• 締切済み

心の明けが いちばんだ。

 おそらく ヒラメキの問題である。  ハカラヒが無いということ。  心の伸びとは何か? 心の明けとは何か?  けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。  明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。    なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外という捉え方から自由に 直感および直観がおとづれるのだと思われるゆえ。  そうだとすると たぶん 心の明けというのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。  ということではないか?  《閉じられていない》とは とうとく偉大なことなのだ。  たぶん これが 信教・良心の自由の中身である。  何でもをえらべる。  これを問います。思いっきり自由にご見解を述べてみてください。  

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

B様、ありがとうございます。 >「オシへとは別です。」 そりゃ、そうなんですけど・・・ 「納税の義務」は・・・ (「「社会」で、より(経済的に)成功している者ほど、「社会」に必要不可欠な納税を!」という理屈があって)

bragelonne
質問者

お礼

 ★(回答No.2) 「「信教の自由」には、限界がある」これを言っておかないと、「オーム」です。  ☆ どういう限界がありますか?  たとえオーム信者でも 《心の明け(心が閉じられていない。何でもをえらべる)》については 無条件で自由にあてはまります。    そして オシへは 別です。オシエは 心の明けにかかわる《信じる》とは関係ありません。《考える》ものですから。  ご回答をありがとう。

bragelonne
質問者

補足

 もし質疑応答がつづくようでしたら ほかの質問にてつづけてくださるよう願います。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

B様、こんばんは。 このところ、急に、宗教色が強まって参りました。 「「信教の自由」には、限界がある」これを言っておかないと、「オーム」です。 ・・・無論、「内心の(に留まる)自由」は100%「自由」です。

bragelonne
質問者

補足

 どういう限界がありますか?  ★ ・・・無論、「内心の(に留まる)自由」は100%「自由」です。  ☆ は オシへとは別です。

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回答No.1

あんたの言う心の明けは、どちらかというと芸術家向けの学問で、私の言葉では「感性の潤い」だな。 哲学は感情を殺す事だろうよ。 釈迦と所詮西洋も共通項があるのだろうよ。 質問の仕方が失敗だったようだから出なおした方がいい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  質問の仕方は 具体的にどうだと言わないと分からない。  哲学は 感情であろうと何であろうと 事実認識から入る。  必要に応じて おのれの意向あるいは志向性をも加えて その世界認識を述べる。  自分の意志をもそこに含めているということは この世界認識が 認識した現状に対する交通整理と成っている。  何ならこの交通整理としての意志には 問題をめぐって この野郎とかアホンダラメがとかの感情も――文面には入れないが・または必要に応じてこれをも入れるが――とうぜん一緒に動いている。  事実認識と問題整理に役立つことなら 感情をも表わしておく。  この基本としての行き方をなおまだ つかんでいないようだ。

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  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

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  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • 心なき身にも あはれは知られけり 鴫立つ沢の・・・

        心なき   身にも あはれは   知られけり   鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ  (1) 文学としての解釈の問題もあろうかと思いますが 哲学として問います。(文学としての問題が 哲学としても重要だというご見解のばあいには そのように述べてくださるよう願います)。  (2) 《こころなき》は 作者の本心か?  (3) すなわちただ自嘲気味に言っているに過ぎなくはないか? その場合にはむしろ世の中の人びとのほうこそが 《心なき》状態に落ち入っているとまで――謙虚の気持ちを保ちつつもどうしてもその気持ちさえをも突き抜けてしまってのごとく―― 言おうとしていないか?  (4) そこまで辿り着くには 言わゆるワビ・サビの境地に到ったという人生の道程があったか?  (5) 言いかえると 世の中の人びとは 一般に世間の義理と人情なるしがらみの中にあって 社会のお二階さんたちの謙虚な威張り散らしの影響を受け 心ならずも《心なき》状態に落ち入っている。だが このナラワシを嫌って・その意味で《心無い》振る舞いをつらぬいて来たわたしにも 《あはれ》は分かると言っているか?  (6) そうだとした場合 では この《あはれ》とはどういうことか?  (7) シガラミを嫌う・避ける・逃れるとは どういうことか? その手段は 出家しかないのか?  (8) シガラミから自由になるとは どういうことか?  (9) その道程に試練があり 言わば巡礼の旅路をたどり やがてワビ・サビの境地に到るというのだろうか?  (10) そうだとした場合 それは どういう道筋であるのか? 哲学はどう答えるか?  (11) とは言うものの 《あはれ》ないし《もののあはれを知る》と言えば 何となくでもわれわれはすでに初めにその道程の行き着く先のことを知っているようにも思われる。そういう直感ははたらくのではあるまいか?  (12) さしあたり質問者の主題としては こんなところです。ご見解を述べて けっきょくのところ日本の社会を基礎にしたご自身の世界観をご披露ください。  (13) そのほか ご自由に西行のうたをめぐって ご投稿をお寄せください。