• 締切済み

仏教の基本について教えて下さい。

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.11

後半です。  前半の方にあげた『悲華経』はお釈迦様の優位性を説くことを目的としてできた経典であるとしましたが、それに対抗する諸仏の代表が阿弥陀仏であり大変詳しく記されています。ただ、阿弥陀仏が王様時代の性格や功績が記されているわけではありません。しかし、その名前が記されている唯一の経典でもあります。この阿弥陀仏の修業時代は『無量寿経』に説かれている法蔵菩薩というお名前ですが、王様だったころの名前は『悲華経』には「無諍念」と記されています。この「諍」という漢字は、物理的なあらそいという意味だけではなく、言葉による争いなどもさす言葉ですから、物理的な争いを含めた差別や不平等のようないさかいを無くそうとした王ということでしょう。そんなすべての諍いを無くそうとした王がなぜ出家をしたか。このことについては、私の友人がこんなことを私に訪ねてきたことがあります。 「無諍念王が世自在王仏にであった時ってどんな顔してたんだろうな?」 言われたときに、私の中でパッと絵が浮かびました。それは王様であるということに満足しているような顔ではなく、何とも悩ましい顔をしていました。すべての諍いを無くそうとしても、なかなかこの世はままならない。争いを無くすために、人と争わなければならないという矛盾を抱え込んでいたのではないでしょうか。だからこそ無諍念は四十八願という本当の意味ですべてのものを救うという本願をたて、法蔵菩薩となってからは厳しい修行を続けて、本願達成する力を得たぞということで阿弥陀仏となられたのではないかと考えられます。まぁ、こんなところが阿弥陀仏が如来になる前のお話です。 >>そもそも、如来って「悟りを開いた仏」のことだと聞いたことがありますが、このほかにも大日如来、薬師如来などいろんな如来があるようです。 (中略) >>あるいは如来や菩薩という称号、それを併せた仏という称号も、キリスト教の聖者(セイント)にあたり、どれも人間である、つまり仏教は無神哲学ということになるのでしょうか?  こちらの質問の答えは上述したことをまとめながら書いていきます。  実際に直接教え説いて導いてくれる先生という意味でのブッダであったお釈迦様が、信仰対象としての救済者としてのブッダになったのはお釈迦様が亡くなった時からでしょう。しかし、そのことはお釈迦様が亡くなる前に阿難尊者に指示しています。『涅槃経』には、 修行完成者のストゥーパをつくるべきである。誰であろうとそこに花輪またはお香や顔料をささげ礼拝し、また心清らかにして信ずる人々には長い間利益と幸せが起こるであろう。 とあるように、自分の遺体をストゥーパにすることですべての人々の心を清らかにできるとしています。ですから、歴史上のブッダであるお釈迦様の涅槃が、救済者としてのブッダ像をつくる切欠となったといえます。  この後弟子たちは師が亡くなったことを悲しみますが、すぐさまお釈迦様の跡目を相続した大迦葉尊者が、お釈迦様の教えを今一度確認するため第一結集を開きます。ただし、このときはまだ口伝えであり、文献化してはいませんでした。この第一結集は大迦葉尊者が代表となり、戒律は優波離尊者、経は阿難尊者を中心にまとめることになりました。しかし、阿難尊者は当時悟りを開いていなかったので、第一結集に参加する資格がありませんでした。そこで、先に申しあげたとおり大迦葉尊者の弟子となって第一結集当日の朝にやっと悟りを開き、「私はお釈迦様がこのようにおっしゃったのを聞きました」という形で、自分を前に出さずお釈迦様を前面に出していきました。結果、阿難尊者のお釈迦様主義が教団の主流派になっていく過程で、救済者ブッダとしてのお釈迦様像がより強くなっていき、弟子たちを阿羅漢と呼びお釈迦様の固有名詞としてのブッダという使われ方をするようになります。  しかし、お釈迦様があくまで「ブッダ」であり、原意は「目覚めた人」です。つまり、何か新しい理論をつくったわけではなく、もともとある理に気が付いた人という意味です。私たちにとってブッダはお釈迦様一人であるが、お釈迦様と同じことに気付いた人が過去にいてもおかしくはないということで、お釈迦様の悟った理の永遠性を示すものとして、過去の仏たちが具現化したのが上述の過去七仏です。そして、さきに申し上げた通り、この過去七仏は過去二十五仏にまで増えます。  そして過去がいるんだから未来もあるだろうと登場するのが弥勒仏です。弥勒仏は現在はお釈迦様も悟る直前まで修行していたという兜率天というところで修行中だそうです。そしてその後、未来物も増えてゆき、賢劫千仏という千人のブッダが未来にあらわれるとされていきます。  ところが、あくまでこの多仏思想は時間軸のなかでという制限がりました。それはなぜかと言えば、先に申しあげたとおり、ブッダという言葉をお釈迦様の固有名詞化していく過程で「一つの世界にブッダは二人存在しない」と考えられるようになっていたからです。ですから、お釈迦様が亡くなってから弥勒仏が表れるまで、われわれはどうしてもブッダに会えないことになってしまします。ブッダには会えないが悟りを開きたいという人たちは、『ジャータカ』などに書かれている「授記」の物語をもって無仏の時代を乗り越えようとします。梶山雄一氏などの説によれば、無仏の時代には生身のブッダに代わるものとして、ブッダの遺骨や、仏足石が授記を授けると考えられていたようです。悟りを目指しても、その目標となるブッダがいない、そんな時代に「それいでいい。頑張って修行すれば悟れるよ。」という授記の信仰が表れるのも必然だったのでしょう。  そして、この無仏の時代に授記に対する考えが生まれてきた中で、やはり直接ブッダに教えを乞いたいという人もいました。そういった人たちは古代インドの須弥山という世界観から発展した仏教独自の三千大千世界という世界観をベースにして、お釈迦様の悟った理が時間軸的に広がりを見せるのだから、空間軸的にも広がりを見せるはずだと考えます。これは、先に述べた「一つの世界にブッダは二人存在しない」という原則を変えることなく、今直接にブッダに会うことができるという解決策でした。古い文献から言えば、『増一阿含経』の中に目連尊者が神通力を示すため東の奇光如来を訪ねるというくだりがありますし、大乗仏教の最古の他方仏としては東方阿シュク仏(漢字は文字化けしますので)、続いては西方阿弥陀仏が古く、大乗を自ら名乗った最古の経典である『道行般若経』との比較研究において、最も古いもので紀元前には成立していたのではないかと考えられています。  以上が仏教のたどってきた遍歴です。つまり、阿弥陀仏にしろほかの仏にしろすべての仏は、お釈迦様の面影が原点にあります。しかも、お釈迦様は自身の亡き後に人々がそういった思いを抱くことを見越して、ストゥーパを立てるよう阿難尊者に言い渡してあるわけです。日本人は仏教を「仏教は宗教ではなく哲学」と理解してい人が多いようですが、これは大きな誤解であり日本の「仏教学」というものの弊害といっていいでしょう。なぜななら、日本の仏教学は西洋的な仏教観を受け入れる形で成立した学問だからです。近代化がイコール欧米化であった日本においては必然であったでしょうが、西洋の仏教研究においてはキリスト教を中心とした一神教との比較において「仏教は宗教ではなく哲学である」とか「仏教は無神論である」という結論をありがたく頂戴しちゃったのが問題でしょう。あくまで一神教との比較の問題だったものを仏教そのものがそうだと思ってしまっています。例えば、お釈迦様は死後の世界の事や魂に関しては「無記」だと主張されますが、古い経典である『スッタニパータ』『ダンマパタ』などには「悪処」として地獄の事が説かれていますし、『サンユッタニカーヤ』の中では「悪魔がでしのゴーディカの魂を盗みに来ているが、悟ったものは魂が輪廻から解脱しているので見つからず右往左往しているのが見える」とおっしゃっています。このようにお釈迦様は無神論者・哲学者などという言葉でもくくれる人物ではありません。無記も考え方の一つにすぎません。逆にそういった理解が解説書などで先行することで「こういった考えは現実的哲学的でもないからからお釈迦様の考えにはなかったはずだ」と約2500年前の人物を現代人に引き寄せて考えるという間違った経典解釈が横行しているように思います。  つまり、何が言いたいかといえば、お釈迦様はいつも相手に合わせてくていたってことです。お釈迦様は自分が信仰の対象になるのも百も承知で、それをも利用して人の心を清らかにしたいと思って死んでいったんですよ。この姿勢は、仏教の筏の譬というものにあらわれます。 あるとき旅人が悪い人に追っかけられていたとき、川があったので筏を作って向こう岸に逃げた。この時旅人はこの筏は命を助けてくれた筏だから、生涯大切に持ちあるこうとおもった。この旅人は筏に対して正しい対処をしたか? これは間違った対処である。このように自分を悟りに導いてくれた教えでさえもこだわらず捨てなければならない時がある。 大まかに言えばこんな話です。ここでは正しにもこだわるのではなく、人々の心に寄り添って教えを説いていくという仏教の教えの広がりがこのたとえには表れています。ですから、どれが正しいかということよりも、その教えが仏教の中でどのような意味を持って説かれているのかということに目を向ける方が、仏教的な視点であるのかもしれません。 なんか答えになってないし、長くてすみません。 合掌 南無阿弥陀佛 

関連するQ&A

  • 仏教の如来について

    宗教についての質問ですがカテゴリがないのでこちらで質問させて頂きます 仏教において菩薩が修行して解脱し如来になりますが 阿弥陀如来や薬師如来、大日如来などの大乗仏教の如来たちも 元は人間で菩薩を経て如来になったのでしょうか? クグッても人間のときのエピソードなどが出てこないんです

  • 釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来

    如来というのは仏のことですよね。 仏教を開いたのはお釈迦様(ゴータマシッダルタ)と聞いていますが、 その人物が釈迦如来ですか? 釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来は別人ですよね。 しかし同じ境地に達した人なのでしょうか? 時代的に言うと3人の前後関係はどうなっているのでしょう? お釈迦様が仏教を開いたのに、3人は同格なのでしょうか? お釈迦様は仏教で最高位ではないのですか? これらのことについて全くわからず、少し調べてみたのですが難しくてよくわかりません。 わかりやすく教えていただけたらうれしいです。

  • 観音菩薩はなぜ立っているのか?釈迦は座っている。

    仏像について質問です。わたくしのいままで見た仏像では座っている仏様と、立っている仏様がはっきり分かれているようです。 座っている仏様 釈迦如来 大日如来 薬師如来 弥勒菩薩 立っている仏様 観音菩薩 地蔵菩薩 阿弥陀如来 不動明王 四天王 四天王が立っているのは、戦の勇ましい姿を見せつけるためだろうと思うのですが、あとの仏様の理由がわかりません。 ご存じの方、ご教授をお願いします。

  • 仏教の出典について

    鎌倉の鶴岡八幡宮の「鎌倉国宝館」の東大寺展に行ってきましたが、作品解説に下記のように書かれていました。 「地蔵菩薩は釈迦の死後、56億7千万年を経て、弥勒菩薩が出現するまでの無仏時代に人々を救うと言われ、特に地獄に落ちた人を救済してくれる菩薩として、広く信仰されている」 この考えを書いた仏教の経典を教えていただければ、幸いです。 鎌倉なので鎌倉五山がある禅宗かもしれません。 補足として、現在頭がこんがらがっているので、如来と菩薩の違いを簡単に教えてください。 再来するのは、お釈迦様(如来)ではなく、弥勒菩薩なのでしょうか。 このようなことをお寺で質問すると、檀家でない人には答えられません、とか、修行に身なので分かりません、と言われます。 よろしくお願いいたします。

  • 大乗・小乗仏教について確認させてください

    小乗仏教⇒ 無神論 ・ 釈迦の直接の教え(間違いない) 大乗仏教⇒ 有神論的 ・ 釈迦の教えを何百年かけて弟子達がまとめた/理論付けた。 だから釈迦の教えではないかもしれない(というか実際矛盾がある) しかし釈迦は大乗についてノーコメントなので絶対違うとも正しいとも分からない。 ↑合っていますか? 大乗仏教の図式は、大宇宙に釈迦と同等の仏様(大日、ビルシャナ、薬師)、それらの師匠の阿弥陀様がいる。その他に仏様を助ける菩薩様が大勢。すべて信仰対象。 ↑これも合っていますか? 大乗非仏説というのがありますが、釈迦が説いたものではないという証拠がもし見つかった場合、例えば奈良の大仏(ビルシャナ仏)は仏教と無関係の単なる作り物になってしまうのでしょうか? 仏教はもともと生きるための知恵だったようですが、僧侶が権力を持つための道具になってしまい、 人々の自己満足と宗教団体の共存という図式ができあがり、今でもその風習が残っている、 そのようにも思えましたがどうなのでしょうか。お寺の存在自体も分からなくなってしまいました。

  • 【宗教仏教】阿弥陀如来は死後に全ての人を天国に導く

    【宗教仏教】阿弥陀如来は死後に全ての人を天国に導く仏様であって、現世を改善してくれる類の仏様ではないので、阿弥陀如来に病気が治りますようにとか、家族が幸せで過ごせますようにと願っても意味がないのですか?

  • 無我説と輪廻及び仏の存在

    仏教では万物は縁によって諸要素が仮に結びついて成り立っているに過ぎず、 永久不変の実体は存在しないと説きます。 しかし一方で輪廻も説かれますが、では不変の実体が 無いなら何が輪廻しているのでしょうか? また悟りを開いてブッダになれば輪廻から解脱すると説かれますが、 仏の存在は諸行無常の外にあるのでしょうか? 歴史的人物のゴータマ・シッダールタは何千年も前に亡くなったのに、 釈迦如来と呼ばれて信仰されているというのは、仏は永劫の実体を持っているということでしょうか? まして密教では大日如来がこの宇宙の根本の実体であるとされますが、 大日如来と無我説の関係はどうなるのでしょうか? はたまた浄土宗等では阿弥陀如来や極楽浄土が信仰されていますが、 阿弥陀如来は縁によって生じた仮の存在ではないのでしょうか? この質問に特定の宗派を非難したり、仏教を否定する意図はありません。 純粋なる疑問です。

  • 仏教

    仏教はややこしいですね。簡単に教えてください。 •仏陀とゴータマシッダールタは一緒ですよね。違うケースはどういう時なんですか。 •阿羅漢と坊さんはどう違うんですか。 •菩薩は日本にいますか。 •釈迦は一族の名称だって見たんですけどってことは何人もいたってことですか。 •仏教の経典が何万もあるのは釈迦が人の数だけ教えを説いたからというのは本当ですか。 •八大地獄ってのは地獄道に含まれていて、人間道で悪行をした人が地獄道のうちの8段階に分別されるって理解でいいですか。 •人間道に比べて地獄道の期間が桁違いに長いのは何故ですか。

  • 仏像を堂内で祭るときの方角

    阿弥陀様は東向きに、薬師様は西向きに安置すると聞きました。 釈迦如来像、観音菩薩像、弥勒菩薩像その他の仏像でも方角が決められていますか。 調べてみましたが、阿弥陀如来、薬師如来は基本的に決まっているようですが、その他の仏像では、よく分かりませんでした。 よろしくお願いします。

  • 仏教に詳しい人へ

    仏教に詳しい人に質問があります。 1日本における仏教の宗派の数や系列、それらの宗派の思想などは? 2お経の種類は何種類でそれらの趣旨などは? 3仏教における登場人物(阿弥陀如来など)は何人?以前ミャンマー人の人が釈迦以外は仏教の人ではないといっていました。 4自分の先祖がどの宗派に属していたかを調べる良い手段はありますか。