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電磁力(権力)が 重力(意志)を凌駕するか? 

 0. まづこの問いにかんするかぎり 自然科学の用語はすべて たとえでのお話ですとおことわりします。  1. 資本の論理に屈服するのは 電磁力にひとの意志としての重力が負けることと同じようなものか?  2. 資本の論理というチカラに屈服するというときには ふたつの要素がある。そのチカラを 政治経済的な圧力と捉えるなら これを ふたつの要因に分けられるであろうか。   ( a ) 政治的な要因: 権威・権力また権限が 絶対的に圧し掛かる場合のそのチカラ     ( b ) 経済的な要因: 政治的な(つまりいわゆる経済外的な)電磁力を振り払うに足る経済的な資力も自活力もない場合 やはり重くのしかかるそのチカラ  3. これらを内容とする資本の論理が しばしばそうであるように血も涙もないつめたい論理そのものであったとき これをこばむというおのが意志は かなしいかな ついえてしまう。ということは それでも この意志なるよわき重力は 堂々と存在すると言えるか?  4. 言えるはずである。しからば このいとしき・うるわしきわが重力は どこへ向かっているのか? 何を欲しているのか? 資本の論理に屈服しているとき 何を思っているのだろうか?  5. 重力なる意志は 消えてしまっているわけではないと言わねばなるまい。では 人間とは何なのか? 社会とは何なんだ? どういう成り立ちをしているのか? どこへ向かうのか?  ☆ 上手に受け留めてお応えしうるかどうかそれは ぶっつけ本番になり はなはだ心許ないことですが 思いっきり自由にご見解をお寄せください。  

みんなの回答

回答No.9

No8の回答についての、そちらのお礼文について再び回答しますが、 これは見解の相違というより、根の深い形での視点の相違による齟齬だったということですね。 私は、主観内面を物語っているわけではないわけです。 No、8に事実として、他の人との無意識領域にわたる繋がりの体験を書いてみたわけですが、その延長線上に私の宗教哲学は得られてきたわけですよ。 想定上の考えを練ることも、それなりに価値はあると思いますが、そしてその価値のコミュニケーションを求めるならば、その時には想定上の考えとして仏を語っているという説明の工夫がそのコミュニケーションの必須条件となるということは、当然のこととして解るつもりですが、 私の考えも、同じ基盤の想像力の世界の論理として規定されて、そう決めつけてコミュニケーションを求めても、齟齬が発生するのもあたりまえのことです。 ここまで根の深い齟齬…。 どうしようかと考えてしまいましたが、 もう一度だけ回答してみることにしました。 神についても、やはり30歳代の頃、悩みました。 でも、これ、実際に血を吐くほどのこれも無視識の奥からの悩みだったのです。 その苦悩の中身は、今ここにこの流れで書く気持ちは無くなっていますが、 結論は「何も、何も、わからない」という結果に。 完璧なまでにお手上げとなってしまったということです。 そのまま長い年月が過ぎましたが、その結論自体は変わりません。 しかし、そんな諦観こそが、存在の不思議さを私に気づかせてくれたのも事実です。 徐々にですが、その中から仏法への気づきも生まれています。 おっと、この血を吐くほどの悩みやその延長の世界も、そちらの視点からは主観内面の世界ということになってしまうのでしたよね。 するとそれは「想定上の問題」としておかないと哲学とは言えないという感覚の問題であり、 したがって、「想定上の問題」であるところの「即身成仏」や「即得往生」を想定上の問題として否定しておくのでなければ、私のその主観内面の世界は「一方的な演説」になってしまうという御説であるわけですよね。 「一方的な演説」とは、これは普通に考えていいのですよね。 つまりコミュニケーションはなりたたないですよ。というご意見だということと解釈していいということですよね。 これは、どういうことなんでしょうね。 同じ想像力でも、仮説の世界であるならば、これも仮説は仮説として最初から語っておくのが常識でしょうが、現実の抜苦与楽の苦闘からの仮説は、失敗しても失敗しても、それでも価値を求めて、仮設を次々と実践しゆけば、たとえぼろぼろになっても、いつしか事実としての真実に行きつく可能性は大きく、それは論議の対象としても、すでに体験している人から教わったり等、かなり効率的なコミュニケーションとなりえましょう。 しかし、想定上の問題の論議となってしまえば、これは、それは「想定上の問題」ですよと、最初から語っておいたにしても、コミュニケーションを成り立たせるのは困難ですし、仮に抜苦与楽を生み出す新たな答えが見つかったとしても、その複雑なコミュニケーションをどのように現実に生かすことができるのか、できるのでしょけれど、かなり不効率だと思えてしまいます。 そのやり方で、もともと神話とか寓話の多い宗教の世界の真実をひも解き、語りかたりあわんとしても、それこそどんどん難しい言葉のあやを想定上の問題だとして練り込み続けるだけのコミュニケーションとなって、手垢のついた食べられないうどん粉がどんどんおおきくなってゆくだけのように思えるのです。 宗教って、そんなものにすぎないですよ。というふうにあらゆる宗教は同じ穴のムジナとして正直に告白すべきだ、ということなのでしょうか。 それによって宗教同士の対立を止めさせようという意図なのですか? それですと「哲学による宗教の整理整頓」ではなくて「哲学による宗教の低レベル性のあばき」ということになるだけではないですか? もし低レベルのままでしたら、ましていくらでも想定できる想像力における喧嘩なのですから、むしろ、対立や喧嘩も永遠につづくと思えてしまいます。 仏教ってほんとうにそんなレベルの哲学なのでしょうか? 30歳代の頃のわたしよりも低いレベルの感性の世界なのでしょうか? かの「阿頼耶識論」において、7識、8識の自我の世界を越えて9識の仏界にたどりつくという教えも、「想定上の問題」として語られた、またそのように語られるべきだった仏説なのでしょうか? 人が実際に血を吐いてまで苦悩して求め続けた実際の世界の抜苦与楽の闘いや、そのための多くの人のその闘いの理解にはどうすればいいのかとうことの答えの世界、その答えは仏教ではどうなっているのかを求めて得られた心の光りの世界、 それを語るのが、どうして「一方的な演説」となると、決めつけられてしまうのでしょうか? 「同じことを話している」のではなくて、そちらのお礼文での解釈に気になる点があったために、もう少し深く考えてみて欲しいという想いから「さらに詳しく内容を説明している」のを、「同じ話し」と決めきってしまう立場に立たれ続けるのなら、 この今回の回答にしても、同じ話の繰り返しと受け取られてそれ以上は理解しようとされないのでしょうから、 ここでコミュニケーション不成立となるかと思うのですが、 ほんとうにそうなのでしょうか? 即身成仏が、哲学的にどういうものであれ、それが実際の切実な抜苦与楽の闘いに何ら光をもたらさないなら、思索は自由ですし、そこに遊ぶのも自由ですが、それは抜苦与楽の闘いにおいては御釈迦な話しですし、同じ自由を楽しみたい人たちをその世界に引き込むのも表現の自由ですけれども、 私はそれに引き込まれたくなどないですしね。 どうやら、私は、そちらの思考実験の世界には、価値はあり光りはあるのでしょうけど、とてもついてゆけなくなってしまったようです。 お互いの能力のちがいと役割の違いによるものでしょうか。 私の立場は、このような上記の観点からの忙しい立場となってしまっていますので、 おそらくですが、ここで対話、コミュニケーションはストップしてしまうことになるのだろうと思います。 一応最後に、そちらの気付きの世界を問うてみました。 以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 《血を吐くまでに何かをしたこと》であるなら 相手にその話が通ると思っているところが 哲学以前です。  迫真の演技をすれば 相手を説得することができると思い込んでいるところです。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  4. ・・・ このいとしき・うるわしきわが重力は どこへ向かっているのか? 何を欲しているのか? 資本の論理に屈服しているとき 何を思っているのだろうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問いに対して 《南無妙法蓮華経》を推し出して来るのは その資本の論理のもとにあえいでいるその喘ぎを そのまじないで忘れなさいと言っていることにひとしい。もし即身成仏でないならば。――こういう説明をして それ以上同じ演説をつづけることはやめてくださいと言いました。

回答No.8

私のNo6の回答に対して、そちらのお礼文に 》回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。  互いに主題を共有し論点を出し合って 互いの見解を突き合わせつつ 問い求めて行くという姿勢にはないと見ました。  これまでにお答えしたことによって すべて応答しえていると考えます。 《 と書いてありましたが、 そちらが書かれていますところの ≫《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。≪ のところと、 ≫このブッダターを言っておけば いちいち十界互具だとか一念三千だとかとまで言う必要はないと考えます。 実践していることが 肝心ですから。また 十界論を知らずにでも 実践はし得ますから。≪ のところと、 じつはあと一つ ≫★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。 しかし心は明らかにその方向に向かう。  ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。≪ に対応して その3点に対して、わたしなりに、ここはまず、十界互具のところからその深さを、さらに考えてみてほしいという気持ちになり、それだけでもとても書き切れない内容を少しでも詰め込んで書こうとしたことにより、長くなってしまった回答のつもりです。 そこを 》回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。《 と書かれてしまうと、 自説でないものを回答するなんて、そんな回答は困難ですし、 どうしても長くなってしまったところをそのように言われても、どうしたらいいかわからなくなってしまいます。 このNo5の方の私の回答が、実は、長くなってしまったのでとても書ききれない、中途半端に何か書けるような内容でもないというところから「パス」させていただいた、 ≫一発です。≪ をめぐるそちらのお礼文の部分が、No6の回答の引き金となった部分であることからも、 むしろ本当は、パスなどしたくない箇所でもあったわけですので、 ここは、書き方を変えまして、 出来るだけ簡潔性にも注意を払いつつ(その努力はしますので、なかなかそうはいかなくても、そのへんどうかご理解ご了承いただきたいです) その ↓ ≫★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。 しかし心は明らかにその方向に向かう。  ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。≪ ↓↓↓ の部分への回答をこちらに書いてみます。 (1) 「自然法爾」「ハカラヒなき自然」「義無きを以って義とす」というのは、浄土宗の教えでしょうか? わたしの考えではなのですが、この思想は《「何も考えなくても、仏に身を任せた気持ちになれば、自然に人間的に生きられる」 自ら世の中をよくしようとあがかなくても、その「安心立命」に立てばそれだけで、例え計画を立てるにせよ、自然に一番最良の計画もできあがる》といった 私達の心が仏と出会えば、後は任せるだけでよくなるというふうに、自分の考えを進化させる努力を放棄せよという教えに聞こえてしまうのです。 まず、今回の再回答では、 そのへんの質問者様のお考えをお聞きしておきたいです。 (2) そちらの言われている 》一発で癒されます《 の内容なのですが、 仮に(仮にという点を強調しておきます)そちらのお考えが基本的に 「仏にお任せしていれば、そして南無阿弥陀仏、あるいは南無「神の霊」と念じ、あとは何も考えなくても、自然に脳が働くままにまかせているだけで、正しく行動する道がおのずと開かれ、一発で人間として安心立命が得られる」 といったお考えであられるならば、  ≫☆ いえ。一発です。≫からの文は、 ≫ ★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。≪ という私の書いたことと対応されて反論されているわけですから、 その「安心立命」さへ得られれば、一発で「直ちにすべての悪が許せるようになる」と考ていると考えられるのですが、 ほんとうにそのようにお考えなのでしょうか? 「もし」上に書いたことに相違なければ、では、その証明はできますでしょうか? 私の場合の実例を書いてみます。 私は、ヤクザからも見放されたような「札付きの悪人」と呼ばれている人たちと、何人も友達になったことがあるのですが(当時は30歳代の頃なのですが)これは、一応に向こうから私と友達になりくなったのです。 それはおそらく私がただ単に色目ガメネをかけないで、ただ当たり前に同じ人間として接する心を、無意識の底から自然に持っていたからだと思います。 これって偉いとかご立派だとかいうことではないですよ。 そんな邪心を少しでも持ってたら、彼らはどんなに孤独であっても、そこに「「「友達になれるやつが、いた!」」」という気持ちにはなれないでしょう。 相手の私という人間は、悪についての話題にも共感してくれないし、同じ仲間の印としての朱にも交わってくれない、ふつうなら煙たい人間の一人のはずでしょ。 でも、そのいわゆる「極悪人」の人たちが、一応に私と一緒にいたがり、自分に前科も何もかも話したがり、一緒に歩きたがり、いっしょに山に川に出かけたくなり、私が何もしないのにお礼したがったりするのです。 どれだけ、どれだけ孤独だったのか ということと、ほんとうは全く同じ人間として「友」がほしかったのだということ、のその中に いよいよ「どんな人間にしろ、同じ人間は同じ人間なんだ」という感と感動を深めた体験でした。 ただ単に、自分をほんとうに偉いと思っていない人間だっただけで!! でもそれだけでは、彼らの抱えているあらゆる問題を一つも解決できたわけではないわけです。 そちらの言われる通り、それだけでその全員が改心したわけでもないのです。 当時のわたしの至らなさがそこにありました。 更生教育の力がもっともっともっと必要だったということです。 しかし、その更生教育には、前提として、そいつら前科者の脳が「そこに友だちがいる」と発見してくれるような無心に人間的に生きる人物であることが、その技術うんぬん以前に必須だと思います。 まだ「ホケキョウ」の「ホ」の字も知らなかった頃のことですけどね。 この実例をもとに、再質問します。 当時のあの程度の人間性の私ですら、極悪人が 向こうからそこに「友」を見つけてくれたのですから、 仏や神の霊に、すべてをお任せする心境になれば一発で、そこに「友以上」「恋人以上」の気持ちで慕ってくれるようになるのでしょうか。 まだ、そちらの言われる「神の霊」という言葉を理解しているとは思えないので「仏」にしぼりますが、まるで仏のように本当に一発でなれるということなのでしょうか? (3) 今回の回答では、最後に、最初の質問に再び戻させていただきます。 私自身は、「南無妙法蓮華経」とほんとうに謙虚に唱ることができれば、もちろん組織、教団とはかかわりなく、仏とつながることは出来ると思っているわけです。(このことこそ、詳しく書きたくなってしまうのですけどね) でも、その必然である仏国土の実現は、その信心にまかせて何も考えないでも実現できるのではなくて、その実現は私達信徒の努力にその責任があるとも思っているのです。 といった私の自説(自分の考え)を書いては どうして回答にはならず「曲芸」(この例えもわかりずらいですが)になってしまうのでしょうか? それとも、 くどくどした説明は、そちらに入らないという意味合いを語られたのでしょうか? もしそうならば、 ここには見解の相違という名の齟齬が発生してしまったのだろうと思うのですが、…。 以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  (1) 《即身成仏 / 即得往生》という思想について これらをしりぞける説明を明らかにしなければやり取りは そちらの一方的な演説になります。  (2) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  一発で「直ちにすべての悪が許せるようになる」と考えていると考えられるのですが、  ほんとうにそのようにお考えなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 《悪》は その行為を人間が赦す・赦さないというその対象にはならないと考えています。    (い) 存在については 誰についても受け留め その行為については わるいところがあればこれを批判する。こういう全体としての姿勢でのぞむものと思っています。  (う) その本人が ブッダターの――信仰の庭における――起動を得れば 過去の悪の行為からもいま現在の悪の心理的なウゴキからも自由になれる。――これが 即身成仏です。  (え) 悪の行為をこうむった被害者は 赦す・赦さないの次元においてではなく 悪の行為者がみづからの心において われに還り悪の心から自由な自然本性の状態になったなら その姿を見て 〔被害者は〕みづからの心にもそのブッダターのハタラキの起こるのを覚えて 自然にその加害者を自分と同じふつうの人間として受け留めまじわることが出来ます。  (お) これらのことは ブッダターなる神の霊が想定であるかぎりで 想定上のお話です。哲学としては そのまま《想定》の問題として受け留めることになると考えます。  ★ 仏や神の霊に、すべてをお任せする心境になれば一発で、そこに「友以上」「恋人以上」の気持ちで慕ってくれるようになるのでしょうか。  ☆ 《ハカラヒ無きを 自然といふ》です。《すべてをお任せする》というのは ハカラヒです。  (3) ★ 私自身は、「南無妙法蓮華経」とほんとうに謙虚に唱ることができれば、もちろん組織、教団とはかかわりなく、仏とつながることは出来ると思っているわけです。  ☆ 主観の内におけることとしては すべて自由です。  問題は その主観内容の共同化です。ほかの人とその内容を共有できるかです。  《即身成仏》が 信仰の・つまり主観内面における動きないし感覚の問題であるところを 哲学としては(つまり 主観の共同化をめざすかたちとしては) その主観内容を《想定じょうの問題》であるとして提出しています。そういった工夫がないと 勝手に言っていてくれ(と言いますか 同じことをくどくどと投稿して来ないでくれたまえ)という恰好になります。   あっちの水は 苦いぞ    こっちの水は うまいぞ   ほ ほ ほたる来い  といつまでも同じことを言いつづけることになるからです。つまり 反対派も そのように《ほたる来い》の同じうたをうたっているという結果になります。

回答No.6

No5でも回答させていただいたホケキョウ333です。 お礼文を読ませていただき、いくつか気になるところがありましたので再回答させていただきます。 まず、 ≫ 《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。  なぜなら ≪ に続く段についてなのですが、 私の質問が舌足らずであったこともあるのですが、私自身、法華経のほとんどを寓話ととらえいることは過去のいくつかの出合いですでにご存知かと思ってました^^。 輪廻転生を事実というふうに私自身は全く思っていないのです。 そのへんは(私自身のその考えについて)理解されて いましたか? 当然、不軽菩薩も実在の人物ではないし、脚色としても実在の人物を語ったものでは無く、全部創作としてとらえているわけです。 ともあれ、回答文自体がそのへん舌足らずであったことはお詫びいたします。 私自身が書きましたところの ≪しかも那由多劫も昔からの因果論という例えになっていて、さながら因果論の一大叙事詩…≫ の那由多劫という数字は、10の60乗、 一億が8乗ですから、 気の遠くなる数字であり、架空の物語以外の何物でもないという点を、そこに強調しているつもりになっていました。 私は、あくまで人類は80万年前頃にタンガニーカ湖畔のチンパンジーの脳が変化して生まれたという考古学上の有力説を支持している人間ですし、多くの人が「ほぼそうに違いない」という常識として受け取っているという感覚になっています。 その上で、その架空のたとえ話しの世界を、それ自体すぐれた叙事詩であり、そこから「妙法蓮華経」という五文字が、現代文明人の最高の心の宝塔、心の薬、元本の無明を切り裂く宝刀として、取り出された以上、その寓話の意味はさらに奥深い解釈をすべきだという意味合いを語りたかったわけです。 まず、十界ですが、 1地獄、2餓鬼、3畜生、4修羅、5人、6天、  7、声聞、8縁覚、9、菩薩、 10、仏 となっている人の心や境涯の分類、 現代心理学などから考えれば一見なんともおそまつ幼稚な分類に見えてしまうのではないでしょうか? でも、これ自体、 今の特に日本の生活からは想像を絶する厳しい生活の体験や見分の中からしか生まれえない言葉で綴られた、一つ一つの界であり、その言葉による分類なのだ、と これはただ普通に素直に考えただけでも、昔には昔しの知恵があり、その古の知恵の深さの一つがこの十界の分類を生んだのだと解釈すべきことが浮かび上がってくるものと私は考えます。 その地点からの解説文はまだ読んだことがなく、そのへんの私の読んだ解説は、一応に確かにそのまま「幼稚園生の物語」のようだったのですが、事実はその逆の現実の実生活の切実そのものの汗と血と、体感のにじんだ言葉と分類の世界なのだと解釈すべきだと考えているということなのです。 そう考えると十界すべて、その一つ一つが、それだけでも、重みのある何かがその裏にはあると気が付いてきませんか。 さて、 私達の五感や体感の感受性の深まり、あるいは一言で「感性」の深まりの世界といってもいいのですが、その世界こそ無限だと私は思っています。 その世界こそ、どこまでもどこまでも深いのです。 その世界こそ、どこまでもどこまでも価値があるのです。 無限にです。 ですが、同時に 仏とは、その世界、その命の中の現実の世界の中のその輝きの世界、のことを言うのであって、論理脳はむしろ現代人に劣っているところもあったと考えるのは自然だと思うし、むしろそう想像推理すべきですらあると、私は思っているのです。 感性の無限の道への最大の快復の道、最大のはずみを生む道、それこそが仏法の道なのだと私は考えているわけです。 飛行機の飛ぶ原理の計算も出来ない人が、何故宇宙のすべてを知っておられたりするのでしょうか? そんなことを信じるのが、仏への謙虚さなどでは無いわけです。 ≪……精一杯、考えに考えて、心の安らかな、穏やかな状態を自分なりにゆるぎないものに仕上げて来たし磨いてきた。その道筋に感性がいかに一大事かということをも深く理解してきた。、自我を越えるには、その感性を磨くこと、五感を深め、いきいきとさせること、その道により、自我を突き抜ける慈力線をそこから増やしてゆくしかない自我の構造にも通底してきた。 とくと、人生の辛苦をなめつつ、時に血を吐く思いで、その探求の道を歩き続けてきた。…、…、で、仏の前に、それは孫悟空の仏の手のひらにまでは到達したことを意味するのだろうか? 入口においてはそうだろうが、しかし感性のその道においては、「手のひらに到達した」どころかはるかかなたに自分などちっぽけで、低級でどうしようもない存在にすぎない……≫ と謙虚に気づくことが信仰なのではないのでしょうか? 地獄界のその仏界、餓鬼界のその仏界、畜生界のその仏界、修羅界のその仏界、人界のその仏界、天界野その仏界、… 仏界の仏界以外、すべてをこの地点から考察しなおしてみてください。 禅の「見性成仏」で、その一つ一つの、実際の生活の奥の奥にですよ、その界の、仏の奥深さ、その境涯の深さ豊かさを瞑想できるのでしょうか? 仏への謙虚さは、仏法信心の決め手です。 そうでないと「見性成仏」成った!とのクンダリーニの歓喜の歌は、天界の最高菩薩であり、最高偽善者でもあり、4聖をも惑わさんとする第六天の魔王の命が時としてひきだす歓喜の世界、あるいは歓喜で人と惹きつけて悪に導く世界、そんな命に陥ってしまいますよという警告が「禅天魔の所為」の意味だと思う。 * つぎに、(そちらの思考実験の意味合いも、思考実験としての文の流れや組み立ての意味とかも解りにくいので、すべえあえてわざと虚構を交えて書いているようにも思えよくわからないですし、まるで操られているかのような気もしてしまうのですが、考えすぎでしょうか。ともかく、あやつられるままに、よくわからないままに筆を進めていきますが)  ≫ひと言で言えば ブディズムは もうふるい。でしょう。≪ この文は、法華経や日蓮上人への信心も、もうふるい。と言っているのでしょうか? その「古い」と語られるところのブディズムとは、仏教の歴史の中の何をそのように物語りたいのでしょう? 同じ道徳という実は何らかの上の立場からの強制、や集団催眠であるところの内的規制でありつつ、六波羅蜜は少し別格なのですが、八正道などは道徳という軸がはっきりしていますので、ふるいと言えるでしょうね。 ここの意味合い解りますでしょうか?、道徳だけでは本当に「元本に無明」にしろ自我問題(「阿頼耶識論」などで無意識領域としてそれを越えることの困難さが説かれたのも自我の構造論でしたよね)にしろ、とてもとても、解決なんてできないのです。 権力欲とか、名誉欲とか、いわゆる五感とは関わりない無意識領域と関わってしまう、人から絶賛されたい欲に引っ張られて、自我の殻を突破できないわけです。 道徳を説く仏典もそうなのですが、「空」を説く仏説もたしかに過去のものと私は思っています(これは、書き出すと長くなりますので略しますが) そうそう、「禅天魔」の他にあと3つ、日蓮上人は「律国賊」「真言亡国」「念仏無間地獄」とずばりと諫言されてますよね。 その辺はどう思われていますか? おっと話しが飛躍してしまいましたでしょうか。 でも「私がここに言いたい事の例」として少し書いておきますが、この中の「無間地獄」というのも「おとぎ話的たとえ話し」にすぎません。 それよりも、簡単に言えば、念仏に「人間」の「間」があるのでしょうか?、まさに「無間」でしょ!ということなのです。(これ、念仏宗の信徒や僧侶が「間」を持ってないなどという論議ではないのです。教えの内容のことを言っているのです。その肝の部分誤解されないように要注意!^^) 自我の内の想像力をいくらいじっても自我の内ということです。言ってることわかりますでしょうか。 末法では通用しないそれらの教えと「妙法蓮華経」とを区別できるところまで考えられてみることをお勧めします。 ★神の霊とか「=ブッダター」とかの下りは、そのようにも言えるという図式を見ているだけの気がして、それを「言って」(?)少しでも自我を乗り越えられるのか、突き抜ける力を得られるのか? まさか南無ブッダターとか南無神の霊とか唱えているわけではないですよね^^?、≫実践していることが、肝心ですから≪の? ≫実践≪って何を意味されているのですか? ここは、こちらとしては回答の能力が無さそうなのでパスしておきます^^。 ★確かに≫あたたかく接する≪だけで、教育力がなければ、苦しんでいる心(孤独な無意識の世界)は助けられませんよね。でも、少しも上下意識無しの状態で接するのでなければ、極悪人に好かれたり話しを聞いてくれるということもないと思います。 ☆★☆≫一発です≪これもパス!^^ ☆「暴対法関連」URLご紹介くださりありがとうございます。ゆっくり読ませていただきます。みなさんより私の方がその実態について詳しいと思いますが^^。 ★最後の下りについてですが、ブッダターが何を言ったかにかかわらず、仏法の賢人政治を実現できるような賢人たちは、反感を持つものをゼロにする教育力(洗脳の力ではなく理解させる力)を持っていると、私は思っています。 以上を再回答とさせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。  互いに主題を共有し論点を出し合って 互いの見解を突き合わせつつ 問い求めて行くという姿勢にはないと見ました。  これまでにお答えしたことによって すべて応答しえていると考えます。

回答No.5

なにも、「権力」を「電磁力」、「意志」を「重力」に例えなくても、そのまま書けば意味が通じる文を、なぜ、例えを入れて問われているのでしょう? たぶん、電磁力で重力のある物体を浮かして隙間をつくり、権力の敷いたレールの上を逆らい難く少しの動力で効率的に一方の方向に走らせる力を「権力」に例えているといったことなのでしょうけれど、かえってこの人ほんとうに本気なのか^^と思ってしまいます。 ですが、これはおそらく、そういう文体での表現のくせと考えられるものとも思います。(たしかご自分でも、その辺のところだと思うのですが「くせ」と書かれていましたよね) 内容自体は深いことを問いかけようとしているようにも思えるからです。 例えの部分はほとんど無視させていただく形で回答させていただきます。(そのへんは あまり気にしないで書かせていただくということです。 資本の論理は、確かにその悪い面を浮かび上がらせるならば、弱肉強食のその面はさらに投機によって加速させられていて、そのパワーが政治に悪徳のレールを敷いてしまう、という面がありますよね。 ですが、可能性としては、例えば 仏国を実現出来た暁には、資本主義社会自体のままでも、投機自体が賭けや駆け引きを越えて仏の国を応援する形で働きますので、質がまるで違ってくるはずです。 すると、 資本の論理の本質自体を「=権力」とは、必ずしも言えない面があると思えます。 ですが、ここも そちらの質問の中での「資本の論理」という言葉を「=悪徳権力のレール」として解釈してみましょう。 過去にては大勢ほとんど変わっていないわけですからね。 私の場合その質問に対して浮かび上がる想いは、《暴対法との闘い》ということが、「経済の二重構造化」以前に切実な課題として考えられてきます。 この具体例を掲げさせていただいたのは、 もし、そのような具体例を考えてのことでないと、権力といっても意志といっても、あまりにも雲の上からさまざまな色と変化自在な二種類の雲の動向を回答せよと言うように、文字通り雲をつかむのような質問にも感じられてしまうからでもあるのです 仏法の方からの「罪と罰」の概念は、壮大なスケールのいわゆる3世に渡る因果論、輪廻転生を前提とした、しかも那由多劫も昔からの因果論という例えになっていて、さながら因果論の一大叙事詩の様相を持っているその中にて語られているものです。 そのへんが少し一神教の教えでの「罪と罰」の概念とは異なってくるとおもいます。 少しというのは、おそらく本質は同じなのですが、罰を因果の流の中にとらえんとする気迫のあたりが仏法のほうがレベルが高いと思われるのです。 十界互具論の境涯論はそれ自体奥が深いですよ。 十界がそれぞれ十界を互具しているという組み合わせで「百界」となっているわけですが、その意味合いが奥深いのです。 その境涯の因縁を解くには「妙法蓮華経」の五字を正しく法華経という叙事詩から拾い出さなければならない、という形にもなっていて、その全体の整合性も巨大なスケールです。 罰論自体、寓話の中のおはなしでありつつ、それは、たんなる「仏のお叱り」という物語を越えているわけです。 この寓話、この例えは、決して仏は、厳しい慈父であるとか、だから許すべきでない事には厳しいとか、そんな仏を馬鹿にすれば最大の罰が当たるのは当然とかの、子供のイメージの世界のような卑近で幼稚なイメージでとらえられる世界ではなくて、 仏自体は、完全に「人の深い因果」を悪の流の底にいたるまで理解されていて、まずどんな悪人にも、そのレッテルをいっさいはるはずがないと理解され解釈されるべきことと考えます。 これ、ほんとは当たり前のことですけどね。 一念3千(「百界」×十如是でそれを百回千如として、一念の中に一瞬一瞬おさめての、想いの世界、あるいは人間としての祈りの世界といった意味合いのものだと思ってます)の法門は、すべて、仏のその心あるいは想いの深さ大きさのたとえ話だと思う。 法華経には、常不軽菩薩という仏しか出ていないようなものです。どんな仏かというとそれは、、どんなに悪態をつかれようと、ひどいことをされようとどんな人間をも仏の可能性を宿した尊い命として礼拝しつづけた菩薩が仏ということになります。 それが「妙法蓮華経」の奥理なのですよ、どうして悪人に対して仏法上の罰なんてありえましょうか? 反省させて、未来の幸せへの道を歩ませることは必須と言っても、すこしも非難する心や上から目線の心は そこには存在していないということです。 私達凡夫がなかなかそんな心になれないのは解ってます^^。 でも、本来人間どうしは、友と友という存在どうしなのであり、その過去の「あやまち」に関してはすべて許し、その未来に関してはその「あやまち人」の地獄をではなく天国を魂の底から願い祈り、実際に正しい教育を行って更生させ、心身共に幸せになれる道を切り開く、そいういう努力は精一杯はということですが、しあうのがその道だと思う。 精一杯は、そのように闘いつづけてみるということです。 暴対法は、確かに「悪の因果の急流に生きるような荒くれ者」と関わる因果それ自体を押さえこんでしまおうという社会的権威、権力によって作られた法律ではあるわけです。 社会の存続のためには、過去の《「あやまち」を償って出直す形》を必須とした法律の世界です。 その意味では絶対的な権限と、正しさという概念に守られた法の世界といえそうです。 そちらの言われる(a)ですよね。 しかし、暴対法は、日本のヤクザ集団のように、そのような荒くれ者たちに規律をもたらす組織、ときには人間的に更生させんとする組織にたいしても、その流れへの恐怖から、その人たちのまともな生活を奪ってしまっています。 まさに》血も涙もないような《「社会法の論理」によってです。 更生施設は予測される歪の対策としても、少しは増えたのかというと相変わらずおざなりな形上の施設がほんの少しそんざいしつづけているだけ。 国家、マスコミ、大衆が恐怖にころりと負け、悪の流を、もはや教育する価値も無し、お手上げとサジを投げ、人間の良心の闘いを放棄してしまった姿のはてにこの暴対法は、その因果の流のまま、こうして生まれきたってしまったわけです。 そんな暴対法の闘いにおいて(これはもちろん一例ではあるのですが) 我々宗教者、あるいは宗教哲学者たち、またヤクザの中の人間教育を志向されている方々の無念さを、諦めるべきではないのに「経済的にも政治的にももはやどうしようにもない」ともがく そのへんの心情と対応策を問われているのが、そちらの質問の内容ととらえました。 ↓ 》では 人間とは何なのか? 社会とは何なんだ? どういう成り立ちをしているのか? どこへ向かうのか?《 ↓ 私達文明人の自我の殻の固さから考えても、仏法の人類史観「元本の無明」の深さから考えても、社会法だけではとうてい、この資本の理論、罰則を冷たく罰してしまうその正当化の論理を克服するのは、おそらくどこまで考えてもどこまで語ろうとも無理があると思います。 しかし、私達一人一人の命には仏の可能性が宿っている、そういう尊い命が人間なのである。、 その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。 ならば、仏法を哲学でしっかりと把握して、それによる賢人政治を、社会法による民主主義を越えた形で実現させることが出来れば、悪のレールに「その意志」は いつか必ず勝てると信じてます^^。 資本主義も、その形上はほとんど変えずにも、変質が起こり、その時はままにてその質が仏国土になるでしょう。 おそらく、人類はそこに向かって今歩き出している。 (かどうかはともかく)私は今 そこにむかって命をかけて歩き始めている^^。 以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 ほけきょう333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  自然科学の知識をタトエとして用いる。このことは ほとんどずるいハカラヒによって成り立っています。  おっしゃるように心的現象を扱うなら それとして理論形成すればよい。  自然科学を活用するのなら それとしてやはり理論形成しておかねばいけない。  なのに タトエとして用いようとする。  それは 自然科学の示す世界観――事実と言うべきでしょうか――を 一たん離れているにもかかわらず どうにかして心的現象の方面に活用したい。そんなことをしたら もう自然科学の事実ではなくなるのに その事実をなお――重力なら重力のあり方として――利用してみたい。  こんな感じだと思います。  ★ 内容自体は深いことを問いかけようとしているようにも思えるからです。  ☆ ええ。手前味噌になりますが そのように目指します。  つまり もっとざっくばらんに言えば 心の問題にかんして捉えたいし深く考えてみたい。そしてそのためには むしろデタラメなものごとを出して来て その世界に一たん自己をまた心を置いて じっさいの心の動きについて――ほんとうのところを――探ってみたい。これです。  自然科学の知識は けっきょく虚構として受け留めてみようと言っています。そのように自分の前に置かれた虚構の世界にわが身を置き心もそこで活動するという場をこしらえてみる。  そうすると あんがい現実の世界とのつながりがあると感じる。あるいは 現実の世界のことが むしろ見えて来る。    そういった思考実験であるかも知れません。      *  ★ 仏法の方からの「罪と罰」の概念は、壮大なスケールのいわゆる3世に渡る因果論、輪廻転生を前提とした・・・  ☆ 別途設けられたご質問にもかかわりますが 《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。  なぜなら 同じ DNA を持った人は自分のほかにはいないからです。生まれ変わりは 絶対に認められません。そのように過去世から現世にわたる悪因悪果・善因善果の議論は 成り立ち得ません。  たとえば かの拉致被害者たちは どんな前世の悪因によって その被害に遭ったのでしょう?  あるいは もし因果応報としての輪廻転生を認めるなら けっきょくそのつどの今における行為はすべて自業自得として成り立っているというのが その理論的な帰結です。  なるほどそれは そうかも知れません。けれども そんなことは言う必要がさらさらありません。すべてのその都度の行為が そうなのですから。  というよりも そのつどの行為の一つひとつが 悪因悪果としてもそして同時に善因善果としてもまた無記因無記果としても成り立っていることでしょう。こんなことを言っても 意味がありません。一度に全部の要素があつまっていると言っているのですから。       *  ★ 仏自体は、完全に「人の深い因果」を悪の流の底にいたるまで理解されていて、まずどんな悪人にも、そのレッテルをいっさいはるはずがないと理解され解釈されるべきことと考えます。  ☆ これは そういう物語です。言いかえると 冒頭で触れたような《タトエを用いた心的現象論》です。  自然科学の成果としての世界観を持ち出すか 神学のような話を引き合いに出すかの違いです。  ひと言で言えば ブディズムは もうふるい。でしょう。  ブッダター(仏性)は 神の霊である。これで おしまいです。  ブラフマニズムにおける梵我一如の焼き直しです。ブラフマン(梵)もアートマン(我)も 霊です。  ゴータマにあっては 無梵無我一如 です。有神論と無神論とが互いに同等であるように 無梵という無神は 梵という神と 同等です。  後世においては どうもこの無梵無我一如は しっくり来ないということで けっきょく 元の梵我一如に戻りました。ただし 名前は変えています。すなわち 仏仏一如です。  二つ目の仏は ブッダター(仏性)=タターガタ・ガルバ(如来蔵)のことです。  一つ目の仏は たとえば アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)であったり マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)であったりします。  どちらの仏も 神の霊のことです。ブラフマンやアートマンと 名前が違うだけで 神の霊として同じものです。  このブッダターを言っておけば いちいち十界互具だとか一念三千だとかとまで言う必要はないと考えます。実践していることが 肝心ですから。また 十界論を知らずにでも 実践はし得ますから。      *  ★ でも、本来人間どうしは、友と友という存在どうしなのであり、その過去の「あやまち」に関してはすべて許し、その未来に関してはその「あやまち人」の地獄をではなく天国を魂の底から願い祈り、実際に正しい教育を行って更生させ、心身共に幸せになれる道を切り開く、そいういう努力は精一杯はということですが、しあうのがその道だと思う。  ☆ たとえばの話ですが たとえばこのような説法のひとくだりは 何のために言い出されているのか?  こう問うたとき それは 資本の論理が貫かれている政治経済の体制に対して 批判の目を向けないためではないかと言われたら どう答えますか?    批判の目は向けるのだけれど わるいことをやっている人がいても けっきょく常不軽菩薩の精神とおこないとによって あたたかく接して行きましょうと言っているとしたら どうなるでしょうか。  心をあらためるでしょうか。――どうなるか 分かりませんが。  ★ しかし、私達一人一人の命には仏の可能性が宿っている、そういう尊い命が人間なのである。、  ☆ これは 一発です。即身成仏。即得往生。  ★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。  ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。        *  ★ 私の場合その質問に対して浮かび上がる想いは、《暴対法との闘い》ということが、「経済の二重構造化」以前に切実な課題として考えられてきます。  ★ 〔暴対法は〕社会の存続のためには、過去の《「あやまち」を償って出直す形》を必須とした法律の世界です。  ☆ この課題についてのひとつの問い求めとして 次を問いました。  【Q:部落民・在日朝鮮韓国人・暴力団についてのもんだい】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5995036.html  たとえばもし賭博や見かじめ料などが社会にとって必要なことであれば いまの暴力団員を公務員として雇えという案が出ています。       *  ★  資本主義も、その形上はほとんど変えずにも、変質が起こり、その時はままにてその質が仏国土になるでしょう。  ☆ 舎衛の三億で行きましょう。ブッダターがともかくはたらく者が 三分の一。それに浮動層としてでも共感する者が 三分の一。反感を持つ者が あとの三分の一。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

>「このいとしき・うるわしきわが重力は どこへ向かっているのか? 何を欲しているのか? 資本の論理に屈服しているとき 何を思っているのだろうか?」 何を欲するも何も、重力だからね。 >「どこへ向かっているのか?」・・・「重力」だからね? >「屈服しているとき」・・・重力を屈服、ということだから、なにか?アインシュタイン以上の、ということなんでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます くりなるさん。ご回答をありがとうございます。  ☆☆(趣旨説明欄) 0. まづこの問いにかんするかぎり 自然科学の用語はすべて たとえでのお話ですとおことわりします。  ☆ というように 《たとえ》として捉えてください。  電磁作用のほうが 重力よりもつよい。ということのタトエとして捉えてください。どうでしょう。  そのときこの重力を ひとの意志だとして当てはめるなら その意志は 何を思っているのだろうか。こういう問いです。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

上手く言えますかどうか 重力の場の中心即ち星やブラックホールの中心を欲と呼ぶ。 資本の論理に屈服するのは資本が生み出すエネルギー(利益)を欲が必要とするからである。 エネルギー(利益)を生み出す、政治的な要因: 権威・権力また権限も、欲にとっては貴重なエネルギー源である。 エネルギー(利益)をもたらさない資本や政治的権威権力に対しては、欲はなんの反応(興味)も示さない。 こんなところで、如何でしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 いちかわせいじさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 重力の場の中心即ち星やブラックホールの中心を欲と呼ぶ。  ☆ 質問の趣旨説明としては    ○ 重力: 意志  と見たのですが この意志のハタラキにはいろいろな内容がある。したがって 一般に《資本の論理》のほうは みづからの目的に合わせた誘い方をするのでしょうね。すなわち    ○ 重力: 《欲》としての意志  を誘導するというかたち。すなわち  ★ 資本の論理に屈服するのは資本が生み出すエネルギー(利益)を欲が必要とするからである。  ☆ と。  ★ エネルギー(利益)を生み出す、政治的な要因: 権威・権力また権限も、欲にとっては貴重なエネルギー源である。  ☆ これは 《政治的な権威・権力また権限》の側が 資本の論理を駆使するというよりは その政治のチカラを 市民一般が おのれの欲を満たすために手段として利用するということでしょうか。  ★ エネルギー(利益)をもたらさない資本や政治的権威権力に対しては、欲はなんの反応(興味)も示さない。  ☆ ということは 一般市民が この資本や政治のチカラの側を それほど利活用できる立ち場にはいないからには 一般に企業などの資本家的活動としてそれぞれが 政治経済的権力の活用を競い合うというところでしょうか。  それは そうなんでしょうね。  そういったマネー&権益・ゲームが繰り広げられているのでしょうね。  いちおう 市民一般が資本の論理に屈服する場合というのは 次のように捉えました。確認のためです。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 資本の論理というチカラに屈服するというときには ふたつの要素がある。そのチカラを 政治経済的な圧力と捉えるなら これを ふたつの要因に分けられるであろうか。   ( a ) 政治的な要因: 権威・権力また権限が 絶対的に圧し掛かる場合のそのチカラ     ( b ) 経済的な要因: 政治的な(つまりいわゆる経済外的な)電磁力を振り払うに足る経済的な資力も自活力もない場合 やはり重くのしかかるそのチカラ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《欲》から自由な人間のばあいです。

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    科学者は光を曲げたりほぼ止めたりする事に成功していますが、重力波を曲げたり止めたりする事も原理的に可能でしょうか。

  • 《ゆづりあひ》は 《力への意志》を凌駕するか?

     《ゆづりあひ》は 《力への意志》を凌駕するか?  (α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。  (α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。  これを検証したい。というのが この問いです。  神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面に分けて捉えたと言います。  ○ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー―― in 神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012  によります。  次のように 《ちから》の内容・分析が捉えられています。かんたんに引いておきます。  (β) プラトン『ソフィスト』:《働きかける力( dynamis tou poiein もしくは dynamis energetike, potentia activa )》と   《働きかけられる力( dynamis tou paschein もしくは dynamis pathetike, potentia passiva )》  ・このうち後者を承けての系譜:  (γ) アリストテレス『形而上学』第九巻:《働きを受ける力( dynamis tou pathein )》     ( pathein = paschein )  ・ただちに時間を飛びますが   (δ) コナトゥス という概念をめぐる主題の取り方もあるようです。  (ε) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》      =邦訳:《担いの実り豊かさ》  ・ちなみにこのとき 神につなげる見方も出されているとか。  (ζ) レヰナス:《絶対的な受動性》をさらに想定しつつ:      《受容性( réceptivité )ならざる純粋な受動性( passivité )》      《いかなる受動性よりも受動的な受動性》    このとき  (α‐2) ユヅルは どういう人間の持つチカラでありその発揮であるか?  を解明したい。  そのための事例をふたつ提出します。  (α‐3) ▲(ヰキぺ:葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A  天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とした。  そのため、何人かの神を出雲に使わした。  大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。  ~~~~~~~~~~~  ☆ オホクニヌシは スサノヲの子孫です。そのイヅモの国を アマテラスの国にゆづりました。  このユヅルちからは    (δ) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》        =邦訳:《担いの実り豊かさ》  というチカラではないのか?            *  (α‐4) ○ オホケ・ヲケ兄弟のかたき討ちの物語 ~~~~~   昔昔の話ですが。   その昔 やまとの国では 市長(もしくは国王)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。  次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって 暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子たちは 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて 身を長らえることにしました。  ところが オシハの筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ ともに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。  雄略ワカタケルは もう死んでいました。  弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で そのみづからに首長の位を譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。  兄の仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して 戻ると その旨を 伝えました。弟も これを了承しました。  という話です。  後日談も添えます。  暗殺された野原の近くに 或る老婆(置き目の媼(おうな))が住んでいて じつは 暗殺の現場と その後 イチノヘノオシハが埋められるところを 見ていて その場所を覚えていたそうです。  じっさい 果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさ。  ▲(ヰキぺ:顕宗(ヲケ)天皇)  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AE%97%E5%A4%A9%E7%9A%87  ~~~~~~~~~~~~~~  必ずしも定義づけも理論化もしていないのですが:   (α‐1‐1)  ユヅリアヒは 人間力ではないか?  自由なご見解をお寄せください。

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道も仏教も 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?   

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道関連にしても仏教にしても 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?

  • 資本主義と社会主義について

    教えていただきたいです。 詳しく研究などしているわけではなく、私自身知識や理解度が深いわけではないので、子どもにもわかるような、わかりやすく簡単な説明で結構ですので、教えていただきたいです…。 - - - - - - - - - - - - - - - - 資本主義と社会主義の違いについて調べました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111131491 資本主義 本物の殿様(国家権力)に邪魔されることなく暴力や身分に邪魔される事無くお金の力と才覚によって誰でも自由気ままにお金儲けが出来る事に重点を置いた経済政策。問題点は金の力による横暴な守銭奴が発生しやすい事。 社会主義 ある日突然近所の金持ちの高級車は便利そうだから近所みんなで平等にそれを使うべきとし、その方が全員裕福になれるとした一見論理的だが実際は多数の貧乏人の横暴がまかり通った経済政策。問題点はその後誰も高級車を買おうと努力しなくなる事。 大変わかりやすい説明なのですが、 社会主義国の ソ連 ができたとき、資本主義の国はその社会主義の影響を恐れました。 (ex 1918年シベリア出兵はソビエト政権打倒のために資本主義国がおこなった) ここで疑問なのが、なぜ資本主義国は社会主義国の影響を恐れるのですか? 資本主義と社会主義では政治・経済の方法がまるで逆のやりかただというのは聞いたことがありますが… 資本主義の国に社会主義の影響がでてくるとどうなってしまうのですか? 今の北朝鮮は社会主義ですよね? 個人的な意見ですが、私は全くうらやましく思いませんし、社会主義は「皆等しいが、皆貧しい」というイメージがあります。 社会主義のメリットはなんですか? あとは、世界恐慌の時に社会主義国のソ連は一人勝ちだったということを聞きましたが、なぜ社会主義国のソ連は世界恐慌の影響をうけなかったのですか? すごく小さいことですが、勉強していて少し気になったので… よろしくお願いします。

  • 命題の問題でわからないところがあります。

    ただいま公務員試験の数的処理をやっているのですが、 何度解説を見てもなぜそうなるのかわからない問題があります。 なぜこの答えにあんるのか教えていただきたいです。 <問題> 次のことがわかっているとき論理的に確実にいえるものはどれか? 1.法律学と政治学がともに得意なものは、数的処理は得意でない 2.数的処理か政治学のうち 少なくとも一方が得意でないものは経済学は得意である。 1.数的処理が得意でないものは、法律学と政治学はともに得意である。 2.数的処理が得意なものは、法律学は得意でない 3.政治学が得意なものは経済学も得意である。 4.経済学が得意でないものは、政治学も得意でない。 5.経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。 <答え> 5. <私の疑問点> これは命題の問題なので、 素直に図示してみました。 1.法律学かつ政治学→数的処理(上にバー) 2.数的処理または政治学(上にバー)→経済学 これら2つの待遇をとって、 1.数的処理→法律または政治学(上にバー) 2.経済学(上にバー)→数的処理かつ政治学 となります。 ここまでは私の力でもわかるのですが、 選択肢1~5の検討で肢1.3.4は明らかに×だとわかるのですが、 肢2.5で悩みます。 2の数的処理が得意なものは、法律学は得意でないというのは 対偶の数的処理→法律または政治学(上にバー)ということから、 数的処理が得意でも法律が得意でないか政治学が得意でないか どちらも考えられるので× これはわかるんです。 ただ5の経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。がなぜ 正解になるのかわかりません。 私の考えでは経済学(上にバー)→数的処理かつ政治学ということから 経済学が得意でないものは数的処理と政治学が得意といえます。 また数的処理→法律または政治学(上にバー)ということから、 数的処理が得意なものは、法律または政治学のどちらか一方が 得意でないといえます。 この場合まとめますと、 経済学が得意でないものは結局いきつくのは 法律または政治学のどちらか一方が得意でないということなので、 選択肢のように経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。 とは必ずしもいえないのではないかなと思います。 理由はどちらか一方であるから 必ずしも法律学も得意ではないには結びつかないと思います。 もしこれが通るのであれば肢3もOKになるのではないかと思います。 長々と申し訳ないのですが、 決定的な解決法があればよろしくお願いいたしますm(_ _)m

  • 思考型中心のこの世界の構造を呪う。男性が権力を握るのは当然?

    心理学のある学者が提唱している「思考型」と「感情型」という人間の性格について 「思考型」→物事を客観的に一歩引いて見る。行動の基準は他人の感情ではなく論理を重視して動き、分析好き。そのため、ビジネスや政治、司法など客観的な判断が必要とされる分野で力を発揮する。男性に多い。 「情緒型」→感受性、感情移入に優れる。行動の決定は自分や他人の感情を考慮して行われる。相手を害さないように「愛想のよいイイ人」である。 人を喜ばせたいため社会福祉的な仕事、教育関係、に多くみられる。女性に多い。 というもの。 ここからは私の意見。 「世界の主要な力ある地位に就くのは大抵思考型である」 この世は思考型(の男)中心に回っている。 たとえば世界を自分中心に回そうと思ったら権力の中枢にいることが必須である。 権力の座に上り詰めるにはまず受験で勝たねばならない。 ところでこの受験というものは論理的思考や分析力を測るものであるがこれは思考型が有利である。なぜ受験勉強では情緒型のウリである、感情を読み取る力や感受性、感情移入などの能力は測定されない? それはこの制度、もっと言うなら社会の構造を形作っている者自身が思考型だからだろう。 思考型が得意とする論理能力が図られ、情緒型が得意とする感情能力が重視されないというこの受験制度を作った者自身が思考型なのだ。 思考型は情緒型のように人との心的交流・調和を大切にはせず勝ち負けを重視し競争好きである。そのため、世の中の競争を勝ち抜いていく。 また、他の人間の苦しみに頓着せず目的を達成しようとする。 たとえばこの世を動かす政治家なんか思考型集団そのもの。確かにあれは他の人の感情を考慮するような優しい情緒型の人間では務まらない。 アメリカの世界屈指の財閥であるロスチャイルドなどは策謀により政治家を買収し武器を輸出し巨万の利益を得ている。 また、タイタニック号は実は保険金を手に入れ経営難を乗り切るためJPモルガンという金融業界の財閥に沈められたという。 これでどれだけ思考型が自己の利益・目的のためならば人の痛みや苦しみに頓着しないかが分かるだろう。そう、思考型は行動の基準を感情におかないのだ。 また思考型は感情が未分化なため感情を読み取れない。そのため殺人犯は思考型つまり男が多い。いい例が女子高生コンクリート詰め事件、栃木リンチ事件。感情機能が分化していなければ、こんな残虐行為も平気でやる。 現に犯人はこう言っている。 「別に熱い(←熱湯を被害者に浴びせた)のは自分じゃないんで構わないと思った」 この発言から犯人は人の痛みを想像できないのだと分かる。これは感情が未分化だということ。そしてそれは思考型の特徴である。「犯罪者で異常だからだろ」「全部の思考型(男)がそうではない」という反論があるかもしれない。だがこれはすべての思考型の傾向であり、底流では同質のものだ。たとえばこの事件に対するスレッドを見ていると、男性による書き込みは感情を無視したものが多い。「ふるじゅん(女子高生コンクリート詰め事件の被害者の名)の墓でオナニーしようぜ」というのさえあった。男にこの手の書き込みは多い。よって思考型の感情機能の未分化さは犯罪者に限ったことではなく大方の男性、つまり思考型の基本的な傾向であるといえる。 一方情緒型は殺人には走りにくい。女の殺人鬼より男の殺人鬼の方が多いことは明白だろう。それは女は大半が情緒型だからだ。 情緒型はどうしても犠牲者へ感情移入してしまうため、思考型ほど過激な競争、攻勢には出られない。不快な対象には殺人といった外に向かって攻撃をするのではなく自分へと向かい「抑うつ」という形をとり、ただ自分ひとりで暗く落ち込み競争からはずれていくだけである。情緒型が世界の主要なポストに就けず、サポート的立場に終始しているのもこのへんにあると思う。情緒型が大半を占める女性が踏み台にされてきた歴史がそれを証明している。 結論。この世は思考型にとって生きやすく、情緒型は思考型に利用されるか食われるだけの世界である。世界の政治・経済の権力は、ほとんどすべて思考型に握られている。否、思考型は、競争心、客観性、論理性、分析力が優れているので(これは知能の高い場合だが)どんな分野でも情緒型より成功しやすいのだ。まさにこの世は思考型のためにあるようなもの。 男が支配し女が支配されてきた。男に思考型が多く女に情緒型が多いからだ。 女は脇役であり、補助的存在でしかないという現実。これは生物学的なものでありどうしようもないことだ。情緒型女である私としては男ばかりが中心になるこの世の構造が恨めしい。男は殺人など好き放題やらかし、財閥や政治権力、などを握り、自身の利益のためにタイタニック号を沈める。 皆さんはどう考えますか。

  • 《アース力》は 慈悲なるチカラだ。

     モノ(質料)のエネルギー・力・運動と 人間の社会的な力・運動とは ちがうと思われる。  人間の運動・生活が 仮りにすべて物体の自然運動から成っていると見る場合でも 人間はこれらを選択し加工したり排除したりする。一方で物質の自己運動は 人間の手に負えるものだとは考えられないが 他方でこの運動を人間は 人間的なものとして・社会的なものとして 方向づけないわけではない。  このような社会主体としての人間の 殊に《わたし》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。もちろんまったくの空想です。   1.重力 :《 〈わたし〉 の社会的な力》   2.電磁相互作用 :《 〈わたし〉 の超現実》=《 幻想 〔としての意識〕》   3.強い相互作用 :《根源的な 〈わたし〉 》   4.弱い相互作用 :《とにかく〈わたし〉というもの》  これらの人間の力つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。  いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。  第二の《〈わたし〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。  幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらには何か確かに作用が起こったときそれは 自分に都合のよいように別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。  このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の《とにかく〈わたし〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。  これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈わたし〉》をとおして 接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈わたし〉》を意識し始め それぞれが《わたしの超現実》という場を夢見始めるに到る。  《根源的》というのは ここでは かの相手とのかかわりにおいてとにかくこのワタシという存在を意識し自覚し始めるといった事態を言っている。  《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの自己紹介の程度までではある)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場あるいは付き合いの形が 成立する。  第三の《根源的な〈わたし〉》というのは さらに進めば自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己確認の作用である。  これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。  以上これらの三つが 大きくは同じ場でむしろ同じ力の三態として はたらいている。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪)とよぶのにも 不都合はない。  最後に 第一の《〈わたし〉の社会的な――時には公共的な――力》が重力であり 表現として万有引力(?)である。主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。  男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(つまり家族としてのふつうの社会生活)にかかわった力の問題にあたっている。婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。  婚姻に限らず 一般に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって 或る主題の科学的知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。  けれども 個人の二角関係のうちの 男女の対(ツイ)関係における婚姻という結びつきは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。     *  さて このうち 意志の力に注目する。  そうして 事例を男女のツイ関係から ふつうの市民どうしの二角関係に移す。  ツイ関係が 互いに自由で対等であるのと同じように 人と人との二角関係も そうである。わづかにそこには 歴史的な身分関係などのヒズミが作られ社会的なシガラミを引きずっている。  一定の組織や全体としての社会組織の権限関係などから 公式の権限によるにしろそれにまつわる非公式のチカラ関係によるにしろ その人間関係には まなざしを上からそそぐ者とそれを下で受け取る者との上下関係が発生し 何かとまとわりつくようになる。  となると 根源的なワタシはややもするとないがしろにされ ただそこにいる《とにかくワタシというもの》が目にとまるだけのようになり 果てはその《そこにいる》ことの社会的な力学のみによって クウキという名の幻想的な場が築かれる。  このクウキにしたがうにせよ クウキの醸し出される元から実際にガミガミ言われるにせよ そこでの人間関係は ガミガミ役とそのデンパを受けるアース役との二角関係となりがちである。  このアース役の受動的な重力としての意志 これが いわゆる無縁慈悲なるチカラである。  社会を支えている。  自由なご見解を寄せてください。