原罪は 悪魔とともに 方便。無い。屁の河童。
1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。
2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である。
3. スサノヲ市民たる人間の《自治》が なかなか思うようにならない(=《苦》)ことの説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。
4. 悪魔は 一般に想像されていたもので そのような人びとのあいだの通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。
5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。
6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経てシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。
7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。
8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり なかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。
9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。
10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。
批判を歓迎します。
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