• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.5

>>> No.3 お礼欄 ★ ~~~~  人間もヒグマも元来、大自然から生まれ、一つの世界の内部で生きています。  完全に切り離されていないにも関らず、境界を保つ必要があります。  一つの世界にもかかわらず、二つの世界。。。  ~~~~~~  ☆ この《二つの世界》というのは 文学としての表現であって 世界観ないし哲学の用語として出されているものではない。と言えるのではないでしょうか? またそう言わなければならないのだと。  《境界を持つ》ことは 《原理としての成り立ち》の問題ではない。からです。 <<< リンク先をご覧になりましたでしょうか? 「ヒグマの死」は、決して「文学としての表現」という問題ではありません。まさに「人間とヒグマ」の世界観の問題です。そうして、まさに両者を含む「哲学」の問題です。 >>> 知床財団キャンペーン「エサやりがクマを殺す」…注意喚起 表現強く  http://hokkaido.yomiuri.co.jp/shiretoko/shiretoko_article/2012082801_article.htm 「エサやりがクマを殺す」。知床財団(事務局・斜里町)は、世界自然遺産の知床で、刺激的な文言と写真を使って観光客らにヒグマに餌を与えないよう訴えるキャンペーンを始めた。野生動物への人間の過剰な干渉や善意が、野生のクマを死に追いやる現実を強く訴え、観光客らに自制を促す戦略だ。  クマは人の食べ物の味を覚えると、ごみ置き場を荒らしたり、キャンプ場や車に寄ってきたりする。地元住民や観光客に危険が及ぶと判断されると、クマが駆除される場合がある。  同財団はこれまで、クマと人との遭遇による事故を避けるため、人前に現れたクマに、花火で大きな音を立てたり、ゴム弾を撃って痛みを覚えさせたりして、クマが人間を嫌うように学習させてきた。  その一方で以前から、知床を訪れた観光客が、人里や道路に現れたクマに車中から餌をやる迷惑行為の情報が、同財団に寄せられていた。さらに今年はクマの出没数が多く、人がクマに餌やりをする場面が、初めて撮影された。8月には、不法投棄された生ごみをあさるクマの姿を、同財団の職員が確認した。  このため財団は、野生動物とふれあおうとして餌をやるなどの行為は、個人のマナーの悪さという問題にとどまらず「日本人として一般的な行為と再認識した」。これまでも看板などで自制を促してきたが、「人間側への強い対応も必要で、ショッキングな表現で訴えるしかない」と、キャンペーンを張ることを決めた。  同財団は8月下旬、クマへの餌やりをやめるよう訴える縦約10センチ、横約15センチのカード1万5000枚を印刷した。カードには、実際に駆除されたクマの写真と、ソーセージを与えられた知床のクマが小学校に近づき、射殺された実話などを掲載した。カードは、道の駅や知床自然センターなどの施設のトイレの個室に貼るほか、観光案内の窓口などでも配布している。 <<< 上記サイトで紹介されているカードを添付しておきます。。。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ちゃんと読んでいますよ。  問題は 《元》を使うかどうかです。  そしてそれは 質問者の言い分としては   ☆☆(No.3お礼欄) 《境界を持つ》ことは〔――それによって 《二つの世界》が発生したとしてもそれらの世界についての――〕《原理としての成り立ち》の問題ではない。から  《元》は使わないのだというものです。だから このように《人と熊とのあいだで ふたつの世界がある》と言っても それは《文学としての表現》であると言いました。  ★ 「ヒグマの死」は、決して「文学としての表現」という問題ではありません。  ☆ ヒグマやその生存あるいはそれに関連して人びとやその生活 これは 文学として表現されうるだけではなく それら自体において おおきな現実の問題であることに変わりはありません。ですが 話の筋は 丸きり違っています。よね?  ★ まさに「人間とヒグマ」の世界観の問題です。そうして、まさに両者を含む「哲学」の問題です。  ☆ 人間には人間の世界があり ヒグマにはヒグマの世界がある。ゆえに 両者によって成り立つ大きな世界は 二元論として捉えられる。――ということにはなりません。野生のヒグマの生存ないしその生態をめぐっての人間とその社会のあり方 という問題です。  いくら哲学として考えても ここに《二元論》は成り立ちません。世界の成り立つ原理を扱うのではないからです。

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