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わが《固有の時》とヒラメキ

 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

みんなの回答

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.22

お礼ありがとうございます。 >☆ それと 仲間や親しい上司に相談するのもよいと思います。自分が決めるのですが 相談するのも何の問題もないのですし。 誰に相談しても 仮病と言われましたね。お医者さんも体調不良というだけでした。 信じられるのは自分ですよ。私の宝物は知識ですから。ソクラテスの「無知の知」は良い言葉です。 これからも 誰にでも優しくしていきたいと思います。では。では。

bragelonne
質問者

お礼

 そうでしたか。いろいろ事情があるのかと思います。  横から何かを言っても 事情が分からなければダメな場合もあるようですね。  そうですか。もう過ぎたことなのですね。それはそれで 済んでいるのですね。  おつかれさまでした。  ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 みなさん ありがとうございました。  引き続きよろしかったら あたらしい問い求めに移ってみてください。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.21

こんばんは ブラジェロンヌさん お礼ありがとうございます。 おっしゃっていることは分かるのですが。 人間は 社会というコミニューティーで生活しています。 法律、道徳、等守らなければならないルールがあります。 人間関係は重要ですよね。誰もが無理をしてでも頑張りますよね。 自分の環境を大事にしなければいけませんし 周りの人達の助言は無視できませんよね。 人間は自分の生活を良くしようと思う生き物だと思います。 自分が周りの人達に認められ ようやく将来の希望が観えてきた時 霊感があったとします。 今までの環境を捨て 仲間を裏切ることができますか? 例えば 野球で10連勝している投手が 霊感があったので 体調は何処も悪くないのですが1~2か月休養します。 可能でしょうか?お医者さんが調べても異常はないのですよ。 私自信も職種は違いますが休養できませんでした。お医者さんも症状がでないと判断できません。後 1日遅れていたらヤバい状況の病気でした。 人間は社会や仲間の信用を無くしたくないのです。 集団心理に弱い生き物なのです。 何かを信じたいけど 霊感は論理的でないので信じられない代物だとすると  基督教が弊害が少なくて心を穏やかにするのなら 宗教団体を完全に否定することはできないと思います。 お釈迦様のように 「犀(さい)の角のごとくただ独り歩め」=(上から目線の偉い人間になるなだと思います)そんな人間は少ないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 自分が周りの人達に認められ ようやく将来の希望が観えてきた時 霊感があったとします。 / 今までの環境を捨て 仲間を裏切ることができますか?   ☆ ミラーニューロン現象がはたらいていることを前提としてください。  もし周りの人たちからみとめられていないとすれば  それは その周りの人たちの心の問題です。《みとめられていない人》は ただ透明の鏡になっているだけです。  それでも仲間を裏切らないでいたら とうとう周縁に追いやられやがてその輪から外へと出されたりすることがあります。  《裏切り》をするのも その受け身の人間ではなく 周りの人たちや仲間のほうです。  世の中が さかさまに成っています。社会も あたまで立って逆立ちをしています。お二階さんが えらいさんとして引っ張って行くかたちに成っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  野球で10連勝している投手が 霊感があったので 体調は何処も悪くないのですが1~2か月休養します。  可能でしょうか?お医者さんが調べても異常はないのですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから ヒラメキは 活用できるかどうかを判定すればよいのです。要らないと判断すれば 捨てればよいのですし 活用しようと思えば そうすればよい。  別にその活用がつねに成功するとは決まっていません。それでも本人の確信として行動します。人生は 選択です。  ★ 私自信も職種は違いますが休養できませんでした。お医者さんも症状がでないと判断できません。後 1日遅れていたらヤバい状況の病気でした。  ☆ それと 仲間や親しい上司に相談するのもよいと思います。自分が決めるのですが 相談するのも何の問題もないのですし。  ★ 人間は社会や仲間の信用を無くしたくないのです。 / 集団心理に弱い生き物なのです。  ☆ 仲間がその輪から追い出そうとするのでなければ 信用を無くすまでのような事態にはならないと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  何かを信じたいけど 霊感は論理的でないので信じられない代物だとすると   基督教が弊害が少なくて心を穏やかにするのなら 宗教団体を完全に否定することはできないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこをねらうのが シュウキョウです。よわいところを突いて来ます。おれたちの中に入れと。それだけを商売としているのですから。  だから 《完全に否定します》。《人間ではありません》。  シュウキョウの人間はみんな心の中で 舌を出して 笑っています。ひっかかったと思って。  ひとりであゆむ――わたしのような――人間は みんなの輪からはみ出すべくしてふるい落とされるのだと思います。受け身でいたら 一匹狼に成らされたのです。  ですから そのようにわたしを追い払った人間たちが 心を入れ替えたときには わたしは何もせずに 人間としての輪の中にいることになる。はずです。けっきょくわたしは何もしていない。その場を動いていないのですから。  どこかから こういう話になってしまいました。  

回答No.20

18のお礼読んだよ。 おじいちゃん。 あんたは年下の俺の弟子か。 実在する妖精の捕まえ方を伝授した直弟子はもはや皆殺しだ。 やはり滅びの宴だ。 私に判る事が、いまだにあんたにも判っていない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私に判る事が、いまだにあんたにも判っていない。  ☆ それは何だろう? と考えるのだから 確かに分かっていない。  ★ やはり滅びの宴だ。  ☆ ですから 《ほろび》は あくまで《ふるきわれの死》として起きる事件です。  師匠にさえならなければ 弟子でも何でもいいよ。ただし 自由を留保している。

回答No.19

ちょっとはげましとくよ。 どっかで斜め読みしたんだが、あんたは独身で子供もいないんだってね。 そして、いつ御迎えが来てもおかしくない年齢だ。 いやそんなあんたが、自分自身の人生を楽しんでいるのは、円熟そのものだろうさ。 でもそれが「生きる屍」と同じ滅びゆくものなのだよ。 哲学者として死に挑戦してみろ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 哲学者として死に挑戦してみろ。  ☆ だから もう挑戦し終わっています。  どのように?   《死に行く身と心とは すでにふるきわれとして死んだ》かたちにおいて。

回答No.18

17のお礼について、親切でも厳しい事を言ってやろう。 君はやはり死を自らが解決していない。 自称弥勒菩薩から言っておこう。 そんなんじゃ仏陀を名乗るな。

bragelonne
質問者

お礼

 不死身になれってこと?  必要あるかなぁ。  ブッダを名乗るのは さとりをすでに――むしろ誰もが生まれつき自然の本性にあって――得ているという意味。  ご回答をありがとう。

回答No.17

幻影についてだよ。 読んだかどうか、憶えているかどうか判らんがね。 借金取りは命までは取らない。 何故なら死は究極の夜逃げだ。 生かしたまま取り立てる。 したがって君たちの将来に予想される生活の危機は幻だ。 滅びるってのは、こんな死の予感だよ。 死について自分で解決していないんだよ。 あんたも今でもそうだよ。 だから無理心中に巻き込まれると言ったんだ。 君を憐れんで慈悲を表そう。 幻の死に踊るな。 幻影だ。

bragelonne
質問者

お礼

 一理あるなぁ。  ご回答をありがとうございます。  ★ 死について自分で解決していないんだよ。 / あんたも今でもそうだよ。  ★ 幻の死に踊るな。 / 幻影だ。  ☆ これらのあたり。  確かに《死》について《解決》はしていないよなぁ。特にこだわることがなくなっている。また その意識があらわれるなら よく使う。思いや振る舞いにあたって よく用いる。  《まぼろしの死》に人びとは《踊っている》ことがあるように思う。  それならむしろ死におびえているほうが 実存としてふさわしい。  ただ 死の意識は まぼろしではないよ。現実だよ。  《生活の危機》もあるだろうけれど 自分が突然消えるということの意識。これは まぼろしではないと思う。  そして 誰も自分で最終的に解決したという者はいないと思う。  だけれど 《無理心中》やそれ《に巻き込まれる》というのは むしろまぼろしに近い。  その意味は 現実にそういうことが起こるかも知れないけれど それは 意識がまぼろしでない分だけ 現実的なのであって しょせん意識の問題である。意識だけの問題。意識までの問題。だと思う。  こんな感じになったけれど。・・・

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.16

こんにちは ブラジェロンヌさん >☆ これは 違うと思います。つまり 《その場しのぎ》が出来ればじゅうぶんです。ヒラメキの効用はあったのです。 たぶん 私が答えた内容が伝わっていません。 生命に対する認識 すなわち 自由意志によって その人の感情が変わらない限り その人の災難は同じように 同じ時間に別の空間で起こるということです。 だから その場しのぎであり 災難が別の場所でその人に起こるので 状況は変わらないという意味です。 >☆ 直前のあ_ほなさんとのやり取りでも出て来ましたが 要らないものは捨てればよいのです。どうでもよい内容のヒラメキは 要りません。 まあ 自分だけは災難から逃れているので 捨てる必要はないと思います。 霊感は他言無用ということでしょう。余計なお世話でした。 結論として 論理的内容がない他人の霊感は捨てた方がよいということですか? お伽噺の宗教本は捨てろですか? 世界中の教祖も他言無用だったら 平和だったのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。こんばんは。  ( a )★ その人の災難は同じように 同じ時間に別の空間で起こるということです。  ( b )★ だから その場しのぎであり 災難が別の場所でその人に起こるので 状況は変わらないという意味です。  ☆ ( a )と( b )とは 両立し得ません。  ( a )なら 別の人の・その人に固有の時におけるヒラメキが 問題となります。その場しのぎのためにです。  ( b )なら 別の時間においてでしょうから その同じ人の別のヒラメキが 問題となります。それだけの話になるのではありませんか?  ★ まあ 自分だけは災難から逃れているので 捨てる必要はないと思います。  ☆ てふ_てふさん 論理が入り乱れていますよ。  《災難から逃れているの》なら 要らないヒラメキではなく活用したことになります。捨てる・捨てないの前に すでに活かされています。役に立っています。    ★ 霊感は他言無用ということでしょう。余計なお世話でした。  ☆ いや。何にも決めていません。要るか要らないか。役に立て得るかどうか。自分のヒラメキにしろ他人のヒラメキにしろ そのように判断して決めればよいだけです。  ★ 結論として 論理的内容がない他人の霊感は捨てた方がよいということですか?  ☆ 有効活用し得るかどうかです。論理がなくても 活かすことができる場合もあります。  ★ お伽噺の宗教本は捨てろですか?  ☆ (あ) シュウキョウは 基本がオシエです。  (い) オシエは それとして倫理でありその規範であり 一般に哲学の範疇に入ります。したがって哲学として 扱い考え処理すればよいでしょう。  (う) 問題は そのオシエを信じなさいと言って来る場合です。考える対象をどうして信じることが出来るのか? 無理難題を要求しています。つまり そのシュウキョウ人は 阿呆です。考えるは思考 信じるは非思考です。  (え) そのように言ってやることが肝心です。  (お) 信じると言えば 昔からつまり生まれたときから わが非思考の庭には とうといいのちのチカラとしてブッダターがやどっている。これを わたしは信じている。と言ってやってください。  (か) 信じることは 組織や集団でやることではない。とも言ってやってください。それでは せいのっという掛け声とともに一斉にみんなそろって これこれの神を信じましょう・・・などというバカがいたら あざけりわらってやるしかないと思います。  (き) ヒラメキや物語が有効であるかどうかは それがおとぎ話であるかどうかでは決まりません。世の中のちょっとしたことにも 神からのメールが潜んでいるかも知れないからです。ごきぶりか何かの動作にも 神のちからが あらわれているかも知れません。  (く) 要るか要らないかで 捨てるかどうかを判断してください。捨てたあとに 必要だと思いなおしたら 拾えるものなら拾い上げればよいでしょう。  (け) すべては 臨機応変に!  ★ 世界中の教祖も他言無用だったら 平和だったのでしょうか?  ☆ (こ) 前段の諸項で触れたとおり シュウキョウというシュウキョウは 阿呆という土台の上に建てられています。神が分かっていない。  (さ) 観念の神を後生大事に信じ込んでいる。神についても信じるについても 自分の人間としての物差しで判断し切ることが出来て すべてをあやつれるとでも思っています。  (し) ローマ法王などは 神のこの地上における代理人であると考えられています。どこをどうクリックしたら そんなページが出て来るのか????? 代理人だから 無謬性を帯びているとさえ言います。《まちがえることがありえない》のだそうです。ガリレオのひとりや二人を腐らせてもどうってことないと思っている。阿呆の極致です。  (す) 《教祖》は 人間ではありません。人間への支配欲によってみづからが支配され 金儲けのために日夜いそしんでいる動物です。  (せ) でもそれでも 人間として生まれて来ているのでしょうから 何とか人間としての目をひらかせてやらねばなりません。その前には ほろびなさいと言ってやるとよいでしょう。ふるい人がほろびて やっとあたらしい人に生まれ変わることが出来るものだからです。  (そ) だけれど だまされるのは だまされるほうがわるい。すくなくとも二度目からは。  (た) シュウキョウは 百害あって一利なしです。どうでしょう?

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.15

お礼ありがとうございます。 > ☆ とおっしゃるのは まだわたしには思考の継続であるようには思います。言いかえると ヒラメキはやはりその思考過程の節々に断続的に起こることはあってもという捉え方です。 思考しないで湧き上がってくる物を眺めているのは 個人的には思考と言えないと判断しています。 今までは断続の短い完結が、超ロング型に移行したような。 それが、常なのかそうでも無いのか。 継続的観察を要しますね。 ただ、理解のひらめき回数は上がっていますね。 繋がりがあれば長く出て、短く完結する物は終わるとは思いますが。 影響し合う物が、どこまで続くかです。 私の必要性に関係するのかもしれません。 あらゆることは、想定できますが あるがまま観察して、結果はそれにより絞られてくると思います。 ひらめき結果は、またいつか。 では、失礼します。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  そうですね。もし:  ★ 影響し合う物が、どこまで続くかです。 / 私の必要性に関係するのかもしれません。  ☆ ここに注目するとしますと わたしの推測では その主題に関係するかも知れないのではないか。  主題の性格として いろんな角度から眺めてその問題点ないし答えの核心部分を捉えるという場合 そのようにさまざまな視点ごとの回答が出て来るかも知れないかなと。  ただわたしは そのつどのヒラメキは 一回ごとにやはり完結しているのではないかとは感じています。  ★ 思考しないで湧き上がってくる物を眺めているのは / 個人的には思考と言えないと判断しています。  ☆ という捉え方であるようですが そのまま同じことをわたしは《思考しないでいる状態》で区切られている・隔てられていると見ると思います。主題の内容はつながっているとしてもです。ヒラメキは そのつど一回ごとに起きるものだと。    まぁ 大きく広いそして長期の観点から捉えるなら 連続しているということかも知れないですかね。  保留としても そう問題はないと思います。  またどうぞ。ありがとうございました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.14

お礼ありがとうございます。 瞬間的なひらめきも存在しますし それが畏れであるなら、やるやらないの限定付きでしょうか? 私は「何をやる」「どれをやる」も存在しますし 「やらない」は、深めると別のことをやっているに 過ぎないと理解してます。 それは、質問では無いので割愛します。 断続的なひらめきですが、それもあると思います。 私も以前は、瞬間と断続しか持ってませんでした。 今回たまたま面白いなと思ったのは、意識的に思考しなくても 意識上に思考が上がってきて、それが見事な説明になっていること。 その上がってきた物を確認するのに思考は使いましたけどね。 なるほど、そこが繋がって論理として矛盾無く形成される訳ねって感じで。 抽象化されて、それが深い理解がないと現実化 つまり行動に及ぶ物では無く、机上の空論と化すではないですか。 抽象化から法則性のあるポイントが見つけられ それをいかに活用できるか、ミクロからマクロまで つまりは、個人から世界全体に至るまで どの大きさでも使える繋がりのある理解が出てきた訳で こんな長い一繋がりは始めてでしたので、私としては「ほ~~~」と思いました。 長い長い連続的な複数を有する理論構築が出てきて 少しずつ理解が深まっていくスピードが、以前では全く考えられないほどです。 それが通常のごく自然なひらめきとして有する人がどれだけいるのか 永らく名が残る人にどれだけ存在したかもわかりません。 頭の中では、どんな形で処理されているのかは記録が無いからですね。 感じるのは、演算処理のような形の後、意識上にあがる感覚と その情報がパンチされてカタカタ出て来るほどに遅いということです(笑) パンチと違うのは、繰り返し上がってくることと 情報が徐々に増えていき、全体像に繋がるところでした。 自己統一を目指して歩を進めているので 統一性が高まると、処理速度は上がると思うのですが。 自分を理解するのが、世の中をそして外の現象を理解することに繋がると それが、人間が本来持っている力を引き出せるようになることであり その時に人はどのような成長を遂げるのか。 私の興味は、そこでありますから ひらめきに関しては、今のところ「変化するもの」ですね。 大きくは、2種類は2種類ですけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  自分を理解するのが、世の中をそして外の現象を理解することに繋がると  それが、人間が本来持っている力を引き出せるようになることであり  その時に人はどのような成長を遂げるのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この主題に注目しました。  いまひとつの課題である《継続するコギトをもたらすようなヒラメキ》については もう少しご議論の熟すのを俟ちたいように思います。  つまり  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  抽象化から法則性のあるポイントが見つけられ  それをいかに活用できるか、ミクロからマクロまで  つまりは、個人から世界全体に至るまで  どの大きさでも使える繋がりのある理解が出てきた訳で  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とおっしゃるのは まだわたしには思考の継続であるようには思います。言いかえると ヒラメキはやはりその思考過程の節々に断続的に起こることはあってもという捉え方です。    もっとくわしい説明を聞いて納得するに至るかも分かりませんが。  そこで 言ってみれば《固有時における〈わたし〉》といったテーマです。すなわち:  ☆☆ (趣旨説明欄) 1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる〔ものの〕庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  ☆ これは 舌足らずだったと思います。  こうなります。:   ひとは孤独である。と思う。独り生まれて来て 独りで生き  そして死んでゆく。   この孤独に沈んだように身をおいてみると やがてそこから  やや浮かび上がって来るかのように この孤独は 人と人との  あいだなる孤独の関係なのだと知る。   そこに・つまり社会にある自分という自覚に おのれの《も  っともわたくしなるもの》に行き着き あたかもそこにおのれ  の《庭》を見出したかに思う。   ここからただちに いつもヒラメキが得られるわけではない。  そうではなくて この庭におのれがあそぶとき 固有の時を持  ったと思うのではないだろうか。   そうしておそらく 良きヒラメキが得られるならそれは こ  の庭にあってではないであろうか。  こういう捉え方についても じつは主題として持ってはいました。きちんと説明し得ておらず また焦点としても伝え得ていないと思いますが。  かんと‐i さんは 別の表現で捉えておられます。ふたたびですが:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分を理解するのが、世の中をそして外の現象を理解することに繋がると  それが、人間が本来持っている力を引き出せるようになることであり  その時に人はどのような成長を遂げるのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 要するに《本来持っているチカラ》という場合には 《われに還る》ときであり《わたしがわたしである》庭にあってのことではないか。というこちら側の解釈になります。  その時成長を遂げるには そこで得られるヒラメキが大いに役立ってくるのではないか。とも考えます。一丁目一番地みたいな庭でしょうか。  ★ 私の興味は、そこでありますから / ひらめきに関しては、今のところ「変化するもの」ですね。  ☆ 《関係しあった内容のヒラメキが 断続的にだとしても つづいて得られる》ような経験でしょうか?  ヒラメキ A から A1へ そして A2へと《変化する》ということでしょうか?  しょうじきに言えば わたしはあまりそういう経験はないですね。ひとつのヒラメキは その一個として言わば完結している。というように体験して来ています。  むかしのヒラメキと同じような内容の別のヒラメキを持ったという場合が あるか?  いまのところ 分かりません。    どうですかね。いまのところは思考の発展過程ではないかというようにわたしには見えています。みなさんにも ご見解をつのりましょうか。   

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.13

ひらめきは二つあり、一つは瞬間的に思いつくこと もう一つは、理解することで知ること。 知り得たから、必ずしも行動に移すとは限らないのが 人間の選択意思であること。 複雑な論理的構造を持たないひらめきは、二者択一などの 場合が多く、えてして実行に移されやすい物が多い。 複雑な論理構造を持つ、新たなる理解としての知を得るのは それまでの的確な知識の積み重ねと整合性を持つ物であり それをどの場面でどのように使用するかの判断は 自身の選択に多いに委ねられている。 後者は、学術にも多く見られる。 例えば数学で有名なフェルマーが問題だけ出して相手を翻弄して 楽しむ場合などで、自分のひらめきをどう使うかは本人の意思である。 例えば憲法九条を、構造まで解析し抑止力が2種類あり その法則性を展開し、明確にした物を日常で使えるレベルまで 説明でき、誰しもが容易に判断できるレベルまで咀嚼した物を その質問の意図の怪しさが見え隠れしていると判断し あえて上げないのも、また私の意思であると自分で言える。 そのような複雑なひらめきが、自己の中で生成されて行く様子が みて取れただけでも、今の自分は良しとしてどう使うかは ゆくゆく考えるものと言えるからである。 自己統一性で、ひらめきは変化するので 今以上から先のことは、どうひらめいて行くのか 自分でも不明であるので、またいつか変化が起きたら話をするかもしれません。 数ヶ月先か、数年後か。

bragelonne
質問者

お礼

 かんと‐i さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ひらめきは二つあり、   一つは瞬間的に思いつくこと   もう一つは、理解することで知ること。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト(われ考える)・ヒラメキとです。  ★ 知り得たから、必ずしも行動に移すとは限らないのが / 人間の選択意思であること。  ☆ ええ。そういう問題を扱おうとしています。    ただし 少し角度が違うかも知れないのは 《その知り得たこと》が あくまでここではヒラメキからのものだったという前提を置いていることです。  言いかえると ヒラメキの持つ促しのチカラは かなり大きいのではないか。といった観点をめぐってです。(もっとも それでも――やましさ反応をともなってでも・つまりそれにさからってでも―― そのヒラメキから得た知識や指示をこばむことは出来る。というひとつの見方に帰着して来てはいます)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  複雑な論理構造を持つ、新たなる理解としての知を得るのは  それまでの的確な知識の積み重ねと整合性を持つ物であり  それをどの場面でどのように使用するかの判断は  自身の選択に多いに委ねられている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 特に前半はそのおっしゃるとおりだと思うのですが こうなるとすでにヒラメキの場面から遠ざかってしまうのではないでしょうか?  ここではヒラメキの持つ射程と言いますかそのチカラにしぼって考えようとはしています。  つまり同じく  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば憲法九条を、構造まで解析し抑止力が2種類あり  その法則性を展開し、明確にした物を日常で使えるレベルまで  説明でき、誰しもが容易に判断できるレベルまで咀嚼した物を  その質問の意図の怪しさが見え隠れしていると判断し  あえて上げないのも、また私の意思であると自分で言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という問題は その発想じたいがヒラメキから得たものであったとしても 問題じたいはすでにヒラメキから ふつうの思考や意志判断の領域に移って来ているのではないでしょうか?  (それはそれで 大きな主題であり問題であるのですが)。  次のご説明は ちょっと考え直させられるようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そのような複雑なひらめきが、自己の中で生成されて行く様子が  みて取れただけでも、今の自分は良しとしてどう使うかは  ゆくゆく考えるものと言えるからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。発想はヒラメキであった。そしてそのヒラメキ案件が 問題に対する回答の仕方の場面に移ってもなおまだ そのヒラメキ発想をどう活用するかの点で からまっている。――ということでしょうかね。それは あり得るでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  自己統一性で、ひらめきは変化するので  今以上から先のことは、どうひらめいて行くのか  自分でも不明であるので、またいつか変化が起きたら話をするかもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう現実問題と言いますか いろんなさまざまな要素が絡み合っている事態や情況についての考えは 基本としてヒラメキに限る。ただただ思考を延々と繰り広げていても ダメなときがある。・・・  いわばヒラメキの継続性という主題をも取り上げておられましょうか。  あまり考えたことはなかった問題ですが。(わたしなら 一たんヒラメキは切り上げるかも知れません)。  あぁ。ということは 冒頭に二つ目のヒラメキとして:  ★ もう一つは、理解することで知ること。  ☆ というようにコギト・ヒラメキを挙げておられたのは 持続するヒラメキといった観点があったのでしょうか。  そうですね。わたしは 断続的であってかまわない。という派ではありますが。

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     1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。  2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。  3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?  7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?  8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。  * まだ熟さない感がありますが その点あらかじめおことわりしておきます。

  • ヒラメキは どこから来るのか?

     直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

  • 《〈無限〉は実証不可能》とは いつ実証されたか?

     1. ここで《無限》とは 《非経験の場》とよぶべき概念です。そしてこれは ただ言葉としてそのように想定したというものです。  2. この相対的ですべてはうつろいゆく有限の経験世界において その因果関係や有無の規定からいっさい自由な場――つまり従って《非経験の場》――のことを 《絶対》または《無限》と呼びます。  3. 無限は 二で割っても三で割っても その商は やはり無限です。  4. この非経験の場――それを人間がその精神に受け留めるなら 言わばわが心なる《非思考の庭》という想定となる――としての《無限》は 実証されているか? もしくは 実証が不可能であると証明されているか?  こういう問いです。  ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    精神の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * 《心の明け》というのは わが心に窓があって それを開ければさらに世界が広がるといったことでは必ずしもなく――なぜなら 《非思考》なる事柄について 心の伸びがあると言っても その《伸び》すら思考し得ない・分からないゆえ―― したがってその意味するところは 差し詰め《心が閉じられていない》ということであり そのことはあんがい重要であると考えられます。  相手の言っていることを聞かないという場合が しばしば見られるからです。話の筋のハグラカシ これに長けているのでしょうか 日本人は。  また《無限》とは けっきょく《神》のことを言っているのですが。・・・

  • 信じているとは 心が閉じられていないことである。

     《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと理解していますが これは どういうことか?  できるだけ経験的なことがらによって表現された説明を持ちたい。  次のように考えますが どうでしょうかという問いです。  非思考である・すなわちじつは――じつに――思いや考えなど意志によるハカラヒはないのですが しかもあたかも《志向性》にたとえられるかも知れません。  どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。  心の伸び? 心の明け?  けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外に関係なく直感および直観がおとづれるのであるゆえ。  そうだとすると たぶん 非思考の庭が成るという信仰〔とその動態〕というのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。こういうことではないか?  たぶんこの《信じる》にあっては その対象は ひとつであるはずだ。  全体としてのひとつであるはずだ。  どんな名前を持って来ようと それは《かみ》である。《無い神》を持って来ようと 同じくである。  人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。無神論なる信仰をもふくめて 人はその神の名を自由にえらべばよい。  これが 信教・良心の自由の中身である。  

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 重力が意志なら 社会の時空間は意志関係で歪むのか

     1. ここはすべて タトエと想像の問題です。  2. ちなみにタトエではない問いとして 重力が空間のユガミだと言うとき 時間はどのようになっているのですか?  3. 重力が仮りに人間の意志だとすると 社会という時空間は 人間の意志行為が錯綜して形作られており そのときユガミを生じている。と言えるか?  4. シガラミによる制約――あるいは分かりやすく言えば 社会力学じょう有力な勢力による脅しによって行動の自由が制約されること―― これが ユガミか?  5. 重力があるということは 一義的に空間にユガミが生じるということであるとすれば 社会力学じょうも 人間関係の時空間におけるユガミは 人間に意志がはたらくからには 避け得ない経験則であるのか?  6. これは 自由意志の存在を明かしているだろうか?  7. なぜなら 《オドシ》というような意志を たとえ必然的な成り行きだと見るとしても それでよいとは誰も思っていない。オドシなる意志行為がよいとは誰も考えていない。――というような思弁としてだけだとしてもの意志自由が 人間にはもともと自然本性においてそなわっている。と言えるか?  8. ということは 人間の意志には 好ましい(または中立の)内容としてのハタラキと好ましくないオドシとしてのハタラキとがあると帰結しうるか?  9. オドシなる意志を発揮するのも 自由意志としての意志行為ということか?  10. 重力は 中立か? それとも 初めから世界が決定されていてその中で重力も 決定されているチカラであるに過ぎないのか?