- ベストアンサー
直参と陪臣について
shin1417の回答
直参はあくまでも「将軍直属の家臣」ですので、御三家でも御三卿でも家臣は「陪臣」です。 それらの家の当主は将軍の身内ではあっても、将軍ではありませんから。 >水戸藩士で馬廻り役の500石というと、藩内におけるランクはどれくらいになるのでしょうか? かなり上ですよ。 まず、直参旗本と呼ばれる旗本でもその90%近くは500石未満です。 一口に侍と言っても、現在のサラリーマンのように給料(当時は米)を貰う「蔵米取り」と、領地を与えられる「知行取り」の2種類に分かれ、当然、領地を与えられる後者の「知行取り」の方が格上。 領地を与えられる「知行取り」を現在で言えば、会社の一つの営業所なり支店をまかされてその売り上げを全部お前の好きにして良いってことになります。(但し、売り上げが悪かったら収入は減りますが) でっ、この「知行取り」は500石からなのですよ。 小藩なら500石は家老クラス。 水戸藩には家老が17,8人いて、一番禄が低い家老が800石。 水戸藩で500石以上の禄を貰っていたのは、家臣全体の中の上位15%前後(30人前後)に過ぎなかったはずです。 ただこの家臣全体と言っても記録に残っている、あるランク以上の家臣であり、下っ端の記録にも残らないような家臣もいますから、比率の少なさはもっと上がるかもしれません。
関連するQ&A
- 一番石高が髙い陪臣はだれですか。
江戸時代徳川将軍直属の1万石以上の家来を陪臣大名、1万石以下を旗本、御家人と言い、その大名、旗本、御家人の家来を陪臣と言っていましたでは徳川将軍からみて陪臣で一番石高が髙いのはどこの大名に仕えていただれでしたか。
- 締切済み
- 歴史
- 水戸黄門が大名行列に遭遇したら?
諸国漫遊している水戸黄門が大名行列に遭遇してたらやはり土下座をするのでしょうか? WEBで検索してみると土下座をしなければならない大名は 将軍と御三家(水戸藩、尾張藩、紀伊藩)だけでよかった。 となっております。 水戸黄門とお付きのお二人ははたから見ると侍には見えません。 遭遇するようなことがあったら水戸黄門御一行はどうするのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 尾張藩って全く冴えない藩ですね。なんで?
お世話になります。 御三家の格なら、尾張>紀伊>水戸ですが、尾張藩は将軍家で世継ぎなき場合の筆頭ですよね。でも、将軍を出していません。それどころか、格下の紀伊藩やもっと格下の水戸藩から選出する始末。 ●水戸に君あり 紀伊に臣あり 尾張に大根あり と揶揄されるほど酷いのは何でしょう。全く、理解できない体たらくな藩です。これが、御三家筆頭の実態でしょうか?
- ベストアンサー
- その他(趣味・娯楽・エンターテイメント)
- 佐貫藩主柳沢吉保の家臣団
wikipedia 「上総国佐貫城」からの抜き書きです。 元禄元年(1688年)、第五代将軍徳川綱吉の側用人として重用され、旗本から新規に大名に取り 立てられた柳沢保明(柳沢吉保)が一万五千石で新規立藩した。のち二万石。 佐貫藩はそれまで廃藩となっており、城も壊されたままの状態だったそうです。 大名になったばかりの吉保がそんな状況で政事を始めるには、有能な家臣団が必要だったと思います。 江戸府内の吉保邸の管理と佐貫藩を構成するのに必要な家臣をどのようにして集めたのですか。 佐貫藩でなくても一般的に、1.5―2万石程度の藩の組織と必要な人員(武士)はどのようになっているのですか。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
直参か陪臣かの決め手は、将軍の身内かどうかではなく、 将軍の家臣かどうかなのですね。 >直参旗本と呼ばれる旗本でもその90%近くは500石未満です。 そうだったのですか。なんだか意外です。 それでも、直参というだけで石高がもっと上の藩士より格上になるんですね。 >水戸藩で500石以上の禄を貰っていたのは、家臣全体の中の上位15%前後(30人前後)に過ぎなかったはずです。 そんなに少なかったのですか・・・! なんだか本当に500石だったのかどうか不安になってきました・・・ 根拠がないわけではないのですが。 ご回答ありがとうございました。