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ずっと前に書いた関係=存在のことですが

こちらで以前書いたものなのですが。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3052150.html 以前かなり言葉足らずだったので。 前に、関係=存在といったのですが、 客観世界では関係=存在は当然と思う人もおられますが、 主観世界でも同じことが成り立つのでは?という話です。 つまり主観世界での関係=存在、とは、 人間関係=人間存在、ということです。 つまり人とつながっている=自己が存在している。ということです。 これは、主観世界の認識の問題なので、ここが違うと、心を表現する言葉、それを感じる直感、心に対して重要な価値観、良心、行動、などが見事に逆になります。 人の世がこうできてるのだーというところが違うと言うことは一番大事なものが違う、ということになります。 この2つの認識の違いを、関係直観、存在直観と仮に呼んでいます。 関係直観の人は最も重要なものを「絆、信頼」と言いますし、存在直観の人は最も重要なものを「自分、自由」と言われます。 でも逆だけれど同じだ、という話なんです。 よくたとえで、女性とおばあさんのだまし絵の話をします。 これは人の認識能力の限界を探る話で、関係=存在のわかりにくさの説明をしてるつもりです。 あまり説明しても長くなりますが、だいたいこんな感じなのですが、 どう思われるでしょうか? この手の内容に興味のある方がおられたらお話聞かせていただけたらうれしいです。よろしくお願いします。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.3

すいません、私は哲学好きの集まりをこのQA以外には知りません。 エマニュエル・レヴィナス、和辻哲郎、などがこういった主張をするそうですので、そこからあたってみてはいかがでしょうか。 私は自分で考えるのが好きなので、粛々と思索にふけろうと思います。

sheep67
質問者

お礼

そうですか。あまりおられないのかも。 でも、このQ&Aで、shift-2007さんや他の方がおられるのを知っただけでもすごい収穫でした。 ありがとうございました_

その他の回答 (2)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.2

私も同意見?

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3421524.html
sheep67
質問者

補足

お返事ありがとうございます。 ほんとに一緒ですね。鏡を見ているよう。 なんかおろおろしちゃったです。ちょっとはしゃいでしまいました。 参考URL見ました。こういう見方をする人も他におられるんですねー。 良かったです。 まだわからないことだらけで困ってはいるんですが。 shift-2007さんのようなお考えの方の集まられてるHPなどはないですか? 自分で考えないと仕方ないのかなーとも思ってますが。

回答No.1

質問者さんの指す主観と客観の定義がよく分からないながらも、前の質問をざっと見てみました。ここで気になるのは、主観という状況において、関係直観と存在直観しかないのでしょうか。この直感二元論(?)からでは、女性とおばあさんの絵なる絵が、"絨毯にこぼした染み"にしか見えない人のパラダイムを理解する説明が欠けていると思います。あなたの説明では、自分と自由と絆と信頼は一元的なモノ、ということですよね? 自由の無い他者を信頼できないのか? こういう言葉遊びに発展できますね。 存在直感の人は他者による自己認識をしていないのですから自分や自由と言う概念すらそもそも生まれません。だからこそ、関係直感と同じだと言いたいのかもしれませんが、そもそもそうなると2つの直感に分ける意味が無くなりる気がしますが。

sheep67
質問者

補足

回答ありがとうございます。 前の質問の時も思ったのですが、そもそもこれが哲学の話かなー?とは思うんですが、 多くの人が言葉の定義の問題を言われます。哲学はそういうものですか?詳しくないので知らないのですが。 僕自身は、自分や身の回りの人たちの気持ちー思いを説明するために考えたので、まず現実と実感をある程度論理的に説明する、という目標があったので、一個一個の言葉の定義付けは後回しにしてます。~現実の生きた生活に符号?しないと意味がなかったからです。 直感的な把握と論理的分析の境界線をどこにするかは基本的にはその人の持って生まれたものがあります。それを考えると、一個の言葉の定義を厳密に決めるのは、僕の性分としてそれだけで大変です。 それで、仮に哲学が一個一個の言葉の定義を作りそれを元に組み立てていくなら、僕はちょうど逆の方向から考えてます。まず現実があるんです。それを前提に、そこへ論理を導入する余地はないか?という見方です。 いただいた文を見ると、パラダイム、一元的、など、その言葉を知ってる=定義付けで共通認識がある人でないと扱いずらい言葉があり、難しそうです。 言葉の定義の問題は、基本的に相手に伝わればその伝わると言うことが、そこに共通認識があることを示してるから、とりあえずそれでいいという、僕の考えです。 だまし絵の話ー説明不足なんですーなんかあまり長い文はここには投稿できないですね。えーと、つまり、今はそのパラダイムを理解する必要があるかないか、の優先順位のスタンスの問題と言うことになります。 一元的なモノーそうですね、同じであって違うモノである、という話です。 だまし絵や、あとたとえでタマネギや、真ん中のくぼんだ灰皿を出すんですが、例えば灰皿は、一方から見たらへこみで、逆からは出っ張りです。どちらも本当で、どちらも灰皿が出っ張っていて同時にへこんでると言うことの一面しか示していません。でもへっこんでる灰皿があればそれは立派にその灰皿そのもので、その灰皿にはもう一つの性質である出っ張りがありますし、出っ張ってる灰皿があっても同じです。この場合、一部は全部であり全部は一部です。この幾何学的構図と人の認識能力の限界と規定について一応考えて入るんですが、難しいです。 言葉遊びーわかります、でも上のように、現実をいかに論理的に説明し得るか、のスタンスを保つことで回避できるのかな?とちょっとだけ思います。 一般論ですが、科学はすごく大まかです。その、たとえば天動説は、地上に生きる人にとっては今でもとても有効な理論です。地動説は天体の動きも含めたときよりよい近似です。ニュートンはそのより良い近似です。相対論はもっと良い近似です。科学は客観世界の現実を説明する要請があるため近似になります。この、近似と、論理を使った構築があるので、科学は、それを考えた人が死んでも、その論理体系は次の人に引きつがれ、巨大なビルになったのでは?という面を感じます。 哲学の人は、まず要素を、科学でもしないような完全な理想的定義で決めようとするみたいですが~たとえば空間と何か?とかです。科学ではそのへんは後回しにしますね。このアバウトさ~概念にたいする直観の優先?ある種の大局観の優先をしなければ、例えば生物学などは一歩も進めなかったと思います。僕は、考えはじめに、現実説明という強い要請の元、わかり得ることと、かなり考えてもわからないことを分ける、という方針できた結果、今はこういう立ち位置にいます。お城で言うと、いきなり本丸を攻めるのでなく、周りから兵糧攻め、あるいは占領できるところから占領して、包囲を狭めていくようなイメージです。何というかー仮説主義??現実を旨く説明できるから、用語は、関わる人の共通認識としてのイメージがあるなら深くは追求しないーイメージを把握できてるなら完全な論理化はいつでもできるーだから後回しーこんな感じです。ほんとはいつでもできるわけないんですが、その言葉の実感とイメージが固定しているなら、他人に、厳密な定義がなくても引き継ぎができるなら伝わるなら、その論理化の作業はあとにしよう、です。 理想を追求する面も、現実を説明する面もともに必要と思いますが、哲学は理想追求の面だけが進歩したように思うのですが。 言い方を変えると、私は自由だ、とか、絆を大切にする、という気持ちが、そもそも考える際の取り扱う要素であり材料です。 わかることとわからないことを頭の中で分ける、というのはまたちょっと曖昧ですが。 こういうスタンスの議論は哲学であるですか? 哲学には分野分けや的の絞り方の議論はどのようなものでしょうか? どうお感じですか? つっこみどころ満載でしょうが、強く厳密に把握するのはそれを得意とする人に任せます。 ご意見を聞ければと思います。

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  • 一番大切なものは(人間)存在。だから存在主義。

    この世で最も大切なものはなんでしょうか? わたしは人の心だと思います。勿論心が大切なら命がないと困ります。 資本主義とか社会主義とか 資本がそんなに大切なのでしょうか? 社会が人の心、人間存在より大切なのでしょうか? 私は存在を求める「存在主義」を考えます。我々は人間ですから人間存在に価値を見出します。 資本主義の弊害は困ります。競争はあっていいのです、適度な競争はいいのです。 株だドルだと経済が安定しない。博打の上に成り立ってる生活に安心がある訳がありません。 社会主義だけでは機能しません。いきなり変えるのは無理なのです。 教育、生涯学習、認識を通じて自然に変わって行くのがいいのです。 人間存在をせめぎ合ってきました。そろそろ存在を調和安定、進化発展の軌道に乗せる時なのではないでしょうか。