• 締切済み

キリスト教について詳しい方教えてください。

カテ違いだったらすみません。 キリスト教、主にプロテスタントについて、わからないことがあります。 聖書を読むと、神と富両方は得られないと書いてある箇所があった気がしたのですが、 キリスト教では、神を求めながら同時に、お金を求めることは悪いことなのでしょうか? といっても、教会に来る人にはなぜか、地位が高くてお金持ちな人はけっこう多いです。 お祈りをするとき、富を求めることは、神様の意志に反するのでしょうか?

みんなの回答

  • hhituji
  • ベストアンサー率30% (15/49)
回答No.10

冨を求めるのは悪いこととは言っていません。 「神と冨の両方に使えることが難しい」と言っています。 マルコ10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。   行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、   天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 また、初期のクリスチャンは、皆、自分の私有財産を売り払い、教会に捧げ、共同生活を していたことが聖書にも書いてあります。そうしなければクリスチャンになれなかったのかも しれません。 ソロモンやダビデが莫大な冨を所有し、聖書がそれを神の祝福と書いてあることからしても 冨を持つことを聖書が禁じているとは私も思いません。 が、ほとんど大多数の人にとって冨は神から人間を遠ざけ、苦難は人間を神に近づけるでしょ う。 私は大多数の人がいうような冨の無条件の肯定という立場は取りません。 やはり、冨は人間に取ってかなり危ういものです。その点でこの聖句は字面のまま解釈 するのが正しいと思います。

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 引用された聖書の箇所が、私も気になっていました。 参考になりました

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  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.9

私はカトリックですが回答させていただきます。 聖書には金持ちにとって天国の門は針の穴をらくだが通るより難しいと言っています。 しかし一方で、放蕩息子を許した父親のたとえ話をしています。このたとえ話は日本流に言えば「善人なをもて往生す、いわんや悪にをや」です。間違った解釈をしている人が多いので断わっておきますけど、親鸞は悪人なら極楽にいけるとは言っていません。あくまでも心から悔い改め仏法に帰依すればということです。 この息子も最初から「金がなくなったら父親のところに改心したと泣きつけばいい」と思っていたら救われないでしょうね。 そして天国の門は針の穴より小さいかもしれませんが「閉じられている」とは言っては居ません。キリスト自身、有力者の家にも行っています。要するに素直に求めるものを赦す愛であり、金を独占せず、施しによって癒しを与えれば能力のあるものが正当な富を得ることを止める事はしないということです。 現代において布教をするためには費用が必要です。でなければ布教も徒歩で行い、食は托鉢で済ませなかければならないでしょう。ですから金を必要としないとか金儲けは悪であると説くキリスト教隠者が居るとすれば、大変な嘘つきです。 この姿勢は同じ旧約聖書を持つユダヤでもイスラムでも言っていることです。

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまいすみませんでした。 参考になりました

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  • alphaXXX
  • ベストアンサー率40% (108/264)
回答No.8

キリスト教に限りませんが宗教の教えって法律とか決まりごととか,生活や社会のルールが元になっているものが多いです。宗教は人の心を救う教えであると同時に,社会を統制するためのツールでもあるわけです。 例えばイスラム教では豚は汚らわしいから食べてはいけない,という教えがありますがこれはもともとアラブなどの暑い気候では腐りやすい豚肉は食中毒をよく起こすのでなるべく食べないようにしろ,という教えだったんですね。キリスト教系でもモルモン教は血は汚らわしいから輸血はしてはいけない,という教えがありますが,これも血抜きをしていない肉は腐りやすいので食べるな,という教えが由来です。 ようするに神様とか無関係の生活の知恵みたいなものだったのです。単純に「腐りやすいから食べるな」というより「神様が食べるなと言われたのだ」と言ったほうが信者には有効だというだけの話でした。 お金についても同様,お金(個人の利益)ばかり追い求めて犯罪を犯したり,他人をだましたり,富を独り占めしようとする人が大勢いたから「神様はお金に執着するなと言われたのだ」みたいな教えを昔の偉いキリスト教の幹部が作った,というわけです。 ついでに言うとキリスト教団体も現実に存在する団体です。つまりは組織維持にはお金がかかる。なのでキリスト教団体も信者から上手くお金を吸い上げるシステムを作り上げているわけでして。まあ宗教なんてサービス業ですから信者(顧客)が納得してお金を支払うのならいいんじゃないでしょうか。 質問者さんも神の教えとか牧師や神父の不祥事とかややこしいことは考えずに,キリスト教団体は「一定の料金を支払って神の教えという商品を提供してくれる企業」と割り切ってしまえばいいんじゃないですかね。 そのサービスがお金を支払うに値すると思ったら料金(寄付金)を支払えばいいし,そんな価値はない,と思えば支払わなければいいんです。キリスト教団体はそれでOKというシステムです。キリスト教団体への寄付は神への寄付ではなく団体への料金なのは明らかですので。これはキリスト教団体に限らず仏教系団体でもその他新興宗教系でもどこでも同じですが。 神への寄付がしたければ自分の信仰を捧げましょう。神様からみれば日本のお金なんて紙切れですよ。渡されても苦笑いするだけだと思います。 現実に実体をもって存在するキリスト教団体と,観念としてのキリストの説く神の教えは切り離して考えるべきでしょうね。

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 キリスト教団体と、観念としてのキリスト教は別なのですね。

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回答No.7

 おそらくこの部分かな  「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)  よく文章を読むと分かるように、これは神と富の両方に「仕える」ことが不可能と言っている。つまり頭を下げるのは神様だけにしておきなさいということ。別のいい方をすれば、生きるためにお金を(自分の意志で)使うことはおかしくないと言う意味。  こういった一神教は、身分のピラミッドに当てはめると分かりやすい。頂点に神様、その直下に神意を伝える宗教者、その下に庶民(庶民の中でも士農工商でお金を扱う商が最下位なのは世界中おなじよう。)さらにその下に生き物(クジラが上、タコが下。)と言う風に続く。で、お金(という交換の道具)は人が作ったので人の下で管理されるもの。だからお金を使え、使われるなと言う意味。  ちなみに地位が高くてお金持ちと言うのは、神のもと(教義)で懸命の努力の結果としてお金を手にしたのだから、神意とは矛盾しないと捉えられる。日本の労働価値説は、労働こそが尊く仏の道につながるという考え(論理)が元になっていると言われる。ま、にたようなものでしょう。

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます まさに、その箇所です!その部分だけみると、信仰をもつ者は、金を求めてはいけないのかと 思ってしまいます。 わかりやすい解説ありがとうございます

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  • PopoAmin
  • ベストアンサー率50% (70/138)
回答No.6

原始キリスト教研究者によるとですね。 オリジナルなイエスの教えはまず貧しく虐げられた人々を 対象にしたものであったようなのです。 つまり普通のユダヤ教徒を対象にしたものではありません。 ユダヤ教徒にはまず生贄をはじめとした律法の順守が不可欠でした。 そういう社会で富める人々は立派なユダヤ教徒として律法を守り 定められた生贄を神に捧げ安心して暮らしていました。 でも貧しい人々は神に捧げものをする以前に自分が食べなければならない。 ところがユダヤ教の生贄はお下がりを食べられない(焼き尽くす)ので まず神様にお供えをして、、、と云う訳には行かなかったんです。 つまるところ貧しい人たちは律法を守ることができず神に見放された民と ならざるを得ませんでした。 イエスはこういう人々に語り掛けたんです。 豊かで自分は律法を守っているのだから、、、と安心している人々は 本当に神を信じてはいない。律法を守っているだけだ。 律法の順守ばかりを優先するパリサイ人(今も続くユダヤ教徒)は間違っている。 貧しくて律法を順守できなくても絶望してはいけない。 神はあなた方の本心からの信仰を求めておられる。 豊かになろうと努力する時間があるのなら、一心に神を信じ神に帰依しなさい。 豊かな者たちが捧げる生贄よりも、貧しい者たちが一心に神を信じる心の方を 神は喜ばれる。 つまりイエスの教団は貧しく疎外された者達の魂の救済のためにあったのです。 はっきり言って富める者たちはイエスの敵対者でした。 富める者たちにとってイエスの教えは律法を否定し神を冒涜するものでした。 そしてイエスは処刑されます。富める者たちとイエスは結局相容れませんでした。 さてプロテスタントと言うのは元々当時の金銭欲にまみれたカトリックへの反抗から 発生しましたから富裕層への反感が強い傾向があります。 ですから聖書の中のそういった部分は好んで用いられます。 とはいえ実際の話、教会が富める者たちを拒否したら教会は成り立ちません。 また富める者ほど神に見放されるという恐怖心がありますから教会活動は熱心です。 そして彼らが後ろめたく感じるほど教会への寄付も増えます。 結局富める者の恐怖心を上手に適度に掻き立てるのが上手な牧師と言うことなんですね。

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます 教会では、みんな牧師や神父を、疑問なく信じていると思うんですが、 私は教会に通っていても、お金に関してだけは、喜んで手放す気持ちに なれないでいます。 私の信仰が足りないのかもしれませんし、牧師たちの不祥事をみるにつけ、 お金に対する不信感はもっているかもしれません。

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noname#187573
noname#187573
回答No.5

いつハルマゲドンが来るかをニュースとかテレビで放送してほしいです。そうすれば安心だからです。

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます 意味がよくわからなかったのですが・・ハルマゲドンですか?

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回答No.4

聖書が書かれたころのキリスト教は貧乏な人たちを支持基盤とした(日本共産党)みたいな立場でした。 しかし 2千年経過して、世界一お金持ちの教団になりました。 お金は独自の意思を持った生き物のように(所有者の意思や 思想とは関係なく)増殖します。 よって経済活動に対しては柔軟に解釈しないと現代社会に適応できなくなったので、2千年前の理想と現実の活動とは分けて進めるようになりました。

arare47
質問者

お礼

回答あいがとうございます。 いまや世界一のお金持ち教団なのですね。 なぜお金持ち教団になったのか、不思議です。

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  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.3

>>キリスト教では、神を求めながら同時に、お金を求めることは悪いことなのでしょうか? Wikipediaでは プロテスタントの教義上、すなわち自らに与えられた職業を天職と捉えるルターの思想と、それに加えてカルヴァンによる予定の教理(二重予定説)によって、貧困は神による永遠の滅びの予兆である反面、現世における成功は神の加護の証であるとされた となっているので、金儲けにがんばって成功することは、神の加護の証を得ることになるからOKなんでしょう。 また、平日に罪深い職業をしていると思う人(例えば、殺し屋さんとか高利貸しなど)は日曜日に教会に行って懺悔して気分すっきりするのだと思います。 >>お祈りをするとき、富を求めることは、神様の意志に反するのでしょうか? 現代と2000年以上前のイエスが生きていた時代とは、経済システムが大きく違います。 また、教会が富を否定するのは、信者から沢山献金をしてもらうためでもあります。 まあ、お金は価値中立です。どうやって富を得たか?法律的、道徳的に問題ないやり方か?それで自分は成長しているか?周囲の人も喜んでいるか? によって、富を求めることが、神の意志に反するかどうか決まるのではないでしょうか?

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 どうやって富を得たか、周囲の人に喜んでもらっているか、 私も、そういうことが大切なのだと思います。 お金を得たが、それを、人を苦しめるような動機につかっていたら、 神様は喜ばないですよね。 お金儲けに成功することも加護の証になるのですね。 地位も富もあって、信仰あつい人は、信仰あついからそのようになったのでしょうか

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回答No.2

こんにちは。 富・・ 金 だけを求めることは場違いでしょうね 富を求めて 一生懸命努力をしたりすることは 意思に反していない 神様も見守ってくださるでしょう

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 富、金だけを求めるのがいけないんですかね。 人のために使うという気持ちも大切なのでしょうか。

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回答No.1

それはそれ これはこれです。 大人の事情で分けているのです。

arare47
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 わけているんですか

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