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哲学の本

私は同年代の人間よりも物事を考えていると 思いますが、 それは自分から見た事であって 他人の心は覗けないので、私が本当に同世代より 思慮深いとは言えません。 他人から見えるAと自分から見るAは全く違うはずで、 それを自分が美しいと言い 他人は汚いと言うことは当たり前のはずです。 それを理解している人は少なくとも私の周りには多くないと思います。 しかし繰り返しますが、それは私が主観で見ている物事であって 本当にそうなのかは知る事ができません。 仮に話してもらったところで、 私とその人の「価値観」や「考えの深さの度合い」を 測ろうにも基準にするものが無いので、 結局知る事は出来ないと思うのです。 また昔からこういった事を考えていたのですが、 それは若さ故だと思っていました。 しかし18歳になってしまったので、 いつまでも青い考えとは言えません。 むしろこれを若いからこの様な事を考えるのだ。 と言われてしまえば、 私はいつまでも幼稚な考えを持ち続けるということになってしまいます。 幼稚な質問なのは分かっていますが、 なにか私を納得させてくれる もしくは正してくれる本などはないでしょうか?

みんなの回答

回答No.11

こんにちは。 ☆他人から見えるAと自分から見るAは全く違うはずで、 ◇全く同じではないでしょうが、 だからといって、 「全く違うはず」という帰結はおかしいよね。 数学の論理・集合で習ったと思うけれど、 「すべて・・・である」 の否定は、 「・・・でないものがある」 だからね。 質問者さんとわたしが同じネコを見ていたして、 このネコに対する、質問者さんとわたしの心象、表象、イメージは、全く同じでないにしても、全く違うものだとは、ちょっと考えにくいよね。 でもまぁ、これも推測であって、 そのネコを見ることによって質問者さんの頭の中に浮かんでいる猫の姿、これを仮に《ネコ》として、 もし、わたしがこの《ネコ》を見ることができたとしら、 それは、私にとって「鳥の姿」ということはあるのかもしれない。 質問者さんの《円》は、わたしの「楕円」かもしれない。 これは確かめようがないんですよ。 でも、質問者さんとわたしが見ている円が同じであれば、《円》や「楕円」というイメージの違いがあったとしても、 同じ円から生まれたイメージであり、話し合いができるんですよね。 意味のある会話もできれば、そのイメージの違いを超えた、共通の数学を作ることもできちゃう。 《抽象》の力ですね~。 そして、人間の言葉も《抽象》を扱うものである。 美しい、汚いは、その人の感覚や経験、生まれ育った環境や文化の違いがあるので、共通の認識や理解に達することは難しいかもしれないけれどね。 でも、このことについて話し合うことは無駄ではない、と思います。 そういう価値観や考え方があるのだと、お互いに知り合うことができるから。 そして、一方的に、相手に自身の価値観や考えを押し付けたり、それを全否定してはいけない、と思う。 ☆私とその人の「価値観」や「考えの深さの度合い」を 測ろうにも基準にするものが無いので、 結局知る事は出来ないと思うのです。 ◇「価値観」はともかく、「考えの深さの度合い」は、相手の表現からおおよそ推し量ることはできますよね。 たとえば、 小学一年生が「1+1=2」を語るのと、数学者が「1+1=2」を語るのでは、深さや拡がりが全く違うでしょう。 そして、この話の内容のすべてを理解できないにしろ、この二人の話を聞けば、「考えの深さの度合い」を知ることができる。 ☆また昔からこういった事を考えていたのですが、 それは若さ故だと思っていました。 しかし18歳になってしまったので、 いつまでも青い考えとは言えません。 ◇わたしは、小学生の時に、「同じリンゴを見て得られるイメージは、一人ひとり違うのではないか?」と考え、 そして、今日に至っています。 もし、この手の話に興味があるのでしたら、ウィキペディアのクオリア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2 などを御覧になってはいかがでしょうか。

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回答No.10

>もしくは正してくれる本などはないでしょうか? その考えは危険です。 成人になってから、本を読みすぎると、他人の知識人と同じ考えで無いと不安になっていきます。それが後に、「自分の頭で考える事を忘れる事」に繋がります。 貴方は十分に勉強してきました。一度、無知になる期間が必要です。そして、自分の頭で考えて行動してください。それが出来てから、他人の知識(本など)を参考にしてください。 どうしてもオススメを聞きたいなら、これをオススメします。 『イズムから見た日本の戦争』 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89-%E5%B9%B3%E9%96%93-%E6%B4%8B%E4%B8%80/dp/4764603381/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1408847016&sr=8-1&keywords=%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89 巷のいい加減な本と違って、引用元や出典元を明記した、列記とした研究書物です。 この本で、日本人として大切なモノを学んでください。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

yanapm様、今晩は。 >「私とその人の「価値観」や「考えの深さの度合い」を 測ろうにも基準にするものが無いので、 結局知る事は出来ないと思うのです。 また昔からこういった事を考えていたのですが、 それは若さ故だと思っていました。 しかし18歳になってしまったので、 いつまでも青い考えとは言えません。 むしろこれを若いからこの様な事を考えるのだ。 と言われてしまえば、 私はいつまでも幼稚な考えを持ち続けるということになってしまいます。 幼稚な質問なのは分かっていますが、 なにか私を納得させてくれる もしくは正してくれる本などはないでしょうか?」 人権侵害をしなければ、と思います。

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  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.8

 「他人から見えるAと自分から見るAは全く違うはずで、」  この前提は、真理をついているように見て実はそうでもないはずです。 なぜなら、もし他人から見える世界と自分が見ている世界がまったく別世界だとすると、 そこでは、共通の認識をもって物事に対応することは不可能なはずです。しかし、人間 少なくともある人が「美しい」と思うものがあればそれには多くの人間が「美しい」 とすることは社会通念上共通認識として言ってもよい傾向にあります。もっと極端に、 かりに「悪とする行為」があったとするならば、それはある一定の傾向をもって一般社会では 「悪である」という共通認識あるいは感情を人々がもつのです。これらのことは”事実”ですから かりにあなたと私の見ている世界が完全一致していなくとも、そこには何らかの”統一原理”とまで はいかないにせよ”共通基盤”のもとで働く認知あるいは思考や感情プロセスのもとに生じるものが あってしかるべきと考えるのが妥当でしょう。ただ、それは多くのノイズを含むというのは事実ですが、どんなに類似した世の中の科学的現象であっても完全一致する事象など何一つと存在しないというのもまた事実なんですけどね。 当然「本当に悪なのか?」という議論が分かれるような事例や、たとえば「あの人は美人だ」という人が意外と「不細工」と片方では思われていたりなどの事例があるとの反対を受けるかもしれません。そういういみでは「人々の見ている世界はすべて異なる」と言えますが、同時に共通性さえ存在します。この共通性というのが、そもそもの倫理学や心理学、あるいは哲学を含む人文科学分野における学問が掲げる一つの究極的な問いともいえるでしょう。単なる趣味以上にそこに興味があるとするならばそれらを勉強し、学問するしかありません。 もっとも「意識」とか「認知」なんて話は「現象学」等のキーワードを探るのも一つですが、科学を含む究極的問いの一つなんですけどね。そういう意味では、「答えのわかる本を教えてください」なんて質問は「その答えが知りたいから研究者になった」という世界の多くの研究者からは甘く見ていると言わざる負えません。どうしてもしたければ、まずは、過去の偉人らが生涯かけて構築した学問という体系的な世界の話についていけるだけの基礎体力をつけることです。つまり、デカルトを読んでデカルトが意図したことが理解できるだけの学問的体力をつけるとか、科学的に考察したければその基盤となる学問を勉強することです。本当のことを言えば、わかりやすく、大衆向けに受ける本であればあるほど、勝手な論理展開をして納得したような気になっているだけで、実際は本質的には何も答えていないということなんです。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.7

哲学に興味をもっていて何か読む本を、と探している方には、 市村弘正さんの『小さなものの諸形態』を薦めているんです。 このカテで以前にも薦めたことがありましたが。。。 著者は、視点についての、稀有なといってよい批判精神の持ち主だと思います。 わたしたちがものを考えるとき、何を取り扱わねばならないかよりも、 何を避けねばならないか、のほうが下部構造にあって、 何が分かったかを伝える言葉よりも何が分からないかを伝える言葉のほうが、より問題圏を抉るのだということを、 あなたが知るためにもよい一冊ではなかろうかと思います。

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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.6

>私とその人の「価値観」や「考えの深さの度合い」を >測ろうにも基準にするものが無いので、 >結局知る事は出来ないと思うのです。 比較に意味がありますでしょうか? それを正すとすれば、更なる広さと深さを持つことですから 乱読をお勧めします。

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  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.5

そもそも私には、貴方の発言内容は「正しい」と思えるので、正す知識は不要だと思います。 ですので、知識として、老荘を推薦します。 “マンガ 老荘の思想 (講談社+α文庫)” ご参考に。

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  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.4

>他人から見えるAと自分から見るAは全く違うはずで、  それを自分が美しいと言い  他人は汚いと言うことは当たり前のはずです。  それを理解している人は少なくとも私の周りには多くないと思います。  しかし繰り返しますが、それは私が主観で見ている物事であって  本当にそうなのかは知る事ができません。 Aが本当に美しいかどうか?という主題についてはご自分の主観を信じるべきです。 また、どうして貴方がAを美しいと見るのか、それはなぜか?理由を突き詰めねばなりませんね。 そのためにあなた自身ができる努力をたくさんせねばなりません。Aと近似のものをたくさん見て経験をつむことです。他にも様々な、積極的な人生経験が貴方の見る目を肥えさせてくれるでしょう。 そうすることではじめて、やっぱりAはきれいだと納得できるのです。他人がAは汚いといっても、あなたは、いーや美しい、と断言できる自信がついてくるのです。本など読まず、実経験あるのみです。

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回答No.3

「主観」こそが「本当(存在性)」です。 あなたが感じている“世界”とは、脳内の現象に過ぎません。 そして、そうした感受とは独立して、“外”に確かな存在があ るという、いわゆる素朴唯物論的な考えは、否定されました。 たとえば、光などの波動を、2つのスリットを通して向うの スクリーンに当てると、干渉して縞模様が映ります。 それでは、1個、2個と数えられる電子を、2つのスリットを 通して1個ずつ飛ばすと、どうなるでしょう? もちろん、1個ずつスクリーンに当るので、その痕跡は点で すが、その点の集まりは次第に、スリットの2本線ではなく、 縞模様を描くのです。 それぞれの電子がスクリーンに当る時には、他の電子は 消えている訳ですから、電子が他の電子の痕跡を覚えて いて、協力して縞模様を描いているか、「1個の電子」が 2つのスリットを通り、その可能性同士が干渉しているか、 のどちらかです。 他人がどう思うかというのと、自分がどう思うか(=宇宙)と いうのは、全く異なる意味を持つのです。 長い話になるので端折りますが、そもそも自分の意識= 時間的連続性自体が、異なる本質の時系列化(プランク 定数の収束=物体収縮=宇宙膨張)を前提とした、日常で いえば他人の経験を自分のもののように感じる精神異常 と同様な、狂気の産物なのです。 そして、そうした無(=不確定性無限)の潜在としての認識 可能性の時系列化において、あぶれた認識可能性=自我 仮説のプロセスの現象的射影が他人なのです。 つまり、他人はあなたの射影なのです。 他人に腹を立てても、同じ要素が必ずあなたの中にもある、 ていう。

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回答No.2

幼稚とは思いません。 そのような視点は色んな哲学者も持っています。 ただ、私にとってはウィトゲンシュタインの「独我論」的アプローチが 最もインパクトがありました。 彼の言葉で印象に残っているものを列記しますと 「私が本当に言わんとすることを決して理解してはならない事が他者の本質である」 「私の言語の限界が私の世界の限界である」 「自我は世界に含まれない、それは世界の限界である」 「世界の意味は世界の外部にある」 「言語ゲームをつらぬく本質など存在しない 家族が、似ている別々の点によりゆるくつながっているような家族的類似があるだけである」 等です。 因みに「ウィトゲンシュタイン入門」永井均(ちくま新書)が分かり易いです。

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