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主観世界と客観世界を足すと。

こちらのカテか迷いますが。アンケートなのかもしれませんが、前に近い質問もしてるのですが再度。 話はまず、この世界を大きく分けるとすると、主観世界と客観世界に分けられると思います。 逆に主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在です。 そういう話を前提として、主観性と客観性の関係について(主観客観それぞれの性質とその関係について)考えることは、この世のありとあらゆるものを含む体系の法則ルールを見つけることにつながるだろうと直感的に思い、ずっと昔考え始めました。今では一応の結論もでています。 が、あまり他の人の話を聞いたことがないのです。また同じ意見の人も探しましたが今のところ見つかりません。自分では主観論理学などと勝手に名づけてます。 なので、上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか?意見が聞いてみたいです。 主要な結論として、主観世界では、存在=関係、と言うものがあります。存在と関係は等価で、この関係は直感的に人の脳には把握できないものであると言うものです。四次元立方体を直感できる人がいないように。物質とエネルギーが等価で、それが直感には響かないように。 もちろん、存在も関係も、その言葉の定義を厳密にしないと意味のない話ですし、実際厳密に定義できます。(最近ミラー細胞なるものが発見されたらしく興味もってます) こんな感じの(流れの)、話なんですが、なんといいますか、そもそもあまり関心をもってくれる人も周りにいない感じで、皆さんはこういう話を聞いてどう思われるのでしょうか? あるいは同じようなあるいは逆の考えなど持ったかたおられましたら聞かせてほしいのですが。 よろしくお願いします。

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  • noname002
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回答No.17

~外界を見ている目玉自身は、自分を見ることができない~ >上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか? 正直申し上げて、ちょっとマズいかなぁという感じのみがします。。。他の御回答者様からも御指摘が挙がっているようですが。 「主観世界と客観世界を足したものの存在」と仰いますが「足す」というのは、どのようにして、なのでしょうか?それは確かに可能なことだと思われますか?不可能だとすれば「存在」とは? >存在も関係も、その言葉の定義を厳密にしないと意味のない話ですし、実際厳密に定義できます。 ならばまず、その定義(御質問者によるところの、ですね)を明らかにし、また、仰るところの「主観論理学」とやらの要点を先に御説明のうえで質問なされたほうがよかったかもしれません。このままでは「同じようなあるいは逆の考え」も述べようがないですね。。。「関心を持ってくれる人が周りにいない」としたら、このへんが原因なのではないでしょうか。独りよがりに陥っていると、やはり関心やら共感やらは得にくいものだと思います。相手の本意は無視して、こちらのつごうに従って勝手に述べるというやりかたもあるにはありますが、それじゃQ&Aの意義がありませんしね。一見コミュニケーションの形式をとっているかにみえて、その実は、お互い、あさってのほうを向いてブツブツ言ってるだけになっちゃいそうですし。相手の言わんとすることなど二の次三の次、つごうの悪い事は一切耳を塞いで自分の言いたいことだけ言わせてくれ分かってくれというのは幼稚な自己中心に過ぎますし。それだとムナシイですよね?察しがいいとか悪いとかいうのは別次元の問題です。 >主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在 所詮、我々は「主観の檻のなかから抜け出られぬ者」であると言います。であれば、そういう者なのだということを見据える、そこから出発する。そこが重要ではないでしょうか。おそらく他者に対する倫理というものも、その姿勢の如何に関わってくるものだと思います。ですから存在・認識・倫理というのは切っても切れない一連の繋がりを持っていると思います。 ANo.9~12さんの御投稿は引用のなさりかたに問題がないのかどうか分かりませんが、普段、難しい本など一切読まない私としては、興味深く参考になりました。 ところでMクンデラの作品で、女がメタファーを使うとき、それは危険であり、愛の始まりなのである、ということが述べてあるそうですが、なるほどねぇ、と思いました(笑) メタファーは願望の隠れ蓑であり、言い訳の道具にもできる。一般的に女という者は願望を隠しながら叶えたがる、それは他者によって叶えられなければならない、ゆえに受身的であり支配的である。そして不当な願いであることに気づいているがゆえ言い訳が多いものだ(笑)だから言い訳の多い男は「女々しい」と蔑まれることになる(笑) 御参考になりますやら? 過去質問から『視線の哲学 再版』 http://personal.okwave.jp/qa1281745.html 『存在の耐えられない軽さ』について http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0360.html http://www5b.biglobe.ne.jp/~yo-ta/words/words_miran.htm 『毎日の言葉』(柳田国男、新潮文庫) 『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(沖浦和光、文春新書) 『道化の民俗学』(山口昌男、岩波現代文庫) 『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(ウェンディ・ムーア、矢野真千子訳、河出書房新社) 『グロテスク(上・下)』(桐野夏生、文春文庫) 『掟の門』~『カフカ短篇集』(フランツ・カフカ、池内紀編訳、岩波文庫)等々の書評、知的でオモシロく、私も参考にさせていただいてます。↓ http://blog.goo.ne.jp/jinfrusciante 『表象の光学』の著者小林康夫氏のブログ↓ http://www.suiseisha.net/tsushin/vol02/kobayashi01.html コトバというのは、その「選びかた」に、まず意味があるのです。それは、その個人の内面世界―願望をも示します。ですから、どう選んでいくか段階を追うごとに即ち、その個人の内面世界の変遷を追っていることになります。だからコワイものなのです。ヘタすると全部バレちまう。たとえコトバ遊びであっても!

sheep67
質問者

お礼

話を戻します。>主観の檻のなかから抜け出られぬ者、と言うところまでいちいちもっともなことだと思います。そういうミスをしないよう気をつけたいと思います。ただ後半の参考文献は??、どなたか他の投稿者の方宛の一文なのでしょうか?それともこういうので勉強も楽しいですよというアドバイスでしょうか?僕はある意味哲学がすごく苦手です。やさしいことを難しく書いてあるようで遠回りさせられる感覚があります。人の心も現実世界もそんな難しくはできてないと思うので。 もっとも心の基本ルールの現実世界への応用については、フラクタル的な展開を見せることで非常に複雑な現実世界を作ってるのではないかとは考えているのですが。シンプルなルールが複数回適用されることで複雑系が出来上がるところは、現実世界の複雑さとまさに対応してるように感じています。証明しろといわれるとかなり難しいでしょうけど、まず間違いないんじゃないかなーと感じています。

sheep67
質問者

補足

回答ありがとうございます。 主観と客観を足す、ですが、まー下にもだいぶ書いたのですが、そういう仮定からスタートしたらと言う話ですので。あと結論から言うと、いわゆる止揚でしょうか、次元を上げて組み合わせる形になったことも下に書いてみてます。 あと定義ですが、やらないとだめですかねー?大変なんですねー。具体例を複数組み合わせることでそこから共通項を汲み取ることで抽象化した概念を理解してもらう、と言うのが楽でいいんですが。 話は変りますが、下でいろいろ書き残したことがあってこの場を借りて書いてしまおうと思います。 関係と存在についての一例ー2つあります。1つは紀元前に王様が、生まれた赤ちゃんに誰も話しかけなければ最初にどんな言葉をしゃべるかと言う実験をしたところ、全員の赤ちゃんが死亡したと言う実際にあった話です。もちろん食べ物は与えられての話です。 2つ目はフローティングタンクでの5感遮断の実験でこれは有名ですが。数十分でたいていの人は気が変になりそうになり耐えられないらしいです。数日いれば間違いなく死に至るんじゃないでしょうか。両方の実験とも、いかに人が、人を含む外界との交流が必要か。外界とのつながり関係がなくなることが、自己の存在の喪失=生物学的な死を招きかねないことを示唆してると考えます。これはつまり関係がなくなると存在もなくなると言う因果関係ではなく、関係と存在は同じものだという等価なものだという結論を導くのにいい例ではないでしょうか? また存在の定義になるかわかりませんが、子供の成長に存在への安心が不可欠と書いた本があります。 http://www.shinseikai.jp/10_book/kagayakeru_mo.html 輝ける子と言う、小児科医の書かれた本です。このHPの19番がそうです。 定義と言うことで、人格の定義をしたいと思います。人格とは無数にある精神要素のうち、現実世界に対応して生きるのに必要な精神要素を集めて1つにまとめたものであり、意識無意識の境とはまた違う枠組みをもっています。 こんなところです。すみません勝手にスペースを使ってしまって。

その他の回答 (22)

回答No.2

主観世界と客観世界は概念的に別もの。足したりは出来ない。 まあ、考え方は自由だけど、そういう人格の根本の思考回路的なものは理解や共感の範囲外なのであまり人と話しても意味のあるものではないと思うのですが。

sheep67
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 概念的に2つは確かに別物ですが、足したりできないことはありません。ステージ(次元)が違えば、違う概念が統一的に把握できる、と言う意味では、それを足すと表現するなら、足すことは可能です。より高次元の世界観を導き出すと言う意味です。もっとも初期のこの仮定では、そこまで何も考えてなかったですが。ただ漠然と、人の把握力を超えた何かがあるんじゃないかと感じてただけで。一般にこの2つが足すことができないと考えられること自体が、人の認識能力にリミッターがあることの間接的証拠だと僕は思っています。 あと、話しても意味のあるものではないーと言うのは、まーそうかもしれませんが、それはやってみないとわからないのじゃないかと思ったので話してみることにしました。そんなわけです。

  • koko_u_
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回答No.1

>主要な結論として、主観世界では、存在=関係、と言うものがあります。 >存在と関係は等価で、この関係は直感的に人の脳には把握できないものであると言うものです。 まったくわからん。関係(=存在)が把握できない「主観世界」とはいったい何ですか? また、主観世界をその字義にあてはめて考えれば、それは色々な人、各人によって内容が異なり、包括的に把握することは困難であろうと想像します。 すべての人に共通する「主観」なるものを考えれば、それは即ち客観的世界の一部でないでしょうか。 >皆さんはこういう話を聞いてどう思われるのでしょうか? 方法論を間違えている。こんなトコロに投稿しても無駄。

sheep67
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。遅くなってすみません。 とにかく投稿文が不十分なのでわかりにくいかと思いますが。 えー上から順に答えますと、関係が把握できない主観世界ではなく、主観の世界では人の脳(心)は関係と存在を同時に認識することができない、と言う意味です。それゆえ、抽象化された、存在と認識の関係は理解されにくいなーと感じています。 2つめは主観世界についてですが、主観は人によってばらばらでありまとめることが不可能と言うのはよく言われますが、話はしょりますが、僕自身は全くそうは思いません。以前の投稿で同じことを書いたのですが、心が先が脳が先かはおいておいて、心の働きが脳の機能に対応してることは脳科学で明らかになりつつあります。脳の機能は論理的に記述可能です。解明はされてませんが。ゆえに心の働きー主観も論理的であり、包括的把握も可能ですーこれも解明はされてませんが。 3つ目の方法論を間違えてることに関しては、主観と客観を足した世界についての仮定のことだとすると、これはあくまでこの世界の把握に取り組む導入部分の取っ掛かりとしての仮定だったので、間違えていても別にかまわないわけです。その仮定によって、世界の包括的な把握のイメージがわけば問題ないわけです。次に進めるアイデアがそれによって出てくればいい訳です、ただの仮定なので。ただ、こんなところに投稿しても無駄といわれると、それはずいぶん悩んだんですが、なかなか適当なカテゴリーがないですねー。でも哲学がやっぱり一番近くないですか?、と思うのですが。

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  • 主観的、客観的でいいのでコメント下さい。

    30代男性です。相手も同じ30代です。 去年年末に彼女と別れました。 メールで言われました。 仕事が忙しくそこまで気が回らないという理由です。 でも、私は「メールじゃなく、会うか、せめて電話で話し合おう」って言いましたが、 しばらく音信不通でした。 3月にメールが来て、「近々連絡します」と来たものの結局連絡は来ず、 今月にようやくメールが来て、「仕事が落ち着きそうなので、近々連絡します」と返信が来ました。 私自身は「別れるならちゃんと電話で言って欲しい。5分、10分の話じゃない?」 とメールしましたが、それにも応じてくれませんでした・・。 周りからは、「もうそんなのは忘れなさい」と散々言われてますが、 私的にはやっぱりうやむやにはしたくはないです。 お互いいい年なので。 白黒はハッキリとさせたいです。 ほんとに、仕事がいっぱいいっぱいで落ち着くまでは話し合いたくないのか、 いったいどうしたいのかさっぱり分かりません。 仮に新しい彼氏が出来てるのなら、メールの返信すら来ないと思うし、 なんで、電話対応してくれないのかが分からないです・・。 性格的には仕事一本で浮気やキープなどはしない性格だと思うのですが、 女の人の気持ちは私には分からないです。 ハッキリ縁を切るなら、たった5分、10分の話ぐらい簡単と思うし、 復縁するならそういう意思表示をしてくれてもいいのに、とにかく連絡を伸ばされてます。 私自身もどういう気持ちで毎日を過ごしていいのか分かりません。 この文章だけなので、相手の気持ちなど分からないのは当然だと思いますけど、 みなさんの主観的な意見、客観的な意見を聞いてみたいです。 よろしくお願いします。