- ベストアンサー
直参と陪臣について
pri_tamaの回答
- pri_tama
- ベストアンサー率47% (675/1412)
>御三家や御三卿の家臣の場合は直参と陪臣どちらになるのでしょうか? 家康の命令で、尾張徳川家の付け家老に成った成瀬氏(犬山城の城主で3.5万石)ですら、江戸時代は陪臣扱い(幕府内に残れば老中にすらなれる家格[2.5万石以上]。)され、明治維新時に同じ待遇だった紀伊や水戸の付け家老と結託して、朝廷側に付く事で初めて大名格[陪臣格から抜け出す]を認められたらいですから…。 (その為に御三家が幕府を見限る様に暗躍した訳ですが…。) >水戸藩士で馬廻り役の500石というと、藩内におけるランクはどれくらいになるのでしょうか? 水戸藩では、家老級は1万石前後の家禄を持ちますけど、後述する理由で家禄で家臣を評価するのは難しいかと思います。 水戸藩家臣団の特徴として挙げられるものの一つとして、大名家としての譜代家臣が少ないため、一門集の力が強いのと、没落名門家からの新規採用が多く、その後の採用された家臣家の断絶や禄高の没収が多い事があげられます。 まあ、才覚が有れば少録(150石から家老まで成り上がった者も居るので)でも出世できますけど、他者の足の引っ張り合いが多発するという嫌な家風が出来てしまいますけど…。 ちなみに、一般的に禄が200石以上で騎乗が許される為、200石以上は上士扱いです。(上級武士) 1万石級の大名の家臣だと500石取りって家老級ですよ。 (たった一人の家臣が大名の家禄の5%以上を領しているのですから…。)
関連するQ&A
- 一番石高が髙い陪臣はだれですか。
江戸時代徳川将軍直属の1万石以上の家来を陪臣大名、1万石以下を旗本、御家人と言い、その大名、旗本、御家人の家来を陪臣と言っていましたでは徳川将軍からみて陪臣で一番石高が髙いのはどこの大名に仕えていただれでしたか。
- 締切済み
- 歴史
- 水戸黄門が大名行列に遭遇したら?
諸国漫遊している水戸黄門が大名行列に遭遇してたらやはり土下座をするのでしょうか? WEBで検索してみると土下座をしなければならない大名は 将軍と御三家(水戸藩、尾張藩、紀伊藩)だけでよかった。 となっております。 水戸黄門とお付きのお二人ははたから見ると侍には見えません。 遭遇するようなことがあったら水戸黄門御一行はどうするのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 尾張藩って全く冴えない藩ですね。なんで?
お世話になります。 御三家の格なら、尾張>紀伊>水戸ですが、尾張藩は将軍家で世継ぎなき場合の筆頭ですよね。でも、将軍を出していません。それどころか、格下の紀伊藩やもっと格下の水戸藩から選出する始末。 ●水戸に君あり 紀伊に臣あり 尾張に大根あり と揶揄されるほど酷いのは何でしょう。全く、理解できない体たらくな藩です。これが、御三家筆頭の実態でしょうか?
- ベストアンサー
- その他(趣味・娯楽・エンターテイメント)
- 佐貫藩主柳沢吉保の家臣団
wikipedia 「上総国佐貫城」からの抜き書きです。 元禄元年(1688年)、第五代将軍徳川綱吉の側用人として重用され、旗本から新規に大名に取り 立てられた柳沢保明(柳沢吉保)が一万五千石で新規立藩した。のち二万石。 佐貫藩はそれまで廃藩となっており、城も壊されたままの状態だったそうです。 大名になったばかりの吉保がそんな状況で政事を始めるには、有能な家臣団が必要だったと思います。 江戸府内の吉保邸の管理と佐貫藩を構成するのに必要な家臣をどのようにして集めたのですか。 佐貫藩でなくても一般的に、1.5―2万石程度の藩の組織と必要な人員(武士)はどのようになっているのですか。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
尾張徳川家の家老という時点でも十分すごいのに、 陪臣格から抜け出したいと思うくらい、直参というのは位が上なんですね。 石高ではなく、将軍からの(家来としての)距離が重要とは聞いたことがありましたが、 まさかそこまでとは思いませんでした。 藩それぞれに特徴があるのですね。 良い点もあれば悪い点もありますね。 >たった一人の家臣が大名の家禄の5%以上を領しているのですから…。 一万石給の大名の家臣と言えど、500石で家老!?と思いましたが、 確かにそういう考え方をすればありえますね・・・ なんかすごいです。 ご回答ありがとうございました。