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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:優しさとは何か)

優しさとは何か

このQ&Aのポイント
  • 優しさは他人への気配りや思いやりの行動であり、自己満足ではなく相手のために行われるべきだという考え方に異論がある。
  • 一方で、優しさは自分自身も幸せにする効果があり、相手に対して利己的な要素があるとしても、それを否定する必要はない。
  • 優しさとは相手を思いやる心の持ち方であり、自分自身が心地よく感じることも大切にするバランスが求められる。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hiro822
  • ベストアンサー率20% (132/638)
回答No.9

人の心は、独立しているだろうか。 となりにいる人が辛い思いをしている時に、その辛い心の一部は自分の中にも入り込み、自分も辛い気持ちになる。 人が嬉しい気持ちでいるときに、自分もなんだか嬉しい気持ちになる。 それが人の心を思いやる、優しさの原点でないかと思います。 利己的な部分はあるかもしれませんが、 自己満足や名声や損得だけのために人に手を貸すわけではなく、 自分の心に浸透してくる、他者の気持ち。これを改善することは、自分の心にとってもプラスになる。 それが優しさの行動の原理だと思います。 他人の心が自分の心に響いてこないなら、それは真の優しいとは少し違うのかもしれません。 まぁ、優しいにもいろいろありますが。 困っていそうな人がいるから手を貸すのではなく、 困っていそうな人を見たときに、その困った気持ちが自分の気持ちに浸透して、困った気持ちは自分のものにもなる。 他者のことを考えている人は、その浸透度度合いが敏感になり、 他者の気持ちに対する想像力が高まるのだと思います。 もちろん、困っていそうな人がいるから手を貸すというのも、ひとつの優しさ、 それに手を貸せば、自己満足ができると思うのも優しさ、 みんなが手を貸し合えば、世界が平和になると思って手を貸すのも優しさだと思います。 まぁ、やりすぎたり、相手の気持ちを汲み取れずに失敗することも多々あると思いますが。

noname#228265
質問者

お礼

確かに、他人を見ていてあぁ大変そうだと心に浸透してくるような時はあります!すごくしっくりくるような気がします。ただ、それを行動に移せるかどうかは別問題だと思いますが、それが原点なのには変わりないかもしれないですね。 回答ありがとうございました。

noname#228265
質問者

補足

皆様このようなくだらぬ質問に回答するお時間を割いてくださって本当にありがとうございました。 BAは迷いましたが、心に浸透してくるというのが明日納得したので選びました。 最近、私なりにまた優しさについて考え、考えを改めました。私が中学の時に、口をきけない女の子がいたのをふっと思い出しました。私はその子が誰からも相手にされず、友達もおらずさみしそうだったので毎日挨拶をしました。返事はしてくれないけれど、できるだけ笑顔で毎日話しかけました。そうしたら、少しづつ小さくて聞き取れないくらいですけれど、私に返事を返してくれるようになりました。しかし、私の友達がその子のことが嫌いで、しきりに悪口を言っていました。そして、あの子と関わらなくていいと言われ、私は自分が嫌われるのが嫌だったので、その口のきけない子と疎遠になってしまいました。これは私が保身に走った結果で、今となってはものすごく後悔しています。その後もこの保身癖が未だに直らないですけれど、少しづつ直して行こうと努力しています。 このことを思い出すと、ふっと、私がその子の笑顔が嬉しかったことを思い出しました。当時はただ純粋に嬉しいと思ってやっていたのですが、今思ってみれば、自分は優しかったと思いました。しかし、当時の優しさも、保身に走ったことで所詮は偽善だったと言えるのですが...。 そう考えると、優しい人というのは、『他人の幸せを自分の幸せの糧とでき、そのための努力や気配りを惜しまずにやれる人』なのかなー、と思いました。これは利己的であることを認めつつ同時に無意識に利他的なことをしているという点で私が目指すものであるのではないかと思いました。 皆様、回答ありがとうございました。

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その他の回答 (24)

  • as3724
  • ベストアンサー率20% (34/168)
回答No.15

というか、やっぱ人間て優しさを求める生き物だから、 「そうね、私も適度に与えて・・・寂しいとき、辛い時はもらおう」でいいんじゃない。 今の俺は、優しくされたい・・・誰かにそれを与えてもらいたいかな。

noname#228265
質問者

お礼

解答ありがとうございました。

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  • Glory_777
  • ベストアンサー率50% (105/208)
回答No.14

こうした善悪に関わる問答は、現代では難解になっています。 両親や自分が接する大人から言われてきたことがら。 その両親も同様に伝えられてきたわけです。 さらに質問者さんが思う疑問について、自分の親の世代も考えたはずです。 これらが釈然とせず、多くの人が自説を唱えつつ、 なぜか言い訳をしている様な嫌な気分から逃れられません。 こうした混乱が起きる理由、その根底にある理由。 うっかりと誰もが失念してしまうこと。 それは、 自分が幼少頃に、これら道徳を説いた人物の年齢を忘れているからです。 あなたが数年後子供をもうけて、そのこに何か大切なことを伝えようとしたとします。 しかし、数年後のあなたが、仙人の様に全てを悟り、語れるわけではありません。 つまり全く世の中を知らない若輩なわけです。 聞きかじったものを自分で納得しないまま子供に伝えるでしょう。 つまり、 自分が信じている正しいと思えること。 これが刷り込まれたときの年齢。 そのとき眩しく見えた大人たち。 彼らは何歳だったのでしょう? 下手をすると自分よりも年下だったのかもしれません。 もし、自分に自信をもって、自分の意見を他に主張する人がいたとします。 しかし、その規範となる考えを作り出した人は、 自分よりも年下なのかもしれません。 だとしたら、自分の意見に自信があり、自分がとても普通だと感じる人ほど、 年下の意見を採用し、その人を尊敬し、その人の言うことを盲目的に信じるべきです。 時系列でずれていますが、 実力的には同じくらいの力の人が考え出したものを盲目的に信じているからです。 ある一定の年齢に達したら、 自分が規範とするすべての思想について、頼りにしてはいけません。 殆どの大人が成長を止めてしまい、分からないことが一生分からない理由がここにあります。 正しいと信じてきたことは、実際は若い人(自分の両親の若かりし頃=今の自分の年齢)が 適当に話したことだったりします。 今の自分に疑問がある以上、信じるに値しません。 これを当時の大人の年齢を超えつつある自分が応用し、自分に役立てようとしても無理が あります。やはり、当時の自分の両親すら解決できていなかった自説なのですから。 では、こうした理由が分からない盲目的な道徳がどうして生まれたのでしょうか? このときに忘れてはいけないのは、その内容自体は、古代に発明されたと言うことです。 当時の誰かが誰かに向けて話したことですね。 今の時代の自分が、自分や他の人に対して向けても、成立しないかもしれないのです。 では、 古代の人々が現代人よりも思いやりに長けていたのでしょうか? 現代人と比較して利他的であったのでしょうか? つまり、 私たち現代人は、古代の人物像よりも利他的であり、充分に道徳的なのかもしれないのです。 十戒というのがありますが、これを日常的に破る人が本当に今の時代いるのでしょうか? 人類が粗暴であった時代に、それを戒めるために生まれた教え。 これがずっと引き継がれ、これ以上する必要が無い世の中で、今も努力させようとしており、 これによって苦しんでいるのかもしれませんよ。 最初にこの戒めを作り、道徳の規範とするようにとした人が、 今の自分を見て、 「もう少し利己的に生きないと社会に貢献できないぞ」と叱るかもしれません。 「それは優しさを超えて、既にお節介の領域だ。好い加減にしなさい」と諭すかもしれません。 私たちが今も活用している概念は、 人類が粗暴であり、非協調が当たり前であった古代の社会において、 社会が円滑に進むための処方箋だったとおもいます。 これが行き過ぎると、かえってロスが起きてしまい、改悪になってしまいます。 現代では善悪の問答が難しくなっています。 私達が規範として尊んでいる常識は、古代社会の理想だからです。 だとしたら、道徳と言うのは、もともと自己利益のために生まれたものであるはずです。 自己利益のために行動するのが当たり前である(疑いもしない)社会の人に対し、 「本当に得をしたいなら、まず相手を太らせてから、争わず手に入れる方法がいい」 と伝えたのです。 現代ではこれをWIN-WINと言う言葉に焼き直し、活用しています。 争わず手に入れる方法とは、取引のことです。 優しさとは、取引の前に相手の緊張を解きほぐし、信用を得る行為に相当したでしょう。 相手の信用を得るためには、少しの損を口うるさく言わないこと、拘らないこと。 そういう論理であると解釈できます。 現代では、子供のときの感覚が、より古代人に近いとおもえます。 子供の頃は、取引前に緊張を解きほぐし、互いに信用する事が大事だと理解できません。 騙される前に騙せ。そんな感覚が付きまとっていますよね。 そのためサービスを自己犠牲と解釈してしまうのです。 本来は、信用を得えるための行為ですよね? しかし、納得していなくても、充分なサービスをすれば、 不思議と物事は上手く運びます。 このとき、充分な認知力がなければ、 自己犠牲の後には御褒美があると錯覚し、短絡してしまいます。 こう捉え違いをした人は、ストイックに自分を苛めることで後に御褒美があると解釈します。 ちょうど、筋肉を酷使した後の超回復に似ています。なので馴染みやすい。 こういう反動を期待してしまう発想を、現代では脳味噌筋肉と言っています。 実際は、身体機能の調整を司る脳が活動しやすいということですから、筋肉脳味噌ですね。 自虐的な行為ではサービスになりません。 ここにはサービスされる相手がいません。なので意味無く自分が損をします。 そこで、”相手を思いやれ”と指導が入るわけです。 「これはサービスになっているのか?」 「はたまた単に自分を苛めているだけなのか?」 それを区別するためのチェック法ですよね。 無理に相手を利して、自分に損をさせることをではありません。 また、これを美徳とした時代はこの世に存在しません。 単なる間抜け、もしくは被虐嗜好の変わり者と言うのが正しい評価でしょう。 しっかりとしたサービスになっていないと、損失の割には効果が無いという意味ですね。 現代では、これらはマーケティングと言う新しい言葉におきかわり、 私たちは日常生活の中で理解していますから、いまさら解説する必要はありません。 また「優しい」とは、サービスを受けた人が礼として述べる感想であって、 自分に対して使う言葉じゃありません。 なので、人に優しくすると言う、トンチンカンな文章自体がおかしいのです。 「当面自分が取引を開始したい相手に対して、  相手の立場を考えたサービスを、自分のできる範囲で行い、  相手の信用を勝ち得て、和やかなムードでこちらの条件を受け入れさせる  そんな行為をする」 と言う意味に当たります。 無目的に実践し、どこの誰だかわからない(神ですかね?)から御褒美を、 何時だかわからない未来に、どれだけ得するかわからないものとして期待する。 これですと、さすがに子供っぽいですよね。 こうした思想をもった大人に子供が全幅の信頼を寄せてしまうと、 子供もろとも飢え死にします。 その一家は果てしない未来で、やっと夕食にありつけるでしょう。 弥勒菩薩が現れるのは、56億7千万年後らしいです。   そこで現代の大人達は、 「優しいばかりでは食べていけない、時には非常になって、  取引の様な強欲なこともし、子供のために頑張らねばならないんだ。」 といって傷ついているわけです。 自分はどんなにか人に優しくしても、幸せになれない。 そう思って八つ当たりをする人がいます。 しかし、その「優しさ」と言う概念の理解が間違っているのです。 古代人にとって、争いで奪う以外の手段が主流になり、 全ての人間が取引、分業によって協調する社会は、想像もできません。 「なんて理想的な社会なんだろう。桃源郷だ」 つまり、”優しい”とは取引、分業、分担などの協調を表す概念です。 しかし現代でも長老に相当する、経営者などは、 「顧客指向でサービスを考え、正当な対価を得て暮らすことは、とても良いことだ」 と伝えようと頑張っています。 これと、「優しさ」に代表される道徳が、別のモノであると思ってしまったのは、 道徳を闇雲に伝える父母が、現代の長老ではないからです。 それでも、優しさとはフェアな取引の前におこなう、心温かいもの。 そう言う意味合いで大体あってますよね。 私たちが美談として夢想する(ありもしない美しい物語)を、 もう少し、自立、フェアな取引、分担、などと言う、一見してかけ離れてみる言葉で 再解釈してみましょう。 これらは粗暴が当たり前であった古代社会人からみて、 大変美しい世界に見えたのではないでしょうか? 以上、ご参考になれば。。

noname#228265
質問者

お礼

真剣に考えてくださってありがとうございます! 20になって、大人とはこんな子供で何もわからないものなのか、と絶望しました。

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  • hiro822
  • ベストアンサー率20% (132/638)
回答No.13

No.9 おばあさんが駅で荷物を持ちながら階段を上っているの例でいきましょう。 <心の動き(1)> おばあさんは目に入るが、特に何も感じない (行動(1)ー1) 何もしない <心の動き(2)> おばあさんを見て、大変だろうなと思う(自分の気持ちに変化なし) (行動(2)ー1) 何もしない (行動(2)ー2) 自己満足、あるいは社会規範のため手を貸す。 →おばあさんの気持ちとは独立して(例え余計なお世話よと思われていても)、喜びを得ることができる。 <心の動き(3)> おばあさんを見て、大変だろうなと思う。それをみて心苦しく思う (行動(3)ー1) 何もしない (行動(3)ー2) 自己満足、あるいは社会規範のため手を貸す。 (行動(3)ー2) 見ていて苦しいと思う、自分の気持ちの解消のために手を貸す。 →おばあさんの苦しい気持ちが原因なので、おばあさんの気持ちが晴れたと認識できれば、喜びを得ることができる。 <心の動き(4)> おばあさんの気持ちに同調して、辛いく思う。 (No.9の回答内容。アイデンティティの確立が定かでない子供などでこういう傾向は強い。 女性の子供に対する気持ちもこれに近いと思う。) (行動(3)ー1) 何もしない (行動(3)ー2) 自己満足、あるいは社会規範のため手を貸す。 (行動(3)ー3) 見ていて苦しいと思う、自分の気持ちの解消のために手を貸す。(No.9回答内容) ざっくりと例を示しましたが(本当はもっと複雑なはず)、 これらの行動をひとつの優しいという言葉一つで表現するのは、 少し無理があって、人の解釈によって、答えが変わってくる原因だと思います。 自分にとっての優しさの定義をもう少し掘り下げることで、答えに近づけるのではないでしょうか。

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  • troml
  • ベストアンサー率17% (561/3167)
回答No.12

そもそも、どうして人に親切にすることで、自分も喜びを得るなら、それが偽善ということになるんでしょうか。自分の喜びのために行動することが悪ですか?人に親切にして感謝され、それを喜ぶことの何が偽なんですか。 私は人に親切にされたら嬉しいし、感謝もします。私が喜び、感謝することでその人が満足するなら、よかったなと思います。その人と仲良くなって、お互い優しくして、楽しい人間関係を築きます。 あなたは違うんですか。あなたがもし、大切な荷物をなくして困っていたとして、拾った人が届けてくれたら、親切に感謝することもなく、「恩着せがましくて利己的な奴だ」なんて思うんですか。「お礼ほしさに届けに来たがめつい奴だ」と思うんですか。 そんな風に考えていたら、楽しく生きていけません。優しさは偽善なんて思っていたら、いい人間関係は築いていけないし、利己的は悪と考えていたら、お金持ちにはなれないし、貧しい生活をすることになります。人に嫌われて、バカにされて、誰にも優しくされないで、優しくもしない、そんなつまらない生き方をすることないんじゃないですか。

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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.11

優しさは、利己的と利他的と二つのバランスで成り立っています。 どちらかが重過ぎれば、バランスの悪い行動になって出ます。 利己的が重過ぎれば貧欲であり、利他的が重過ぎれば偽善に走ります。 思うに利己的を悪だとし、利他的を善だと思い込んでいないでしょうか? 人の心にはどちらも存在し、どちらも必要で そのバランスが取れている時、自分と他者とのどちらにも 有益になるものを選べます。 どちらかが重くなり過ぎたときに選択肢を誤り 詐欺に走ったり、「あなたの為だ」と言いつつ自分の理想を押し付けたりします。 大切なのはバランス。 どちらも悪じゃない。 バランスの悪さで、悪とされる様な行動選択をするだけです。

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回答No.10

利他主義的行動とはそもそも他人に優しくするという行動自体を通じて喜びを得たり、また優しくされた者の反応から得る喜びということになりますので間違ってはいないと思います。 優しくするということは自分に余裕がないとできない行為だと思います。だから余裕がないのにあえて優しくしてあげようとするのでエネルギーが必要以上に使われるのではないでしょうか。おばあさんが駅で荷物を持ちながら階段を上っている時、出勤途中の時は優しく助けられないのと同じで優しくできないときは優しくしなくてもいいんです。あまり深く考えず余裕のあるときに人に優しくできればそれで十分ではないでしょうか? 困っている人を助けるという行為を考えたとき、もし自分だったら(困っている人が)どうして欲しいだろうなって考えると自然に次の行動がでてくるような気がします。いちいち周りがどう感じるとかこの行動は実は自分のため、とか考えないと思いますが、、、 優しさとは他人に与えられる余裕の愛と思います。

noname#228265
質問者

お礼

余裕の愛ですか。確かに、疲れている時などは力を貸す元気もなくなります...。 利他主義の定義があなたのおっしゃるようなことであれば、私の疑問は利他主義の定義自体に納得いっていない形になりますね。 回答ありがとうございました。

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  • zxc55
  • ベストアンサー率20% (160/776)
回答No.8

> 私はいままで他人に優しくしようと思っていたことは全て偽善であり、結局は自分の自己満足だったのだと思いました。 という部分について、自分自身の優しさを自分自身で評価する点は、おかしいのでは?私の感覚だと優しさというのは他人が評価するものですから。。。自分自身の優しさを自分で評価したら自己嫌悪になる人の方が多いのでは?なので、そんなばかげたことをしない人の方が多いと私は信じています。

noname#228265
質問者

お礼

なるほど。 しかし、自然に人に優しくできる人はいますけれど、それにしても小学校の道徳で教えられるように、頭の何処かでは人に親切をすることはいいことだと刷り込まれているはずなので、そうすることが優しいと考えることもあると思います。また、私は優しいの判断基準を自分の中で設けなければ、人に優しくできないと思います。 なんだか反論のようになってしまいましたが、確かに自分自身を優しいと評価する程度ではまだまだ優しいとは言えないのかな、自分に甘いのかな、と思います。 回答ありがとうございました。

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回答No.7

無理に考えを変える事なんてないんじゃないですか? 今の自分が考えたどり着いた答えなんだから まだまだこれから沢山の人と出会いいろんな事を経験していくんですからその時その時で感じ方が 変り考えが変っていくものです。 人に教えられ考えを変えるのでなく自分が経験し学んでください。 自分自身で学んだことは一生涯の貴方の財産になりますから と言うことで回答でない回答でごめんなさい。

noname#228265
質問者

お礼

いえ、このようなつまらない質問に回答してくださりありがとうございました。 今までもそうでした。結論が出て何かが違う、そしてまた考え出す、の繰り返しでした。年齢や経験によって本当に考え方が変わりますから面白いものです。

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  • taka-aki
  • ベストアンサー率12% (748/6126)
回答No.6

人間を動物の群れとして見た時に、 助け合いができない群れより助け合いができる群れの方が 群れとして生き残る率が高い。 という研究があります。 「ゲーム理論」も調べてみたら参考になると思います。

noname#228265
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

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  • tera1999
  • ベストアンサー率24% (245/992)
回答No.5

こんにちは。 「情けは人のためならず。」 この解釈を、困っている人がいても、安直に同情なんかすれば、その人のためにならない。 とする人が多いようです。 正しくは、困っている人に、力をかしたり相談に乗ったりと情けをかけることをしていれば、 その行いは巡り巡って自分に返ってくる。自分を救うことにつながっていく、です。 質問者さんは、「優しさとは利己的だ」という考え方から自己嫌悪に陥るとのことですが、 「利己的なこと」は別段わるいことじゃないと思うんです。 ボランチィアで被災地の救援活動に参加しているひとが、それが自分の中の理想像を叶えるためであっても 全然かまわないんじゃないですか。 また、質問者さんが気づいているように、「優しくすることは本当にエネルギーを使うこと」です。 安易な自己満足を得るために、人にやさしくしようと思っても、うまくいくものではありません。 こんな大変で面倒なことやーめた、でおわるでしょう。 利己的・利他的なんて二分法はやめましょうよ。そんなの自分にも他人にも判断できるものじゃないし、 リトマス試験紙はありません。 どちらであっても、ひとにやさしくするのは、善いことだし、かつたいへんなことです。 私は、質問者さんに、人にたいしてやさしい人であってほしいと願うばかりです。

noname#228265
質問者

お礼

利他的にすることが実は利己的なことであるとしても、そのこと自体が特に悪ではないというのは確かにそうだなぁと思いました。なんだか救われた気がします。 回答ありがとうございました。

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