• ベストアンサー

主観世界と客観世界を足すと。

こちらのカテか迷いますが。アンケートなのかもしれませんが、前に近い質問もしてるのですが再度。 話はまず、この世界を大きく分けるとすると、主観世界と客観世界に分けられると思います。 逆に主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在です。 そういう話を前提として、主観性と客観性の関係について(主観客観それぞれの性質とその関係について)考えることは、この世のありとあらゆるものを含む体系の法則ルールを見つけることにつながるだろうと直感的に思い、ずっと昔考え始めました。今では一応の結論もでています。 が、あまり他の人の話を聞いたことがないのです。また同じ意見の人も探しましたが今のところ見つかりません。自分では主観論理学などと勝手に名づけてます。 なので、上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか?意見が聞いてみたいです。 主要な結論として、主観世界では、存在=関係、と言うものがあります。存在と関係は等価で、この関係は直感的に人の脳には把握できないものであると言うものです。四次元立方体を直感できる人がいないように。物質とエネルギーが等価で、それが直感には響かないように。 もちろん、存在も関係も、その言葉の定義を厳密にしないと意味のない話ですし、実際厳密に定義できます。(最近ミラー細胞なるものが発見されたらしく興味もってます) こんな感じの(流れの)、話なんですが、なんといいますか、そもそもあまり関心をもってくれる人も周りにいない感じで、皆さんはこういう話を聞いてどう思われるのでしょうか? あるいは同じようなあるいは逆の考えなど持ったかたおられましたら聞かせてほしいのですが。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.17

~外界を見ている目玉自身は、自分を見ることができない~ >上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか? 正直申し上げて、ちょっとマズいかなぁという感じのみがします。。。他の御回答者様からも御指摘が挙がっているようですが。 「主観世界と客観世界を足したものの存在」と仰いますが「足す」というのは、どのようにして、なのでしょうか?それは確かに可能なことだと思われますか?不可能だとすれば「存在」とは? >存在も関係も、その言葉の定義を厳密にしないと意味のない話ですし、実際厳密に定義できます。 ならばまず、その定義(御質問者によるところの、ですね)を明らかにし、また、仰るところの「主観論理学」とやらの要点を先に御説明のうえで質問なされたほうがよかったかもしれません。このままでは「同じようなあるいは逆の考え」も述べようがないですね。。。「関心を持ってくれる人が周りにいない」としたら、このへんが原因なのではないでしょうか。独りよがりに陥っていると、やはり関心やら共感やらは得にくいものだと思います。相手の本意は無視して、こちらのつごうに従って勝手に述べるというやりかたもあるにはありますが、それじゃQ&Aの意義がありませんしね。一見コミュニケーションの形式をとっているかにみえて、その実は、お互い、あさってのほうを向いてブツブツ言ってるだけになっちゃいそうですし。相手の言わんとすることなど二の次三の次、つごうの悪い事は一切耳を塞いで自分の言いたいことだけ言わせてくれ分かってくれというのは幼稚な自己中心に過ぎますし。それだとムナシイですよね?察しがいいとか悪いとかいうのは別次元の問題です。 >主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在 所詮、我々は「主観の檻のなかから抜け出られぬ者」であると言います。であれば、そういう者なのだということを見据える、そこから出発する。そこが重要ではないでしょうか。おそらく他者に対する倫理というものも、その姿勢の如何に関わってくるものだと思います。ですから存在・認識・倫理というのは切っても切れない一連の繋がりを持っていると思います。 ANo.9~12さんの御投稿は引用のなさりかたに問題がないのかどうか分かりませんが、普段、難しい本など一切読まない私としては、興味深く参考になりました。 ところでMクンデラの作品で、女がメタファーを使うとき、それは危険であり、愛の始まりなのである、ということが述べてあるそうですが、なるほどねぇ、と思いました(笑) メタファーは願望の隠れ蓑であり、言い訳の道具にもできる。一般的に女という者は願望を隠しながら叶えたがる、それは他者によって叶えられなければならない、ゆえに受身的であり支配的である。そして不当な願いであることに気づいているがゆえ言い訳が多いものだ(笑)だから言い訳の多い男は「女々しい」と蔑まれることになる(笑) 御参考になりますやら? 過去質問から『視線の哲学 再版』 http://personal.okwave.jp/qa1281745.html 『存在の耐えられない軽さ』について http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0360.html http://www5b.biglobe.ne.jp/~yo-ta/words/words_miran.htm 『毎日の言葉』(柳田国男、新潮文庫) 『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(沖浦和光、文春新書) 『道化の民俗学』(山口昌男、岩波現代文庫) 『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(ウェンディ・ムーア、矢野真千子訳、河出書房新社) 『グロテスク(上・下)』(桐野夏生、文春文庫) 『掟の門』~『カフカ短篇集』(フランツ・カフカ、池内紀編訳、岩波文庫)等々の書評、知的でオモシロく、私も参考にさせていただいてます。↓ http://blog.goo.ne.jp/jinfrusciante 『表象の光学』の著者小林康夫氏のブログ↓ http://www.suiseisha.net/tsushin/vol02/kobayashi01.html コトバというのは、その「選びかた」に、まず意味があるのです。それは、その個人の内面世界―願望をも示します。ですから、どう選んでいくか段階を追うごとに即ち、その個人の内面世界の変遷を追っていることになります。だからコワイものなのです。ヘタすると全部バレちまう。たとえコトバ遊びであっても!

sheep67
質問者

お礼

話を戻します。>主観の檻のなかから抜け出られぬ者、と言うところまでいちいちもっともなことだと思います。そういうミスをしないよう気をつけたいと思います。ただ後半の参考文献は??、どなたか他の投稿者の方宛の一文なのでしょうか?それともこういうので勉強も楽しいですよというアドバイスでしょうか?僕はある意味哲学がすごく苦手です。やさしいことを難しく書いてあるようで遠回りさせられる感覚があります。人の心も現実世界もそんな難しくはできてないと思うので。 もっとも心の基本ルールの現実世界への応用については、フラクタル的な展開を見せることで非常に複雑な現実世界を作ってるのではないかとは考えているのですが。シンプルなルールが複数回適用されることで複雑系が出来上がるところは、現実世界の複雑さとまさに対応してるように感じています。証明しろといわれるとかなり難しいでしょうけど、まず間違いないんじゃないかなーと感じています。

sheep67
質問者

補足

回答ありがとうございます。 主観と客観を足す、ですが、まー下にもだいぶ書いたのですが、そういう仮定からスタートしたらと言う話ですので。あと結論から言うと、いわゆる止揚でしょうか、次元を上げて組み合わせる形になったことも下に書いてみてます。 あと定義ですが、やらないとだめですかねー?大変なんですねー。具体例を複数組み合わせることでそこから共通項を汲み取ることで抽象化した概念を理解してもらう、と言うのが楽でいいんですが。 話は変りますが、下でいろいろ書き残したことがあってこの場を借りて書いてしまおうと思います。 関係と存在についての一例ー2つあります。1つは紀元前に王様が、生まれた赤ちゃんに誰も話しかけなければ最初にどんな言葉をしゃべるかと言う実験をしたところ、全員の赤ちゃんが死亡したと言う実際にあった話です。もちろん食べ物は与えられての話です。 2つ目はフローティングタンクでの5感遮断の実験でこれは有名ですが。数十分でたいていの人は気が変になりそうになり耐えられないらしいです。数日いれば間違いなく死に至るんじゃないでしょうか。両方の実験とも、いかに人が、人を含む外界との交流が必要か。外界とのつながり関係がなくなることが、自己の存在の喪失=生物学的な死を招きかねないことを示唆してると考えます。これはつまり関係がなくなると存在もなくなると言う因果関係ではなく、関係と存在は同じものだという等価なものだという結論を導くのにいい例ではないでしょうか? また存在の定義になるかわかりませんが、子供の成長に存在への安心が不可欠と書いた本があります。 http://www.shinseikai.jp/10_book/kagayakeru_mo.html 輝ける子と言う、小児科医の書かれた本です。このHPの19番がそうです。 定義と言うことで、人格の定義をしたいと思います。人格とは無数にある精神要素のうち、現実世界に対応して生きるのに必要な精神要素を集めて1つにまとめたものであり、意識無意識の境とはまた違う枠組みをもっています。 こんなところです。すみません勝手にスペースを使ってしまって。

その他の回答 (22)

noname#31811
noname#31811
回答No.23

お礼文いただきありがとうございます。 >言語化できていないあいまいさの部分が当然必要となるかなーと思います。 あいまいなものと申しましたのは言葉のことです。というのは、 >主観性と客観性の関係について(主観客観それぞれの性質とその関係について)考えることは、この世のありとあらゆるものを含む体系の法則ルールを見つけることにつながるだろうと直感的に思い と仰っておられますけれども、まずsheep67さんのお考えになられる、 主観 客観 世界 についての性質をまずある程度ご提示して頂かないと回答しようにも回答のしようがありません。 例えば、>主観(心象世界)とありますがこれはデカルトの立場です。 対象(客観)は表象として意識せられるわけですから。

sheep67
質問者

お礼

すみません、richilandさんの投稿とこちらの締め切りがほとんど同時だったみたいで、気づきませんでした。 そうですねここは哲学のカテなので、言葉の定義は厳密にとは何度か言われてますがーまず言葉要素を定義して全体の概念を構築していく手法は当然でありますが、僕自身は、下の返事でも書いてるのですが、そこを厳密に決めてしまうと、あくまで僕個人の問題ですが、理性論理が勝ってしまって、考えを推し進める原動力である直感が働きにくくなることをすごく恐れています。まーこんなのは言い訳にしかなりませんが。 なので、今回の投稿自体ごめんなさいと言うしかないです。まだ哲学をしている人にわかってもらえるほど考えの全体像が焦点を結んでいないのです。言葉の定義も同様で。なので主観と書いて、それはどういう主観なのかと聞かれると答えられないと言うか答えるのを怖がってしまいます。NO20の方が言われてる客観は主観の補集合である、と言う定義では不完全に思われるのですね。んーごめんなさい。これ以上厳密にといわれると、僕は哲学を一から勉強しないと答えられないかも。たぶん主観と言ってもいろんな人がいろんな定義をしてるんでしょうねー。もっと考えがまとまったらまた投稿するかもしれないのでそのときは懲りずに読んでやってください。再度の投稿に感謝いたします。ありがとうございました。

回答No.22

>それと全文を通して感じたのは、僕にはもう少し謙虚さが必要なのではないか、と言おうとされてるのかな、と思いました。そういう気持ちが伝わってくる感じがしたのですが。 少なくとも私は違います。 他の人の意見を見てみるともっと勉強しろよ見たいなことを書かれている人も居るみたいですが結構良い内容を書かれていると思います。 単純な意見を書くなという規定もないので。

sheep67
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 そうですね、皆さんいろんな意見の人がいてとても参考になりました 今回の問答は今後のいいたたき台になると思います。 たくさんの意見が聞けてとても幸せに思います。 投稿いただいた皆さんにお礼申し上げます。

noname#31811
noname#31811
回答No.21

>あるいは同じようなあるいは逆の考えなど持ったかたおられましたら聞かせてほしいのですが。 よろしくお願いします。 おお、正に主観論理学ですね。 >主観世界、も曖昧なら>客観世界、も曖昧。 ーそこに曖昧なものなくして何らの断定もできないこと、ここにもまた悪徳がある。

sheep67
質問者

お礼

>曖昧なものなくして何らの断定もできないこと、ここにもまた悪徳がある 悪徳ですかー?うーん。まーでもあいまいさが断定に必要なのはその通りだなーと思います。考えてる分野にもよりますが。でも大なり小なりどの分野でも、人は理性だけで物事を判断してるわけではありませんからね。むしろ正しい理性の働きの母として、言語化できていないあいまいさの部分が当然必要となるかなーと思います。 お返事ありがとうございました。

sheep67
質問者

補足

存在=関係の補足と言うか一例を挙げます。 宗教に当てはめますと、キリスト教は関係の宗教です。仏教は存在の宗教です。(乱暴な言い方ですが)ゆえに、キリスト教=仏教と言えます。両者は人の心のコアになるものが存在でありかつ関係であることを端的に語ったいい例だと思います。

回答No.20

NO.7です。 >脳のスイッチで主観客観に変化すると考えますがどうでしょうか? まさにそのとおりだと思います。がその中間地点もあると思います。 1完全主体感覚 2完全客観感覚 3不完全中性感覚 この3つではないかと。 BTB溶液みたいなものかと

sheep67
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 3は、2つが入り混じったものと言うことなんでしょうか?難しいですねー。ミラー細胞については通俗的な知識しかないものでなんとも・・。考えを練らないとわからないです。でもそうですねー2つが交じり合うと言うこともあるのかもしれないですねー。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー あと下の方の返事の中で抜けてましたが、主観の構成要素を抜き出してそれぞれの関係を調べることで主観(心象世界)全体の構成がわかるようになる、と言うのが基本的な方針です。納得いただけるかわからないのですが。 それと全文を通して感じたのは、僕にはもう少し謙虚さが必要なのではないか、と言おうとされてるのかな、と思いました。そういう気持ちが伝わってくる感じがしたのですが。

  • Ganymede
  • ベストアンサー率44% (377/839)
回答No.19

1. 『或る「小倉日記」伝』 唐突ですが、松本清張の芥川賞受賞作です。主人公は田上耕作といいます。「小倉日記」は、軍医だった森鴎外が、福岡県の小倉に左遷された期間につけていた日記です。ただし、その日記には空白期間がありました。 田上は小倉の人で、文学や歴史の研究方法を専門的に学んだことはありません。それでも、一念発起して「小倉日記」の空白期間の研究に取り組みました。資料を渉猟し、鴎外とゆかりのあった人々を訪ね歩いて、不明部分を埋めていきます。彼は身体障害のため就職できなかった身の上で、「小倉日記」研究がライフワークのようになっていました。ところが、病状の進行により、志半ばにして早世してしまいます。 しかも残酷なことに、田上の死後、「小倉日記」の欠落部分が発見されたのです。鴎外はオリジナルの日記を捨てていなくて、行方不明になっていたのが出てきたわけです。田上が心血を注いだ研究は、ほとんど無駄になってしまいました。なお、この短編小説は実話をもとにしたフィクションだそうです。 2. 独学者の哀しさ 私は学のない人間です。独学の哀しさは、田上耕作にも私にも、そして失礼ながら御質問者にも、共通のものではないでしょうか。そのよしみで申し上げたいのは、「私たち凡人が思いつく程度のことは、すでに先哲たちが散々考え抜いているようだ」ということです。 御質問者の、「あまり他の人の話を聞いたことがない」、「哲学は全く勉強していません。専門用語も知りません」とおっしゃる思考方法は、あまりにも無謀だと思います。 まず、「主観世界と客観世界を」足すと「この世のすべて」になるという前提についてですが、次のような考え方があります。 「客観」には「客体」という意味があり、主観を A とするなら、客観は A の補集合にあたる。両者の総和は全体集合である。……(*) しかし、主観と客観の関係はそんなに単純でしょうか? これもまた、先哲たちが散々考え抜いた問題で、「そもそも客観世界を認めない」とする立場もあれば、「両者は足し合わせできない」とする立場もあります。(*) は立場の一つに過ぎないわけです。 また、ご質問者は「補集合とか全体集合とか、一言もいってない」とおっしゃるかも知れません。しかし、「主観世界と客観世界を」足すと「この世のすべて」になるという考えは、「客観世界は主観世界の補集合である」ことと同値であり、結局 (*) と同じです。前述のように、それは「主観」と「客観」を考えるうえでの一つの立場に過ぎず、「はあ、あなたはそれを前提として採用するのですね」とでも答えるしかありません。 次に、 > 主要な結論として、主観世界では、存在=関係、 > と言うものがあります。 について。これも、現代の哲学では常識的な考え方の一つに過ぎません。今、本が手もとにないので正確な引用ができませんが、廣松渉(ひろまつわたる)も「存在とは関係性の束である」というようなことを書いています。廣松はマルクス主義哲学から出発した人で、現代日本屈指の哲学者です。ずいぶん難解な文章を書くことで有名でしたが、通俗解説書も出していて、私はその中で読みました。 御質問者は、「『関係性の束』とは言ってない」とおっしゃるかも知れません。しかし、物質とエネルギーが等価であるからといって、「物質=エネルギー」と等号で結ぶのは杜撰でしょう。2乗したり、係数を掛けたりしないと、両辺のディメンションが合いません( E=mc^2 )。同様に、単に「関係」ではなく、「関係性の束」などとした方が、「存在」と等号で結びやすいと思います。 3. まとめ あなたが独力で、例えばド・モルガンの法則を導き出して、人に誉めてもらっても、しょうがないと思いませんか? そんなことは入門書に書いてあって、勉強した人なら誰でも知っているからです。 さて、人の死んだ後の心配までするのは、余計な世話もいいところですが、御質問者が哲学書も読まず、何十年も一人で考え抜き、ネットやノートに思索の跡を綴ったとしましょう。没後に御遺族が発見するのは、「哲学科の1、2年生、つまり10代の子供でも知ってるようなこと」か、あるいは「故人以外にとっては意味不明の言い回し」ではないでしょうか。 基本的な理論や用語を知っておかないと、主観や客観を論じようにも、他人と話が通じないと思うのです。

sheep67
質問者

お礼

まーでもとにかく、でも読み返してみて、3のまとめで書かれてるようなことにはならないように気をつけます。上の例もかなり独善的なのは承知していますが。あと、2のところで貴重な例をいろいろ挙げてもらったのも大変うれしかったです。自分と一部でも同じようなことを考えた人がいると言うのはうれしいですねー。間違ってないんだーと言う自信になります。大変大変参考になりました。おっしゃられたような例があるのを誰かが言ってくれないかなーと待っていたので。哲学の勉強は、そうですねー今考えてることの肉付けがもう少しちゃんとしたらちょっとずつかじって行きたいですね。回答者様に言わせるとちゃんとそれは知っておかないとだめだよということなのでしょうが。 では失礼します。

sheep67
質問者

補足

回答ありがとうございます。 独学者の悲しみですかーそういうリスクはありますねー。なので時々調べたりもするんですが、2に書かれてるようなことは今日まで知らなかったですしねー。確かにそういう危険があります。 3に飛びまして、これも確かにそうですね。いつまでも今のあいまいさを残すつもりはないですが、今は突っ込みどころ満載ですね。 2についてですが、アスタリスクの文は全く僕の考えと同じです。ただそれを前提に僕は主観性と客観性の関係についてすぐ考え始めています。当時ずいぶん無視されましたが。言われるとおりそんな単純な関係ではありません。それはわかったうえでこの前提を採用したんです。最終的な結論はNO7の方へのお返事で書いてるものになります。もちろんこの意見が受け入れられるかどうかなんてわからないですが。 偉大な哲学者に対しての尊敬の念は横におきまして続けます。 関係性の束についても同じことが言えます。存在が単一の関係のみからできてるわけがありません。なので僕が勝手に言っている関係とは、複数形であり、あるいはそれらを1つにまとめた抽象的な集合体のようなものといえます。なので関係性の束だというのは全くその通りだと思うのですが、僕はこの言い回しには反対です。哲学の厳密さが裏目に出たいい例だと思います。この言い方では具体的な関係のイメージがわいてしまいそこで打ち止めになります。抽象化した、あいまいな言い回しである「関係」とするほうが、抽象的ゆえに広がる広い応用力を持っていると思います。僕はネットで調べただけなので違ってたらすみませんが、広松氏は、存在は関係からできてるといわれたそうですが、僕の意見は両者が等価で同じものの2つの側面であると言うものです。そうすることで初めて、広い応用につながっていき、最終的には主観(心象世界)の全体の構造を解き明かせるくらいに体系化が可能になります。現代において哲学で関係=存在が常識なら、僕にはどうしてそういう応用を考える人がいないのか不思議に思います。また同じHPで、広松氏は主観と客観を統一して止揚した、と書いてあったのですが、ならば関係と存在についても同じく止揚の概念を当てはめなかったのか不思議です。止揚についてはNO18の方へのお返事で僕も偶然に書いています。なので広松さんとは着眼点や考えの進め方の方向性がよく似てるなーとは思います。 >物質とエネルギーが等価であるからといって、「物質=エネルギー」と等号で結ぶのは杜撰でしょう。 このずさんさがいいとは思われませんか?思われないのなら仕方ないのですが。数学的にはおかしな等号の使い方ですが、僕自身はこれは新しい等号の使い方だと思っています、おおげさですが。このイコールが正しいとされるステージ次元において世界のありようを考えることが大事なのです。それこそが、僕の目的のひとつでもある、宗教と、哲学科学をつなぐ、方法論の1つの切り口になると考えます。あるいは文系と理系の統一の。 具体例を挙げてみてもいいですか。存在=関係において、存在の具体例として、自信、自尊心、プライド、自己肯定心などがあります。関係の例としては、絆、信頼、愛情などがあります。存在=関係なのだから、自信=絆となります。でも同時に、プライド=信頼、と言う結論も出ます。結論の数は、上の例で言うと、4x3=12通りあり、それぞれが全部等号の式です。僕個人的には、自身=信頼などは直感的にわかりやすいのですが、プライド=愛情だといわれるとぴんと来ません。それを実感できる適当な例を思いつかないと。でもそんな例がなくても、この2つが同じものであることが存在=関係から自動的に導かれるのが大きなメリットです。一つ説明をすると、たとえば自己肯定=愛情(人への)を説明する時必要なのは、自己の人格は、根源的に存在する自分にとって最も近い他人であると言うことです。ゆえに自分を愛し肯定することは、自分と言う他人を愛することなので、一般に言う他人を愛することにつながります。これはごくごく一例ですが。人に説明の時、どんな具体例を挙げるかはその人の人生経験にかかってきます。この手の例は抽象的なものからきわめて具体的で卑近なものまでいくらでも思いつきますから。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.18

御返事、拝見しました。 哲学は定義のことを、やかましく言いますからね(笑) でも、これを疎かにする人には哲学論議に参加する資格はないかもしれません。独り言を呟いてるようなものに陥るでしょうから。 >そういう仮定からスタートしたらと言う話 仮定というものは、厳しいことを言うようですが仮定だからテキトーでいいということにはならないと思います。前提をしっかりさせるということもそうですが、一番上のボタンを掛け違えると最後まで掛け違えたまま、という危険があることは片隅にでも留めておかれたほうがいいと思います。その点からも論理というものを過信しないことです。とくに自分が産んだものは可愛いものですから(笑)欠点弱点に甘くなりがちです。高次のステップに進むということの前には、まず、いかに仮定なり前提なりを叩き上げるかという作業が重要ではないでしょうか。鉄(哲)は熱いうちに打て、ですよ(笑) >1つは紀元前に王様が、生まれた赤ちゃんに誰も話しかけなければ最初にどんな言葉をしゃべるかと言う実験をしたところ、全員の赤ちゃんが死亡したと言う実際にあった話です。 本当に「実際あった話」かどうかはともかくとして、少なくとも健全に育ちにくい、ゆえに死亡率が高まり易いというのは、ありそうですね。実際そうした実験を行うということは、こんにち人道的観点からも公的には、できないんじゃないかとは思いますが。 >いかに人が、人を含む外界との交流が必要か。外界とのつながり関係がなくなることが、自己の存在の喪失=生物学的な死を招きかねないことを示唆してると考えます。 そうですね、それは詰まるところ外界との交流によって自己の主観を刺激する、それによって主観の更新、主観を鍛え上げるということが生きのびるうえで、いかに大事なことかを示していると思います。いわば「新陳代謝」ですね。ヒトだけではない、企業のような組織体においても柔軟な変化が声高に要請されるのも、そのあたりが絡んできそうです。とは言っても単なる無節操はイヤですが(笑) >ただ後半の参考文献は??、どなたか他の投稿者の方宛の一文なのでしょうか?それともこういうので勉強も楽しいですよというアドバイスでしょうか? 戸惑わせてゴメンなさいね(笑)半分アタリなんです。でも御質問者様にとっても決して無意味ではないと思います。楽しいと思っていただきたいのです(笑) >僕はある意味哲学がすごく苦手です。やさしいことを難しく書いてあるようで遠回りさせられる感覚があります。人の心も現実世界もそんな難しくはできてないと思うので。 このへんは共感を感じます。数学の定理たとえば「オイラーの定理」とかいうんでしょうか、あれも結論だけ見ると「な~んだ」ってなものですが、哲学も、そんな感じのこと多いですよね。ただ、じゃあ「やさしいこと」を、きっちり説明してみろと言われたら、実は、これが案外と一番難しいんじゃないでしょうか。そういうことだと思うんです。「やさしいことを難しく」するために難しく書いてる場合は愚かとしか言いようがない気がしますが、私たちが「やさしいこと」だと思ってることって本当に「やさしいこと」なのでしょうか?反対に「難しいこと」だと思ってることが本当に「難しいこと」なのだろうか? 「光あれ」と言ったら光が現れた。これ「やさしいこと」?「難しいこと」?アタマ痛くなってきますね(笑) >複雑系 これもオモシロいですよね。セル・オートマトンとかね。 せっかく興味の尽きない御自分なりの理論を見つけられたなら、どうぞ、これからも思索を深めていってください。でも人に、それを投げかけてみたとき心が傷ついてしまうような応答をされずに済むよう少し工夫してくださいネ。ちょっと心配してしまったのです~(笑)

sheep67
質問者

お礼

仮定ーうーん適当と言うわけでもないんですが、なんと言うかこれも直感的にまずそうだろうというあたりをつけて選んだもので、ある程度考えが進んだところでこの前提がおかしいと思ったらぶっ壊すつもりではいたのですがー。 赤ちゃんの実験はやったら犯罪ですが、タンクのほうは現代の実験なので問題ないみたいです。 >新陳代謝 ですかー。なるほどそんな見方もできるのですねー。おもしろいですねー。考えても見ませんでした。 いずれにせよ興味を持っていただいて返事をもらえて感謝してます。今まで投稿しても返事をくれる人が0人か、いても1人か2人だったのに、何で今回はたくさん返事がもらえたのかなー?今までのタイトルが悪かったのかも。 >心が傷ついてしまうような応答をされずに済むよう少し工夫してくださいネ そうですねーむしろ今まで反応がなくてむなしい・・と言うのが続いてたので、今回の投稿文はちょっときつめだったかもしれないです。気をつけてみます。 参考文献のくだりは、なんと言うか、味があると言うかお人柄が出てるかも、おもしろかったです。 今回もご回答ありがとうございました。

sheep67
質問者

補足

心配していただいて、ありがたいですねー。あまりきつい反応が返ってきそうなとこには書かないようにしてますがー。打たれ弱いもので >哲学は定義のことを、やかましく言いますからね やっぱりそうですねー。僕は直感を優先して、厳密な定義づけは本当に最後の段階で言いと思ってやってるので、哲学じゃないかもしれないですねー。 でも僕はカテゴリーの横断と言うのを常に念頭に置いてますから、特に科学と文科系の世界とのマッチングをいつも考えてるので、論理性と言うか、話に筋道が立つようなところから離れないようにはしてますが、 厳密に決めないメリットもあるんです。そのほうが飛躍した直感がもたらされやすいですし、複数の分野を横断して考える時に、厳密に決めるより、アバウトなほうがいろんなものを取り込みやすく、また大局的な見地に立ちやすい、と言うのがあります。 まー僕に、厳密に考えつつも大局的視野をもてるのを両立できるほどの能力があればそんな必要ないんですが、それができるほど頭よくないですし。ひらめき重視の場合、定義づけはあとから付け足す感じになっちゃいますねー。 科学者で音楽が好きな人は多いですが、それって1つの脳の中に文科系的なものと理系のものが並び立ってるわけですし、それならまとまることもありかなーと。 >やさしいことって本当にやさしいこと? いや本当に思いっきり同感です。それを感じ取るのはやさしくても表現するとなるとやたら難しい、どの分野でもそうみたいですが、生きるうえで前提条件になっていることにメスを入れるときにこの問題は発生しがちですね。数学でも、えー大きくなってからユークリッドの基本定理を読んでみたんですが、当たり前すぎてその意義とか意味がよくわからなかったです。

回答No.16

NO.13投稿に対する補足回答をいたします。 NO.4さんの回答を害しない程度に主観と客観的感覚が存在している ということを書いたつもりです。 つまり自分じゃ無い存在を見ないと自分を判断できないと言うことです。 主観世界のみであれば目の前には自分の体も映像も何もかも映らないはずです。 目の前には主観世界のみしか存在しません。 それは言い換えれば主観世界だけの世界は主観とは呼べず。 あくまで客観世界が存在しなければ成立しないのです。 自分が存在する瞬間に主観世界には関係が生まれます。 簡単に書けば主観世界の中に存在する実在と関係という意味です。

回答No.15

ミラーニューロンとはいわば人真似ニューロンです。 空気を読めとかありますがあれは一種のミラーニューロンの働きだと自分では思っています。 人の手が動く映像を見ると見た人の手を動かすという動作の脳が動くのです。大抵の人はそんなこと意識できないのですが。ちゃんとミラーニューロンが働いています。 ついついつられて○○しちゃったーwなんてことありませんかあれはミラーニューロンが働いた証拠です。人の動く映像を見ると自分まで映像の人間の行動をしているような感じになるのです。たとえば人がある種の人の感情の表情をアップで映すシーンがバラエティー番組とかでありますよね見ている人の脳にも同じ感情が働いているのです。うそじゃありません。 茂木氏が良く知っております。 この発見でノーベル賞とるとか何とか言っててまだ取っていません。

回答No.14

こんばんは、sheep67さん。 何かの参考になるかな? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211654022 http://oshiete.eibi.co.jp/kotaeru.php3?q_id=3022716 【オートポイエーシス】 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1063.html 個体化 差異 メタモルフォーゼ

sheep67
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 3つ読ませていただいて、前の2つはいまいち意味がわかりませんでした。 オートポイエーシスは難しい話ですが、生物学的な話のようだったので、ちょっと本題からは違うのかなーと思いながらも、こういう系の話はきらいじゃないです。まーでもホメオスタシスがでてきたところでちょっとほっとしましたが、難しくてアップアップだったので。ただ生命の化学反応~いわゆる散逸構造についてはでてこなかったですねー。生命の動的な系で僕が知ってる唯一の知識だったんですが。こういうのを読むと生物の勉強もしたかったなーと。

noname#38692
noname#38692
回答No.13

tenntennsevengooさんのNO7の回答で、ニューロンの所の意味が分かりません(泣 人の手の映像を見て自分の手が動いてしまう錯覚にとらわれる時、どこに客観が混じっているのですか?錯覚もまた主観ではないのですか?簡単でいいので教えて下さい。。。 回答じゃなくてすみません

関連するQ&A

  • 主観&客観についてです。

    主観と客観の関係についての、学問の分野とか、あるいはそれらについて考えておられる方いますでしょうか? クオリアについては多少勉強したんですが、自分の考えとは微妙に志向の軸がずれてるように思われます。 主観の世界と客観の世界を足したら、この世のすべてを網羅することになる、それの法則はつまりこの世のすべてを貫く原則になるという方針で10年ほど考えてみたんですが、同じようなことを考えてる文章や人に出会ったことがありません。 そういう人なり、学問があれば参考になると思って書いてます。 論理的思考ではあっても、科学の枠にとらわれないことで、両者を統一した視点から捉えて、その原則に近づこう、という風な趣旨のものなのですが。 似たようなこと考えてるかたおられるでしょうか? あるいはそういう学問の分野があるでしょうか?〈文科系と理科系を論理的に統合するような見解といえば近いと思うのですが〉 上のような考えを知っておられる方がいたらぜひ教えてください。お願いします。 補足になりますが、トランスパーソナル心理学は、その論理的組み立てからみて、また違うパート、分野の学問と思われますので、それは除外してます。 脳科学、あるいは、数学の位相幾何学〈トポロジー〉からの発展系としての考えが比較的近いように思います。自分の考えのたどってきた経路を見てきた場合、参考になったもので。ただ、同じというわけではなかったです。 なにぶん一人で勝手に考えてきたもので、似たような考えをご存知の方いたらよろしくお願いします。とても人の考えを参考に〈あてに?〉したいもので。

  • 主観と客観について

    「主観」および「客観」の意味を教えてください。辞書を見てもいまいちよく理解できません。 例えば、物理学の運動の法則の一つに、 「すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける。」 があります。この法則を一般の方にわかりやすく説明するために 「物体というのは速度の変化を嫌う性質があります。止まっているときはそのままずっと止まっていたい、ある速度で動いているときはその速度でずっと動いていたいのです」 と言ったら、ある文系学者さんから、 「そのような説明は良くないです。主観的だから」 と言われました。 前者の説明は客観的であることは明らかですが、なぜ後者の説明は主観的なのでしょうか?主観と客観の違いは何ですか? 主観性、客観性のそれぞれの定義は国語辞典に下記の通り書かれています。 主観性: 主観に依存する性質。(主観:その人ひとりのモノの見方) 客観性:だれもがそうだと納得できる、そのものの性質。 この定義に照らし合わせると、「いかなる条件下でもいかなる物体は"そのままの状態でいたい"が必ず成立する」であるならば、これは個々に依らないことであり、かつ、誰もがそうだと納得できるそのものの性質を擬人法で表したものなので、むしろ主観性が低く客観性が高いと言えるのではないでしょうか?

  • 主観世界の性質

    こんばんは。 主観世界の性質について考えてるんですが、 以下、今のところの考えです。 他の方のご意見を伺いたくて質問させてください。 1.主観世界は、基本的に客観世界と同じ性質~時間空間、明るさを持っている。ただ、客観世界のようには数字では表現できないが、同じ時空間。 2.精神的変動があるときは、在来自分がいた主観世界を出て、新しい主観世界に入る。 3. その主観世界を移動するとき、主観世界の壁を越える。 4.壁を越えるときに感じる主観世界の壁面の性質は、無限、絶対、循環、という3つの感覚のどれか。 4-2.逆に言うと、普通の主観世界は、有限、相対、把握、が主な性質。 5.主観世界の移動は、集中の質の変化に対応している。 6.主観世界の違いは、無限の質=次元の感覚、の違い。 7.次元の感覚、とは、自己を内に含むところの存在に対する感覚 8.一つの主観世界には、一つの人格が対応している。 9.素の自分の人格以外は、すべて他人と共有する人格になる。なので、それに対応する主観世界も同じ。 以上思いつくまま書いたのですが、まだまとまってません。 要領を得ない箇条書きですが、まだ途中です。 基本、とりあえず論理的に構成したいと思ってます。 構成要素は、純粋に現実に観察できる主観の感覚を使ってます。 何か引っかかることがあれば、ご意見聞かせてください。直接関係なくてもかまいません。 よろしくお願いします。

  • 主観性と客観性の関係について

    前の質問の続きになってまうのですが、主観と客観の幾何学的な相互の関係について興味、あるいは考えてる人、学問分野などあるでしょうか? あと、心理工学という言葉をきいたのですが、どういうことを研究してる学問でしょうか?心象世界の幾何学的構造についての学問でしょうか? 詳しいかたおられたら教えてください。

  • ずっと前に書いた関係=存在のことですが

    こちらで以前書いたものなのですが。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3052150.html 以前かなり言葉足らずだったので。 前に、関係=存在といったのですが、 客観世界では関係=存在は当然と思う人もおられますが、 主観世界でも同じことが成り立つのでは?という話です。 つまり主観世界での関係=存在、とは、 人間関係=人間存在、ということです。 つまり人とつながっている=自己が存在している。ということです。 これは、主観世界の認識の問題なので、ここが違うと、心を表現する言葉、それを感じる直感、心に対して重要な価値観、良心、行動、などが見事に逆になります。 人の世がこうできてるのだーというところが違うと言うことは一番大事なものが違う、ということになります。 この2つの認識の違いを、関係直観、存在直観と仮に呼んでいます。 関係直観の人は最も重要なものを「絆、信頼」と言いますし、存在直観の人は最も重要なものを「自分、自由」と言われます。 でも逆だけれど同じだ、という話なんです。 よくたとえで、女性とおばあさんのだまし絵の話をします。 これは人の認識能力の限界を探る話で、関係=存在のわかりにくさの説明をしてるつもりです。 あまり説明しても長くなりますが、だいたいこんな感じなのですが、 どう思われるでしょうか? この手の内容に興味のある方がおられたらお話聞かせていただけたらうれしいです。よろしくお願いします。

  • 客観的意見〈誰も何も客観視できない〉という客観性

    「客観的に見る~という視点そのものが存在しえない」 他人の事柄は客観的に見れると言う人がいると、それは間違いであるという思考があります。 誰も何も客観的に見ることは叶わないのです。〈必ず主観は伴うから 人が「自分を客観視しろ」「客観的意見を言うけど」等セリフを吐くとき、感情的で客観性を欠いた表情が見え隠れします。 正しいと思いますか? この正しさを分かり易く説明して下さい。

  • 人の主観を客観的に判断する方法はありますか?

    医療関係で人に関わる専門職をしています。 私たちが関わる仕事はその対象者が私たちのアプローチを受けて満足したかどうかで結果が左右されます。 しかし、その満足度を客観的に評価することに苦慮しています。 笑顔が増えたとか、知人に良いと話していたとか・・・ 私たちのアプローチの効果を知るために、つまりその対象者の主観を客観的にとらえる方法はあるでしょうか? 今は、主観的情報としてその人の発言、表情、第三者からの情報、その人を見る私たちの視点、そして、客観的な情報として医療情報、検査結果等を総合的に照らし合わせて、この人はこう思っているようだ、と判断しています。 しかし、こういうやりかたしかないのでしょうか?

  • 裁判で!主観も複数あれば根拠になりのですか?

    (民事裁判において) 主張には、主観と客観があると思います。 主観とはその人の考え方。と解します。 同じ考え方の人が複数(非利害関係者)あれば客観的根拠になるのでしょうか? すみません。主張を考えた場合、主観であってもその人にとっては根拠になるのではないかと考えたもので相談になりました。 宜しく願います。

  • 主観的な時間の進み方について

    えーと、タイトルの通りなのですが、 客観的な時間はもちろん時計ではかれますし世界共通ですが、個人的な時間は人によってさまざまです。 同じ3分間でも、気持ちに余裕のあるときには普通に過ぎる3分が、急いでるときに待たされる3分はとても長く感じます。ボクシング1ラウンドの3分間も多分きっとすごく長い時間だろうと思うのです。l また年齢によっても違います。子供のころは時間の過ぎるのがゆっくりで、年とともに早く過ぎるようになると聞きます。(自分でもそう感じます) このような主観的な時間感覚の違いを、そのまま否定も肯定もせず受け止めて、この主観的な感覚を、ありのままの事実として認識する、まずそれを証明はできないが(将来的には科学的証明されるかもしれませんが)現実に起こっている事実として認める、という風な手続きを踏んで それを主観を構成する1要素として事実として認知する、というような始まる学問体系は存在しますか? おそらく、入るなら心理学か、哲学じゃないかと思うのですが、自分でも調べましたが、見つけられません。 あるいはこういう個人の時間感覚の違いを、事実として認識すること自体無理があるでしょうか?(僕は時間感覚だけでなくもっと広く一般的な人の主観の感覚についても同じことがいえると思うのですが)。 急ぎませんので、何かご意見のある方、あるいはそんな話ならもうこういうのがあるとか、ご存知の方、おられましたらお返事お願いいたします。

  • 主観的、客観的でいいのでコメント下さい。

    30代男性です。相手も同じ30代です。 去年年末に彼女と別れました。 メールで言われました。 仕事が忙しくそこまで気が回らないという理由です。 でも、私は「メールじゃなく、会うか、せめて電話で話し合おう」って言いましたが、 しばらく音信不通でした。 3月にメールが来て、「近々連絡します」と来たものの結局連絡は来ず、 今月にようやくメールが来て、「仕事が落ち着きそうなので、近々連絡します」と返信が来ました。 私自身は「別れるならちゃんと電話で言って欲しい。5分、10分の話じゃない?」 とメールしましたが、それにも応じてくれませんでした・・。 周りからは、「もうそんなのは忘れなさい」と散々言われてますが、 私的にはやっぱりうやむやにはしたくはないです。 お互いいい年なので。 白黒はハッキリとさせたいです。 ほんとに、仕事がいっぱいいっぱいで落ち着くまでは話し合いたくないのか、 いったいどうしたいのかさっぱり分かりません。 仮に新しい彼氏が出来てるのなら、メールの返信すら来ないと思うし、 なんで、電話対応してくれないのかが分からないです・・。 性格的には仕事一本で浮気やキープなどはしない性格だと思うのですが、 女の人の気持ちは私には分からないです。 ハッキリ縁を切るなら、たった5分、10分の話ぐらい簡単と思うし、 復縁するならそういう意思表示をしてくれてもいいのに、とにかく連絡を伸ばされてます。 私自身もどういう気持ちで毎日を過ごしていいのか分かりません。 この文章だけなので、相手の気持ちなど分からないのは当然だと思いますけど、 みなさんの主観的な意見、客観的な意見を聞いてみたいです。 よろしくお願いします。