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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.18

前回回答を書いた後、「無限」という言葉を比喩として提示したのは、あまり良くなかったかなと思い、こちらで回答し直すことにします。 「無限」とか「神」とかいった言葉を「はじめから」使うのは良くないですね。そもそもの誤解は、そこから始まるかも知れません。。。 「神」とか「無限」とか言った言葉を「はじめから」使うと、一つの概念が形成され「同じ土俵の上で」思索・議論が行われるかのごとく錯覚します。すなわち、いくら「否定神学」とか「○○ではない」とか「語り得ぬもの」といっても、「土俵内部」での話として捉えられかねないでしょう。 「否定神学」とか「語り得ぬもの」は >>> No.15 お礼欄 (4) つまり  ★ もう一種類の存在、それは、ある種否定神学的な存在です。「はじめ」も「おわり」もない、というよりも、時間概念すら存在しないものです。  ☆ この場合に――ただし《否定神学》というのは よく知りませんが―― つまり時空間を超えた《非経験の場》として想定する場合に 哲学は《元》を用います。 (中略)  (7) ただしまた   ★ 「経験事象の内に収まらない」存在  ☆ これについては もし(4)の場合に当てはまるのなら それは 《非経験の場》として想定されたものとしてのみ――概念として――存在するものゆえ 《元》という言葉を当てはめます。 <<< での「非経験」に該当するといえば該当します。 ただし、「経験-非経験」という用語を用いた途端、その言葉に縛られる(土俵を同じくする)ので、個人的にはあまり好ましくはないと思います。 また、逆説的ではありますが「経験-非経験」という用語を用いる限り、「経験」と「非経験」との間の壁・境界を含めて「○○にとっての」という接頭辞を避けて通れないでしょう。 それゆえ「ヒグマと人間にとっての経験-非経験」という図式も同等に成立し、哲学的な意味において「元」という言葉をつかうことになるでしょう。 野生のヒグマに出会ったことのない人間にとって、初めての出会いにて逃げ帰ることもあるでしょうし、「繋がり合いたい」という思いから「供物」に相当する「食物」を差し出すこともあるでしょう。 まさに、 >>> No.16 お礼欄 つまりは 或る日或る時 ナゾの何ものか――神としましょう――がわが心の窓をノックする。このノックに応えて そのおとづれを受け容れる。このとき 非思考の庭が成ります。 <<< での「ノック」に相当する出会いです。 そうして「ヒグマと仲良くなれる」という「信」が生じ、「供物」に相当する「食物」を差し出すのですが、結果的に「裏切られる」(仲良くなれない)という構図になるわけです。 それを「文学」として捉えるのは、「既に知識として知っている」からであり、「非経験」である人々にとっては、まさに「哲学」に相当するわけで「元」をつかうべきでしょう。 人間として生まれ、成長し、思索する過程において、「経験-非経験」の境界は経験を積むにつれて移動していきます。その境界では、常に「個々の人々にとっての哲学的な思索」という行為がなされているわけです。境界の外部への「思い・情」(「知を愛する」)があるからこそ、非経験が一つの(あるいは複数の)極のような場所まで押しやられてくるわけです。 そういった「経験」なしに「bragelonneにとっての哲学ではない」という一方的な解釈のみで「元」をもちいるべきでないというのであれば、人類にとって「経験から学ぶ」ということをも否定しかねないと思います。 したがいまして >>> 19. けっきょく哲学としては――広義にも狭義にも―― 《神》の次元についてのみ《元》という用語を用いる。これが 原則であるのではないかと問うています。  20. 神が《善》であるかどうか 人間にはほんとうのところ 分かりませんが 少なくとも神について《善悪二元論》が成り立つという見解が従来出されて来たそのことについて それは ないだろうと言えるはずです。  21. このようであるならば 人間とヒグマとで《二元論》を構成するというのは その表現がいかにも愛嬌であるけれども それは哲学としては 愛嬌だけのものである。こう結論づけられましょう。 <<< には賛同しかねます。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  ★ 前回回答を書いた後、「無限」という言葉を比喩として提示したのは、あまり良くなかったかなと思い、こちらで回答し直すことにします。  ☆ 前回は前回分として 応答しています。やり取りとして成り立っていると考えます。  ★ ~~~  「否定神学」とか「語り得ぬもの」は  >>> No.15 お礼欄  (4) つまり (中略)  (7) ただしまた   ・・・  <<<  での「非経験」に該当するといえば該当します。  ~~~~~~~  ☆ 《語り得ぬもの》については 問題なくそうでしょう。《否定神学》の言う《神》が 《非経験の場》に該当するという意味でしょうか? 特に異存はありません。  ★ ただし、「経験-非経験」という用語を用いた途端、その言葉に縛られる(土俵を同じくする)ので、個人的にはあまり好ましくはないと思います。  ☆ これは ひとつのことを忘れてしまっていることから来る発言です。《非経験の場》は あくまで《経験世界における因果関係や相互依存関係なるたぐいの経験事象から自由である場》と想定するというひとつのことです。  《想定》として定義するかぎりでは  ★ その言葉に縛られる  ☆ ことはありません。縛られたなら 定義から逸れたとすぐ分かるからです。  ★ また、逆説的ではありますが「経験-非経験」という用語を用いる限り、「経験」と「非経験」との間の壁・境界を含めて「○○にとっての」という接頭辞を避けて通れないでしょう。  ☆ これが 定義マチガイです。《想定》ではなく あたかも経験事象を定義するように《非経験の場》をも規定してしまった場合に落ち入るマチガイです。  そのひとつの証拠は 《想定》であるからには 《境界》が分からないのです。あるか無いかも分かりません。そして 直前のNo.17補足欄の(23)に書きましたが 《絶対で無限である非経験の場》からは この仮りのへだたりとしての境界をも突き抜けて 経験世界と関係しあうと見る結果を 人間は得ます。これは 《想定》からの派生事項です。《含み》であったとも言えます。  ★ 「○○にとっての」という接頭辞を避けて通れないでしょう。   ☆ これは 《特定の誰だれの主観にとっての》ということでしたら そのとおりだとわたしも考えます。《非経験の場つまり神》は あくまで主観の内面における《非思考の庭》における動態です。人間にとってはという意味です。  ★ それゆえ「ヒグマと人間にとっての経験-非経験」という図式も同等に成立し、哲学的な意味において「元」という言葉をつかうことになるでしょう。  ☆ 成りません。この《人間にとっての経験‐非経験》の中の《非経験》について《元》を使うのですが そのほかには使いません。  そして 《ヒグマにとっての経験‐非経験》なる図式は 仮りにそう捉えても構わないでしょうが それは あくまでそう捉えた一人の人間の主観における図式です。このとき 《非経験》のほかの事項には 《元》は使いません。  ヒグマに人間が成り切ることは出来ません。仮りに出来たとしても どうということはありません。その《ヒグマに成りきったと思っているその人の主観》の問題でしかないからです。ヒグマを代弁することは ほんとうには出来ません。  だったら ヒグマの世界は 人間とは別の無関係なる領域ではないか? もしそうだとしても ヒグマの世界から その他の人間やもろもろの世界が生じて来たとでも言うなら別ですが ただ並存・共存しているだけですから 元とは言いません。  ★(あらまし) ヒグマとの出会いと そして非経験の場のチカラがハタラキを持ってのように――つまり神が―― わが心の窓をノックするといった出会い  ☆ これらは 互いにまるっきり違います。ヒグマがいつから非経験の場になったのでしょうか?  ★ そうして「ヒグマと仲良くなれる」という「信」が生じ、「供物」に相当する「食物」を差し出すのですが、結果的に「裏切られる」(仲良くなれない)という構図になるわけです。  ☆ 成りません。《信》という言葉をまちがって使っています。経験事象については 文学的表現として強めのために使ったりする場合を除けば 《信じる》とは言いません。あくまで《考える》です。  《考える》世界では あやまちがあり得 ものごとは うつろいゆくものです。  ★ それ(* ヒグマとの出会いを 神との出会いに当てはめること)を「文学」として捉えるのは、「既に知識として知っている」からであり、「非経験」である人々にとっては、まさに「哲学」に相当するわけで「元」をつかうべきでしょう。  ☆ 意味が取りにくいのですが まづ   ★ 「非経験」である人々  ☆ がおかしいです。人びとのそれぞれ主観において持たれている《非経験の場》という意味でしょうか?  ですが ヒグマは経験事象であり 神とは別です。このことは 《文学うんぬん》の問題の以前です。  ★ 人間として生まれ、成長し、思索する過程において、「経験-非経験」の境界は経験を積むにつれて移動していきます。  ☆ あり得ません。どうしてもということでしたら それは 主観の内で 神のほうが境界を突き抜けて わが心の窓をノックするということ そしてこの神のおとづれ体験ののち なおもこのマボロシとしての神とのあいだに――主観的に――その溝が狭まったとかという体験を持つ。こう――主観の内においては――主張することは 自由です。  ただし  ★ 境界の外部への「思い・情」(「知を愛する」)があるからこそ、非経験が一つの(あるいは複数の)極のような場所まで押しやられてくるわけです。  ☆ この《外部》という認識は ほんとうには あり得ません。絶対的にへだたっている神とのあいだというものが ほんとうには境界であるかどうかさえ分からないのに 内部と外部だなどと規定しうるわけがありません。(むろん錯視としてなら そうすることがありえましょうが)。  境界も隔たりも ほんとうには認識できないのに 《非経験が 一つないし複数の極のような場所にまで押しやられる》というのは いったいどういう《神体験》なのでしょう? 錯視ではないでしょうか?  せいぜいが 神の代理のような言葉や概念――愛だとか義だとかあるいは 無根拠とかナゾの何ものかだとか――を持つに到って その言葉を中心にして思考の世界で理論化するといった場合があるだけです。  ★ そういった「経験」なしに「bragelonneにとっての哲学ではない」という一方的な解釈のみで「元」をもちいるべきでないというのであれば、人類にとって「経験から学ぶ」ということをも否定しかねないと思います。  ☆ そのたぐいの経験を ひとつ 例示していただければさいわいですし そのことは 論証のために必要なことでしょう。ヒグマ体験は かんばしくありません。《多元(多種)宇宙論》も 見劣りがします。  ☆☆ 21. このようであるならば 人間とヒグマとで《二元論》を構成するというのは その表現がいかにも愛嬌であるけれども それは哲学としては 愛嬌だけのものである。こう結論づけられましょう。

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