• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.17

「元」を「哲学」の用語とするかどうかを思索するにあたり、「否定神学」は外すことのできない概念になるでしょう。。。 >>>  (11) ★ 本質的には「総体・全体」という概念に対し「否定神学的な存在」です。  ☆ この《否定神学的な》という用語の意味が分かりません。おしえてください。 <<< 肯定神学と否定神学は2種類の無限とも関連します。 肯定神学が実無限とすれば、否定神学は可能無限に該当すると考えて差し支えないでしょう。 「無限」を「最初から全体として存在する」と積極的に述べるのが肯定神学であれば、「無限」を「いままで数え上げた数では無い、それ以上」として、順に数え上げていきつつ、数え上げた物自体を否定していくことで間接的に「無限」を表象しようとするのが否定神学という概念に該当します。 可能無限と実無限、および神学との関係については、こちらに詳しい記述がありました。 よろしければ参考にしてください。 哲学するサラリーマン 2011年06月27日平行線が交わる点 http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html あと、下記も参照になると思います。 (私は、下記掲示板でのやり取りから否定神学という概念に入りました) Re:否定神学 In Reply to: Re:否定神学 投稿者:落合 投稿日時:2003年03月04日 13時24分22秒 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/@geoboard/348.html >>> > このスレッドの後半はジンプリチシムスさんと落合さんのお話で進行しているのですが、お二人の話の中で一箇所だけ全く理解ができない個所がありました。 > 「デリダが単数の超越的なものから複数の可能性にシフトした」 > ここの部分です。 > ここは「デリダが単数の超越的なものから複数の超越的なものの可能性にシフトした」と言い換えられると思いますが、はたして「複数の超越的なもの」というのは一体? > 私にはこの言葉の指し示すところを全く表象できないのです。 まず、前提として、このスレッドの後半の議論は、 東浩紀の『存在論的、郵便的─ジャック・デリダについて』に ジンプリさんが興味をもったというコメントに対して私が横レスを 入れたことから始まっています。 従って、 東のジャック・デリダ解釈が議論の前提となっているわけです。 で、 ここの議論ではあまり論点に絡んでこなかったので あえてこだわりませんでしたが、 もともとの東の議論で問題になっているものはあくまで 「超越論的なもの」であって「超越的なもの」ではありません。 「超越的なもの」とは「経験を超えたもの」のことで、 神がその典型でしょう。 じねんさんがおっしゃるように、多神教の形態をとる宗教も多いので、 「超越的なもの」が複数ある可能性はあります。 ただし、多神教は確かに神という超越的なものを複数認めるわけ ですが、そのぶん一人一人の神の超越性は薄まりますし、 複数の神が認められている土俵自体は(例えば八百万の神を認めても それらの神が属している世界=物語は単一であるように)単一です。 従って、「超越的なもの」を複数認める立場というのは、 いわゆる「宗教多元主義」になるかと思います。 ただし、これも主流の考え方は、「どの道から登っても頂上は同じ」 みたいな考え方で、結局、単一の「超越的なもの」に収斂してしまう ようです。 これに対して、 「超越論的なもの」というのは「経験を可能にする条件」のことで、 カントの場合、理性的存在者があらかじめ持っている直観の形式(時 間・空間)や悟性の判断形式(因果関係などのカテゴリー)という ようなものであるわけですが、レヴィナスの場合、それが他者になる。 我々は普通、経験の中で他者に出会うと考えますが、 レヴィナスは逆に、そもそも経験を可能にしているのは他者の他者性 だ、と考えるわけです。 それまでの哲学は経験を可能にしているもの(超越論的なもの)を 自己(理性や意識)の内部に求めようとしていたのですが、 そもそも「他なるもの」、自己同一性の「外」にあるものがなければ 経験というのは成り立たないのではないか。 これはカントが「物自体」を締め出した時から考えられるべき問題 だったわけですが、こういう経緯から特にポストモダン系では 「超越論的なもの」=「物自体」=「他者」というような 感じで考えられているようです。 ただし、レヴィナスはこの他者を「存在論的」に語ると 従来の認識論や存在論の説明とあまりかわらない(経験の条件が 外に行っただけという)ことになってしまい、 他者性が死んでしまうと考えたので、存在論や認識論に先行する 「倫理」の文脈でこれを語ろうとした。 このため、レヴィナスは他者への責任とか、そういう倫理学的な 文脈で語られることが多くなってしまったのですが、 もともとは近代の認識論が陥っていた袋小路を突破するという意図 があったわけです。 しかし、この「超越論的な他者」という考えを突き詰めていく 過程で、レヴィナスは他者を絶対化していくことになり、 最終的にはほとんど「単一の超越的なもの」について語っている のと同じになってしまいます。 神のような無限の超越者は人間の言葉で積極的に語ることができない ので、「~はではない」という否定的な形でしか示すことはできない。これが「否定神学」の基本的なパターンですが、「否定神学」は このように「~は語り得ない」といいながら、実はそうすることで 語り得ないものを神秘化し単一化しており、かえって雄弁に語って しまっているわけです。 レヴィナスが「否定神学」といわれるのは、「超越論的な他者」を 語っていたのが「超越的な一者」を語ることと同じになってしまう そのプロセスが、上の「否定神学」の基本パターン同じだからです。 デリダの批判によってレヴィナスはここから抜け出そうとしますが、 あまり成功したとはいえず、逆に、もともと彼が「他者」という概念 に込めていたラディカルさが失われていくことになります。 最大の問題は、レヴィナスの「超越論的な他者」と「それによって 成立した主体」という二項関係では、社会という多項関係、いわば他 者と他者との関係が問題にできず、それに対して主体をどう位置づけ たらいいのかわからない、また、複数の他者に関わる分配の正義とい うようなものが導出できないという問題です。 レヴィナスはこれをなんとか「超越論的な他者」と「それによって 成立した主体」という二項関係の枠内で解決しようとしますが、 やはり無理があったようです。 ここで、「超越論的な他者の複数性」ということが問題として浮上 します。 レヴィナスを批判したデリダも当然、この問題に直面することになりました。 従って、このスレッドで議論されている「超越論的なものの複数性」 とは、正確には「超越論的な他者の複数性」ということです。 「超越論的な他者の複数性」を語ろうとすると、なぜか「超越的な 一者」を語ることと同じになってしまう。 この思考の罠を「否定神学」と呼んでいるわけです。 ただ、私としてはデリダやレヴィナスの議論にとらわれる必要はないと 考えていますので、「超越論的なものの複数性」ということを もっと広い意味で考えています。 「超越論的なものの複数性」とは、経験を可能にする条件の複数性 ということですから、これは他にもいろいろ考えられると思います。 <<< 否定神学という用語については既に何度か用いておりますが、bragelonne様の思索(哲学)の範疇では、否定神学を含む概念形態そのものを端から排除する傾向にあったようです。。。 たとえば、下記を参照してください。 《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか http://okwave.jp/qa/q5151923_7.html#answer での回答No.2 どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか http://okwave.jp/qa/q6174142_8.html#answer での回答No.9 ※2種類の無限については、上記内部でもやり取りしています。 根本的な思索方法が変わらない限り、「哲学には否定神学を含まざるを得ない」とする私の論とは「無限に平行線」なのかも知れないですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1) ▼ (哲学するサラリーマン:平行線が交わる点⇒ 無限集合とその部分集合)    http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html  この議論を ご回答内容に先立って 吟味・検証します。  (2) ▼ (同上) ~~~~~~  この〔* 《無限》においては〕部分と全体との同一という定理は、先ほどの神の受肉という事態を合理的に説明することができます。  すなわちある無限集合(* =全体)を神の本質、その部分集合を神の実存と解釈すれば、神の本質はその実存と同一でありえます。つまり、神の実存は、神の本質の部分であることによって、神の本質から差異化されると同時に、また同一でもありうるのです。  ~~~~~~~~~  ☆ これは もし妥当であるとしても 説明の中のひとつのことで 用語を間違えています。  偶数の無限集合といった《部分集合》は 実無限ではありません。可能無限です。《偶数》という思考・認識の対象になっているからです。つまり言いかえると 経験事象に属します。つまり 元を用いて示される神のことではありません。  (3) ただし もしその全体としての説明が妥当であると考えられるとしたら それは 全体として仮りに経験事象のことがらとして神の世界から神の三位一体説が――つまりは特に子なる神が 肉(=人間)となったという仮説が―― 逆に投影されている。と思える。そこからでしょう。  神としての実無限である《本質》とそれの投影としての可能無限版と言うべきような《実存》という区別で説明されているそのゆえでしょう。  (4) けれどもたぶん げんみつに言えば この説明は適宜性に欠けましょう。  本質=実無限と 実存=可能無限 これらのふたつの《無限》が 互いに差異化されていると同時に互いに同一であると無理に言おうとしているからです。  ことば(=ロゴス=子なる神)が肉(=人間)となったという場合 それは 何も《実無限たる神が 可能無限のかたちを取る》というよりも そうではなく まづ一面として あくまで――聖霊であることにおいて――実無限のままであるのであり もう一面としては むろんヨセフとマリアというふたりの男女から生まれたふつうの人間であるということ。このふたつの面が 同時に存在するということ。こういう想定で 物語は語られている。  人間イエスは 神の子でありみづからも神であるキリストである。という物語上の想定です。  イエス・キリストは 神の貌(かお)と人間の――神に対して言わば《しもべ》の――貌とを同時に持つ。これです。  これが 三位一体の理論でありましょう。  (4) ▼ 無限集合にはその大きさの大小があるという定理によって、先ほどの人間の神化という事態は合理的に説明できます。  ☆ これは 落合仁司がその著書『〈神〉の証明』において ギリシャ正教が説く《神と人間との関係》を カントールの無限論を用いて証明しようとしたものです。  カントールの《無限集合にはその大きさの大小があるという》その二つ目の定理です。  (5) ところが  ▼ 無理数全部の集合と自然数全部の集合とはどちらが大きいでしょうか。  ☆ と問うて始める証明は 出来ていないとわたしは考えます。  あたらしく得られた無理数の集合は 自然数の集合よりも――このときどちらも 無限集合であるのですが―― 濃度において大きいと言っていますが たぶんアヤマリでしょう。  というのは 自然数からあたらしく無理数を作り出すときに 初めに取り出した自然数の集合が無限であることを忘れていると思われるからです。  新しく得た無理数が 初めの自然数の集合の中にはないと言うのは 初めの《自然数と無理数との対応》のさせ方が すでに《無限》ではないかたちにとどめてしまっている。ことを示すからです。  いくら可能無限だからと言って どこかで《限り(果て)》があるとしてしまうのは おかしい。経験事象におさまるものであるからと言っても つねに無限大のその先に そのさらに別の数値がある。というのでなければおかしいからです。  (6) したがって  ▼ この、無限集合にはその大きさの大小があるという定理によって、先ほどの人間の神化という事態は合理的に説明できます。  ☆ というのは アヤマリです。人間は人間 神は神です。人間の貌と神の貌とは 峻別されます。しかも キリスト・イエスにあっては それらが同時に存在するという幽霊話を聖書記者たちは語ったのです。  神については――《元》の問題としては―― 《非思考》なる事態です。  雲をつかむような話であり 与太話なのです。  (7) 神は三つの位格に分かれて しかもそれらの部分的な位格は――もともと神が無限(実無限)であるのですから―― それぞれやはり実無限である。こう聖書は語っています。  そのうち 子なる神が 実無限なる存在――つまり神の貌――でありつつ 同時に人間という有限なる存在――つまり人間の貌――に成るという歴史的な事件が起きたと 大嘘(虚構)を語ったのです。⇒【Q:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7725897.html  三つ目の位格としての聖霊なる神は あたかも同じようにこの経験世界に送られたけれども このペルソナは 人間に成ることはなかった。  そして これらの《子なる神の経験世界への派遣》なる事件および《聖霊なる神の その聖霊のままでの経験世界への派遣》といった事態によって 父なる神とは別だと――いちおう――語られます。  しかも この両者の派遣については 父なる神とともに子なる神みづからもがそして聖霊なる神もが おこなっています。つまり 三つの位格は 個はほかの個と そして各個はそれぞれ全体と 全体は各個とそれぞれ ともにひとしい。一体である。  (8) すなわちさらに話はつづいていますので それにも触れます。  ▼ ~~~~  以上見てきたように、非ユークリッド幾何学、あるいは集合論という現代数学の理論を援用することにより、われわれは内部と外部という、本来交わることのない2つの世界が交流することの可能性を垣間見ることができます。そしてそれは、無限というものを完結した実体と見る実無限の立場に立つことによって可能となるのです。  ~~~~~   ☆ おそらく  ▼ 本来交わることのない2つの世界が交流することの可能性  ☆ この表現では きちんとしていないでしょう。《交わり・交流》ではないでしょう。神の貌と人間の貌との同時なる存在と表現すべきでしょう。  それは   ▼ 内部と外部  ☆ このように表わして認識することが 事態の捉え方としてマチガイであるでしょう。《非経験の場》としての想定 これが ふさわしいと見られます。《外部》というのは 思考・認識の対象だからです。まだ経験事象に属するという意味です。  (9) ▼ ~~~~  現に、神の証明に利用されたカントールの集合論にしても、さまざまな問題点が指摘されてきました。・・・この集合論の崩壊は、すべて無限集合を完結した実体としてとらえることによって必然的に引き起こされてしまうものなのです。  ~~~~~~~~  ☆ と話をついで 《サラリーマン哲学者》はなお次のようにまとめようとします。  ▼ われわれは普通、実無限の立場ではなく、無限をどこまでも延長する可能性としてとらえる可能無限の立場に立っているのではないでしょうか。  ☆ すなわちこの言明は われわれが初めから見てきたように 《本質と実存》や《自然数の集合と無理数の集合との比較》などによって 《神の受肉》や《人間の神化》を証明するとき そのまま《可能無限》の話を語っていたということと符合します。  初めから そのような話をすすめて来ていたわけです。  (10) 前項の話には ドストエフスキーの小説から 死(刑死)を前にした人間の心理が描かれたくだりを引いてさらに論じる話が添えられています。  意味がない。と判断しました。  ▼ そしてわれわれの内部と外部がどこか無限遠点で交わっていることも確かでしょう。あくまで自己の内部から出発し、その立場を徹底させながら、しかもどうやって外部を自己の内に取り込んでいくのか、これこそわれわれの取りうる唯一にして困難な課題だと思われるのです。  ☆ このようにあくまで《内と外》としてしか――つまりは 可能無限にかかわる経験事象の範囲内のこととしてしか―― 捉えていないからです。《元》とも《実無限=神》とも関係のない話で終わっています。  このあと 補足欄につづけます。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづています。  (11) ★ 肯定神学が実無限とすれば、否定神学は可能無限に該当すると考えて差し支えないでしょう。  ☆ きわめてあいまいな定義ですが まづは従いましょう。  (12) ★ ~~~~  「無限」を「最初から全体として存在する」と積極的に述べるのが肯定神学であれば、「無限」を「いままで数え上げた数では無い、それ以上」として、順に数え上げていきつつ、数え上げた物自体を否定していくことで間接的に「無限」を表象しようとするのが否定神学という概念に該当します。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 後者について それは《可能無限》のことだと分かりますが――そしてその手法を用いて《神は何々ではない》というかたちで神を定義するということが 《否定神学》だとすれば そのことも分かりますが―― ひとつに その手法(つまり 神は何でないかという問い方)はふつうのことであり もうひとつに 前者すなわち肯定神学のことが 一向に分かりません。  (13) ★ 「無限」を「最初から全体として存在する」と積極的に述べるのが肯定神学  ☆ 分かる人がいましょうか?  (あ) 無限は あくまで想定するものですよ。経験事象ではありません。(しかもその有限な経験存在であるわれわれ人間が この無限や絶対なることを想像しうるということは ひとつの驚異です)。  (い) 《無限》――実無限――については ですから 《有る》と言っても《無い》と言っても 無限じたいは 痛くも痒くもなく ただただその神学は人の自由にゆだねられています。有神論を採っても無神論をえらんでもかまわない。両者は――無限なる想定について―― たがいに同等である。  (う) そういう内容をもった無限について 《「最初から全体として存在する」と積極的に述べる》こととして定義する。のですか? 何とも言葉が出ません。  (え) いったい無限ないし神を何だと思っていましょう? つまり この主題については お礼欄でのわたしの応答を参照してください。  (14) ★(たぶん じねんさんの文) はたして「複数の超越的なもの」というのは一体?  ◆(落合さん)  ~~~~~~  複数の神が認められている土俵自体は(例えば八百万の神を認めても  それらの神が属している世界=物語は単一であるように)単一です。  ~~~~~~~~~~~  ☆ これは――文学的な表現になりますが―― 多神というのは 《全体としてのひとつの元〔なる神〕》の分身と捉えればよいでしょう。  (15) したがって  ◆ ~~~  従って、「超越的なもの」を複数認める立場というのは、  いわゆる「宗教多元主義」になるかと思います。  ~~~~~  ☆ には成りません。もう議論済みなはずですが 《複数》を認めるということは 思考による知解行為の世界です。つまり 経験事象です。《分身なる部分的な神》やそれについてのオシエ これらはすべて経験事象です。《元》は用いません。  ◆ ~~~~  ただし、これも主流の考え方は、「どの道から登っても頂上は同じ」  みたいな考え方で、結局、単一の「超越的なもの」に収斂してしまうようです。  ~~~~~  ☆ と締めくくってはいるようですが。  (16) ◆(落合さん) ~~~~  神のような無限の超越者は人間の言葉で積極的に語ることができない  ので、「~ではない」という否定的な形でしか示すことはできない。  これが「否定神学」の基本的なパターンですが、「否定神学」は  このように「~は語り得ない」といいながら、実はそうすることで  語り得ないものを神秘化し単一化しており、かえって雄弁に語って  しまっているわけです。  ~~~~~~~~~~  ☆ これは 神学を単純化しすぎです。  神は 《非経験の場》と想定されますから 《経験世界》のことではないわけです。そのことを示すために 経験事象のいくつかをわざわざ取り上げ これこれではない あれそれではないと言って説明している。ただそれだけのことです。   神は 人間の眼に見えるいわしのあたまではない。いわしの生命というべきような・科学の眼に見えるそのDNA これも 神ではない。このように認識しようとしている人間の知性も いかんせん 朽ちゆき限りある人間存在に属しており 永遠ではない。つまり 神ではない。  精神は 永遠ではなく 神は人間の精神ではない。  じんるいは DNA が生きるかぎり永続するかも知れないが 仮りにそうだとしても その人類の永続と同じように わが精神が永続するのではない。精神がそのように世界についての認識として捉えたに過ぎず その認識の中で《永続している》に過ぎない。  うんぬん うんぬんと言って 神は何であるかを 神は何でないかと問うことによって説明しようとする手法です。そして それだけのことです。  (17) つまり  ◆ ~~~~  このように「~は語り得ない」といいながら、実はそうすることで  語り得ないものを神秘化し単一化しており、かえって雄弁に語って  しまっているわけです。  ~~~~~   ☆ というのは ただその人の取り様によって そう見える。だけのことです。《雄弁に語った》というのなら その内容は何か? どうであるか? それを吟味すればよいだけの話です。  だいたいが 神学をおちょくっています。  (18) ◆ ~~~~  レヴィナスが「否定神学」といわれるのは、「超越論的な他者」を  語っていたのが「超越的な一者」を語ることと同じになってしまう  そのプロセスが、上の「否定神学」の基本パターン同じだからです。  ~~~~~~~~  ☆ こんなことは どうでもよろしい。《非経験の場》として想定する。超越的だろうが超越論的だろうか このひと言で問題はありません。生じません。  ◆ 他者  ☆ という用語が――内と外の《外》と同じく またその概念の《ラヂカルさ》がどうあろうと―― あいまいなだけです。  (19) ◆ レヴィナスの「超越論的な他者」と「それによって成立した主体」という二項関係  ☆ これは もともと――神による主体なる人間の創造といった表現の問題であることから分かるように―― 議論になじみません。  (20) ★ 否定神学という用語については既に何度か用いておりますが、bragelonne様の思索(哲学)の範疇では、否定神学を含む概念形態そのものを端から排除する傾向にあったようです。。。  ☆ (16)に明らかです。手法は手法として用いられている。と見る。それだけだ。です。《排除》はしていません。  (21) そして ただし 内と外 ないしそこに捉えられている《境界》とその概念 これは 《非経験の場》にとって 何ら関係しない。こういうことです。これが 大前提です。  意味は 境界を見て・あるいは人為的にもうけて ものごとを認識するという作業は あくまで経験事象に限られている。だから 神(非経験の場)の定義には 関係しない。これです。    (22) このときには確かに  ★ 根本的な思索方法が変わらない限り、「哲学には否定神学を含まざるを得ない」とする私の論とは「無限に平行線」なのかも知れないですね。  ☆ とこちらからも言わねばならないかも分かりません。こちらからは 《経験世界》と《非経験の場》(これは 想定のみ)との峻別をおこたっているのではないかと責めなければなりません。  (23) ところが――この時点で言っておきたいのですが―― ただ想定しただけの《非経験の場》は  経験世界を超えているという定義の内容から おどろくべき《含み》ないし派生事項を持つ。のです。  無限が 有限の世界と絶対的にへだたっているということ(これが 想定としての定義です)からは 無限=神は 有限=経験世界を おおい包むという推理が出て来ます。《絶対的なへだたり》から 《そのへだたりをなおも今度は逆方向に超えて 関係しあう》という推理結果が得られて来ます。  そこから 創造主であるとかといった文学的な表現も生まれました。うんぬん。  この点をも ここで 添えておきます。  すなわち 《否定神学》とはまったく違う内容をも見ている。ことになります。とお伝えします。  (24) ★★(《個人》の概念ないし繭・・・:回答No.2) ~~~~  もしかしたら、「私・境界・外部」の3つは、同時成立的なのではないだろうか? と。。。  どれか一つでも欠ければ、他の二つは存在し得ない。。。  ~~~~~~~~~  ☆ そういう議論もおもしろいでしょうが いま《元》ないし神の話とは 別です。どこまでも経験事象ないし 無限としても可能無限のみを あつかっているからです。これでは 神の問題にとどいていません。  だから――そういうたぐいの議論ばっかりおこなっているものだから―― 人から《神は 人間が想像し造ったものに過ぎない》と何度も言われてしまいましょう。  (25) 【Q:どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか】  これも 回答No.9でのやり取りで 話は足りていると考えます。  (26) じねんさんは いまも《経験世界》と《非経験の場》との区別をしようとなさらない。その後者の想定を受け留めようとなさらない。こういうことのようです。  もしそうであれば どの言語でも持たれている《かみ》という言葉について ご自分の定義を われわれが納得しうるように おこなっておくこと。これが 必須のことです。よ。

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  • 不確定性原理の証明とハイゼンベルクの思考実験

    不確定性原理、ウキペディア>位置をより正確に観測する為にはより正確に「見る」必要があるが、極微の世界でより正確に見る為には、波長の短い光が必要であり、波長の短い光はエネルギーが大きいので観測対象へ与える影響が大きくなる為、観測対象の運動量へ影響を与えてしまうからである(ハイゼンベルクの思考実験)。ただし、この種の議論は前述の証明とは異なる種類のものであることには注意されたい。前述の証明は、量子論の性質そのものから導かれる物であり(量子力学の数学的基礎も参照)、測定器の誤差、あるいは測定による反作用とは区別して考えなければならない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86 とありますが、このハイゼンベルクの思考実験(?)とどう区別する必要があるのでしょうか?定性的にやさしく解説いただければと思います。

  • コギトと アリストテレスの真理の対応説

     真理とは何か? これを《対象とその認識とが対応すること》と説いたのは アリストテレスであると言われます。  これは いわゆる経験合理性としての妥当性というような意味において 事実認識が《信憑性を持つ ないし 真実である》ということを言おうとしているようです。  ヰキぺの《真理》なる主題のもとには アリストテレスについての解説が 《経験事実についての真実》だけではなく 《経験世界を超えた場としての真理》についても触れていますので その項目を全部引いたあと問いをかかげます。(5)を問います。  ▲(ヰキぺ:真理) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86#.E3.82.A2.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.86.E3.83.AC.E3.82.B9_.E5.AF.BE.E5.BF.9C.E8.AA.AC.E3.80.80  § 2 歴史   § 2.1 古代  § 2.1.3. アリストテレス 対応説   (1) アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)は、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。    (2) まず、彼は、学問体系の整備を始め、「論理学」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にしたのである。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。  (3) ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。  (4) そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。  (5) そこでは、存在者の「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論がロゴスにおいて一体不可分のものとして語られていたのである。  (6) そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを四原因説という。  (7) 例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての可能態であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。  (8) 例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成していないのであるから、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となるのである。  (9) 彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない究極の目的が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。  (10) アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで唯物論的見地から主張された模写説(素朴実在論)・反映説(マルクス主義)や観念論的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。バートランド・ラッセル、前期ウィトゲンシュタインも言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  質問( a ) ▲ (5) ・・・判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され・・・  ☆ この《真理の対応説》についてですが 《思惟と実在の一致》の当否を問います。これは 事実についての認識が その事実としての《実在》に言葉による表現として対応しているということを言っているのではないですか?  ( b ) すなわち 《事実についての認識》について 《真であるかどうかが問われる判断》を経て来ているとは言っていますが それは要するに事実認識の妥当性が問われているということであるのではないか?  ( c ) 妥当な事実認識は その対象とされた事実(つまりヰキぺの解説では 実在)とその認識内容ないしその説明内容や規定内容と過不足なく対応している。つまり マチガイなく事実(実在あるいは存在)を 合理的に説明しているという意味ではないか? つまり 《真理の対応説》がです。  ( d ) つまり (5)では 《思惟と実在との一致》というふうに《一致》という表現を用いていますが これは何も《思考(考える・つまりコギト)》が《存在(有る・つまり スム)》とひとしいと言っているのではない。  これを問います。どうでしょう。  なお (9)項における《神》の定義について ご見解がある場合 あるいはその他その他の論点についてもそうである場合には そのお考えを述べてください。互いに問い求めます。