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重力が意志なら 社会の時空間は意志関係で歪むのか
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- もし重力が人間の意志だと仮定すると、社会という時空間は人間の意志行為によって形成され、ユガミが生じると言えるでしょう。
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お礼
ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 この質問は 準備不足でした。 男女の――あたかも引力による――引き合いと言ったところは 必ずしも引力・重力ではないかも知れませんでした。 自然な引き合いは むしろ電磁力の作用のほうであるかも分かりません。 なにせその重力を意志にたとえているのですから。意志なら 電磁力の三つの相互作用がはたらいてから おのれの意志を決めこれを表示するという行為 これになるようですから。 あるいは ねこさんのお考えは 次のようでもありました。 【Q:《アース力》は 慈悲なるチカラだ。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7834459.html ◇ (その回答No.2) ~~~~~~~~~~~ 重力:社会のオキテ、決まり、法律 電磁気力:他者への愛(その反対として《憎しみ》) 強い力:自己愛 弱い力:自己を変質する(自然な)力 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしはなお重力は 《社会のオキテ、決まり、法律》にかかわっているとしても 一人ひとり個人の実存として必ず通らざるを得ない(通さざるを得ない)志向性でありその意志行為であると思っていますが この《意志行為》一般について もう少し説明をきちんとしてからでないと話が進まない。こう思いかえしました。 その上で 今回のご回答にお応えするとすれば そうですね 重力:中立論は まだ保ちたいとは思っていますね。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 重力は、基本的に引き合う力。 二人の関係ですと、軽いものが重いものの方に引っ張られてしまう、と思うんですよ。 発言力や権力、物理的強制力・暴力などを多く有しているものに、屈してしまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 重力としての意志が 中立である。作為は 初めには ない。という立論について 次のように考えます。 つまり 人為としての意志は 中立なる(ふつうの・そしてそれは 一般に生きることとしてのであるからには 実際には よい・好ましい)ハタラキの上に カザリとしてなお働く。カザリではない樅ノ木本体としての意志もある。と。 カザリとは よくもわるくも理性のハカラヒである。〔そこに感性・感情のおもむくところを含むけれども それを誘導するのは(または感情のおもむくところに屈服して かえって感情を引率するようになるのは) 理性および意志である〕。 カザリとは それが積み重なり ふるくなると よいものであってもしばしば――慣性の法則にしたがってのように―― シガラミとなる。(むろん ふつうに良いナラワシは あると思われる)。 カザリとして発動する意志以前の・ふつうで自然な中立の意志行為は これも あると考えられます。 男と女が 電磁力の作用で――感性・情感をつうじて――惹かれる場合 この関係をさらに進めたいというカザリとしての意志行為もあるわけですが そうではなく・そのような個別の人間としての意向を示す意志ではなくその以前に なお中立的な意志はあると考えます。 つまり このような男女の出会いにおいて なおきわめて中立的な《ただ単に共に生きる》志向性としての意志がはたらく。と思われる。その――カザリには到らない――意志によれば 互いに互いの《人となり》やあるいは置かれた情況などなどを あたかも第三者としてのごとく考慮に入れるといった志向性がはたらく。 この《共生としての意志》は むろん男女間だけにかぎらず ふつうに社会の人間関係にはたらく。こう考えられます。よって ◇ 発言力や権力、物理的強制力・暴力 ☆ これらの意志は 言わば不自然とは言わないなら第二の人為的な自然としての・つまりカザリとしての意志行為である。 すなわち ◇ 二人の関係ですと、軽いものが重いものの方に引っ張られてしまう、と思うんですよ。 ☆ という実際問題があるとしても――つまり むろんありますから しかも―― ひとつにそれは 第二次のカザリとしての意志行為であり たとえ実際にはこの有力か無力かの意志行為関係しか見られないとしても なお自然で第一次で樅ノ木本体だけの共生なる意志も あることをその二人のいづれの側もその心では知っている。 このように考えます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~ なんか危ないですよ、お隣さん。 ・・・ 今日、《ルビコン川を渡った》のかもしれません。 《賽は投げられ》て、《中国の目》が出た模様。。。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ニュースを見つけられず 聞いているニュースからは分からなかったのですが それはそうだとしたら いづれ はっきりしてくるでしょうね。