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年貢は地主だけですか、小作人は年貢を収めてましたか

江戸時代の藩に収める年貢は地主だけですか、小作農家も年貢を収めていましたか 江戸時代の農家の資産や課税のことが理解できていません。  (1) 農地・土地の所有者に対して課税でしょうか、 小作人は、小作料を農地・土地の所有者へ収めるだけでしょうか ? (2) 農産物などの生産物に対しての課税でしょうか、生産物対象ならば小作農家も直接納税していたのですか ? (3)  漁業や水産物の場合は誰が納税していたのでしょうか ? 出来ましたら鎌倉時代の徴税の概略も御指導をよろしくお願いいたします。

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  • mekuriya
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回答No.5

江戸時代に資産、課税、所有という概念は存在しません。地主、小作人という疑念も存在しません。 明治2年になされた版籍奉還の意味を理解してください。版籍奉還はそれまで大名が預かっていた領地と領民を本来の所有者である天皇に返還するという儀式でした。じゃ、今までなんだったの?というと、大名は天皇の委託を受けて領地・領民の経営を任されていただけだという理論なのです。従来の地方分権体制を改めて中央集権化させる為に、そういう理論で大名が担っていた地方行政を明治政府の直轄に移行させたわけです。 じゃあ年貢とは何か。大名から見れば領地・領民の経営に対する報酬といったことです。百姓から見れば土地の使用料といったことです。しかし大名は百姓一人一人と個別に契約していたわけではありません。実際は村ごとに契約していました。これを村請制という。村が丸ごと下請け企業みたいなものです。村を代表して、庄屋が年貢をまとめて藩の役人に納めるのです。だから個人という単位が存在しないのです。村ごとに年貢が集まるかどうかがすべてです。村の中で、村民がどう年貢を分担するかは、庄屋が決めることであって、領主は全く関知しません。では村民は皆平等だったかというとそうではない。自立的・自主的に農業を経営できる階層と、従属的・他律的にしか農業に従事しない階層に分かれていました。わかりやすくいえば、他人に適切な指示を出せる能力のある百姓と、他人の指示を受けないと何をしてよいかわからない百姓の二極分化ということです。前者が地主、後者が小作人と現代人からは理解されています。庄屋にすれば、とにかく年貢が集まることが絶対的に必要であり、そのためには村全体で所定の収穫が挙らないことにはしょうがない。だから所有権ではないのです。百姓が持っていたのは耕作権だけなのです。年貢を分担する見返りに耕作権を得ていた百姓を本百姓といいます。そうでない小作人は、年貢も分担してないし、耕作権も持ちません。労務を提供し、報酬を得ていただけです。経営者でなくて、労働者に過ぎないわけです。ただし、ここではあくまで現代との違いを強調するために簡略化して説明していることを承知してください。全国に何万も存在した村がすべて同じシステムだったわけではない。年貢をどう分担して百姓に納めさせるかは、村の中で解決すべき課題であり、領主は関知しなかったからです。 百姓は土地を所有していたわけではないことの証拠に、徳川幕府は田畑永代売買禁止令や田畑勝手作禁止令を発布しました。田畑を売ってはいけない。米以外作付けしてはいけないというのです。 田畑は天皇のものだ。百姓には貸し出しているだけだという名目で、そういう法令が正当化されたわけです。 このように定義が曖昧なまま、所有という言葉を使ってしまうと歴史は無茶苦茶になります。そういう近代的な概念は、長い歴史を経て、段階的に確立されたものだからです。 土地の所有者は天皇か領主か百姓か。江戸時代は天皇だったのです。ただし年貢は天皇には入らない。領地・領民経営の報酬として、年貢は大名が得ていた。 領地・領民経営とは何か。それが江戸時代の地方行政だったのです。 では農民以外からは何もとっていなかったのか。原則からいうとそうなんだけど、実際は大名は様々な名目で年貢に相当する金銭を徴収していました。決まったシステムがあったわけではないが、それぞれの大名がおのれの才覚で徴税していたのです。例えば、港湾の使用料とか、商権特許料といった内容で、運上金、冥加金と呼ばれたシステムです。 それは徳川幕府が構築したものではない。個々の大名が藩財政の改善のための増収策として、創意工夫で発案したものであり、それが全国に広まっていった。つまり他の大名も真似するようになったということです。 といったあたりでとりあえず筆を置きます。

iki-sima
質問者

お礼

詳しい御指導ありがとうございます。  不勉強の私には初めての言葉もでてきて、これからは市町村史などの内容が少し判るようになる糸口になると思います。 ありがとうございました。

iki-sima
質問者

補足

お礼の欄を先に書き込みましたのでこの欄に書き込みます。 Mekuriyaさんには、回答の中にありました、 『このように定義が曖昧なまま、 言葉を使ってしまうと歴史は無茶苦茶になります。そういう近代的な概念は、長い歴史を経て、段階的に確立されたものだからです』 この考え方を資料を見るさいに忘れないようにします。 ベストアンサーは一件しか選ぶことができない規則です、次の質問のさいにベストアンサーとさせてください。 詳しい御指導ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.8

#7の冒頭で番号を間違えてしまいました。 #5ではなく、#6でした。 失礼しました。

  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.7

#5(過日の#1)です。 「高」は領主が認定した生産量と言ってよいのですが、江戸初期の数値であることに注意してください。当時は実際の生産量と「高」はほぼ一致しており、その約2割を年貢として納めていたと思われます。 時代が進むと生産量は増加し、領主はやはり生産量の約2割を納めさせますが、「高」の数値は変わらないため「高」に対する年貢の割合は3割、4割・・・と高くなります。生産量がものすごく増えた村では10割を超えることもありえました(小生の生まれた所は8割でした)。 一般に「年貢は生産量の4割」といわれるのですが、江戸初期の生産量と幕末の年貢という異なった時代の数値から計算しているので統計にも何にもなっていない場合が多いようです。 田畑で何を作っても、どんなに高収入を得ても、何も作らなくても年貢の額は変わりません(麦に年貢を課す藩もありましたが・・)。当然農民は高収入が得られる作物を作ろうとします。二毛作が可能ならそうします。当地備中では冬には麦を作るのが一般的でしたし、春先には菜種、夏は綿やサトウキビをよく作りました。いずれも高価で取引されるものでした。 綿は魚肥など高価な肥料を大量に使いますが、それを差し引いても米の1.5倍、一説には2倍の収入があったといわれています。綿は日照に弱いというリスクがありましたし、作りすぎたために食糧や年貢に使う米が不足する恐れもあって領主はしばしば制限令を出しています。 以上、ご参考になれば。

iki-sima
質問者

お礼

度々詳しい御指導ありがとうございます。  不勉強の私には初めての言葉もでてきて、これからは市町村史などの内容が少し判るようになる糸口になると思います。 早速 『ウィキペディア』などで 年貢 高 貫高制 永高なども閲覧しました。 ありがとうございました。

  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.6

先日も書きましたが、江戸時代の年貢は原則としては土地(田、畑、屋敷)に対する固定資産税です。 したがって土地の所有者が納めます。小作地については小作料を地主に納め、地主はその中から年貢を納めます。 年貢の額は生産額の4~6割との説がありますが、生産額が基準ではなく「高」が基準です。 実際の生産量は「高」より相当に多く、しかも「高」の数値は夏の生産量(具体的には米)だけから決定され冬の生産量は含まれていません。そのため実際の生産量に対する負担は10~20%程度です。 領主は農民個人ではなく村に対し一括して納入を命じます。不足があると村全体が罰せられます。村の庄屋は土地を所有する人(村外の地主もいる)に「高」に応じて割り振るわけです。 農民は年貢以外に村を維持する経費(道路の修繕費や庄屋の事務経費など)も負担しました。その方法は村によって異なるようですが、年貢と同様に土地を有する者がその割合に応じて負担する場合が多かったようです。なお領主は川の堤防を作る等の大工事以外では村の経費を負担しません。 米以外のものについては地域や産物によって千差万別だったようではっきりしません。地方史等の史料で具体的なことを調べていただきたいと思いますが、以下は小生が調べた一例です。普遍的なものでないであろうことはお断りしておきます。 塩を作っている村に対しては一定割合で「高」(つまり米)に換算して通常の年貢と同様の扱いをしています。つまり村高を基に年貢額(米)を決め塩に換算して納める。 漁業は村に一定の金額を納めさせています。一定海域での漁業権を認める性格のもののようです。あるいは漁船1隻あたりいくらかの金を納めさせたりしています。 綿などの特産品は領主指定の商人を通させてその商人から一定金額を納めさせたようです。あるいは座(組合)を作らせて一定額の金を納めさせました。独占権を認めるためのもののようです。 領主は大商人に対してはしばしば寄付を要求しています。 申しわけありませんが鎌倉時代のことはわかりません。

iki-sima
質問者

補足

詳しい御指導ありがとうございます。 < 高 >は、その田畑の「公称の生産量・収穫量」でしょうか、二毛作や生産方法を工夫すれば税・年貢の負担が軽くなると理解して宜しいでしょうか。 「先日も書きましたが」は、 この質問のNo1からNo5の方でなくて、先日似た質問をしましたさいのNo1の回答者さんでしょうか。 先日の答えは単語が少し見れただけで全文は何度も試しますが見れませんでしたのでこの様な質問をいたしました。  御指導ありがとうございます。 

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E8%AB%8B http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%B4%8D 1)建前では 耕作者=所有者=納税者 だけど、実態としては、村単位で納税 じゃぁ村の中ではどうなっていたか? 小作人は地主へ、地主(≒本百姓)がまとめて納税 2)米の二重性 米は生産物でもあり、貨幣代替物でもあった。全国的なコメ市場が作られていたので、換金性が高い農産物が米ということになります。 菜種油など換金農産物が主生産で、コメ市場が近くにあった、大坂あたりの農家では、「米を買って、米で納税する」なんてところもあった。 3)これも村請なので、村の代表(≒網元)だったりがしていた

iki-sima
質問者

お礼

詳しい御指導ありがとうございます。  不勉強の私には初めての言葉もでてきました。  締切はもう少し先にさせてください。ありがとうございました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3044)
回答No.3

1土地に対してです。収めるのは名主、名主は小作料を小作人からとりたてそこから年貢を払います。 2これはケースバイケースです。基本的に海産物の場合まず漁獲量の補足がほとんど藩側はできません。 そこで多くの場合は、船のサイズに応じて銭でいくらと税を掛けます。 また半農半漁の村の場合、漁のほうは税をとりにくいので、農業の方だけ8割とかとれるだけ年貢を取るケースもあります。 戦国時代・江戸時代を通して(いつの時代もですが)、基本的に徴税しやすいのは農民です。 漁師や商人は商売道具を持って逃げる可能性がありますが農民は土地から逃げられません。 そのためもっとも徴税が過酷なのは農民相手です。 3船主です。

iki-sima
質問者

お礼

詳しい御指導ありがとうございます。  不勉強の私には初めての言葉もでてきました。  締切はもう少し先にさせてください。ありがとうございました。

回答No.2

農地・土地の所有権、年貢について 1.領地内の人民(家臣・農・工・商)も含めて、全てのものは基本的に領主=大名の隷属民であり、所有物でした。農地・土地も所有権は領主にあり、例外として社寺などに認められた寺領や社領がありました。社寺の代表者は、事実上領主に相当し、領内を支配・統制しました。人民の所有物としては、日常生活に必要な小さな家や身の回り品程度しかありませんでした。従って、地主と言う言葉さえ無かったのです。 大名は年貢を取り立てる手段として、村々の有力者を選んで名主とし、村ごとの年貢の取り立てに責任を負わせました。その分、一般の農民に比べて幾分の優遇をしています。名主は村の農民が納める年貢の中から、幾分かを手数料として取得出来ました。年貢は収穫量の4~6割程度で、現物納が基本でした。名主にはある程度の自作農地が認められ、その中から小作に回すこともありました。その場合の小作農民がいわゆる『水呑百姓』です。 農民の中には『持高百姓』も居て、認められた農地を所有権に近い形で自作を許されました。その農地の一部を小作に出すこともあり、名主と同様の責任を負い、権利を委ねられました。 これらのことは古代社会(例えば班田制や荘園制など)の名残で、名主や持高百姓、社寺領なども歴史的な経緯の中での制度や家格の残存形態です。 2.江戸時代初期までは、収穫量に対する年貢高の考えが普通でしたが、農耕地面積に対する課税的年貢定量制に移行する傾向が見られます。この場合、豊作の年は良いとして、不作の年には農民の手元には食料が残らず、度々飢饉に襲われました。年貢減免の嘆願などから、百姓一揆に発展した事例も数多く記録されています。 3.農業以外の産品や商業利得には、領主の裁量で納税額が決められ、ほとんどは金納でした。漁業ではいわゆる『網元』や『座』の責任者が納税を命ぜられました。 商人に対しては店舗の間口の広さに対しての課税が一般的でした。他に、裕福な百姓などには、宅地に対する課税も行われました。 明治になって不動産の登記制度など、土地の所有権を巡っても急激な変化があり、混乱も多発しました。それまで、農民の薪採取や家屋修繕に必要な用材などのために解放されていた山林も、勝手に自分の所有物として登記してしまう者が居たり、土地を巡っても同様の事件が多発しました。今日でも『入会権』問題が各地に残されています。利水権、漁業権も残存物の一部です。その一方、皇室御料地は、古代社会さながらの形で確保されました。 鎌倉時代は、古代貴族社会から武家政治への移行期で、しかも地方豪族や小大名の覇権争いの時代ですから、いわば戦国時代への入り口にもあたり、めまぐるしい変化の時代ですから、簡単には述べられません。 今日の日本についても、古代社会からの連綿とした引き続きの部分と、戦後の現憲法下で急変した権利義務・制度があり、定着するにはかなりの期間を要しました。 歴史を学ぶ場合、基本的な変化が何故、どのように、誰の力が働いて起きたかを知ることが大切ただと思います。

iki-sima
質問者

お礼

詳しい御指導ありがとうございます。    地主という言葉さえなかった。   社領 寺領の存在もたいへん興味があります。 不勉強の私には初めての言葉もでてきました。  締切はもう少し先にさせてください。ありがとうございました。

noname#159030
noname#159030
回答No.1

年貢というのは、その地で取れる作物や水産物などから税として幕府が請求する税金です。 よって小作人は地主に小作米を納め、地主は小作米から年貢を納めていたのです。 大体、農業が出来ない地方では小作人はいません。 農業が不可能な場合は生産物を納め、幕府に行くというやりかたをとっていたと思われます。 だから生産物は直接納税していたんでしょう。 水産物も生産物としてみるので同じだと。 鎌倉時代は寺による徴税や地頭や守護による徴税・朝廷による徴税も不定期であったという。 京都の土倉は寺の権力が強かったから徴税ができたんだね。

iki-sima
質問者

お礼

詳しい御指導ありがとうございます。  不勉強の私には初めての言葉もでてきました。  締切はもう少し先にさせてください。ありがとうございました。

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