ使者を介するというかたちを描いて これを天使という或る種の存在とした。  (4) 悪魔も同じであって 神に仕えて ただし自由意志の用い方をあやまっている者に対して そのアヤマチに気づかせるためにわざわざさらになおマチガイのほうへとみちびく。あたかも死から死へみちびく死の香りのごとく。  (5) なぜなら みづからの心に逆らう意志の使い方が 善の欠け(つまり 悪)であることをその人に気づかせるために その悪やそれが行き着くところとしての死を つねに知らせつづけている。または そこへとさそい続けている。死の状態は 早く死なせたほうがよいという考えであるらしい。  (6) 次のくだりは 《神に仕えるサタン》の見方と同じであろうと見られます。  ▼ 「空中の帝国の頭、[空中の]霊の意思に従い。」この言葉が言おうとしているのは、悪魔が天より下の空間を支配していること、そして、空中の霊たちが肉体を有しない存在であり、それをもって活動しているということだ。Weiter heißt es: "nach dem [Willen des] Fürsten im Reich der Luft, des [Luft-]Geistes". Das will besagen, daß der Teufel den Raum unter dem Himmel beherrscht; und die Luftgeister sind die unkörperlichen Wesen, durch welche er wirkt.  (7) 次のくだりが 翻訳でなお分かりにくいように思います。  ▼ ―こう続く、「不信心の息子たちの中で未だに威力を発している者。」お前は、パウロが権力や強制ではなく、説得術で魅惑しているのがわかるか。彼は不信心という表現を使うが、これは、「悪魔が欺瞞と説得術ですべての者を自分に引き付ける」と言うよりもはるかに重要である。  ▼ - "Der noch jetzt", heißt es weiter, "in den Söhnen des Unglaubens wirksam ist". Siehst du, daß er nicht mit Gewalt und Zwang, sondern durch Überredungskunst verführt?  Er gebraucht den Ausdruck Unglaube , was so viel besagen will als: durch Betrug und Überredungskunst zieht er alle an sich.  ☆ 第二文の従属節の中の主語( er )は 《パウロ》ではなく《悪魔》ではないかと思うのですが?   ▼ Siehst du, daß er nicht mit Gewalt und Zwang, sondern durch Überredungskunst verführt?  ▼ お前は、パウロが権力や強制ではなく、説得術で魅惑しているのがわかるか。  ☆ この《パウロ》が 《悪魔》なのではないか という捉え方なのですが? verführt がわるい意味を帯びているように思えるのですが?    (8) 次のくだりは 意味がなお取れないでいます。  ▼ (第4詩行)なぜなら、神が手引きするのは、愛を受けることではなく、怒りと非常に厳しい罰であるからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen  ☆ 《怒りと非常に厳しい罰を受ける》ことへと 《神が手引きする》ということの意味が 取りにくいのです。  ☆ まとめてくださった《要点》については このあと考えてまいります。

bragelonne
質問者

補足

 エペソ書 2章冒頭について触れたアウグスティヌスの解説がみつかりました。それは エペソ書を講解するためのものではなく ひとつの悪魔論の中で取り上げているところです。  (わたしは すでに全体として――つまり 全体を隈なくではなく全体として――アウグスティヌスは身に着けたと舞い上がっていたようです。灯台下暗しでした。『三位一体論』の中のひとくだりなのですが これは もう何度も読んだと高をくくっていました。いつでも 関連個所は 記憶の抽斗から取り出して来れると思いあがっていたようです)。  まとめてくださったクリュソストモスの要点とくらべてみるのもよいと思います。  長く引用します。  ▼ (アウグスティヌス:エペソ書 2章に寄せて) ~~~~~~  〔§ 12 [16]〕 人類は神の義によって 悪魔の権能の中へ引き渡されたのである。最初の人(アダム)の罪が両性の結合によって生まれるすべての人の中へ原初的に( ogirinaliter )移り行き そして最初の親の負い目が子孫全体を拘束する。  この悪魔への引き渡しは先づ『創世記』において意味表示されている。そこにおいては 神は蛇に《お前は地(つち)を食べるであろう》と言われた後で 人間に 《お前は 地である。そして地の中へ行くであろう》(創世記3:14、19)と言われた。この 《お前は地の中へ行くであろう。と言われたことは 身体の死を予告するものである。なぜなら もし人間が正しく造られたままにあり続けたなら 身体の死そのものも経験しなかったであろうから。  ところが 生きている人に 《お前は地である》という言葉は人間全体がより悪いものに変えられたことを示す。《お前は地である》という言葉は 《私の霊はこれらの人間のうちに留まらないであろう。彼らは肉であるから》(創世記 6:3)という言葉と同じ意味である。だから あのとき 神は人間を 《お前は地を食べるであろう》と語られたものに引き渡されたのである。  使徒はこのことを一番 明らかに次のように述べる。    あなたたちは先に自分の罪過と罪によって死んでいた者で   あって かつてはそれらの中で この世の霊に従って 空中   の権能の君主 すなわち不従順の子らの中に今も働くこの霊   の君主に従って 歩いていたのである。    また私たちもみな かつては彼らの中にいて 肉と情念の   意思を行ないつつ 肉の欲望において日を過ごしていたので   ある。そして私たちは他の人々のように本性的に怒りの子ら   であった。(エペソ書2:1-3)  不従順の子らとは不信実な者である。信実な者になる前には誰がそうでないだろうか。このゆえに すべての人間は原初から《不従順の子らの中に働いている》空中の権能の君主の下にある。原初から と私が言ったのは 自らも他の人々と同じように 《本性的に》そうであった という使徒の言葉と同じ意味である。つまり 本性的に とは罪によって堕落した限り ということであって 初めから正しく造られた限り ということではない。  しかし悪魔の権能の中に人間が引き渡されたその仕方は あたかも神がこれをなさった あるいは そうなるように命じられたかのように理解すべきではなく 神がただそれを許された しかも正当にも許された と理解しなければならない。  なぜなら 神が罪人を見棄てられることによって罪の制作者(悪魔)がそこに侵入したからである。しかも神は 創造し 活かしたまう神として また悪しき者には罪の罰である悪しきものと共に多くの善きものをも与えたまう神として 御自分の被造物に御自身を示さないまでに被造物を見棄てられたのではない。  なぜなら 神は御怒りにおいてもその憐みを抑制されなかった(詩編 76:10)からである。神は人間を悪魔の権能の中にあることを許されたときも 人間を御自身の権能の法から除去されなかった。なぜなら 悪魔でさえも全能者なるお方によるのでなければ その生命がいかなるものであれ どうして存在し得るであろうか。だから もし罪の行為が神の正しい怒りによって人間を悪魔に服せしめるたなら たしかに罪の赦しは 神の憐みに満ちた和解によって人間を悪魔から救い出したのである。    〔§ 13 [17]〕 悪魔は神の権力に拠らずその義によって克服されなければならなかった。だが全能者に優って力あるものとは何であろうか。あるいは いかなる被造物の権能が創造主の権能に較べられ得ようか。ところが 悪魔は自分の邪曲(よこしま)な悪徳によって 権力を愛すもの そして義の背棄者 また敵対者になった。かくて人間は義を無視し あまつさえ憎んで 権力を求め それを獲得することによって悦び あるいは情欲によって燃え上げられるにしたがっていよいよ悪魔を模倣するようになるのだ。  それゆえ 人間を悪魔の権能から引き抜くために 神は悪魔を権力によってではなく 義によって克服することを嘉しとされたのである。かくして キリストに倣う人間は権力によってではなく 義によって悪魔を克服しようと求めるべきである。権力は或る悪しきもののように回避されるべきであるのではなく 義を優先せしめる秩序が守られなければならない。死ぬべき者の権力はどれほどのものであり得ようか。  だから 死ぬべき者は義を保持すべきである。権力は死ぬべからざる者にこそ与えられるであろう。この力に較ぶれば地において力ある者と呼ばれる人の力がどんなに大きかろうとも 畢竟 笑止千万なほど無力なことが分かる。  悪しき人の力極まるところでこそ罪人のために墓穴が掘られるのである。されど義人は歌って言う    主よ あなたが訓練したまう人は幸いなるかな。    あなたは あなたの律法(のり)もて彼を教えたまうのです。    あなたは罪人のために墓穴が掘られるまで     その人に禍いの日に和らぎを与えたまう。     主は義が裁きに変わり 義を持つ人がみな正しい心になるまで    御民を拒絶なさらず その嗣業を見棄てたまらないからです。     (詩編 93(または 94) :12-15 )  だから 神の民の力がまだあらわれないこの時に 《主は御民を拒絶なさらず またその嗣業を見棄てたまわない》のである。今 敬虔な人々の弱さが持つ《義が審きに変わるまで》 言い換えると義が審きの権能を受け取るまで 謙虚にして弱き義はいかに大きな苦悩と不正を耐え忍ぶであろうか。審きの権能を受け取ることは力が その秩序によって先行せる義に随伴する時の終末まで 義なる人々に留保されているのである。・・・   (『三位一体論』 中沢宣夫訳 1975)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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回答No.14

こんばんは。 クリュソストモスの注釈、腰を据えて読んでみますと、なかなか一筋縄ではいかないドイツ語でした。ちゃんと訳さずに要点だけをお伝えするのは到底不可能と判断しましたので、当該部分を全部訳しています。もうすぐ終わりますが、今晩中には無理かもしれないので、一応お知らせしておきます。明日にはお送りできると思います。 では。

bragelonne
質問者

お礼

 ちょっとしたたいへんですね。  それでは わたしも 張り切って読む努力をつづけます。  ありがとうございます。  くれぐれも ご無理はなさらないように。  ご回答をありがとうございます。  こんばんはでした。

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回答No.13

すみません、先ほど出した、damitをdaßに書き換える文章では、glaubenの箇所では接続法を使わない方がよさそうです。ちょっと自信がありませんが、 Um sie nun nicht völlig zu entmutigen [・・・] , gibt er ihnen einen Mitschuldigen, und zwar einen mächtigen Mitschuldigen, daß man nicht glauben muß, sie allein trügen die Schuld. くらいになるかと思います。でも、ちょっと無理があります。いずれにしても、この場合はdamitだけを使った方がよいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。わたしから見ても daß が導く名詞節だと 動詞とのつながりがわかりづらいですね。むしろ 分からないですね。たぶん マチガイであると。  承知しました。

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回答No.12

こんにちは。補足のコメントはメールで知らされないので、気が付かずに終わるところでした。 >ひとの自由意志は その個人のものであり 個体にのみ属す。つまり 共同しておこなう行為にかんしても 参加者の一人ひとりがその自由意志において 答責性を持って おこなう。 >悪魔は 人間と同じような 自由意志の主体ではない。 >《彼ら(罪を犯した人々)が、自分たちだけが罪を負わなければいけない、と思わずに済むようにした》という見方は タトエによって説得する思いやりであって 実際に悪魔が 共犯者であるというのでもなければ 《個体なる人間としてのおのれの答責性が 薄くなったり半減したりする》ことを意味するのでもない。 >《無意識》が 脳裏にほかの思考や意志の作用から独立して独自の領域を成すとは考えませんが けっきょく社会におけるナラハシにともなったシガラミのチカラとして影響をあたえることはある。と考えます。 >その意味では やはり《クウキ》でもあると考えられます。あるいは 環境ないし社会情況としての遺伝子つまり《ミーム》ですね。このようなハタラキとして悪魔が 共犯者説において 捉えられるかと思います。 >だからと言って おれのアヤマチは 悪魔の所為だという議論は成り立たない。あるいは ムイシキによって衝動的に行動しただけだということには たぶん 成らない。 これらの点に関しては賛成です。私もどちらかと言えば、クウキを無視して自分の自由意思で物事を決める方です。問題は、それができない弱者をどうするのか、ということでしょう。確か遠藤周作は、そういう弱者のための宗教ということを考えていたのではないかと思います。しかし、意地悪くとれば、宗教(集団)は、そういう弱みに付け込んで、勢力を拡大してきたともいえます。 蛇に性的象徴の意味があることは何となく知っていましたが、こんなにいろいろあるのですか。紹介していただいたサイトは長いので、まだ全部目を通していません。いずれゆっくり読んでみます。これは、「なぜ情欲を劣情とするのか?」という御質問と少し関係するのでしょうか。あの時は、私は回答できる知識がないので見送りました。代わりに、以下のサイトを見つけましたので、リンクを張っておきます(これもまだ全部は目を通していません)。 http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/05/2259.html http://www.path.ne.jp/~millnm/pleasure.html http://ameblo.jp/praise-the-lord/entry-11566878169.html 聖書には「詩篇」というのもありますしね。あと、だいぶ前ですが、アダミズムという、禁断の果実を食べる前のアダムとイブの世界へ帰るために、性的自由交渉を奨励する新興宗教みたいなものがあると聞いたことがあったのですが、今回調べてみたらそのような情報は見つかりませんでした(ヌーディズムとは関係ないようです)。そのかわり、プリ・アダミズムというのがかなり古い時代からあるらしいということがわかりました。ウィキの英語版に少し解説があります。私は英語が苦手なのでお任せします。 http://en.wikipedia.org/wiki/Pre-Adamite >▼ damit man nicht glaube >☆ 単純に  damit daß man nicht glaube とおぎなうと分かりやすいのですが それでは ダメですか? damitの用法に慣れていらっしゃらないようですね。damitがあればdaßは不要です。あるいはdamitのかわりにdaßを使うということもできますが、この原文の語順では無理でしょう。使うなら、現代風に書き換えた文の方でです。 Um sie nun nicht völlig zu entmutigen [・・・] , gibt er ihnen einen Mitschuldigen, und zwar einen mächtigen Mitschuldigen, daß man nicht glaube, sie allein trügen die Schuld. なお、この前の説明で、glaubeやtrügenの形が、間接話法によるものと説明してしまいましたが、少し不適切だったようです。ここはむしろ直接話法の個所ですが、白水社の「ドイツ語不変化詞辞典」によると、従属の接続詞damitで導かれる目的文中の定動詞は、古い時代には接続法が好んで用いられた、とあり、こちらの説明の方が正しいと思いますので、訂正させていただきます。かえって混乱させてしまって申し訳ありません。現代のドイツ語では、damitの文で接続法は使わないので気が付きませんでした。 昨日、書店でたまたま「一神教の起源」という本を見つけました。以前、オーストリアの友人にこのことをたずねて、アメンホテプ4世の名前が出てきたのですが、厳密な意味での一神教ではないという説明があったので、気になっていました。そして、私も多くの人のように、一神教は排他的であるようなイメージをなんとなく持っていたのですが、見方によっては、多神教の方が排他的と言えるような事件もあったというので、この先どんなことが書いてあるのか興味をそそられます。もしそういうことであれば、宗教の国連も、一神教、多神教、すべての人が集まるべきでしょう。聖書のなかにも、多神教的な要素が残っているところもあるというのですが、どの辺なんでしょうね。 今回は、短いコメントにしてください。でないと、クリュソストモスにとりかかれません(笑)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ クウキを無視して自分の自由意思で物事を決める〔こと〕・・・問題は、それができない弱者をどうするのか、ということでしょう。確か遠藤周作は、そういう弱者のための宗教ということを考えていたのではないかと思います。しかし、意地悪くとれば、宗教(集団)は、そういう弱みに付け込んで、勢力を拡大してきたともいえます。  ☆ 遠藤は 自分がよいと考えることをいくつか日本式に実施に移していたと思います。病院での終末期医療だとか。  また小説をつうじて思想としても 問題提起をしているけれども いまひとつそれが浸透して行かないような。あるいは 浸透して行っているようでいて 全体としての大いなるクウキをかえって強めるために利用されているような。(感想です。ありましたら もっと ツッコミをどうぞ)。  ★ 蛇に性的象徴の意味があることは何となく・・・  ☆ リンクの読みは あと回しになります。  アウグスティヌスに   ○ De bono coniugali:結婚の善  という著書があります。これによっても 情欲を目の敵にしているわけではないと知られると思います。  ★ アダミズム // プレ・アダミズム  ☆ 知りまでせんでしたが 聖書は タトエによる表現が ほとんどだと思います。  ですから アダムとエワなら 最初のヒトの一群れとして捉えてもよいはずです。  それより以前に ヒトがいたのなら その人たちのことを アダムとエワの話は言っていると採ることも出来ます。柔軟なはずですが。  ★ damit があれば daß は不要です。  ☆ なのですね。da が それだけで名詞節をみちびくことが出来るということなのですね。そう捉えました。  ★ 現代のドイツ語では、damitの文で接続法は使わない  ☆ これは 意外な感じです。確か スペイン語は しっかり使うと思ったものですから。(わたしは 広く浅くですから ぷらぽた氏にも入ってもらったほうがよいかも分かりません)。  ★ 「一神教の起源」  ☆ 確か 山我哲雄だったでしょうか。一神教をいろんなタイプに分けていましたよね。  ヤハヱ―のほかに神がいくつかあってもよい。異民族はそれぞれの神を持っている。ただし ユダヤ人は ヤハヱーのみとしなさいというかたちだと。  ★ 多神教  ☆ は その八百万の神々をひとつにまとめて 民族のひとつのパンテオンとすれば 対外的には一神教のかたちを採るはずです。  日本教という一神教に成り得ます。その中にシントウ支部・ブディズム支部・クリスチアニズム支部・マルクシズム支部・・・があり 総合されています。  

bragelonne
質問者

補足

 リンク関係について書き込みます。  ▽ 魔術から近代科学へ10 西洋人の禁欲主義の源流(ゲルマンの性闘争による秩序崩壊の危機意識とキリスト教の禁欲観念)  ☆ これを読んで エロスの問題から離れてみます。  ○ アダムとエワの物語  ☆ について ヘビ≒悪魔≒情欲という等式をきらって 次のように解いたことがあります。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま素直に表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。  そういう意味でも 表現は自由なのだ。  このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由に及ぶこととなった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という解釈です。エデンの園を出て行くのは 初めから織り込み済みであった。それは・つまり楽園追放は 自由意志についての自覚を意味するに過ぎないのだと。  ★ 聖書には「詩篇」というのもありますしね。  ☆ ここは その心は? とお尋ねします。へび≒エロスとは別の種類の文章があるという意味でしょうか?  プリ‐アダミズムにつきましては はぶきました。前回の応答のとおりです。

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回答No.11

コメント拝見しました。回答がこの御質問から離れてしまうので、まず宗教の国連について、あまり重要でないことですが書きます。 戦争の原因は複合的で、宗教だけではないのはもちろんですが、最近、イスラムの問題が多く、「イスラム原理主義」という言葉が独り歩きしている感があります。そのせいか、戦争と言えば、まず原因は宗教、という風潮が少し感じられますね。宗教の国連ができて、少しでも宗教間の紛争解決に役に立つならば、それに越したことはないでしょうけれど、ほかの問題を取り扱う機関と連携しないと、結局は「私たち宗教者も努力しています」というだけのものになってしまうでしょうね。 さて、クリュソストモスです。 >(1) >▼ "Auch euch", sagt er, "die ihr tot waret durch eure Übertretungen und Sünden, in denen ・・・ >☆ この  die が 分かりません。  daß とすると 意味が取れるように思うのですが。 はいはい、ここは非常にわかりづらいと思います。先にdieから御説明しますと、関係代名詞で、その直前のeuchを受けます。そのあとでもう一度ihrが出てきますので、euch=die=ihrです。古いドイツ語や詩などでこういう語法があると思います。それと、なぜこの冒頭でeuchと4格になっているかもわかりづらいと思います。私も最初わからず、ほかの解釈をネットで見つけてやっとわかりました。直訳調になっているようですが、Auch euch, die ihr tot waretで文が一度中断されており、思考は、第5詩節へつながるそうです。御覧いただいているRTFファイルの26ページ目の途中、 V.5: "und obwohl wir tot waren durch Übertretungen, hat er uns mitbelebt in Christus" そして、我々が掟を犯すことによって死んでいたにもかかわらず、神(er)は我々をキリストの中にともによみがえらせたのだ。 とありますが、ここで「我々をよみがえらせた」のと同様に、「お前たち(euch)もまたよみがえらせたのだ」ということが先に冒頭に置かれています。「Auch euch hat er (=Got) mitbelebt in Christus」ということです。つまり「死んでいたお前たちもだが・・・」と話を始めて、そのあとに長々と「お前たち」の犯した罪について語られたあと、「私たちもよみがえさせられたのだ」とおさまるわけです。これだとわかりにくいからでしょう、バルバロ訳では、冒頭の「Auch euch」を、第5詩行の後に「――あなたたちの救われたのは恩寵による――」という形で付け加えられています。私は、ギリシャ語、ラテン語は全然わかりませんが、字面だけ見る限り、ギリシャ語、ラテン語の方が、第1詩行と第5詩行の対応が分かりやすいようです。 http://ns1.yamachiyo.com:8080/hinocrst/view/parts/img/Greek_bible/epeso/eph2.pdf http://www.latinvulgate.com/lv/verse.aspx?t=1&b=10&c=2 >(2) >▼ Um sie nun nicht völlig zu entmutigen [・・・] , gibt er ihnen, damit man nicht glaube, sie allein trügen die Schuld, einen Mitschuldigen, und zwar einen mächtigen Mitschuldigen. Und wer ist dieser? Der Teufel. >☆ 悪魔のことをみちびこうというのだと思いますが: >(2-1) >▼ damit man nicht glaube >☆ mit と glauben とのつながりが分かりづらいです。 da は あとに来ている sie allein trügen die Schuld なる節を承けますか? それにしても意味が取りづらいです。 まず、間接話法を充分把握されていないようです。damitは一語で、「~するために」という意味の接続詞です。その少し前に、「Er hatte nämlich gesagt:」とあり、そこからあとは間接話法で書かれています。glaubeも直接話法ならglaubtとなる場所です。それから、文の途中に挿入句があるのでわかりにくいと思います。現代のドイツ語なら、下のように書くのが普通だと思います。 Um sie nun nicht völlig zu entmutigen [・・・] , gibt er ihnen einen Mitschuldigen, und zwar einen mächtigen Mitschuldigen, damit man nicht glaube, sie allein trügen die Schuld. Und wer ist dieser? Der Teufel. つまり、 彼ら(罪を犯した人々)を、(後で自分たちの罪に気付かされた時に)完全に落胆させないために、神は彼らに一人の同罪者(共犯者)―強力な同罪者―を与え、それによって彼らが、自分たちだけが罪を負わなければいけない、と思わずに済むようにした。で、この同罪者とはだれか?悪魔だ。 という意味になります。 >(2-2) >▼ sie allein trügen die Schuld >☆ これも分かりづらいです。責任がないと言う でしょうか? 上の訳でお分かりと思いますが、「責任がない」ではなく、逆に「責任を負う」の意味です。たぶん、「欺く」という意味のtrügenと取り違えていらっしゃるのだとおみます。先ほどお話ししたように、ここは間接話法になっているので、tragen(運ぶ、責任などを負う)という動詞の接続法IIの語形です。tragenの過去形がtrug、主語が複数なのでtrügenになります。 >あるいは たすてんかすてんさんが これこれが主張であり論点でありキモでありミソであるといった事柄を取り出しておしえていただけますか? 前回この資料を御紹介した時点で、私自身ちゃんと読んでいませんでした。結構入り組んでいる文のようなので、主張や論点を抜き出すにしても、一度腰を据えて熟読する必要がありそうです。全部訳してみたほうがよいかもしれません。もうしばらく締め切らずにおいていただけますか? >遠藤周作ないし悪人正機の説または親鸞については 今後お話が煮詰まったところでやり取りをすることにしましょうか。 私は、ちょっとこのことを思い出したので、bragelonneさんに教えていただこうと思っただけです。「沈黙」を読んだのははるか昔のことで、親鸞についてはよく知りません。景教(ネストリウス派)と親鸞の関係を指摘する説もあるらしいですが、学説としてはどうなんでしょうか。あまり認められてはいないんでしょうか。単なる好奇心でお話ししただけで、特に見解は持っておりませんし、議論の能力も残念ながらありません。 今日はここまでとします。御参考になれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 《宗教の国連》は  ★ ・・・ほかの問題を取り扱う機関と連携しないと、結局は「私たち宗教者も努力しています」というだけのものになってしまうでしょうね。  ☆ でしょうね。もっといぢわるく言えば 責任逃れのアリバイ作りをおこなっているだけだという見方になってしまいます。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ドイツ語。完全にチャランポランでした。  tragen と trügen 。これは 読み慣れていないことを露呈しています。それにしても Schuld から思い浮かべてもよいではないか。このすっとこどっこい! といったところですね。  damit は それに出会う経験が欠けていたのだと思います。でも そんなことがあり得るか? なのですが。  ★ euch =die = ihr です。  ☆ これは まったくお手上げでした。でも それにしても 文章の中の一文づつの位置づけとそれらの関係構造は たくみに作られているようなのですね。分かってみると かえって工夫をこらした表現の仕組みだと見られて来ますね。ううーん。  ★ 景教(ネストリウス派)と親鸞の関係を指摘する説もあるらしいですが、学説としてはどうなんでしょうか。  ☆ これは 残念ながらわたしはまだ手をつけていません。  空海との関係については 質問があって それは 大きな誤解から来ているという回答でした。   【Q:空海と景教の関係】その BA 。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8697822.html    ▼ (ヰキぺ:ネストリウス派) ~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE  § 3 歴史  § 3.3 日本への伝播に関する諸説  浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、景教の聖書の一部(マタイによる福音書の「山上の垂訓」を中心とした部分)の漢訳である『世尊布施論』が所蔵されており、この事実を以て、親鸞が景教に学んだとする説を唱える者もいる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この点につきましては 何とも分かりません。  問題は ですが もし影響を受けていたとして それがどのように現われているか? だと思います。  基本的に見て 親鸞は 独自の思索と経験とで 《信仰》一般論にたどりついたものと考えます。単純に言って そう感じさせます。  (あるいは もともと独自の信仰を持っていて その内容がさまざまな経験をとおして明らかになって行った。それが 親鸞の信仰論である。と言うべきだと思われます)。  お茶を濁しましたが。  独文のあざやかな解説をありがとうございます。お待ちしています。

bragelonne
質問者

補足

 お早うございます。  《悪魔=共犯者》説について 考えます。  その前にドイツ語について一件お願いします。  ▼ damit man nicht glaube  ☆ 単純に  damit daß man nicht glaube とおぎなうと分かりやすいのですが それでは ダメですか?  さて  ▼★ 彼ら(罪を犯した人々)を、(後で自分たちの罪に気付かされた時に)完全に落胆させないために、神は彼らに一人の同罪者(共犯者)―強力な同罪者―を与え、それによって彼らが、自分たちだけが罪を負わなければいけない、と思わずに済むようにした。で、この同罪者とはだれか? 悪魔だ。  ☆ この一つの議論についてです。    1. 基本的に言えば ひとの自由意志は その個人のものであり 個体にのみ属す。つまり 共同しておこなう行為にかんしても 参加者の一人ひとりがその自由意志において 答責性を持って おこなう。  2. 同じく基本的に見て 《悪魔》は 文学的脚色である。実在ではない。すなわち 《すべてを否定する精神》として あるいは《神のごとくいかなる者の下には立つまいと堅く心と腹を決めた存在の像》としてある。  3. したがって 悪魔は 人間と同じような 自由意志の主体ではない。  4. 《彼ら(罪を犯した人々)が、自分たちだけが罪を負わなければいけない、と思わずに済むようにした》という見方は タトエによって説得する思いやりであって 実際に悪魔が 共犯者であるというのでもなければ 《個体なる人間としてのおのれの答責性が 薄くなったり半減したりする》ことを意味するのでもない。と考えます。  5. 責任は 自由意志の自由性に つねにその行為のつど ともなわれている。と考えられる。なぜそう考え振る舞ったか? という問いに対して つねに答弁を成す義務を負う。これは 社会的な動物であることから・または 人間にとっては《関係の絶対性》という公理から・あるいはまた 単純に共生性において互いにそのように存在していると考えられることから 帰結します。  6. とは言え たとえばユングは 集合的無意識なる概念を打ち出しました。《無意識》が 脳裏にほかの思考や意志の作用から独立して独自の領域を成すとは考えませんが けっきょく社会におけるナラハシにともなったシガラミのチカラとして影響をあたえることはある。と考えます。  7. その意味では やはり《クウキ》でもあると考えられます。あるいは 環境ないし社会情況としての遺伝子つまり《ミーム》ですね。このようなハタラキとして悪魔が 共犯者説において 捉えられるかと思います。  8. だからと言って おれのアヤマチは 悪魔の所為だという議論は成り立たない。あるいは ムイシキによって衝動的に行動しただけだということには たぶん 成らない。貧困などの家庭環境ゆえに わたくしは 犯罪に走りましたという議論も 同情をさそうことはあっても 責任論を変更するには到らない。  さしづめ このように考えます。  《へび≒悪魔》論を No.10の補足欄に書き込みます。

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回答No.10

こんばんは。 >クシュソストモスの見解について はっきりとは分からないままになりますが。 ドイツ語の問題ですか。もう一度回答させていただいて、また4000字のコメントをお書きになれますが(笑)。 クシュソストモスの見解以外のものについては、私も「クウキ」に近いと思って読みました。アウグスティヌスの件につては、ちょっと難解でしたけれど、何とか分かったつもりです。 >《神はその恩恵(または愛)によって わたしたちの――意志自由にもとづく行為としての――悪ないし罪をもほろぼしている》 これでちょっと思い出したのですが、昔、遠藤周作の著作について、「遠藤のやっていることは、あれは浄土真宗じゃないのか」という批評があったと聞きました。遠藤周作自身が何と答えていたか忘れたのですが、アウグスティヌスが、「意志自由にもとづく行為としての悪ないし罪」ということを言っているとするならば、親鸞の悪人正機では、「衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば善悪の判断すらできない、根源的な悪人」となっているので、やはり似て非なるものなんでしょうね。 ドイツ語でお手伝いすることがなければ、これで最終回答にします。長々としゃべらせていただいてありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  確かにすっきりしない感じがあります。クリュソストモスです。  まづドイツ語の問題としておしえを乞おうとして書き始めました。  次のようです。  (1)  ▼ "Auch euch", sagt er, "die ihr tot waret durch eure Übertretungen und Sünden, in denen ・・・  ☆ この  die が 分かりません。  daß とすると 意味が取れるように思うのですが。  (2)  ▼ Um sie nun nicht völlig zu entmutigen [・・・] , gibt er ihnen, damit man nicht glaube, sie allein trügen die Schuld, einen Mitschuldigen, und zwar einen mächtigen Mitschuldigen. Und wer ist dieser? Der Teufel.  ☆ 悪魔のことをみちびこうというのだと思いますが:   (2-1)  ▼ damit man nicht glaube  ☆ mit と glauben とのつながりが分かりづらいです。 da は あとに来ている sie allein trügen die Schuld なる節を承けますか? それにしても意味が取りづらいです。  (2-2)  ▼ sie allein trügen die Schuld  ☆ これも分かりづらいです。責任がないと言う でしょうか?  ・・・  というふうに分からないところが出て来るのですが たぶん問題は クリュソストモスが 何を言いたいかがはっきりと把握し得ていない ようです。わたしは  パウロの議論の仕方の中に見られるその信仰にもとづく――観想として受け留められるような――《人びとの罪についての見解》をたたえているように見られるところもあると思います。それが mild であると言っていたように思います。  極端に言えば そのあとどうそれが効いてくるのか? といった問いがまだ残っているような感じを持ちます。いえ うまく言えていません。全体として どこに焦点があって 議論はどこへ行こうとしているのか? これが読み取れないのだと思います。  あるいは たすてんかすてんさんが これこれが主張であり論点でありキモでありミソであるといった事柄を取り出しておしえていただけますか?  と考えるのですが どうでしょう。  遠藤周作ないし悪人正機の説または親鸞については 今後お話が煮詰まったところでやり取りをすることにしましょうか。  ただしさらにご見解を明らかにしたいということでしたら ここにて書き込みをなさってください。  わたしの側から簡単に応答をしますなら 親鸞は アウグスティヌスと同じように・そしてアウグスティヌスの師匠のパウロと同じように 《恩恵の絶対》を立てると思います。《絶対他力》ですね。  そのあと・恩恵のもとに 自由意志によって人はその能力を開き努力して欲するところのものを実現させようとすると思います。  その心は 恩恵が人間の――有限であやまちうる――自由意志をかえって建てる。  欲するままに生きることが真実となろう。という大胆を超えて行き過ぎでマチガイだと容易に批判を受けるような命題をアウグスティヌスは 煮詰めた議論として推し出しています。  恩恵または絶対他力は ひとの自由意志を活かすためにある。と。

bragelonne
質問者

補足

 ◆ 《へび≒悪魔》論の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。(タトエが 実在説に成り替わってしまうこと)。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 一方では《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その人間の死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 他方では悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。とも言う。そしてあたかも《光の天使をよそおって》しかも 自分の冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間がむしろ従順になって自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  イエスが ハリツケになることによって アダムらの原罪と人びとの罪をあがなったという伝説です。死を死ぬことによって 人間を悪魔から買い戻した。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   (* エワやアダムをそそのかしたお前は)   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 さらなるつづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、  人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして〔狡猾なヘビが象徴する〕理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツハリがない。中身としての現象にウソはない。  理性は みづからはあやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。  こういう説明をあたえよと要請するのは 感性である。感性のことを弁明せよと感性が言っている。  意志は これらよき感性にもとづき 理性のすなおな部分と全体としての罠を突き抜けて よき心の境地を現実において目指す。  ヘビは死んだ。そのよき部分をのこしてであろうか どうであろうか。

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回答No.9

>☆ これは 二十世紀という問題ではないでしょうか? 昨今のグローバル化とは少し違うような。 いえ、現在進行中の問題です。20世紀の方がまだましでした。残念ながら・・・ >★ 「空中の権能」 >☆ の件につきましては たすてんかすてんさんご自身が これはおもしろい見方考え方であるといった箇所がありましたら ここだよとおしえてくださると助かります。その箇所を何とか見てみたいと思います。 とりあえず、訳さなくてもいいということですね。ではリンクだけ。先に、ドイツ人の解釈ではなく、金口イオアン(きんこうイオアン)という4世紀の神学者、コンスタンディヌーポリ大主教の注釈のドイツ語訳です。まず、著者についてはこちらを御参照下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%A3%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%A2%E3%83%B3 この教父の注釈のリンクをこの下に張りますが、RTFファイルなので、保存してください。全体はかなり長いですが、「空中の権能」については、24ページの下から始まります。冒頭に、肉体の死は自然なもので、自由意思にかかわるものではないので罪はないが、精神の死は、自由意志から出ることなので罪になる、とあります。「空中の権能」の説明としては、「Das will besagen, daß der Teufel den Raum unter dem Himmel beherrscht; und die Luftgeister sind die unkörperlichen Wesen, durch welche er wirkt. Daß seine Herrschaft nur eine zeitliche ist, das heißt zugleich mit der gegenwärtigen Zeit aufhört…」とあり、その支配は一時的なもの、と言っているようです。 https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=9&ved=0CF8QFjAI&url=https%3A%2F%2Fwww.unifr.ch%2Fbkv%2Frtf%2Fbkv206.rtf&ei=f58NVImYF9Xj8AXz7oHQBQ&usg=AFQjCNFBrIa5ZieAhU5WEh7KO31mv55o2A もう一件の方は、ドイツの現代の神父の説教のようです。17歳の少女の例を挙げて、「クウキ」に当たる部分を、「die Schmutz-Atmosphäre(汚れた大気、雰囲気)」「Mode(流行)」「Die Mode ist eine Diktatur(流行は独裁である)」というような表現を使って話を進めています。 http://dekantlach.wordpress.com/2013/11/20/predigt-zum-11-sonntag-nach-trinitatis-epheser-21-10/ 他にこういうものもありました。短いので、リンクではなく、直接引用します。 2:2 — Wieso ist der Geist der Welt mit Luft vergleichbar und worin besteht seine Gewalt? Der „Geist der Welt“, das heißt der Geist der Unabhängigkeit und des Ungehorsams, ist so allgegenwärtig wie die Luft, die wir einatmen (1. Kor. 2:12). Seine Gewalt oder Macht besteht in seinem unerbittlichen, hartnäckigen Einfluss. ↓ (1. Kor. 2:12) Nun haben wir nicht den Geist der Welt empfangen, sondern den Geist, der von Gott ist, damit wir die Dinge erkennen könnten, die uns Gott gütigerweise gegeben hat. 訳しながらじっくり読むつもりだったので、私もまだななめ読みしただけです。それぞれについて、納得がいくかいかないかの判断には至っていません。参考資料としてお役にたてば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 ▼ (コリント後書 11:14-15) ~~~~~~~~~~  14: だが、驚くには当たりません。    サタンでさえ光の天使を装うのです。  15: だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この句を思い出しました。  たすてんかすてんさん こんばんは。おしえてくださってありがとうございます。  ちらっと読んで 上のパウロの文句を思い浮かべました。  これからゆっくり読みます。補足欄にてお応えします。  クリュソストモスが 《金口イオアン(きんこうイオアン)》と呼ばれているとは 知りませんでした。いろいろありますね。

bragelonne
質問者

補足

 クシュソストモスの見解について はっきりとは分からないままになりますが。  こんばんは。  まづ アウグスティヌスと同時代人のようです。  ▼ アウレリウス・アウグスティヌス( Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)  ▼ 金口イオアン(きんこうイオアン、 Ἰωάννης ὁ Χρυσόστομος、344年または349年 - 407年9月14日)  次の主題で 両者は 同じ見解だったようです。  ▼ (ヰキぺ:聖霊派) ~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%9C%8A%E6%B4%BE  § 1 歴史  キリストの昇天後、ペンテコステの日にキリスト教会が誕生した。初代教会においては、異言、預言、病のいやし、死人が生き返ること、悪霊追い出しがあった。  アウグスティヌスは、使徒時代の終焉と聖書正典の完結により、これら聖霊の賜物が無くなったと教え、ヨハネス・クリュソストモスもこれに同意した。  宗教改革者のルターやジャン・カルヴァンもこの「カリスマタ中止理論」「終焉説」を受け入れた。  宗教改革者らが終焉説を受け入れた大きな二つの理由に、宗教改革者が誤りと考えたカトリック教理を承認させるため、ローマ・カトリック教会がその証拠としてローマ・カトリックで起こったとされる奇跡を持ち出したことと、宗教改革者らに実際に奇跡の経験がなかったことがあると考えられている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは 洗礼者ヨハネで 預言者は終わったと言われる時代の区分とかかわっているように思います。  あるいはまた エレミヤ書(31:31以降)におけるあたらしい契約ともつながっているものと考えます。  それまでの人びとの侵したあやまちについて神はもう覚えない。すべて忘れるということ。  そして 神について 人びとに知れと言っておしえることは無くなる。オシエは 要らないということ。    さて クリュソストモスによるエペソ書講解についてです。  ★ 冒頭に、肉体の死は自然なもので、自由意思にかかわるものではないので罪はないが、精神の死は、自由意志から出ることなので罪になる、とあります。  ☆ ここで 出しゃばりますが 質問者の神の定義および信仰の位置づけを述べます。というのは 《精神》という場合には 人間の理性や思考にかんする精神と そして《霊》という意味でのそれがあると思われるからです。前者は 経験存在のもので 後者は 非経験の場にかかわるものと見ています。  ○ 《非知》が 神である。 ~~~~~~~   経験事象     可知      既知      未知     不可知(知り得ないと知った)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)    ○ 《非知=非経験の場=神》は 《非思考の庭》にて受け容れられる。    霊:信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ・直観:信仰    --------------------    精神:考える:《思考の緑野》:田園および都市:シュウキョウ    知覚:感じる:《感性の原野》:直感  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《自由意志》は 大きく《精神》のひとつのハタラキです。  《精神と感性 または 心と身》 これが ヒトの自然本性( die Natur )です。  《考える》を超えて 《非知》なるナゾを受け留め受け容れるのは わが心なる《非思考の庭》だと捉えます。動態です。ナゾは 非経験の場であり これを受け容れるというのは 経験的な意志行為です。そういうふうにして 非思考の庭が成ります。  知覚ないし身の生理的な要請そのものに罪はない――または ヤマシサ反応にさからって或る種の仕方で言って罪を侵したとしても 容易にゆるされる。ということ  これをアウグスティヌスは こう書いています  ▲ (ユリアヌス駁論 1・5〔情欲論〕) ~~~   かの全能者は    最初の人(アダムとエワ)からであれ    その後に加えられたわたしたちの意志からであれ    わたしたちに起こっている悪を   その満ちあふれる恩恵によって   滅ぼしている。   ( cf. エペソ書 2:1-10)  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ▼ (クリュソストモス:エペソ書講解) ~~~~  ( Vers 1 ) ・・・Es gibt ein leibliches Totsein und es gibt auch ein geistiges. Jenem zu verfallen, ist weder strafbar noch gefährlich; denn es liegt in der Natur begründet und hängt nicht vom freien Willen ab. Es stammt nämlich zwar von der Übertretung des ersten Menschen her, hat sich aber in der Folge zu einer Naturnotwendigkeit gestaltet und wird ohnehin schnell wieder aufgehoben.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと 《精神にかんするアヤマチ》は 自由意志によるから 捨て去りえない( wird nicht aufgehoben )と言っているようです。  わたしは 率直に言って アウグスティヌスの言うように《神はその恩恵(または愛)によって わたしたちの――意志自由にもとづく行為としての――悪ないし罪をもほろぼしている》と見ます。なぜなら 精神と言っても 人間の精神は 経験的で時間的で相対的なものだと見るからです。  ▼ und die Luftgeister sind die unkörperlichen Wesen, durch welche er wirkt. Daß seine Herrschaft nur eine zeitliche ist, das heißt zugleich mit der gegenwärtigen Zeit aufhört,  《空中の権能》の説明として 最後に挙げていただいた次のものがよいように思います。  ▽ ~~~~~~~~~~~~~  2:2 — Wieso ist der Geist der Welt mit Luft vergleichbar und worin besteht seine Gewalt?   Der „Geist der Welt“, das heißt der Geist der Unabhängigkeit und des Ungehorsams, ist so allgegenwärtig wie die Luft, die wir einatmen (1. Kor. 2:12). Seine Gewalt oder Macht besteht in seinem unerbittlichen, hartnäckigen Einfluss.  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《何事をも否定する精神》という呼び名があるように 《あたかも独立して何ものの下にも立つまいと心に決めた存在》として 《空中の権能》がある。これをしもわれわれは あたかも空気のごとくどこにいても吸い込まねばならないかのごとく 接しつつ 受け留めている。世の中ないし世間というものは この権能のチカラがはびこって影響をあたえる場である。  すなわち空中の権能が あたかも《クウキ》のようだという見方について もう一件の説明事例を取り上げてもらっています。  △★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ドイツの現代の神父の説教のようです。17歳の少女の例を挙げて、     「クウキ」に当たる部分を、   「die Schmutz-Atmosphäre(汚れた大気、雰囲気)」   「Mode(流行)」   「Die Mode ist eine Diktatur(流行は独裁である)」  というような表現を使って話を進めています。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これだと 《クウキ》により一層近いものだと思われます。  △ ~~~~~~~~~~~  Mode ist eine Diktatur, die der unsichtbare Geist in der “Luft”, in der Atmosphäre vorschreibt.  Das ist die Schmutz-Atmosphäre heute, das ist Mode: eine Diktatur!  Es gibt also nicht nur politische Diktaturen; es gibt auch in der Demokratie unsichtbare Diktaturen, die die Mode diktieren. Die Atmosphäre ist dann bestimmend. Das meint Paulus mit der “Luft”, in der dieser Geist ist.  ~~~~~~~~~  4000字のようです。

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noname#221368
noname#221368
回答No.8

 #4です。 >しかし 国連の機関として出されたクマラスワミ報告は 何とずさんなものでしょう。 についてだけ。  国連が中立機関でない事の証左ですが、ついこの間まで、日本政府も日本の大新聞社も公式にはクマラスワミ報告と、そう変わらない事(他国にしてみれば)を言っていたので、仕方ないと言えば仕方ないようにも思えます。その大新聞の名前が旭日新聞であったのは、余りにも皮肉ですが。   ※こう言ったからといって、旧日本軍の全ての行動を是とすると思われては困る。反動は危険だ。  自分は少しミーハーでして、じつは次のような「ちょっと穿ち過ぎでは?」と思える記事に注目しました。  カミオカンデの小柴が2002年にノーベル物理学賞を受賞してからたった2年後に、南部博士の系譜を受け継ぐ小林・益川が同賞をダブル受賞した。それは何故か?。  もちろん三人の業績が飛びぬけていて、賞に値するのは確かです。カミオカンデの小柴さんは世界初の観測結果だからしょうがないとしても、小林さんと益川さんの業績は群は抜いてはいるが、非常に地味なんですよ。30数年前の南部博士のプログラム路線内にある。もしノーベル賞で取り上げられなかったら、一般人は知る由もなかっただろう。そして南部の弟子たちは、世界中にごまんといたんです。それくらい南部の考えは、物理業界では普遍的なものになっていた。  そこで何故、日本人なのか?。ノーベル平和賞ならいざ知らず、浮世と関係ない物理学賞に政治的圧力が働く訳がない。小林さんと益川さんは、世界中にいる南部の弟子たちとの僅差レースを制したのだと、自分も信じたい。  しかし当時アメリカは、リーマンショックだった。ヨーロッパはその煽りで、やはり不況だった。日本だけがなんとか少々持ちこたえていた。  世界の素粒子研究の3大中心は、アメリカとヨーロッパ、そして実は日本なんです。これは本当の事です。当時は「神の粒子」と呼ばれる「ヒッグス粒子」を実証するために、次世代巨大粒子加速器の計画が出ていましたが、巨大粒子加速器の建設には膨大な金がかかる。  そうなるとリーマンショックの震源地であるアメリカは当面、巨大粒子加速器計画からは脱落する。ヨーロッパでは既にCERNを凌ぐLHC計画がありましたが、不況ではEUが何と言うかわからない。そこで白羽の矢が立ったのが、日本だというのです。  カミオカンデのような巨大施設を作った日本には、まだ余力があるようだから、素粒子研究の継続性を切らないためには、日本人にノーベル物理学賞をやれば良いんじゃないの?、・・・と(^^;)。小柴さんも南部の系譜だし、・・・(^^;)。  実際に、小林・益川のダブルクラウン後に日本の某田舎で、超巨大粒子加速器の誘致が立案されたし、南部さんって本当はアメリカ人なんですよね。また小柴後に日本人がノーベル物理学賞を貰ったって、誰も文句は言えない状態だった。そしてノーベル賞の最高の賞は、ノーベル平和賞です。物理学賞くらい、日本にやっとけ。何故なら。   ほら、日本人にノーベル賞をやっとけば、全部丸く収まるじゃないか!。  結局、幸か不幸かヒッグス粒子はLHCで発見されました。まぁ~技術移転の問題も考えると、日本の某田舎でヒッグス粒子は発見できなかったでしょうけど。あれはCERNで培った技術の賜物だと思います。だからEUがそういう技術を、おいそれと技術移転する訳もない。LHCでヒッグス粒子がみつかったのは、ある意味で当然です。  しかしノーベル賞選考委員会が、そこまで考えていたなら?。  とんでもない深慮遠謀ですよね?。自分は本気で、そうは思っていませんが、事実は小説よりも奇なりでもあります(^^:)。

bragelonne
質問者

お礼

 いや。当時 そのうわさは流れていましたよ。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  あるいは アベノミックスの導入あたりで とにかく円安へと振り子が振れるようになった。これも 円高で青息吐息の日本を死なせるわけには行かないと思ったのか 欧米あたりは 舵を切ることにした。というような。  CERN だとか LHC だとかは分かりませんが 金を出させるにせよ何にせよ 日本に何かをやらせるときに ノーベル賞受賞ならそれとして 花をもたせてやるといった手口ですね。  今回の東京オリンピックは どうなのでしょうか。そう言えば あまり気に懸けていませんでしたが。  ★ 小林さんと益川さんは、世界中にいる南部の弟子たちとの僅差レースを制したのだと、自分も信じたい。  ☆ ん? ええ? その程度なんですか? 誰れも考えなかった発想であった。のではないのですかぁ。  世の中 分っかんないもんですね。

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回答No.7

こんにちは。 辛味のコメント有難うございます。こちらの方への回答は、No.6で終わりにするつもりだったのですけれど、ちょっと気になったので、補足します。 私自身も、サイードの著作を読んだわけではなく、バレンボイムとの関連で名前を知っているだけです。対話集も、書店で気にはなったものの、まだ購入もしていないので、 >そりゃあそうだが あんたがそんなことを声高に言ったとして その結果なにを求めているのか? どこへ向かおうとしているのか? という点については何もお答えすることはできません。ただ、思想的には結構多くの人に影響は与えたようです。サイードが死んだ時の、多くの人による賛辞が、英語版のウィキにもありました。日本語版にも、 彼の死を知ったイスラエル人の歴史家イラン・パペは、「私のようなイスラエルのユダヤ人にとってサイードは、シオニズム国家で成長するということの闇と混乱のなかから私たちを連れ出し、理性と倫理、そして良心の岸辺へと導いてくれる灯台であった。」と追悼した。 とあるので、その思想がどんなものだったか、いずれ折をみて調べてみたいとは思っています。 そのあとの、アイデンティティーについて以下の部分についてbragelonneさんのおっしゃっていることは、それ自体は正論であると思うのですが、日本国内から外の問題として見ているのと、現地で身近に感じる状況とは、少し違ったものになるような気がします。実は、私がヨーロッパへ行ったのは、ちょうど社会主義が崩壊し、東西ドイツが統一した直後です。間もなく湾岸戦争も起きました。まだ語学がだめだったころなので、状況は把握できていなかったのですが、それから少しして、アイデンティティー、という言葉が出てきました。私の師が、「最近皆アイデンティティー、アイデンティティーというが、なんでかわからん」と言っていたのをよく覚えています。やはりそういう空気はあったのでしょう。 >それにこの場合のアイデンティティーは個人のではなく 社会集団としてのなのでしょうから。 その通りなのですが、社会集団としてのアイデンティティーの方が力があります。個人のアイデンティティーは、時として、社会集団のアイデンティティーに飲み込まれてしまいます。そういえば、ちょっと話がずれますが、別の方の御質問で話題になった、「個人主義のドイツ人がなぜファシズムになだれ込んだか」という件、この時代のドイツ人のアイデンティティーの根底には、ロマン主義があったといわれますね。戦後のドイツでは、それに対する反省から、芸術の分野でも、ロマン的なものを徹底的に排除しようという態度があったと思います。その結果、あまりにも理知的で、面白くないものになった。いずれにしても、行き過ぎはよくないということですね。 >グローバル化しつつも なおそれぞれの国では その伝統をつづけている側面を持つ場合もあります。 この点に関して、また自分の専門分野の話になってしまって申し訳ないのですが、音楽家としては結構危機感を持っています。世界中の若い作曲家が全く同じような曲を書いており、作曲者名を取り違えても大したことはないのではないかと思ってしまうことが多いです。自分の国の固有の文化を取り入れた仕事をしている人もいますが、主流とはなりえません。もしこれが、一国の文化全体の問題になり、政治的な力関係が絡んでくると、 「その画一化に対する反動」というのもわからなくはないのですが、どうでしょう。また、かつてのヨーロッパの帝国主義が、非ヨーロッパ圏の文化を評価する妨げになっていたということはあると思います。これも、ヨーロッパで感じたことです。「外国人嫌い」の問題も、おのれ自身の問題としてだけでは解決できなそうです。私のいたオーストリアは、もともと中立国だったのですが、途中で極右政権が支持されるようになり、ヴィザも取りにくくなってしまいました。 中東の問題ですが、私には、サイードが言ったことと、bragelonneさんがおっしゃっていることを比較して論じる力がありません。ただ、ここでもやはり、遠い日本から見るよりも、現地の人たちがどう思っているか、もっと知りたいと思うと同時に、宗教史、キリスト教やユダヤ教が、過去にどのようにイスラム教を迫害したのか、また、第1次大戦時のイギリスの外交など、知らないことが多すぎると痛感しています。 ところで、「空中の権能」に関して、ドイツ語のサイトで見つけたことを少し訳してお送りしようと思っていたのですが、そちらの方の御質問は締め切られていますね。「KY などの《クウキ》は 各国語でどう言いますか?」の方はまだ開いていますが、そちらに出してほしいということですか?御質問の趣旨とはずれてしまいます。どうしましょう?訳はまだ始めていませんが、夏休みが終わったせいか新着質問も減ったようですし、抄訳ならなんとかできます。 哲学カテは、内容についていくのは大変ですけれど、知らないことを勉強するいいきっかけとなるようです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~  別の方の御質問で話題になった、「個人主義のドイツ人がなぜファシズムになだれ込んだか」という件、この時代のドイツ人のアイデンティティーの根底には、ロマン主義があったといわれますね。戦後のドイツでは、それに対する反省から、芸術の分野でも、ロマン的なものを徹底的に排除しようという態度があったと思います。その結果、あまりにも理知的で、面白くないものになった。いずれにしても、行き過ぎはよくないということですね。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。この問題ですか。  まづは ご回答をありがとうございます。  振り子が極から対極へ振り切るかたちで 人びとが・社会が反応し反発するといったかたちは 好ましくない。というふうに取り上げたとき ねこさんからは あんがい日本社会はそういうふうにジグザグの過程を通って前へすすんで来たのだという意味合いの答えが返って来ました。  まぁ 歴史的にも個人的にも必要で必然的な動きは 避けられないのかも知れません。    ★ アイデンティティーについて以下の部分についてbragelonneさんのおっしゃっていることは、それ自体は正論であると思うのですが、日本国内から外の問題として見ているのと、現地で身近に感じる状況とは、少し違ったものになるような気がします。  ☆ そうですね。複眼のごとく いくつかの視点を持つようにしましょう。  ★ 音楽家としては結構危機感を持っています。世界中の若い作曲家が全く同じような曲を書いており、作曲者名を取り違えても大したことはないのではないかと思ってしまうことが多いです。自分の国の固有の文化を取り入れた仕事をしている人もいますが、主流とはなりえません。  ☆ これは 二十世紀という問題ではないでしょうか? 昨今のグローバル化とは少し違うような。もっともその先駆けであるかも分からないのですが。  けっきょく古典の標準であるとか 理念としての標準であるとか のぞましいところのものが 一つではなくなった。真善美なる物指しが ゆらいで来た。ピカソを世に送った美術界の人間たちが 世の流れに合わせてでしょうか バロックとはまた違ったいびつなものを 推し出して来た。  《無意識》なる領域に人びとが飛びついた。  けれども バッハとゴッホとは なおそれとしての良さの姿を示し続けているのではないでしょうか。  現代人は バッハの音楽をつくれないのですか? つくらないのですか?  ★ もしこれが、一国の文化全体の問題になり、政治的な力関係が絡んでくると、 「その画一化に対する反動」というのもわからなくはないのですが、どうでしょう。  ☆ そうですね。これにつきましては やや反対の側にまわりますね わたしは。  つまり 画一化が起こっていて これに反対するというときには ひとつにはその同じ画一的な流れの中でそのまま流れを推し進めつつ どこか違った場へ出て行くことになる。と思いますし。  そして反対するなら その画一化の流れには 目もくれずに自分の進む道を行けばよいと考えます。画一化は放っておけばよいと考えます。――食べて行けるかの問題が あるかも知れませんが 基本の姿勢は そういうふうになるかと考えます。  ★ また、かつてのヨーロッパの帝国主義が、非ヨーロッパ圏の文化を評価する妨げになっていたということはあると思います。これも、ヨーロッパで感じたことです。「外国人嫌い」の問題も、おのれ自身の問題としてだけでは解決できなそうです。  ☆ これはそうなのでしょう。つまり それは ヨーロッパ人にとっての問題ですね。というふうに かれらに任すと思います。わたし自身の態度としては。(見守ってはいますが)。  ★ 中東の問題ですが・・・ここでもやはり、遠い日本から見るよりも、現地の人たちがどう思っているか、もっと知りたいと思う  ☆ それは おっしゃるとおりに思います。日本人としてのわたしなら これこれのことを考えるというふうに述べたと思います。  ★ 「空中の権能」  ☆ の件につきましては たすてんかすてんさんご自身が これはおもしろい見方考え方であるといった箇所がありましたら ここだよとおしえてくださると助かります。その箇所を何とか見てみたいと思います。

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     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • あらゆる宗教について

    今現在ほとんど毎日ニュースでは「イスラエルで何人死んだ」などと取り上げられていて誰もが「なんであんな事するんだ?」 と思っているはずですよね。 イスラエルのだいたいの原因はこの前テレビで取り上げられていたのでおおまかなところは分かりました。 そこでなんで宗教の教典に「戦争するな」「罪を憎んで人を憎まず」「他人には他人の考え方(信じるもの)がある」というようなことを書き込んでおかなかったのでしょうか。それとも書いてあるのにやっているのでしょうか。もしくは一人一人によって受け取り方が違うせいでしょうか。 こんな事を言うのは当事者でない他人だから軽々しく言えるものなのかもしれませんが上にあげたもののようなことにこそ宗教を信仰する価値(意味)があるのではないでしょうか。(もちろん他にもあるのだろうけれども)

  • 現ローマ法王を見ていると、悪魔に支配されたイルミナティフリーメイソンの

    現ローマ法王を見ていると、悪魔に支配されたイルミナティフリーメイソンのメンバーにしか見えないのですが、 バチカンがイルミナティフリーメイソンに乗っ取られているとして、カトリック教徒はどうなるのでしょうか。 洗脳、マインドコントロールされて、おかしな方向に行く危険性があると思っているのですが。 聖書の予言などにある偽預言者とは、現ローマ法王ではないかとにらんでいるのですが。

  • 映画「最後の誘惑」を見ての疑問

    先日「最後の誘惑」のタイトルが解らず質問したものです。ツタヤで借りてみたのですが疑問が、、、宗教に関して全く無知なのでとんでもない質問をしているのかもしれませんが、イエスは支配していたローマ軍に殺されたのに、なぜキリスト教の最高峰はイタリアのバチカンにあり法王もイタリア人が多いのですか?だってイエスってユダヤ人なんでしょ、ユダヤ教とは何が違うの?全くの素人なので宗教関係の方この初歩的な質問に怒らないでね! PS,私実は小さいとき日曜学校に行ったことあるのですが、お菓子をもらった記憶しかない。なさけなぁ~

  • 宗教が屁の河童だとなれば 患者の半分は元気になる

     組織シュウキョウは 百害あって一利なしですが そのオシヘを無条件に受け容れ《信じる=つまりこの場合は オシヘが神であると思い込む》人がいるので その精神錯乱をまわりの人びとは アース役となって静かにおさめてやらなければならない。  そのとき あたかもそのシュウキョウ患者に代わって疾病に罹るかのように からだや気に差し障りをもたらすかも知れない。  だから もしシュウキョウが こんなものは屁の河童なのだとなれば その場や情況が―― 一般にクウキとしても――成り変わるようになり もう疾患の原因は取り除かれるわけである。  シュウキョウなるオシヘを自分からすすんで求めた人びともいるかも知れないので その割り合いを半々だとすれば シュウキョウの不必要なるクウキが《はびこる》なら 患っていた人びとの半数は ピンピンとして元気に成る。  クウキ感染もなくなること 請け合いである。  社会保障費すらが半減し 財政はプライマリーバランスを回復するといういいこと尽くめである。  そのためにも ひとは 個人の信仰と集団的なる宗教とを峻別しなければならない。ただちにいますぐに。  どうでしょう?  現実的な問題ではないかという問いです。

  • イスラエル・ガザ侵攻 国連事務総長が調停へ

    イスラエル・ガザ侵攻 国連事務総長が調停へ、やまぬ非難の応酬 【ニューヨーク=黒沢潤】イスラエル軍によるイスラム原理主義組織ハマスが支配するパレスチナ自治区ガザ地区への地上侵攻をめぐり、国連のフェルトマン政治局長は18日、双方の戦闘を終結させるため、潘基文(パン・ギムン)事務総長が19日に中東地域を訪れ、調停に乗り出すことを明らかにした。イスラエルなども直接、訪問する見通し。  フェルトマン氏は18日の安全保障理事会の会合で、「ガザ地区からイスラエルへの無差別ロケット弾攻撃を非難する」と強調する一方、イスラエル軍の反撃も過剰だと警告した。  ただ、イスラエルのプロソル国連大使は「ハマスはパレスチナ人犠牲者を(イスラエル攻撃の)プロパガンダに利用している」と強調。パレスチナのマンスール国連大使は「(イスラエル軍の)犯罪」を終結させるよう安保理に訴えるなど非難の応酬が続いている。  ロイター通信によると、パレスチナ自治政府のアッバス議長は同日までに、パレスチナ人を国際的な保護下に置くよう求める書簡を潘氏に提出した。ただ、国連外交筋によれば、アッバス氏が具体的に何を求めているかは不明瞭だという。 ============================= この問題 どう思いますか?

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

このQ&Aのポイント
  • DCP-J1200NでPCからの印刷ができないトラブルについて相談します。
  • PCからの印刷ができない問題の解決方法を試したがうまくいかず、エラー表示もあります。
  • DCP-J1200NとPCの接続確認や再起動を試しましたが、印刷できません。診断ツールも利用できません。
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