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直参と陪臣について
fujic-1990の回答
- fujic-1990
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陪臣かどうかについて明言した本を読んだ記憶はありませんが、犬山城主成瀬家(3万~3万5千)は、家康の命によって尾張徳川家の付家老になった家柄ですが、途中から、どうにかして幕臣になろうと奮闘努力してました。 そして、明治元年にようやく犬山藩として独立に成功しました。で万歳したのもつかの間、翌年、版籍奉還でした(藩知事就任だが)。 3万石の付家老でも幕臣になりたくてしようがなかったのですから、一般の家臣は、「陪臣」と思って間違いないでしょう。 500石はかなりいい身分です。主君の石高によっては家老クラス、その下あたりの場合もありかな。 お城(跡)の麓に武家屋敷街が残る町が、けっこうな数ありますが、ざっくりいうと200~300石クラスではなかったかなぁと思います。かなり良い家ですよ。 1000石クラスの家だと、まとまった土地になるので、明治以降、つぶされて公共施設になっているケースが多いと思います。 それに、最小の大名(小名)は1万石ですが、500石で割ると20人です。小名といえども直臣として雇わなければならない人数はそんなもんじゃないですし、大名自身の衣食住もあるのですから、500石なんて高禄を家臣に渡せるわけがありません。 江戸町奉行所の与力が200石(200俵)だったと思います。犯罪者を捕まえるので「不浄役人」の身分ながら、その分高禄だと読んだ記憶がありますので、200石でも高禄なのだと思います。 水戸藩ではさすがに家老なんてことはないでしょうが、500石なら立派だと思います。
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3万石の付家老といえど、幕臣になりたかったということは、 やはり、御三家の家来は陪臣扱いだったのですね。 >500石はかなりいい身分です。 各藩の家老というと1000石以上が当たり前のイメージがあったので、 500石は中の中くらいの身分だと思ってました・・・。 なんだかびっくりです。 >最小の大名(小名)は1万石ですが、500石で割ると20人です。 そういう考え方をしたことがなかったので、面白くてわかりやすいです。 確かに500石も渡せませんね。 他にも比較対象を紹介して下さり、イメージしやくかったです。 ご回答ありがとうございました。