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The Indicator of Consciousness and the Criterion of Mind
- Discover the indicator of consciousness and the criterion of mind.
- The flowing of a river and the blowing of a wind are not indicative of mind due to their remoteness and lack of variability.
- Activities suggestive of conscious choice can be taken as an indicator of consciousness, but physiology argues against it.
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以下のとおりお答えします。 今どうしても頼らなければならない、この「表出的」な探求方法で、心を示すと称することのできる活動の種類は何でしょうか。川が流れることや風が吹くことを、そういうものとは見なさないことは確かです。なぜでしょうか? まず第1に、その主体(川や風)は、種類的には私自身の有機体からあまりにもかけ離れているので、私の図像の中でそれら(川や風)とそれ(私自身の有機体)との間に、合理的な類似点は何も認めることができないからです。そして第2に、それらの示す活動は、同じ環境下の同じ種類で不変です。したがってそれらは、私が私自身の心の弁別特徴と考えるもの ― すなわち意識の証拠を提供することがないからです。 言いかえれば、観察可能な活動が心を示すと想像する前に、2つの条件が満たされなければなりません。活動が生体によってなされて、なおかつ意識の存在を示唆するような種類でなければなりません。そこで、何が意識の基準として得られることになるでしょうか。主観的には、基準は必要でなく、可能でもありません。なぜなら、私にとって、個人的には私自身の意識より究極的なものはあり得ないからであり、したがってまた、私の意識はより高い確実性を要求するがゆえに、いかなる基準も認めることができないからであります。 しかし、「表出」の見方から言えば、そのようなある種の基準は必要です。けれども、私の意識は、部外の意識の領域内に入り込むことができませんので、私としては、「大使」の仲立ちを通じて、後者(部外の意識)を評価することができるに過ぎません。― これらの「大使」とは、私が頻繁に述べてきたように、有機体の観察可能な活動のことです。したがって次の問題は、有機体のどの活動が、意識を示すものとして得られることになるか、ということです。 最もたやすく出て来る答えはこうです ― それは「選択」を示すすべての活動であり、生体が明確に故意の選択を働かせるのが見られるところならどこでも、私たちはそれが意識的な選択である、したがって有機体には心がある、と推論してもよいでしょう。しかし、生理学は、この答えが役立たないことを示しています。なぜなら、意識的な選択力がないとしたら、いかなる心があるのかを議論しないうちは、その生理学では、次章で見るように、すべての明白な選択が心の働きの結果である、ということが固く否定されているからです。 以上、ご回答まで。