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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.14

。。。なるほど。。。 「何か一つに決まる」というのを(bragelonneさんにとっての)哲学的 (立場によって)「様々にあり得る」というのを文学的 と表現しておられるわけですね? (立場によって)「様々にあり得る」というのも哲学的だとする思考があるようです。。。 関心相関性について。。。構造構成主義に関する私見。。。2。。。 http://jinen.exblog.jp/7155100 >>> 構造構成主義では、竹田氏の身体・欲望・関心相関性などという概念に相当するものとして、関心相関性という用語を用いている。この、関心相関性という概念は、「物事(真実)に対して相関的に(真理を含む)概念・構造※が、たち現れる」ということである。 ※この場合の「たち現れる概念・構造」は、まさに私的概念であるところの「知的切断面」に相当します。また、たち現れ方は、まさに「多義図形的」だといえます。 関心相関性は、ややもすれば、「関心を抱くことで(原因)、概念が形成される(結果)」といった捉え方に陥ってしまいがちになるが、そうであれば、「関心因果性」という言葉になってしまうだろう。 ※07/07/21 04:40補足 さらにいえば、主観・客観的関係の全てを因果論として捉えるならば、通常は、主体側の能動性・恣意性(原因)が意識・認識を決定している(結果)であろうが、前野氏の受動意識仮説は、物質側・環境側(原因)が意識を決定している(結果)という理論になるであろう。 07/07/22 05:00追加 私的には両者共に正しく、両者共に正しくない、というより、因果関係として捉えるべきものではないというのが本来的であろうと考える。 あえて相関性を用いている真意については、西條氏と直接mixiにてやり取りさせていただいたが、以下の通りだと理解している。 関心を抱く主体(わたし)と関心そのもの(情的方向性)と(立ち現れる)概念・構造・知的切断面が、同時に、まさに「相関的」に、(誤解を覚悟で、さらに突っ込んで言えば)非因果的に共時的に、生じる。 ということである。 このことは、主観側の側面に立てば、まさに、当ブログでの「わたし」とその「境界」の動的な変化そのものであり、切り分けることが不可能な主観・客観を結ぶ関係の側面に立てば、まさに、ユング・パウリの対話にても出てくるところの非因果的連関・共時性概念に相当するであろうし、客観側の側面に立てば、ゼノンのパラドックスの私的見解(知の限界に関するパラドックス)や、多義図形の概念(知的切断)そのものになるであろう。 ※動的な境界に関するブログ内既投稿へのリンク http://jinen.exblog.jp/2066753 http://jinen.exblog.jp/2050632 ※多義図形に関するブログ内既投稿へのリンク http://jinen.exblog.jp/1636093 ※情・知の関係(境界および多義図形の観点から見た私的概念) 07/07/22 05:00リンク追加 http://jinen.exblog.jp/6119786 ※ゼノンのパラドックスに対する私見へのリンク http://jinen.exblog.jp/593874 ※非因果的概念に関するブログ内既投稿へのリンク http://jinen.exblog.jp/4044620 http://jinen.exblog.jp/5140052 http://jinen.exblog.jp/4113042 ============================== ※07/07/22 06:20 重大なミスを発見、取消線で消去し、書き換えました。(紫部分) --- 該当部分削除しました。(08/02/24) ※07/07/22 06:25 関心相関性については、「構造構成主義とは何か」のp.75-76にてまとめられている。 本来的には「志向相関性」であるが、研究という営みにおいては、関心相関性という言葉の方が扱いやすいからこれを用いるとある。 また、この「関心相関性」に関する上記ページ以降の数ページに渡り、(おそらく人間科学ないし心理学分野内での)批判に対する応答が述べられているが、結局の所、主観・客観問題に直結した問題を、構造構成主義とそれに対する批判という構造的側面から、再度記述し直している(知的に切断し直している、視点を変えた概念として捉え直している)とも言える部分である。 ※07/07/22 07:20 ここでいうところの「因果的、非因果的」は、現行、心脳問題、あるいは、チャマーズのハードプロブレムと呼ばれる問題に直結しています。 1.因果的 1-1.物質的側面からの精神的側面発生の可能性(物質側を原因として精神側を結果とみなす) 外部刺激や脳の電位に代表される物質的側面での変化があるからこそ、意識に代表される「こころ」が生まれる。 1-2.精神的側面内部(脳内部)での因果性(こころの恣意性・能動性と受動性) 前野氏の受動意識仮説:脳内で決定されたことが、意識として認識される。 1-3.非科学的な因果関係 物質と精神とが(遠隔的な)相互作用を行いうる。 2.非因果的 2-1.広義の非因果的(捉え方次第で、非科学的になりやすい領域) 物質と精神との間に関連性がある。 2-2.狭義の非因果的(概念形成に関与しうる項目間の関連性に限定) 構造構成主義や、上述している主観・客観問題に相当。 物事が因果的であるか、非因果的(相関的)であるかといった捉え方が、それぞれ可能(内部無矛盾な構造として構築可能)である場合、因果的・非因果的といったことは交換可能(それぞれの立場で構成可能)といえます。 このことは、対象を概念に限定した場合、「因果的・非因果的という考え方の両方が正しい(=概念・真理≠真実)」といった捉え方自体、構造構成主義的、あるいは、竹田氏の現象学的な捉え方、ないし、(私的な)多義図形・知的切断的な捉え方として、「あり」だということを意味しています。 <<<

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  「何か一つに決まる」というのを(bragelonneさんにとっての)哲学的  (立場によって)「様々にあり得る」というのを文学的  と表現しておられるわけですね?  ~~~~~~  ☆ ちがいます。  ○ 《他の何ものにも依存せず独立して存在するものを〈元〉と呼ぶ》。すなわち これが 広義の元のことですが それ以外に狭義の元があるとしても それを用いても けっきょく哲学においては 意味がない。  こう言っています。  ★ (立場によって)「様々にあり得る」というのも哲学的だとする思考があるようです。。。  ☆ ということと そのとき《元》という言葉を用いるかどうかは 別の問題です。二項対立や双対と言う用語でじゅうぶんな場合には 《さまざまにあり得る》ことを 二元論とか多元論とかとは 哲学では言わない。と言っています。  世界の基軸となる国が 複数あって二極的とか多極的とか言うとき ジャーナリズムでは多元論といった言い方をするかも知れません。ですが それは 哲学にとって意味がありません。《依存関係から自由な存在》を言っているのではないからです。  ★ 関心相関性という概念は、「物事(真実)に対して相関的に(真理を含む)概念・構造※が、たち現れる」ということである。  ☆ この《真理》という言葉は あくまで経験世界における《事実》か《真実》のことを言っています。つまり 相対的な妥当性のあるものごとのことです。相互依存関係にある事象です。  哲学としては そのものごとに《元》を使わない。こういうことです。使っても意味がないからです。強めのための修辞にしか過ぎない。その意味で文学だと言っています。  ★ 前野氏の受動意識仮説は、物質側・環境側(原因)が意識を決定している(結果)という理論になるであろう。  ☆ この主題は すでにやり取り済みです。意志がはたらいたけれども そのときにはまだ意識に上がっていない。そしてそのあと 意識に上がる。という経過をたどるというのみです。  《物質側・環境側(原因)》だけではなく すでに同時に人間の側の意志が――まだ意識されずに――はたらいているという側面を見落としています。  ★ 因果関係として捉えるべきものではないというのが本来的であろうと考える。  ★ (誤解を覚悟で、さらに突っ込んで言えば)非因果的に共時的に、生じる。  ★ 非因果的連関  ★ 非因果的(相関的)  ☆ これらの《非因果的》というのは 中身が明らかではありません。たとえ明らかではなくても 分かっていることは すべて 経験事象の内におさまるということです。  《物と心 あるいは 身体と精神》 これらの双対について たしかに一時期もしくは一部において 二元論という呼び方をしたかも知れません。が あくまで経験的な事象をふたつ取り上げて 狭義の二元だと言っているのみです。  実質的には《ふたつのものごとを取り上げた》と言うに過ぎないのに それら二つのものごとの間にはきわめて強い対立が起きているという事態を強めて言うために この元という言葉を用いているのみです。  相互依存の関係にないという事態が その中にありますか?

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