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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《宗教の国連》? どうなんですかねぇ。)

宗教の国連? ローマ法王に提案

Tastenkastenの回答

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回答No.25

こんにちは。 友人は、結局聖書が戻らないので、こちらから送った質問だけに手短かに答えてきました。まず下の個所ですが、erはやはりすべて「悪魔」を指すのではないかとのことでした。訳を訂正します。 Ich halte nämlich dafür, daß er, einmal Fürst unter dem Himmel geworden, auch nach dem Sündenfalle seine Herrschaft nicht verloren hat. - "Der noch jetzt", heißt es weiter, "in den Söhnen des Unglaubens wirksam ist". Siehst du, daß er nicht mit Gewalt und Zwang, sondern durch Überredungskunst verführt? Er gebraucht den Ausdruck Unglaube, was so viel besagen will als: durch Betrug und Überredungskunst zieht er alle an sich. つまり私は思うのだが、かつて天の下の頭となった悪魔は、罪に堕ちたあともその支配権を失わなかった。―こう続く、「不信心の息子たちの中で未だに威力を発している者」お前は、悪魔が権力や強制ではなく、説得術で誘惑しているのがわかるか。悪魔は不信心という表現を使うが、これは、欺瞞と説得術ですべての者を自分に引き付ける、と言うよりもはるかに重要なことを言おうとしている。 友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。あの国の人たちは、真面目な発言と不真面目な発言の境目が不明瞭なので迷惑します。ただ、悪魔の行為については、わかりやすくこう書いてくれました。 人間をまんまとだました後、悪魔は神に悪態をつく、「見てみろ、お前の創造した者たちを、哀れじゃないか」と。 そして、下の個所なのですが、「was er anführt」のerは「神」でよいそうなので、No.22でした訂正は誤訂正ということになります。ただ、最初の訳はbragelonneさんのおっしゃるように、意味が通りにくいと思います。たぶん、anführtの方が誤訳だと思います。「手引きしているのは」ではなく「理由として挙げていることは」の方が正しいと思います。 "Erbarme dich meiner nach deiner großen Barmherzigkeit". "... um seiner großen Liebe willen, womit er uns geliebt hat." Der Apostel zeigt, woher die Liebe Gottes zu uns stammt. Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen. 「あなたの大いなる慈悲で私をお憐み下さい。」「神が我々を愛した、その大いなる愛のために。」使徒は、神のわれわれへの愛がどこからくるものか示す。なぜなら、神が指摘していることは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値するようなことだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。 これなら少しわかりやすいと思いますが、いかがでしょうか。 この件について、もう一つだけ補足します。昨日、偶然、スイスの若い神父の説教を見つけました。その神父が読んでいるのは、完全な現代ドイツ語訳で非常に分かりやすいのですが、「空気」という言葉はもう使用してありませんでした。もしかすると、ἀήρはもう空気とは訳さなくなっているのかもしれません。冒頭部分だけ書き取っておきました。 Auch euch hat Gott zusammen mit Christus lebendig gemacht. Ihr wart nämlich tot aufgrund der Fehlungen und der Sünden, die euer frühes Leben bestimmten. Ihr hattet euch nach den Maßstäben dieser Welt gerichtet und wart dem gefolgt, der durch die Mächte der unsichtbaren Welt zwischen Himmel und Erde herrscht. 最後に、この御質問本来の話題に戻します。 「宗教の国連」については、外国のネット上でもまだ報道のみの情報が多く、賛否については把握できません。ただ、自然発生的なものとは言えないようです。また、メタ・アマテラス的なものでもなさそうですし、世界宗教者平和会議(WCRP)とも目的が異なるものです。 「宗教の国連」が提案された理由の一つは、この数年、国連内での宗教間の問題解決が行き詰っていることのようです。つまりこの点に関しては、国連はもう機能していないということです。宗教の非難に関する決議が、西側諸国とイスラム協力機構の不和を招き、決議は放棄されました。また、宗教に対する非難により、特定の宗教を信仰するという理由で個人が差別されることになり、人権問題や、意見の自由に触れることになります。そういう事情から、「宗教の国連」は、今の国連とは違う憲章を立てる方向だそうです。つまり、現在世界で宗教の名のもとに行われている殺人や大量虐殺は、宗教とは無関係な行為、つまり、いかなる宗教によっても正当化されない行為であることを明言するつもりのようです。世界宗教者平和会議(WCRP)は、宗教に関するあらゆる問題を扱うのに対して、「宗教の国連」は、戦争やテロ行為に対することを主目的としており、国連が今のシステムで機能できないのならば、今回の提案はそれなりに理解できます。ただ、トップにローマ法王を据えるということになると、どうしても西側先導という印象になりますので、その辺がどう出るかです。 以上のような事情から、御質問(あ)~(え)は、「宗教の国連」の構想に至る経過と目的を考えると、お答えできなくなります。 とりあえず、これでまとめとさせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  だいたいそのように落ち着くのでしょうか。  最初の件につきましては 最後の一文の《 er 》も 悪魔のことなんですね。正直 気持ちが宙ぶらりんになってはいますが たぶんそういう文章をクリュソストモスは書いたのだと思って飲み込みました。  二件目は なるほど。うんと 分かりやすくなったと思います。神の《怒り》と《神が怒りを持たざるを得なかったその人たちへ なお憐みを垂れる》とがつながるように思うときにはです。   ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen.  ・・・なぜなら、神が指摘していることは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値するようなことだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。まったく これがよいと思います。  つまり ここから深読みをして 《怒りと厳しい罰》も――あたかも悪魔による何かよくないことの指し示しと同じように―― 広く大きく神の愛であると言おうとしている場合にどうか。という贅沢な変な気持ちが出て来るというおまけがあるというだけのことです。  ★ 友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。  ☆ これは 真面目な――生真面目な――方面での意味もあるように思います。蛇の誘いに負けたのは あくまでエワであるという議論です。そのあと アダムは エワに――あたかも思いやりでおつき合いするかのように――従って 同じく善と悪とを知る木から採って食べた。のだという議論が ふるくにはあったようです。男尊女卑の考えですね。  でもこれは 過去の遺物でしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、悪魔の行為については、わかりやすくこう書いてくれました。    人間をまんまとだました後、悪魔は神に悪態をつく、   「見てみろ、お前の創造した者たちを、哀れじゃないか」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは そうなんですけれど・つまり 人間は女も男も意志が弱く心がきよらかではなかったのですけれど これは 自然本性における自由意志の自由度として(わが心にさえさからう自由として)すでに織り込み済みであった。とは 考えます。  そうでなかったなら 人間という生物が おかしいことになると。  けれども ヨブの場合には あの義人とかいうヨブをちょっと打ってやってもよいですかと悪魔が神に願ってそれがゆるされたあと ヨブは身も心も地に落ちたごとく沈んでしまった。けれどもそのとき 悪魔はこの悪態をつくことは出来なかったのだと思います。  ヨブが弱くなかったということでもなく きよらかそのものだったとも言えないにもかかわらず サタンは ヨブをいいほど虐めたあと やはり ヨブめ ざまあ見ろとは言えなかったと思いますから。神によって ヨブは人間の分際であることを忘れないようにと注意を受けただけだと思います。  そうしてその後 イエスによって死の製作者たる存在とのおつき合いをとことんするというお持て成しを受けて その悪魔は ナメクジのように溶けてしまったものと思います。  ★ スイスの若い神父の説教を見つけました。その神父が読んでいるのは、完全な現代ドイツ語訳で非常に分かりやすいのですが、「空気」という言葉はもう使用してありませんでした。もしかすると、ἀήρはもう空気とは訳さなくなっているのかもしれません。  ☆ これは おもしろいですね。もう言葉へのこだわりもないようなのですね。ありうるのでしょうね。  すなわち《クウキ》という言葉にしても じつは 《シューニャター》の空観に立つならば ただカザリつけたような・じつはシガラミであって 取り立ててこのクリスマスツリーのようなクウキは 人間の存在と共生にとって要らないものだと考えられるからです。  空気と言うのなら それをいちいち読むか読まないかを考えるようなクウキだと言わなくとも 互いに自由に批判をも含めて発言をおこなって行けるような場こそが のぞましい空気だと思われるからです。  ★ 世界宗教者平和会議(WCRP)は、宗教に関するあらゆる問題を扱うのに対して、「宗教の国連」は、戦争やテロ行為に対することを主目的としており、国連が今のシステムで機能できないのならば、今回の提案はそれなりに理解できます。  ★ つまり、現在世界で宗教の名のもとに行われている殺人や大量虐殺は、宗教とは無関係な行為、つまり、いかなる宗教によっても正当化されない行為であることを明言するつもりのようです。  ☆ なるほど。あまり重く受け留めていませんでした。ただし 実際にはむつかしいようにも感じてしまいます。ジハードは クルアーンから取り消すことが出来ないでしょうし へブル語聖書にかんしては 民族殲滅といった話が出て来ていますし。  むつかしいですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、トップにローマ法王を据えるということになると、どうしても西側先導という印象になりますので、その辺がどう出るかです。  以上のような事情から、御質問(あ)~(え)は、「宗教の国連」の構想に至る経過と目的を考えると、お答えできなくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほどですね。この場合・つまり 《宗教の国連》という提案の場合には 正面からのシュウキョウ批判とは やや筋を別にして事務的な作業をつうじて現実の問題を扱うようにして取り組む必要がある。のかも知れません。出直したほうがよいようです。  長いあいだにわたって いろいろとお世話になりました。脇が甘いということを知ったと言いますか 問題はいくつかの視点から捉えて行かねばならないということ。また 議論や理論は ひととおりすでに西欧では豊富な蓄積があるので ウワベの情報をかすった程度ではまだきちんと消化したとは言えないこと。歴史の重みがありますね。  つまり ちょっぴり反論しますと 必ずしもその結論には 従わなければならないとも言えないような。つまりむしろ従ったあと なおあたらしい見方を われわれ日本人としても 打ち出して行ってよいではないか。こうも――いままでのデカイ顔を小さくしつつも 基本線においてこうも――思われて来ます。  わたしは 日本人の神と信仰についての理論(思い)とそしていわゆる宗教についての評価 これらは それほど間違った内容ではないと思っています。それを きちんと思想として自己表現することが出来るようにして行く必要がある。こうも考えます。いままでずっと考えて来ました。  ありがとうございます。表題がややずれたかなとは思うものの いいスレッドをつくり残すことが出来たと思っております。これからも ご指導のほどをお願いいたします。  しばらく開いていて 閉じることにします。

bragelonne
質問者

補足

 このご回答で 表題の《宗教の国連》についての少なくとも取り組みをめぐるしかるべき姿勢が明らかにされたと考えます。  派生する主題としてのエペソ書2章(その初めの部分)についての解釈などをめぐる議論は――おおよその答えとしても―― ご回答No.22にて承りました。訪問者の方々は そちらのほうをも参照なさってください。  

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     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。