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宗教が屁の河童だとなれば 患者の半分は元気になる
- 宗教の影響で悩んでいる人々がいる中、宗教が無意味であると認識されれば、半数の患者が元気になる可能性がある。
- 宗教による精神錯乱に苦しんでいる人々がいるが、もし宗教が屁の河童であるという価値観が広まれば、疾患の原因がなくなる。
- 個人の信仰と集団的な宗教を別々に考える必要があり、宗教の不必要なクウキが減れば、患者の半数は元気になるだろう。
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宗教が戦争を起こしたり、病気にしたり、不幸せにするのを数多く見ているはず。 直ちに宗教を排除しなければならないのは常識です。
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- stmim
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stmimです。No.12の続きです。 > ★ (ち) 神様、お釈迦様、天国、極楽浄土など〔を信じる〕です。これらは何になるのでしょうね? > ☆ (む) 《神様》は いちいち詮索しないとすれば すでに書いた次の文章の中の(つ)に該当します。組織宗教である意味がありません。 > (め) 《お釈迦様》は 人間ですから《信じる》とすれば 狂気です。次の(て)の項目です。《天国・極楽浄土》は オシエであり思想でありその術語としてはただの観念です。同じくそれを信じるとすれば 狂気です。 天国や極楽浄土を信じたからといって「精神錯乱」か「狂気」というのは納得できません。 仏教関連の本で読んだのですが確かこんな会話が出ていました。最近、体が弱ってきたお婆さんと僧侶の会話です。 お婆さん「体調が悪くて、そのうちお迎えが来るかもしれません。極楽浄土は本当にあるのですか?あの世に行ったら先に死んだおじいさんにあえますか?」 僧侶「あります。きっとあえるでしょう」 お婆さん「そうですか。あるのですね。お答えを聞いて安心しました。」 この会話を読んで、このお婆さんは「精神錯乱」か「狂気」とbragelonneさんは考えるのですか? 精神錯乱:急性の精神症状を表現する日常語。精神医学的には思考障害を中心とする状態で,意識障害のある場合とない場合とに分ける。 狂気:気が狂っていること。また、異常をきたした精神状態。 > ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ > (に) 私が話を聞いた人の事例をあげてみます。いずれもキリスト教徒で男性です。 > > Aさんは:キリスト教にであって > Bさんは:キリスト教に入信して > Cさんは:キリスト教に出会い > ~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ (も) その《キリスト教》に代えて たとえばオウム真理教――ふるいですが――としてみたら どうなりますか? 同じような体験の告白があり得ます。どこまでその《宗教》がよい影響を与えたかは 分からないのです。 キリスト教の例をだしたのに、わざわざ反社会的事件を起こしたオウム真理教に置き換える必要があるのでしょうか?そのままキリスト教の例としてお考えいただければいいと思います。オウムは事件を起こしました。するとオウムのやったことはすべて悪いということになってしまうのでしょうか?信者の心の救済に役立ったことがあるなら、その部分はそれとして別に評価するべきと思います。 > (射) ぢゃあ 《よい面があった。一利なしではなく 一利はあったではないか?》と言うかも知れません。それは ですが 宗教だからよかったという必然性はないのです。ほかの趣味のサークルであってもよいわけです。そういう問題です。《つねに一利ある》とはやはり言えないのです。 AさんやCさんの例のように「生きる意味が感じられない」という深刻な悩みに対して趣味のサークルで立ち直れるのか甚だ疑問です。また、宗教以外に立ち直る手段があったとしても、この事例の場合は宗教に効果があったのですからそれを認めるべきだと思います。(他にも手段があるかもしれないが)宗教にもよい効果があると言うべきでしょう。 ★ これらの人たちの体験を聞くと、とても一時的で局所的なうわべの気休めとは思えないです。 > ☆ (ゆ) そうだとしても それが《組織宗教ゆえにこそよかったのだ》という結論は 一義的にはみちびけません。体験談というのは そういうものです。 この部分の論点は、個人的信仰か組織宗教かということですか?キリスト教は個人的信仰ということでは存続できなかったと思いますので、<<キリスト教で>>ということなら組織宗教である必要があると思います。また、《組織宗教ゆえにこそよかったのだ》ということは言えませんが、《組織宗教もよいのだ》ということはいえますね。 > ★ これらの人たちからもし宗教を取り上げれば、自殺、妄想、ノイローゼといったことに苦しめられることでしょう。 > ☆ (江) ぢゃあ やっぱし《一時的・局所的で心のウワベとしての心理的な効果》でしかなかったぢゃないですか。 《一時的・局所的で心のウワベとしての心理的な効果》というものの中身の理解が私とbragelonneさんで違うのかもしれないですね。少なくとも例示した人達について、一時的・局所的で心のウワベでなんとか心の平静を保っている感じはしませんでした。何年も、あるいは何十年もキリスト教を信じてきて、宗教はすっかりその人の一部になっているように思いました。信じることが心理的効果の源泉ですから、信じることをやめてしまえば、その効果が失われるのは当然と思います。 > ★ 私が話を聞いた人達は少なくも儲け主義にはみえなかったです。 > ☆ (ら) 生活は? 食べていくだけとしても《儲け》がなければ生きていけません。貧困そのものからガリガリ亡者までいるでしょう。 生活のために金銭を得ることは儲け主義とは言わないと思います。下記に辞書的な定義を出しておきます。 儲け主義:もうけることを第一とし、サービスなど他の面を軽視する考え方。 > ★ 世間にはいろいろな人がいるので、自分とは違う考えの人をオカシイと決め付けないで、広い視野でご覧になるのがよいのではないかと私は思います。 > ☆ (れ) あなたがそうしているのではないですか? > (ろ) わたしのおこなっていることは 《宗教が百害あって一利なし》という理論を問い求めて行くことです。いつ《人をオカシイと決めつけ》ましたか? しかもそのことをあなたはわたしに対しておこなっています。 宗教を信じている人達に対して「精神錯乱」か「狂気」というのは、その人達をオカシイと考えているからじゃないのですか? 宗教を信じている人達をどのようにお考えですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 天国や極楽浄土を信じたからといって「精神錯乱」か「狂気」というのは納得できません。 ☆ (ゐ) 《観念》を無条件に受け容れる・つまり信じるということは 無意味であり 無意味をよいこととしておこなうのは 狂気です。 ( wu ) 天国や極楽を観念として想像したりその表象の世界に浸ったりすることは それだけのことです。これを《信じる》と言いそうするのは 無意味であると同時に よきこととして自分でやったり他人にやってみなさいと言ったりすることは 無意味を知らず有意味だと言い張るからには 狂気です。 ★ この会話を読んで、このお婆さんは「精神錯乱」か「狂気」とbragelonneさんは考えるのですか? ☆ (ゑ) まづ前回にも注意しましたが 哲学でおこなう批判は 思惟や行動に対してのものです。具体的な人間については おこないません。存在論としてその中で 人間一般を批判する場合はあると但し書きしますが。 (ゑ‐1) さらに特殊な場合の但し書きがあるにはあります。韓国人に対して 狂気について自覚させるために おまえさんたちは狂気に落ち入っていると指摘する場合があります。 (を) お婆さんや僧侶の考え方は 前項の( wu )に記したとおりに狂気です。お婆さんは 自分一人だけでそうするだけですが 僧侶はほかの人間がそうすることについてよきこととしてしゃべっている。その分 二重に狂気です。 ★ キリスト教の例をだしたのに、わざわざ反社会的事件を起こしたオウム真理教に置き換える必要があるのでしょうか? ☆ (ん) あります。一般論として事態を捉えなければなりません。 ★ そのままキリスト教の例としてお考えいただければいいと思います。 ☆ (ああ) その組織にもピンからキリまであります。たいていは ありきたりのことをおこなっているか または よくないことを企んでいるかです。ワチカンの聖職者たちが何をやっているか? マネーロンダリングと各地の教会の神父らが幼児への性的虐待をしたことを覆い隠そうとしています。 ★ オウムは事件を起こしました。するとオウムのやったことはすべて悪いということになってしまうのでしょうか? 信者の心の救済に役立ったことがあるなら、その部分はそれとして別に評価するべきと思います。 ☆ (いい) 《一時的・局所的で心のウワベにおける気休め》として一利あることはあったと説明しています。オウムは 例のポアという思想が いただけません。それだけでアウトです。 ★ AさんやCさんの例のように「生きる意味が感じられない」という深刻な悩みに対して趣味のサークルで立ち直れるのか甚だ疑問です。 ☆ (うう) それは ただの偏見です。それに同好会などには いろんな種類のものがありましょう。 ★ また、宗教以外に立ち直る手段があったとしても、この事例の場合は宗教に効果があったのですからそれを認めるべきだと思います。(他にも手段があるかもしれないが)宗教にもよい効果があると言うべきでしょう。 ☆ (ええ) ですから いろんなサークル組織にも宗教組織にもそれぞれ よい効果もわるい効果もある。それだけのことです。その中から 宗教組織だけを取り出ししかもそのよい事例だけを取り上げるのは いかがかと思われます。それは 哲学ではありません。 ★ (ゆ) この部分の論点は、個人的信仰か組織宗教かということですか? ☆ (おお) 《宗教》と言った場合は――まれにオシエだけを別に取り出す場合もあるかも知れませんが 一般には―― 組織宗教を指します。集団にとってのものとしてです。信仰は 個人のものであり 個人にとってだけのものです。 (かか) 宗教組織の中にいる個人それぞれが 組織のオシエや規則とは別にみづからの信仰を持つことは 考えられます。それをも取り上げるとすれば そうだとしてもそれは 個人にとっての信仰のみを問題にしています。 (きき) シュウキョウは まったく別の話です。例外は 個人がひとりで教祖でありオシエをみづからに説きひとりで活動しているという場合です。ですが その場合でも 《オシエを信じる》なら 完全にアウトです。 ★ キリスト教は個人的信仰ということでは存続できなかったと思いますので ☆ (くく) これは 異なことをおっしゃる。キリスト・イエスに倣う個人にとっての信仰としてみれば 異なことをおっしゃる。 (くく‐1)組織をつくっていないだけです。それは 世の中という目に見えざる言わば教会をかたちづくっています。イエス・キリストが十字架じょうに去って行ったあとの歴史をつうじて。 ★ <<キリスト教で>>ということなら組織宗教である必要があると思います。 ☆ (けけ) ええっとですね。《キリスト教》というのは オシエやその組織を言っています。つまりすでにシュウキョウであり 信仰ではありません。信仰は せいぜいキリスト信仰とでも言って区別します。 ★ また、《組織宗教ゆえにこそよかったのだ》ということは言えませんが、《組織宗教もよいのだ》ということはいえますね。 ☆ (ここ) 言えません。(うう)で説明しました。一般論としては言えません。 ★ (江) 少なくとも例示した人達について、一時的・局所的で心のウワベでなんとか心の平静を保っている感じはしませんでした。 ☆ (ささ) そこからさらに時間の経過を考慮した場合: ★★ これらの人たちからもし宗教を取り上げれば、自殺、妄想、ノイローゼといったことに苦しめられることでしょう。 ☆ と言ったのは あなたです。わたしはそれに対応しただけです。 ★ 何年も、あるいは何十年もキリスト教を信じてきて、宗教はすっかりその人の一部になっているように思いました。 ☆ (しし) まづこの《キリスト教を信じる》という表現からして 不注意であるか さもなければ狂気です。 そして そういう狂気の状態が何十年つづこうが: ★★ これらの人たちからもし宗教を取り上げれば、自殺、妄想、ノイローゼといったことに苦しめられることでしょう。 = ★ 信じることが心理的効果の源泉ですから、信じることをやめてしまえば、その効果が失われるのは当然と思います。 ☆ (すす) ぢゃあ・だから 麻薬と同んなじぢゃん。そして 自慰行為とも。それらを やむを得ずやるか 痛みをやわらげる薬や治療としての麻薬の場合なら まだ狂気ではありませんが それを開き直ってそれでもよきことだと言ってやるのは 真正の狂気です。 ★ 儲け主義:もうけることを第一とし、サービスなど他の面を軽視する考え方。 ☆ (せせ) 儲けがなければ生活していけません。サービスなどをその儲けのためにおこなう商売のやり方を もうけ主義と言います。 ★ 宗教を信じている人達に対して「精神錯乱」か「狂気」というのは、その人達をオカシイと考えているからじゃないのですか? / 宗教を信じている人達をどのようにお考えですか? ☆ (そそ) 《その人達の考えていること・おこなっていることをオカシイと考えて》います。すでにその理由についても述べています。 (たた) 《宗教を信じる》という表現からしてオカシイのです。人間の人間による人間のための人生や社会を考えていないので そういった頓珍漢な表現をしても平気なのです。
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
stmimです。No.8の続きです。 >☆ (ち) この場合の《信じて》というのは 何を? なのですか? 神様、お釈迦様、天国、極楽浄土などです。これらは何になるのでしょうね? >☆ (に) ですから その時その場で一時的に局所的に心のウワベにおけるその意味での心理的な気休めは 得られるでしょうと言いました。 私が話を聞いた人の事例をあげてみます。いずれもキリスト教徒で男性です。 Aさんは生き方に悩み自殺未遂したあとキリスト教にであって心が救われて、そのあと勉強してアメリカの大学の神学部に留学しました。 Bさんは病気になった後、妄想に苦しんでいたところ、キリスト教に入信して、妄想が消えたそうです。 Cさんは、唯物論の考え方を追求しているうちに、世界がの全てが素粒子のかたまりにしか思えなくなり、自分もただの素粒子かたまりであり生きている意味を感じられなくなった。ひどいノイローゼに悩んでいた時、キリスト教に出会い、神の愛によって生きる意義を見出した。 これらの人たちの体験を聞くと、とても一時的で局所的なうわべの気休めとは思えないです。これらの人たちからもし宗教を取り上げれば、自殺、妄想、ノイローゼといったことに苦しめられることでしょう。宗教が必要な人達はいると思います。この人達も話を聞いている分には別に変な人達じゃなかったですよ。Aさんは学生でしたが、Bさん、Cさんは働いています。 > ☆ (ひ) それは ただ経営の才能がないだけのことでしょう。やりくりが大変な状態にある儲け主義です。ほかに目的はありません。 例えばキリスト教の場合、普通の信者からはじまって本気で信仰するうちに神学校などに通い牧師・神父などになるようです。彼らは普段から教会に通っていますからいかに教会が儲からないものか身にしみて知っています。もし儲けようと考えるなら他の職業を選択するでしょう。神父や牧師になるのは、信じているから、それを職業にしたい、身をささげたいという動機だと思います。 地方の寺などでは、両親にたのまれてということがあるでしょう。どちらにしても、儲けを考えるなら他の職業を選択したほうが効率的です。私が話を聞いた人達は少なくも儲け主義にはみえなかったです。 >気が違ってでなければ 鰯の頭を信じることは出来っこありません。 確かに鰯の頭を信じることは難しいです。しかし「何千年も昔から多くの人達が信じてきたのですよ」と歴史と伝統のある宗教を提示されたら、信じやすいのではないですか?すくなくとも鰯の頭よりは。そうゆう意味では歴史のある教団は有利です。 世間にはいろいろな人がいるので、自分とは違う考えの人をオカシイと決め付けないで、広い視野でご覧になるのがよいのではないかと私は思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ (ち) 神様、お釈迦様、天国、極楽浄土など〔を信じる〕です。これらは何になるのでしょうね? ☆ (む) 《神様》は いちいち詮索しないとすれば すでに書いた次の文章の中の(つ)に該当します。組織宗教である意味がありません。 (め) 《お釈迦様》は 人間ですから《信じる》とすれば 狂気です。次の(て)の項目です。《天国・極楽浄土》は オシエであり思想でありその術語としてはただの観念です。同じくそれを信じるとすれば 狂気です。 ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~~~~~~ (つ) つまり もし神をならば――けっきょく普遍神であるのならば―― 特定のひとつの組織に入っている必要がさらさらありません。 (て) もし《組織を》であったり《オシエを》であったり あるいは《教祖を や その現在の最高指導者を》信じるであったとしますと これは 精神錯乱です。 (と) 人物や思想としてあるオシエを《信じる》ということは あり得ません。観念としてのオシエをまたは人物としての観念を頭の中で強く念力を込めてでしょうか叩き込み思い込むといったことをしか意味しません。そしてそれは 哲学に照らして意味がありません。俗に言う鰯の頭と同じことになります。 (な) すなわち《組織にとどまり続け》る意味も何一つありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (に) 私が話を聞いた人の事例をあげてみます。いずれもキリスト教徒で男性です。 Aさんは:キリスト教にであって Bさんは:キリスト教に入信して Cさんは:キリスト教に出会い ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (も) その《キリスト教》に代えて たとえばオウム真理教――ふるいですが――としてみたら どうなりますか? 同じような体験の告白があり得ます。どこまでその《宗教》がよい影響を与えたかは 分からないのです。 (や) むろん あるかも知れません。あるいは いくら組織人だからと言って 人ひとりを取り上げた場合 いい人もいるでしょう。ところが だからと言って 宗教がよいとはなりません。ただこの場合の事例をめぐっては つねに何が何でも 宗教はよくないとは言えないというだけのことです。 (射) ぢゃあ 《よい面があった。一利なしではなく 一利はあったではないか?》と言うかも知れません。それは ですが 宗教だからよかったという必然性はないのです。ほかの趣味のサークルであってもよいわけです。そういう問題です。《つねに一利ある》とはやはり言えないのです。 ★ これらの人たちの体験を聞くと、とても一時的で局所的なうわべの気休めとは思えないです。 ☆ (ゆ) そうだとしても それが《組織宗教ゆえにこそよかったのだ》という結論は 一義的にはみちびけません。体験談というのは そういうものです。 ★ これらの人たちからもし宗教を取り上げれば、自殺、妄想、ノイローゼといったことに苦しめられることでしょう。 ☆ (江) ぢゃあ やっぱし《一時的・局所的で心のウワベとしての心理的な効果》でしかなかったぢゃないですか。 ★ (ひ) 神父や牧師になるのは、信じているから、それを職業にしたい、身をささげたいという動機だと思います。 ☆ (よ) ぢゃあ 生活はどうでもよいということですか? ちゃあんと《献金》という仕組みがあるのです 教会には。自発的な寄付だとのことです。 ★ 私が話を聞いた人達は少なくも儲け主義にはみえなかったです。 ☆ (ら) 生活は? 食べていくだけとしても《儲け》がなければ生きていけません。貧困そのものからガリガリ亡者までいるでしょう。 ★ しかし「何千年も昔から多くの人達が信じてきたのですよ」と歴史と伝統のある宗教を提示されたら、信じやすいのではないですか? すくなくとも鰯の頭よりは。そうゆう意味では歴史のある教団は有利です。 ☆ (り) 《信じる=つまりこの場合には 宗教組織に入る》ひとは そうさせておけばよいのです。ここでの問題は 《宗教は百害あって一利なし》という理論を人びとが認識することにあります。 (る) 認識しても わたしゃあ信心するんだわさと言ってそうする人を 引き留めることはありません。そのことと いま上で言った理論の普及とは 両立します。理論ないし哲学は ファッショではありません。 ★ 世間にはいろいろな人がいるので、自分とは違う考えの人をオカシイと決め付けないで、広い視野でご覧になるのがよいのではないかと私は思います。 ☆ (れ) あなたがそうしているのではないですか? (ろ) わたしのおこなっていることは 《宗教が百害あって一利なし》という理論を問い求めて行くことです。いつ《人をオカシイと決めつけ》ましたか? しかもそのことをあなたはわたしに対しておこなっています。 (わ) 思想や行為についての批判と 人間そのものについての批判とは 分けて捉えましょう。気づきにくいような言い方をして 人間そのものを貶める行為をあなたはおこなっています。気を付けましょう。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
9の方のお礼読んだよ。 そこまで明白に理解しているのなら、行動は思考実験じゃなくて猿回し実験だ。 やってみなよ。
お礼
かれこれ八年ほどすでに行動して来てるぢゃん。 分からなかったの? 猿回しではなく そうではなく 誰もが人間ですよと言って行く生活です。 ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
9の続きだよ。 実のところな、俺様があてにした懸賞金は全てジラーチちゃんのお財布に収まった。 俺はいつまで子供の使いみたいなタダ働きをするんだ? 労働争議だ。
お礼
具体的には言えないのだろうけれど それだけでは よくは分からない。 結果は よくなかったってことか。 それは 残念だった。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
ナンマイダブ~。 信仰とは自らの心そのものであり、語る言葉は無い。 君達の語るのは信仰では無い。 どっちにしろ無いから、全てが無という事にしましょうや。 ナンマイダブ~。 この難解なパズルの正解は俺様の特許だ。 誰も金を払わないのがむかつく。 懸賞金はどこに行った。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 信仰とは自らの心そのものであり、語る言葉は無い。 ☆ (あ) 《身と心 つまりは 身体と精神》というときには 一般に《身にとっての感性の原野》とは分けられた《精神としての思考の緑野》 これを狭い意味での《心》と言っています。 (い) 信仰とは この《思考の緑野》などをも超えた場です。《非思考の庭》と言っています。 (う) つまり 広い意味での――《身と心》とにプラスαしたかたちのその――心です。 (え) この非思考の庭たる信仰の動態は それ自体としての心にあっては 《語る言葉はない》。あるいは 言葉があったとしても 容易にはつかむことが出来ない。 (お) ただし この非思考の庭からは――それが わたしたちの生きていることに伴なって 《動態》であるからには―― 何らかのシルシがわれわれに与えられます。《ヒラメキ――つまり〔イメージとしての〕直感および〔意味がかなりまとまったかたちとしての〕直観》です。洋物としては インスピレーションです。 (か) というふうに哲学としては 《信仰》とは何か? についてその傍らからどのように見えているかのかたちを描いて説明する。また ヒラメキが起きるといった現象をも捉えたかたち。 (き) あとは どのようにして信仰が おのおの《わたし》の内に成ったか。あるいは ヒラメキの具体的な中身はどうなのか。などについてさらに哲学して行くかたちとなります。 (く) 宗教は この信仰から得られたヒラメキ――また《観想》ともよぶもの――の中身をパクって来て それをオシエとし人びとにこれを信じなさいと説く。 (け) つまりたとえば信仰にあっては 《わたしは わたしがわたしであるなら・つまりはわたしがまったき自由であるなら ひとを・つまり自分をも他人をも ころしはしない》というヒラメキを得る。混沌としたイメージ直感の中から こういった理論を言葉にして持つように到る。このとき 宗教はこの信仰直観を 《なんぢ ころすなかれ》といったオシエとしてあたかも人びとに説く命題ないしほぼ同じことで人びとが守るべきオキテ(律法・法律)としてしまう。 (こ) 宗教は 初めは人びとの集団にとって秩序ある共同生活が成るようにという目的を持ったが それとても結局その共同自治のための手段でありおのおのの信仰が自由であることを目指した仮りの仕組みであった。 (さ) 宗教は 信仰から出て 信仰をこそ守る仮りの仕組みであった。そのためにオシエもあったと言えばあった。ところが いつからか・誰によってか・何を思ったのか このオシエを信じなさいと説くようになった。気が違って来た。
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
stmimです。No.4の続きです。 >(い) しかもそれも 言ってみれば麻薬です。その組織の中にとどまるのでなければその安寧が得られないのですし 組織を出ることは その安寧が脅かされ消えてしまうというたぐいの《良い効果》なのではないでしょうか。 ユダヤ教徒、キリスト教徒やイスラム教徒など想像してみても彼らは生涯を通じて同じ組織内にとどまる場合が多いです。信じて組織にとどまり続ければよいと思います。 > (く) 神を信じている場合にも 死の恐怖を感じる人と感じない人とがいます。感じる人の中にも 感じるからこそ 日から日へ生を送る言わばわ>が実存の生活が 充実するのだという人もいます。《死の恐怖》は 《人が実際に死ぬこと》とはイコールではありませんよ。 いろいろな人がいることはご指摘のとおりです。そして中には、宗教を信じると安寧が得られる人もいます。 >(さ) ですから 《信じる》という言葉を出してそう言っていますが 実際にはただ頭の中で《考える・想像する》ことをやっただけのことです。大がかりには 宗教のオシエをそのとき持ち出してくる場合もあるのでしょう。自慰行為か麻薬行為かどちらかでしかありません 宗教は。 本人は宗教を信じていますから、それを自慰行為だとは感じていないでしょう。また、特段身体に悪い影響があるわけでもないし、反社会的な行為をするわけでもありません。確かに一部にカルト的なよくない宗教団体もあるでしょうけど、大半はまともな団体と思います。本人がハッピーなら、自慰だろうと何だろうと結構なことだと思います。 > ☆ (そ) 儲け主義でない宗教は ありません。 牧師さんの話を聞くと、教会だけでは生活できないから、他にアルバイトをしてなんとか生計を立てているとか聞きます。地方の寺の住職さんも本堂の修繕などままならず生活は苦しいそうです。豪華な施設を建設している宗教団体もありますが、やりくりが大変なところも多いみたいですよ。 宗教なんて馬鹿らしいという人もいるでしょう。しかし、宗教を信じたい人もいる。個人の選択の自由であって、それを他人がとやかく言う問題じゃないと私は思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ (い)[・・・]信じて組織にとどまり続ければよいと思います。 ☆ (ち) この場合の《信じて》というのは 何を? なのですか? (つ) つまり もし神をならば――けっきょく普遍神であるのならば―― 特定のひとつの組織に入っている必要がさらさらありません。 (て) もし《組織を》であったり《オシエを》であったり あるいは《教祖を や その現在の最高指導者を》信じるであったとしますと これは 精神錯乱です。 (と) 人物や思想としてあるオシエを《信じる》ということは あり得ません。観念としてのオシエをまたは人物としての観念を頭の中で強く念力を込めてでしょうか叩き込み思い込むといったことをしか意味しません。そしてそれは 哲学に照らして意味がありません。俗に言う鰯の頭と同じことになります。 (な) すなわち《組織にとどまり続け》る意味も何一つありません。 ★ (く)[・・・]そして中には、宗教を信じると安寧が得られる人もいます。 ☆ (に) ですから その時その場で一時的に局所的に心のウワベにおけるその意味での心理的な気休めは 得られるでしょうと言いました。 (ぬ) あるいはけっきょく 何も考えずに毎日同じ仕事や動作をし同じ言葉をあつかっていたら その固定性としての安定性が得られるでしょう。みづからにマインド・コントロールをほどこしているかたち。――これは 哲学として無意味です。もういちど ただのわれに戻って一から始めなくてはならない。 ★ (さ) 本人は宗教を信じていますから、それを自慰行為だとは感じていないでしょう。 ☆ (ね) すなわち 宗教は 自慰行為か麻薬行為かであり あとは自己による自己へのマインド・コントロールも入っているでしょうか。 (の) つまり 自慰行為などなどとは感じていない人は それでよいと言うのなら もう放っておきます。放っておく・おかないにかかわらず 宗教が 無意味なものであることに変わりありません。 (は) つまり哲学は 冷静な精神ですから 《本人は宗教を信じていますから、それを自慰行為だとは感じていないでしょう》と言われたりあるいは ★ 本人がハッピーなら、自慰だろうと何だろうと結構なことだと思います。 ☆ と言われたなら はい そうですねと応えるのみです。宗教批判の成立にいささかも変わりありません。 ★ (そ) [・・・]豪華な施設を建設している宗教団体もありますが、やりくりが大変なところも多いみたいですよ。 ☆ (ひ) それは ただ経営の才能がないだけのことでしょう。やりくりが大変な状態にある儲け主義です。ほかに目的はありません。 (ふ) つまりは 麻薬をあたえ自慰行為を勧め それでもハッピーにならないなら自己自身でやるマインド・コントロールをも加味するでしょう。ぜんぶ儲け主義のもとにあります。それでは表現が違うというのなら すべては生活のためにやっているということでしょう。 ★ 宗教なんて馬鹿らしいという人もいるでしょう。 ☆ (へ) ここでの問題は そんな生易しいことではありません。精神錯乱つまりキチガイであると言っています。考える対象であるオシエを無条件に受け容れる(つまり信じる)というのは 精神に障害をきたしていなければ 或る程度長くはやっていられません。 ★ しかし、宗教を信じたい人もいる。 ☆ (ほ) ほら ごらんなさい。宗教は人間がその当否について考えるものです。信じるということは 出来っこありません。気が違ってでなければ 鰯の頭を信じることは出来っこありません。 ★ 個人の選択の自由であって、それを他人がとやかく言う問題じゃないと私は思います。 ☆ (ま) この場合の《自由》は 基本として信教・良心の自由です。ところが 思想としてのオシエについては 考えればよいのであって 信じる・信じないとは何の関係もありません。 (み) その基本の自由の上に いまひとつは 表現の自由もしくはこの場合結社の自由がかかわっているとは考えられます。ですから逆に問うならば 結社の自由があるからと言ってその組織の成員に対して このオシエをないしこの指導者を信じなさいと言って 《信教・良心の自由》を侵すおそれのあることを――権限関係のもとに――働きかけてもよいのか? という問題が起きています。 (む) 哲学の主題・課題として 《他人がとやかく言う》べきゆゆしき問題であるのです。
お父さん。 私はつらいです、 助けて。 なにを読めば元気になれますか? お父さん!
お礼
ご回答をありがとうございます。 元気じるしに成るには 何も要りません。 生まれつきの身と心 この自然本性だけで元気になります。 たぶんその元気が出るのをこれまで蓋をしていたのでしょう。 どういう蓋であったか? どうすれば蓋を取り除けるか? これは おのおの――それこそ 《わが固有のとき》を見出して――よい方法を考え出す必要はあります。 蓋を 要らないのに 自分でしてしまった――はずです。そのような精神の軌跡を振り返ってみて どこが桶狭間でどこが関ヶ原だったか。これを見つけ出す。なら もうそれに対処する方法は おのづと分かって来ます。 ぐどらっく!
補足
ご自身という本を読んでください。 自分の心を。自分の心の歴史を。 精神の残した軌跡をたどって あのときおれは おれ自身であるか否かの分岐点に立っていたのではないかといった意志決定の問題であったその時をほぐしてみてください。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんばんは。 「すがり」と「憐れみ」という関係においては、 (「憐れみ」の側は、)どうしても、「憐れみ」>「すがり」とならざるを得ない。 (・・・憐れむ側の苦悩) 対して、(近代)「契約の自由」という、地平に立てば、 もはや、「憐れむ」・「すがる」という関係性に、縛されることは無い。 (フェア・トレード?) 「屁の河童」・・・ソレが個人的感想、なら、いいのですが、「念仏」になっては、どうかと思います。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
個人主義的に西欧に於て、宗教はモラルの源泉であり、 社会存立のための方便だ。
お礼
人間についての認識が浅すぎます。 自由意志の主体――ただし相対的にして関係的――である存在どうしが・つまり人間どうしが 家族をかたちづくると同時に地縁や血縁をつうじて・またはすでに地縁や血縁から自由に 社会を形成してともに生活をいとなむ。 ここに築かれる人間関係について人びとは そのあり方をめぐっても互いに無理なく意志自由を発揮できるようにとその言わば秩序あるかたちを模索します。 そこで問い求めたものが モラルです。 というよりも モラルは 人のクセから始まったおのれの生活態度を互いに突き合わせて――単純に言って互いにオツキアヒしながら―― そこでやはり互いに折り合いをつけたりゆづりあったり・あるいは時におのれの欲するところを相手に飲ませたりしてナラハシと成りつつ 人為的かつ社会自然的に形作られて来るものです。エートスともよばれるナラハシであり 社会的な人間関係です。 このエートス≒ナラハシの中から ある種規範的なものを持とうとして出来たものは 人倫・倫理・道徳としてのモラルです。 このモラルについて なるほど《宗教》の側からそのオシエが供給されることもあったでしょう。しかしそれは すでに宗教が出来てからの話です。 エートス≒ナラハシの中にあって 人びとは あたかもその互いの関係性から自由な《とき》があるかも知れないと思っていたとき 確かにその《わが固有のとき》を得てそこでしばしばヒラメキのうちに見出されたものが ナゾの何ものかとしての《源泉》です。《みなもと》と言うならばです。 このミナモトとわれとの関係は クセや習慣たるエートスを超えて与えられたものであって 《人倫・道徳たるエートスないしモラル》をも超えている。と人びとは知った。 つまり信仰のことを言っていますが そこでは ナゾの源からヒラメキを得てたとえば《むさぼるなかれ》といった言葉によって表現された命題をも得て来ます。 この命題を 今度は何を思ったか――たいていは初めは やはり集団としての秩序を得たいといった欲求からであったと推測されますが―― 人びとにとってのオシエとする動きが出て来たわけです。 つまり宗教の出現です。 命題《むさぼるなかれ》は ナゾの何ものかとの関係から人間が得て来たものであっても 一たん人間のことばで表現されたものは けっきょくすでに《エートスの中における生活態度(≒思想)でありモラルであるもの》となっている。 宗教――宗教人間とでも呼ぶ人間のクセ――は何を思ったのか この《信仰命題であり同時にすでにエートス規範となった命題》をわざわざ(初めは秩序のため)守るべきオシエとした。しかもこのオシエ運動に参加して行く人間も少なからずいたと来ています。 ひと言で言えば このようなオシエを説く宗教を 共同自治という基礎の上にじつは自分たちの意志をもっぱら排他的に通そうとする人間たちは 格好の手段として用いた。 社会における人倫をめぐって 個人の《固有のとき》としての信仰とそしてオシエを集団的な秩序ないし支配にかかわらせる宗教とは こういう発生とその後の配置になっています。 宗教は 信仰という蝉の抜け殻であり 信仰から生まれた鬼っ子だと見られます。 ご回答をありがとうございます。
- stmim
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宗教には弊害があると思いますが同時に良い効果もあると思います。 主に精神的な安寧を得るという点においてです。 誰でも死への恐怖というのはあると思います。もし、神様を信じることで「死んでも天国で幸せにくらせる」と思える人もいるでしょう。あるいは何らかの理由で孤独がちの人でも「神様が自分を愛してくれている」と信じられれば、平安に暮らせるかもしれません。 主観的な話と言われるかもしれません。しかし、人間の幸せというものはもともと主観的なものです。 心の安心が得られるなら宗教への出費も納得できます。 人間は分業をすることで社会を効率化してきました。宗教もやはりそれを専業にする人がいても変だとはおもいません。ただ、儲け主義はいけないと思いますけど。
お礼
★ 宗教には弊害があると思いますが同時に良い効果もあると思います。 / 主に精神的な安寧を得るという点においてです。 ☆ まづは ご回答をありがとうございます。 (あ) それは あくまで一時的かつ局所的という内容の《心理的な安寧》が得られるということだと考えます。 (い) しかもそれも 言ってみれば麻薬です。その組織の中にとどまるのでなければその安寧が得られないのですし 組織を出ることは その安寧が脅かされ消えてしまうというたぐいの《良い効果》なのではないでしょうか。 (う) 一利も半利もありません。 ★ 誰でも死への恐怖というのはあると思います。もし、神様を信じることで「死んでも天国で幸せにくらせる」と思える人もいるでしょう。あるいは何らかの理由で孤独がちの人でも「神様が自分を愛してくれている」と信じられれば、平安に暮らせるかもしれません。 ☆ (え) これでは 思想と言いますか人間性についての見方考え方がと言いますか 錯綜していると思います。 (お) 《死の恐怖》を誰もがおぼえることと 宗教とは何の関係もありません。あるのは 信仰です。 (か) 組織宗教も《信仰》を言いますが それは 経験合理性に照らして妥当かどうかを考えるべきオシエを――その思想としてのオシエをです――むやみやたらに信じなさいとあやまって言っているだけです。最悪は 権限の上の者をであったり だいたいふつうは教祖やそのときの最高権限者を《信じる》であったりします。アホらしい。 (き) 《神を信じること》と《死後の世界がどうであるか》とは何の関係もありません。それは 宗教の説くオシエの問題です。 (く) 神を信じている場合にも 死の恐怖を感じる人と感じない人とがいます。感じる人の中にも 感じるからこそ 日から日へ生を送る言わばわが実存の生活が 充実するのだという人もいます。《死の恐怖》は 《人が実際に死ぬこと》とはイコールではありませんよ。 (け) 《孤独》とは どうしょうもなく《わたし》がわたしであるということです。わたしに固有のときの中にいるということです。ところがそれでも人は 言わばこの孤独どうしの関係として成り立っているという存在でもあるわけです。孤独は 孤独関係ゆえに 孤立状態ではないと知るわけです。 (こ) 孤独を明らかに見るのではなく またそのように孤独の中から固有の時を見出してわたしがわたしである状態に還ってみづからの人間性を実現するようになった――というのではなく そうではなく なおまだ人間たるわれに到っていない場合 ★ 何らかの理由で孤独がち〔* つまり孤立がち〕の人でも「神様が自分を愛してくれている」と信じられれば、平安に暮らせるかもしれません。 ☆ というのは ただの自慰行為にしか過ぎません。自分のあたまの中に マガイモノの《固有の時》をこしらえて 一時的に悦に入っているに過ぎません。たえず 次の瞬間には 孤立して不安な現実にもどります。 (さ) ですから 《信じる》という言葉を出してそう言っていますが 実際にはただ頭の中で《考える・想像する》ことをやっただけのことです。大がかりには 宗教のオシエをそのとき持ち出してくる場合もあるのでしょう。自慰行為か麻薬行為かどちらかでしかありません 宗教は。 ★ 主観的な話と言われるかもしれません。しかし、人間の幸せというものはもともと主観的なものです。 / 心の安心が得られるなら宗教への出費も納得できます。 ☆ (し) すべては 一時的な安心であって 早く言えばインチキです。インチキでもいいと言う人は 放っておきますが 宗教が百害あって一利なしという命題は いつでも誰にでも言って行きます。 (せ) 《主観的》かどうかは 誰もが・いついかなる時にも 主観的であるしかありません。議論になりません。 ★ 人間は分業をすることで社会を効率化してきました。宗教もやはりそれを専業にする人がいても変だとはおもいません。ただ、儲け主義はいけないと思いますけど。 ☆ (そ) 儲け主義でない宗教は ありません。 (た) 宗教が流行るのは まだ人間になっていない人がいるからという単純な事由です。だから 早く人間になりましょう。という呼びかけにもすすむでしょう。
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お礼
ですから 《排除する》のが 答えであるかどうか。でしょうね。 わたしの問いは 《屁の河童》視すれば もう問題はないのではないか? です。 どうでしょう? ご回答をありがとうございます。 表現の自由あるいは結社の自由が いまは あるようですから。 さもなければ 組織宗教については 結社の自由をみとめないというふうに 憲法を改正しなければならない。 No.1の方にも ご回答をありがとうございます。書き忘れました。