• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.15

>>> No. 14 お礼欄 世界の基軸となる国が 複数あって二極的とか多極的とか言うとき ジャーナリズムでは多元論といった言い方をするかも知れません。ですが それは 哲学にとって意味がありません。《依存関係から自由な存在》を言っているのではないからです。 <<< おっしゃりたいことは、分かります。 私が「はじめに総体・全体があって、個はそこから派生する。」 というとき、2種類の派生を想定しています。さらにいえば、「派生」以外の存在(最低、計3つのパターン)を想定してます。 2種類の派生は、触れなくてもいい位でしょうが、くり返します。一つは例えば多元宇宙論のレベルIからIVというレベルで、「完全に相互作用・関連性が失われた、依存関係から自由な存在」です。もう一つは「(程度の差はあれ)依存関係のある存在」です。 もう一種類の存在、それは、ある種否定神学的な存在です。「はじめ」も「おわり」もない、というよりも、時間概念すら存在しないものです。 (派生した)多元宇宙という概念は、それぞれの宇宙内部でそれぞれの法則・時間軸という概念を包含しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%85%83%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96 >>> テグマークは次のような考えを提唱する。抽象数学は非常に一般的なので、(人間の曖昧な言葉から独立した)どんな純粋な形式言語で定義可能な万物の理論 (TOE) もまた数学的構造である。例えば、異なる種類の実体(言葉で表現される)やそれらの関係(さらなる言葉で表現される)を含むTOEは数学者が集合論的モデルと呼ぶものに他ならず、一般的にその集合論的モデルを構成する形式体系を見出すことができる。これは、あらゆる想像することのできる平行宇宙理論はレベルIVの段階で記述可能であることを暗示する。レベルIV 多元宇宙は全ての他の集合 (ensembles) を包含するので、多元宇宙の階層の上限となり、レベルV 多次元宇宙を考える余地はない[8]。 <<< テグマークの言を借りれば、抽象数学で記述不可能なレベルV多元宇宙に相当するといっていいでしょう。 「包含関係にない」存在です。あるいは、「経験事象の内に収まらない」存在です。 ただし、一度でも他の存在と関連性を持ち得た(持ちうる)可能性を排除できないのであれば、そのような「包含関係にない」存在もまた、思考対象としての「総体・全体」として捉えられ得るでしょうが、本質的には「総体・全体」という概念に対し「否定神学的な存在」です。 さて、私が「哲学」というとき、「広義の哲学」を想定します。「科への分科」以前のあらゆる思索を含む「知を愛する」です。 bragelonneさんが、「哲学にとって意味がない」として排除されるとき、たとえば「それは文学だ」とおっしゃるとき、そこには「狭義の哲学」が垣間見られます。まさにbragelonneさんにとっての、境界概念が形成されているようです。 多元宇宙論は科学と非科学の境界付近にある概念ですが、哲学的対象としても捉えられる事項で、狭義の哲学という意味においても「多元」という文字を排除することは困難なのではないでしょうか? さて、多元宇宙の概念は、(抽象数学概念に基づいて)「包含する」を前提としてレベルIからIVまで分類されるようですが、たとえそのレベルIVまでに留まったとしても、「それ以外(たとえばレベルV)」を想定して考えるということをします。結論で用いないにしても、思索過程で必要なものであるかぎり、「包含関係にないレベルV以上」は排除しえないわけです。 bragelonneさんの境界概念からすれば、論理的整合性のある結論としての「レベルIV」までで境界概念を形成し、抽象数学の範疇外、すなわち非論理的な「包含関係にないレベルV以上」は、対象外だとするということではないでしょうか? 私の想定している「広義の哲学」では、そういった「○○ではない」という否定神学的レベルも含まざるを得ないです。 なぜなら、「思索しようとする思い」の過程で生み出されたものだからです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 一つは例えば多元宇宙論のレベルIからIVというレベルで、「完全に相互作用・関連性が失われた、依存関係から自由な存在」です。  ☆ このように経験世界をあつかう場合に《元》を用いることにも 哲学としては 異議をとなえています。  ▼ (ヰキぺ:多元宇宙論) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%85%83%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96  (たげんうちゅうろん、Multiverse)とは、    複数の宇宙の存在を仮定する仮説である。  § 1 概要  多元宇宙 (multiverse, meta-universe or metaverse) は、仮説として可能性のある複数の宇宙の集合である。  多元宇宙はすべての存在を含む。これは、われわれが一貫して経験している歴史的な宇宙に加え、空間、時間、物質、およびエネルギーの全体、そして、それらを記述する物理法則および物理定数なども含まれる。  この語は1895年にアメリカの哲学者で心理学者のWilliam Jamesによって造られた。多元宇宙が含むそれぞれの宇宙は、平行宇宙 (parallel universes) と呼ばれることもある。  多元宇宙の構造、そこに含まれるそれぞれの宇宙の性質、およびそれら宇宙の間の関係は、考えている特定の多元宇宙仮説に依存する。  宇宙が一つでないと考える理由(多元宇宙が存在する意味)は仮説によってさまざまである。宇宙論、物理学、天文学、宗教、哲学、トランスパーソナル心理学およびフィクション、特にサイエンスフィクションとファンタジーにおいて、多元宇宙の仮説が立てられてきた。  ~~~~~~~~~~~  (1) ▼ 複数の宇宙の存在  ☆ というとき この《存在》はあくまで経験世界であることを前提としているはずです。ならば 《他には依存せず独立して存在する》の条件を満たしません。《独立》という要素です。  (2) つまり《複数》というように数えることのできる場合――つまり思考によって認識しうる場合―― それは 経験事象であることを物語ります。  たとえ相互に依存していなくても 独立した存在ではない。と考えられるからです。人間の認識の内におさまるゆえ 独立していない。  (3) すなわち  ▼  多元宇宙の構造、そこに含まれるそれぞれの宇宙の性質、およびそれら宇宙の間の関係は、考えている特定の多元宇宙仮説に依存する。  ☆ というように《経験合理性にもとづく経験思考》の対象であるという意味において 依存関係や相関関係あるいは《依存関係になく経験的に並立する〔無〕関係》にあるなら もろもろのモノゴトの内の一つひとつであると哲学は認識します。基本的に《元》は用いません。  (4) つまり  ★ もう一種類の存在、それは、ある種否定神学的な存在です。「はじめ」も「おわり」もない、というよりも、時間概念すら存在しないものです。  ☆ この場合に――ただし《否定神学》というのは よく知りませんが―― つまり時空間を超えた《非経験の場》として想定する場合に 哲学は《元》を用います。  (5) 文学的な表現を この場合の自然科学もが借用したということだと考えます。《多数宇宙》もしくは《多種宇宙》というほどの概念であるはずです。      *  (6) ★ ~~~~  テグマークの言を借りれば、抽象数学で記述不可能なレベルV多元宇宙に相当するといっていいでしょう。  「包含関係にない」存在です。あるいは、「経験事象の内に収まらない」存在です。  ~~~~~~  ☆ 同じことです。(3)が妥当します。  ★ 「包含関係にない」存在  ☆ であっても 思考や認識の対象であるから 経験事象です。  (7) ただしまた   ★ 「経験事象の内に収まらない」存在  ☆ これについては もし(4)の場合に当てはまるのなら それは 《非経験の場》として想定されたものとしてのみ――概念として――存在するものゆえ 《元》という言葉を当てはめます。    (8) 前項への註ですが 《非経験の場》は それを《想定された概念としてのみ存在する》と定義するのはマチガイです。そのように想定された場合 じつは その非経験の場は この経験世界を覆い包むという可能性がありうるからです。つまり《絶対・無限・不可変性》という・人間にとっては非知の領域だからです。《分かるか分からないかが分からない》。  (9) 言いかえると 非経験の場は 《わたし》の主観においては いかようにもその存在が――無と見る場合をふくめて――知覚したととなえたり描いたりすることができる。というふうに帰結される・なかなかやっかいな存在です。つまり 神のことです。  (10) ただしさらに微妙な問題に細かくふれるなら――触れなければならないと思われることには――  ★ 「経験事象の内に収まらない」  ☆ というとき その《おさまらない》ということが 経験事象として観測されたり実験などによって検証されたりするというのなら それは《非経験の場》という想定にはなりません。  《経験事象の内には収まらない》というかたちでその経験合理的な思考ないし認識の内に――つまり経験事象の内に――おさまっているからです。  (11) ★ 本質的には「総体・全体」という概念に対し「否定神学的な存在」です。  ☆ この《否定神学的な》という用語の意味が分かりません。おしえてください。  (12) ★ ~~~~~  さて、多元宇宙の概念は、・・・たとえそのレベルIVまでに留まったとしても、「それ以外(たとえばレベルV)」を想定して考えるということをします。結論で用いないにしても、思索過程で必要なものであるかぎり、「包含関係にないレベルV以上」は排除しえないわけです。  ~~~~~~~~~~  ☆ これは 《想定》する内容が違っています。つまり 《想定して〈考える〉》あるいは《〈思索〉過程で必要なものであるかぎり》と言っています。これは 経験事象の範囲内にあることを前提しているようです。明らかに《元》を――《広義の哲学》においても従わなければならない約束ごととして―― 用いることがらではありません。  (13) あくまで《経験世界》と《非経験の場》とを峻別してください。次のうたがいについても ですから すでにお応えしています。  ★ ~~~~  bragelonneさんの境界概念からすれば、論理的整合性のある結論としての「レベルIV」までで境界概念を形成し、抽象数学の範疇外、すなわち非論理的な「包含関係にないレベルV以上」は、対象外だとするということではないでしょうか?  ~~~~~~      (14) 次の言明についても 同じことです。《思索・思い》の問題は 経験事象に属し 《非経験の場》にかかわらないので《元》を使用しない。この原則です。  ★ ~~~  私の想定している「広義の哲学」では、そういった「○○ではない」という否定神学的レベルも含まざるを得ないです。  なぜなら、「思索しようとする思い」の過程で生み出されたものだからです。  ~~~~~    (15) 《否定神学》というのは 《「○○ではない」》と規定して《境界を置く》ことを言うのでしょうか? それはよく分かりません。何とも分かりません。  (16) わたしが哲学というときには 表現の自由をいかなる制約や約束事にもこだわらず最後まで追求するという意味での広義の文学を内包します。つまり 《文学》的表現としては 科学においても《元》を使用すると言っており そのことをも哲学は含みます。  ただし 哲学としては――広義においても狭義においても―― そのような《元》の使用はマチガイだと言っています。  (17) この《元》の用法は 取り決めあったなら 従うべきだと考えますが そこまでの強制を意図したものではありません。広義にも狭義にも哲学としてなら 《元》の使い方について確認しあっておくことは 大事だと思っている。いかがか? という質問です。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 否定神学  ☆ か肯定神学か知りませんが わたしの見解を――つまり《元》としての神についての見解を――明らかにしておくのがよいと考えました。誤解や無駄な議論を防ぎ 意志疎通をなめらかにしましょう。  ○ 三位一体なる神およびこの世界について  1. 神は 三つの位格(ペルソナ)が 絶対として 一体となった一つの本質(存在)である。  1-1. 《絶対》とは 人間にとってその存在が《分かるか分からないかが分からない》ところの《非経験の場》である。  2. 人は 一人ひとりの存在に 三つの行為能力が――相対的に・つまりは時間的な過程として―― 一体となった自然本性を持つ。  3. 三つの行為能力の――時間的な懸隔をともなった―― 一体性が すでに次元を別にしていて はなはだ不類似ながらいくらかは 神の三位一体に似ている。これが 《ひとは 神のかたちに似せて 造られた》(創世記1:27)の意味です。  4. 父と子と聖霊から成る神の三位一体の説明には 光の喩えが 用いられる。  ・《光源》が 父なるペルソナの神。  ・光源からの《発耀》が あたかも父から生まれた子なるペルソナの神。  ・光源および発耀から発出する《明るさ・暖かさ》が 父および子から発出する第三のペルソナである聖霊なる神。  5. 光源も発耀も明・暖も 光として 一体であるように 神の位格も 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊と 三者は 一体である。  6. その一体性というのは 《絶対》としてであるゆえ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神も 各個が各個と 各個は全体と 全体は各個と それぞれ 等しいというものである。  7. 無限は――絶対であるが―― それを仮りに分割すれば じつは分割しても その各部分はやはり 無限である。こういう想定である。  8. 人は 経験的な知識や知恵を 記憶します。心の体験や あるいは 魂の発動をも 記憶します。また 記憶する前から 精神の秩序が この《記憶》という行為能力には あると考えられる。  9. 記憶という宝庫から 人は もろもろのことを 《知解》します。あたかも記憶から生まれるというかのように。  10. 人の自然本性として備わる行為能力には さらに 三つ目がある。すでに 記憶するに際して あるいは そこからの知解を得るときに 何の問題についてか・またその問題のためにどういうことを知りたいか そういった主題や方法の意識をもって はたらく行為能力。これは 《意志》と呼ばれる。  11. ここで 早道をすれば 単純な類似関係として 《記憶》が父なる神に 《知解》が子なる神に 《意志》が聖霊なる神に それぞれ 比べられるという。  12. 意志は 意志行為として まづ社会にあって相手が存在している。相手との関係が具体化して交通し合うとなれば そこに方向性と向きとが 決まる。こういった関係性を 一般的な意味での《愛》と言う。  12-1. 方向性ないし志向性としての関係性は カカワリである。カカワリにおいて具体的にマジワリを持つとき 正負の向きが決まる。一般に好き嫌いである。この好悪ないし愛情および憎悪を全体として 一般的な《愛》に含める。愛の中身は 基礎としては意志である。  12-2. 神学としてなら 意志ないし愛は 善悪の彼岸というかのように愛憎を超えた内容としての愛を想定するムキがある。しかも これは――《一切衆生 悉有仏性》とも言うように―― 一般的な常識となっているらしい。  13. つまり 意志は 個なる〔社会的な〕独立存在として 自由意志であり ひととの関係性において 愛である。  13-1. 好き嫌いあるいは 愛する・憎む・あるいは両者を超える いづれをえらぶにも 人間の意志は その自由をうったえている。という自然本性。  13-2. 聖霊は 父と子から発出する明るさや暖かさである。この《人の意志》と《神の位格としての聖霊》との類似は その内実が 《愛》である。  14. 意志=愛は 家族にあって 愛。組織にあって 経営。社会にあって 自治・共同自治。  15. 社会全体としては 記憶が 法秩序。知解は 経済。意志は 政治。  16. 三権分立としては 記憶が 司法。知解は 立法。意志が 行政。つまりは 三権分立も 三権の分業かつ協業としての一体性を持つと考えられる。つまり 《三位一体なる神の似像(にすがた)》であると思われる。  17. このような人間と社会の成り立ち つまりは全体として世界の構造 これを見立てるところの神学(ないし信仰= 非思考の庭)を表わしました。  18. これらを図示します。  ○ (三位一体説なる神学とその世界観) ~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     19. けっきょく哲学としては――広義にも狭義にも―― 《神》の次元についてのみ《元》という用語を用いる。これが 原則であるのではないかと問うています。  20. 神が《善》であるかどうか 人間にはほんとうのところ 分かりませんが 少なくとも神について《善悪二元論》が成り立つという見解が従来出されて来たそのことについて それは ないだろうと言えるはずです。  21. このようであるならば 人間とヒグマとで《二元論》を構成するというのは その表現がいかにも愛嬌であるけれども それは哲学としては 愛嬌だけのものである。こう結論づけられましょう。

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