• 締切済み

坊主は 要らない。ハカラヒを前提としてしまうから。

 聖職者は 要らない。  いわゆるシュウキョウにおける聖職を組織としても社会の制度としても認めることは 信教・良心の自由を その職業制のはたらく限りで 制約してしまう。のではないか。――こういう問いです。  たとえば 個人における信教・良心の自由が 聖職制とは関係ないところでは保証されるし 聖職階級制つまりヒエラルキアのもとにおいては――人びとは自由にそこに参加したのだから――正当にも或る程度制約されるのはやむを得ない。という見方は 合理性があるように見える。  しかし もし思想・表現の自由ややはり良心・信教の自由が そのヒエラルキア制における取り決めや権限関係のもとにおいてのみ保障されるというのであれば 《自由》に差し障りが出るおそれが つねにある。  ヒエラルキアあるいは要するにそのシュウキョウのオシエが何ものにも先行していてその大前提のもとでのみ 《自由》がある。ことにならないか?   実際問題として オシエに異をとなえることはできるのか?  オシエを個人の信教・良心に先立つこととしていないか? そのオシエをつかさどる職制をつくったハカラヒは 人間性を曲げ縮めているのではないか?  聖職は 要らない。もしくは 事務処理のためにのみ専門とする。  信徒はみな互いに同朋であらざるを得ない。

みんなの回答

回答No.3

あー。 そーかい そーかい。 あんたは実のところ金もうけ主義ならいくらでも信者をだませた教祖様だよ。 私も弥勒菩薩商法を検討したもんだ。 まっぴらだよなー。 しかしだ。 愚か者にもっと寛大になれ。 俺様はアニキなツンデレを理解させるのに散々苦労した。 罵詈雑言も言い方ってもんがあるんだ。 特にその点で、瞬間湯沸かし器が怖すぎるんだよ。 正確には7~8年前かな。 私の指摘した君の欠点はペットを飼ったことが無い事だ。 だから人間をペット扱いできない。 いいもんだよ、ペットは。 私が見届けなければ生きることすらできないんだ。 愛さずにはいられない。 人間をペットにすると、倒錯したSMプレイになるのはあんたの言うとおりだ。 それも違う楽しみがあって面白い。 何事も前向きな挑戦が必要だ。 冒険が必要だ。

bragelonne
質問者

お礼

 まっぴらごめんだ。  まちがってるかい。  ご回答をありがとうございます。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.2

>ヒエラルキアあるいは要するにそのシュウキョウのオシエが何ものにも先行していてその大前提のもとでのみ 《自由》がある。ことにならないか?  自分のやりたいことと宗教の内容があわない場合、その教団から脱退することができます。 >実際問題として オシエに異をとなえることはできるのか? 教えに異をとなえて、その通りに教えが変更されることはますないでしょう。 教えが気に入らない場合は、その宗教をやめるか、似たような他の宗派に入り直すことができます。 例えば、カトリックでは同性愛に対して批判が強いですが、キリスト教の他の宗派では寛容だったりします。 同性愛問題でカトリックをやめて他の宗派に改宗した人もいます。 あるいは、独自の宗派を立ち上げることもできます。キリスト教の宗教改革もその例です。世の中に元の宗教から分派した無数の教派が存在するのは異をとなえた人がいるからでしょう。 > オシエを個人の信教・良心に先立つこととしていないか? そのオシエをつかさどる職制をつくったハカラヒは 人間性を曲げ縮めているのではないか? 現在存在する宗教の多くは社会通念上何か問題となる教理をもたない場合が多い。もし反社会的な教理が存在するなら、カルト指定されて社会から排除されていくでしょう。世間によくある宗教の教え、例えば「他人のものを盗むな」「他人を殺すな」などが通常の社会で良心と対立するような場合は考えにくい。 もし万が一、本人の良心と宗教の教えが対立する場合、本人にはその宗教をやめる選択があります。 社会には宗教を必要とする人もいる。そうした人々の宗教生活を脅かすことがあってはいけないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 自分のやりたいことと宗教の内容があわない場合、その教団から脱退することができます。  ☆ その自由がすでに ヒエラルキアないしそれが奉じるオシエのもとにのみ信仰の自由があるというかたちで制約されているところから来ています。  脱退するとともに 組織の内部における信仰の押さえつけについてもその問題を問うことができます。  自由に入会して自由に脱退することと 信教・良心の自由がヒエラルキアの権限関係〔としての人間関係〕によって制約を受けていることとは 両立します。いまは 後者の事態を問題にしています。  ★ 教えに異をとなえて、その通りに教えが変更されることはますないでしょう。  ☆ どう変更されるかの問題は 次の段階になります。  まづは 思想・表現の自由が保証されているかの問題です。しょっちゅう論争をやる自由を保障せよと言っているのではありません。ヒエラルキアとしての権限関係によって制約されるならば そのこと自体がまづ問題だという意味です。  信教・良心の自由をねがい問い求めているそのシュウキョウが みづからの組織の決まりによってみづからその自由を食いつぶしている。という問題です。これは 組織宗教なら必ず例外なく持つことになる問題であろうと問うています。  ★ 教えが気に入らない場合は、その宗教をやめるか、似たような他の宗派に入り直すことができます。  ☆ すでに応答しました。  ★ 例えば、カトリックでは同性愛に対して批判が強いですが、キリスト教の他の宗派では寛容だったりします。  ☆ いまは 信教・良心の自由が制約をうけるかどうかにしぼっています。  ★ あるいは、独自の宗派を立ち上げることもできます。キリスト教の宗教改革もその例です。世の中に元の宗教から分派した無数の教派が存在するのは異をとなえた人がいるからでしょう。  ☆ 聖職階級制があるところ すべて同じ問題だと言っています。  ★ 世間によくある宗教の教え、例えば「他人のものを盗むな」「他人を殺すな」などが通常の社会で良心と対立するような場合は考えにくい。  ☆ この倫理規範――なんぢ ころすなかれ。ぬすむなかれ――は 良心・信教の自由のもとに個人が得た信仰のもとに(その場合 無神論なる信仰でもよいのですが) その倫理事項をあくまで《考える》ことをとおして みづからの行動をえらぶところにこそ・そしてそのところにのみ 生きています。  組織宗教のオシエあるいはヒエラルキアなる人間の上下関係にもとづきこの倫理規範が持たれ守られるなら それは――そのこと自体において―― 一人ひとり個人にとっての信仰がすでに制約を受けている。あるいはあたかも誘導されているかたちである。  これが 人間性をゆがめているうたがいがかかる。こういう物言いです。  《人がひとをころさない。人のものを盗まない》 こういった内容の思惟と行動が漠然と 社会の中ですでにオシエ(あるいは ナラハシ)となっていることはあり得ますし それは 言ってみれば自然の事態です。  ところが 組織としての宗教にあって その守るべきオシエとしてや権限関係のもとに促されて 思惟を押しつけられ行動を誘導されるとしたら それは 人間性にとって不幸です。自由ではありません。  ☆☆ (趣旨説明欄)  オシエを個人の信教・良心に先立つこととしていないか? そのオシエをつかさどる職制をつくったハカラヒは 人間性を曲げ縮めているのではないか?  ★ 社会には宗教を必要とする人もいる。そうした人々の宗教生活を脅かすことがあってはいけないと思います。  ☆ 表現の自由という観点から見て ひとりの社会人としての人間が互いに その自由をまもりつつたとえば《オシエ一般》をもまなんだり批判したりすることは 社会にとってすこやかさのシルシでしょう。そのすこやかさをさらに確かなものとするための《宗教組織》があるか? という問いです。ぎゃくでしかない。つまり 表現の自由を脅かすために組織があることにしかならない。という物言いです。

回答No.1

神道の神主の営業免許は半年研修するととれるって聞いたことがあってね。 シャーマン的仕事をすることもある私は真剣に営業免許がほしいよ。 おおっぴらに神を持ちだせると仕事の効率化が進むんだ。 経験上、そういう仕事はありだよ。 今回は別の視点の話の様だがね。 何度も指摘しているが、各々の信仰心で形成される社会について、君は無視しすぎだよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 各々の信仰心で形成される社会について、君は無視しすぎだよ。  ☆ 信仰心とそして《その信仰心を二人以上の人びとのあいだであれこれ権限をもって評価し個人の思惟や行動を決まったかたちに誘導すること》とは 別である。このことをあなたは無視し過ぎです。  ご回答ありがとうございます。

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  • 信じているとは 心が閉じられていないことである。

     《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと理解していますが これは どういうことか?  できるだけ経験的なことがらによって表現された説明を持ちたい。  次のように考えますが どうでしょうかという問いです。  非思考である・すなわちじつは――じつに――思いや考えなど意志によるハカラヒはないのですが しかもあたかも《志向性》にたとえられるかも知れません。  どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。  心の伸び? 心の明け?  けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外に関係なく直感および直観がおとづれるのであるゆえ。  そうだとすると たぶん 非思考の庭が成るという信仰〔とその動態〕というのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。こういうことではないか?  たぶんこの《信じる》にあっては その対象は ひとつであるはずだ。  全体としてのひとつであるはずだ。  どんな名前を持って来ようと それは《かみ》である。《無い神》を持って来ようと 同じくである。  人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。無神論なる信仰をもふくめて 人はその神の名を自由にえらべばよい。  これが 信教・良心の自由の中身である。  

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