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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.11

「元」という言葉で、最もよく使われているのが「次元」です。 3次元空間という概念は、空間上の点を表現するのに、それぞれ独立した3つの要素(座標)が必要だということです。 3次元の空間を1次元の線や2次元の面のみで表すことは不可能です。(限定された空間で、無限分割不可能とすれば現すことも可能なのですが、ここでは、一般的な空間を扱うので、対象外としておきます) 「空間」という「一つの概念」(一元)の、「位置・座標」という性質については、「ひとつやふたつの元」では表すことができず「3つの元」が必要だということです。 「全宇宙」ないし「全体」あるいは「世界」という概念(一元)の内部において、 たとえば時空間という性質に目を向ければ「4次元」という概念で捉えられ、 物質という概念で捉えれば、精神的なものを物質のみで表すことができるのかどうか?という疑義が生じる場合には「心身二元論」や「物質一元論」という概念で捉えられるでしょう。 生物という概念で捉えるなら、生物として表しえない無生物という概念が生じるでしょう。(二元論的) 人間という概念を考えるなら、ヒグマに限らず、様々な生命体の種という概念が生じるでしょう。(多元論的) 「独立したアイデンティティを有する人」という概念で捉えるなら、(別の人で代用不可能、表現不可能な)独立した「個人」という概念が生じることでしょう。(多元論的) 一つの世界が何らかの観点で捉えられるとき、そうして、その観点を「ひとつのもの」で表しうるのであれば、「一元論的」でしょうし、もうひとつ必要なら(一つのみで表せない別のものがある場合)「二元論的」でしょう。(本来、繋がり合っていて、切り離せないにもかかわらず)独立した「個」という概念で捉えるなら「多元論的」でしょう。 人とヒグマという視点において、ヒグマを人によって表すことができるというのであれば、一元論的だということです。早い話、人間によってヒグマを作ることができのかどうか?ということと同じです。 個人という概念の場合、二人の個人から多数の個人を生み出すことができるので、多元論的ではなく二元論(ないし一元論)的だといえるかもしれませんが、生命体としての「個人」を誕生させ育むには、周囲の環境(食物・生命体・他者等)が必要不可欠であり、多元的でありつつ全体との関連性から一元的でもあるわけです。 このことについては、No.8,9にてamenhotep2000さんが提示された方向性を有する円という概念は、まさに鋭いところを突いておられると思います。 このあたりは、私が「移動する境界」という概念で一神教と多神教の概念を考えたときの状況に重なる部分と思われます。 「私」と「境界」と「宗教」について。。。 (補遺)。。。 http://jinen.exblog.jp/2157814/

bragelonne
質問者

お礼

 でしたら    ○ 《元》を 広義の元 および 狭義の元 これらふたつに区分して 使い分けて用いる。  とよいでしょう。  そういう問題ですし それだけの問題です。よ。  じねんさん ご回答をありがとうございます。どうですか?    ★ ~~~~  「全宇宙」ないし「全体」あるいは「世界」という概念(一元)の内部において、  ・・・(中略)・・・  物質という概念で捉えれば、精神的なものを物質のみで表すことができるのかどうか? という疑義が生じる場合には「心身二元論」や「物質一元論」という概念で捉えられるでしょう。  ~~~~~~  ☆ 《全宇宙の一元論》そしてこれにそのまま《次元》として一対一に対応するところの《物質一元論》つまり唯物論 このような使用が 広義の《元》です。  《心身二元論》という場合は 狭義の元です。  あるいはまた  ★  「私」と「境界」と「宗教」について。。。 (補遺)。。。  ☆ の記述に関連して言えば:    《多神教》というときの《神》は 広義の一元論としての唯一神体系の中における狭義の神のことです。いわば 広義の一元(つまり全体として)の神にとって分身というような位置づけになりましょう。  つまり そういう表現の問題におさまります。  ですから 多神の中の一神を自分の世界観とする場合 その場合にも世の中には その同じ《多神中の一神》論を信奉する人のほかに 唯一神を信じる人もいます。これらをまとめて全体を 広義の一元論のもとに捉える全体観としての〔一元なる〕神を想定することも可能です。  このことは 規定されているところの《一神教的方向性》の世界観の場合にも 適用されます。世の中には 一神教を奉じる人しかいないわけではないからです。  しかも 仮りにもし世の中がぜんぶ一神教を奉じる人ばかりになったとした場合――そのような事例が 図示されていますが―― それでも 決して・ほんとうは その唯一神体制として人びとが束ねられるということは ただの現象として起こるのみであって 世界観は 理論として別にあり得ます。  なぜなら 神は 広義にしろ狭義にしろ すでにつねに《ひとりの人 すなわち 〈わたし〉》の神でしかないからです。いかに同じ神の名のもとにあつまる人びとであっても 信教や良心はそのような《組織宗教の唯一神体制》によって合一化されるということは あり得ません。ただただ行動を同じくすることを余儀なくされているという現象だけの問題です。  いづれにしましても このように世界を捉える場合には 神を《非経験の場》と想定すればよいのです。  《このわたし》の神でありつつしかも同時に《全体》としての神でありうるというそのわけは この《非経験の場》なる神が 《経験世界における因果関係から自由な場》という想定であるからです。  これは別様に言い表わすなら 《人間にとってその経験合理性にもとづく思考によっては分かるか分からないかが分からない場》となります。  この広義の一元論のもとに 狭義の神――すなわち 全体の神の分身――や いろんなものごとに関する狭義の元がおさめられます。  

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