• 締切済み

敵か味方かそれともなんなのか

ちょっと意味不明なことがありました。ので困惑しています。敵に塩を送りつつ攻撃する人が居たとして目的がわかりませんし… なんか私はどのみち悲惨なことにしかならなそうです。 なんなんだろうね本当に。私は病気になってまで誰かの暇つぶしに付き合っていただけなのかもね。 確かなことはわかりませんけどね。 友のために死ぬことこそ愛である ヨハネ福音書 うろ覚え。

みんなの回答

回答No.3

どうも質問者さんには多少被害妄想があるようです。 よほどのことがなければ他人に対してそこまで関心はありません。 他人のことは気にせず治療に専念しましょう。 癌や精神疾患は1年や2年で完治しないことも多いですよ。

yukiyama60
質問者

お礼

まあ争う必要はないはずなんです。 無意味な争いはやめましょう それだけです

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • sakura-333
  • ベストアンサー率10% (934/8798)
回答No.2

ここに書かれているだけではよくわかりませんが、まぁ複雑な人間の感情なり人間関係なのはわかります。 が、どちらにもいい顔をするお調子者か、単に強い者になびく裏切り者、場合によっては揉めているのを楽しんでいる野次馬って事もありそうですけど・・本当に友なんでしょうか? ただの生け贄にならない事を祈ります。

yukiyama60
質問者

お礼

誰が考えたことかはわかりませんが… 少なくとも私のパソコンを乗っ取ったやつがいるはずなんです。 それ以外のことはわかりません。 知らない方が幸せかもしれないし。 仮に味方が敵だったとしてももう私にはどうしようもないし。病気だ金欠だってさんざんわめいたし。心の支えもなくなっりして。 泣けと言われて僕は笑った♪ってとこですかね。愛想笑いか無気力笑いかしりませんが。 ギャンブルに例える書き込みも散見しますがまさにもはやひくこともできなくなった泥沼なんでしょうな…

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

武士道です。

yukiyama60
質問者

お礼

なんのどのあたりが武士道なんですか? 説明願います

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 心中自殺なら天国に行けますか?

    キリスト教では,自殺した人は地獄に落ちることになっていると思います. 一方,聖書には 友のために命を捨てる行為を賞賛する記述があります. 「友のために自分の命を捨てること,これ以上に大きな愛は無い.」ヨハネ福音書15:13, 「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました.そのことによって私たちは愛を知りました.だから,私たちも兄弟のために命を捨てるべきです.」ヨハネの手紙一3:16など この世での苦しみに耐えかねた二人が お互いのためを思いあって心中自殺した場合, 二人は天国に行くのでしょうか. それとも自殺の罪で地獄に落とされてしまうのでしょうか.

  • 敵の敵は味方か?

    敵の敵は味方か?。 中国、北朝鮮の敵は日本、日本の共産党や社民党の敵は自民党で敵の敵は 味方だ。という理論でやっていたら、朴槿恵大統領の談話のように残念な結果 になると思うのだが。 また、在日米軍を引き上げるトランプ次期大統領は沖縄の住民の味方だ。 というのも変だ。 こんなおかしな理屈で敵味方を区別していたら、アホの上にバカがつくと思うの だが、共産党や社民党は反省の文字もないらしい。 社民党が北朝鮮を訪問した時、金正成や金正日に会ってなにやら話していたのを 拉致された日本人はテレビで見ていた。と言う。 拉致被害者が日本に帰って来た後でも、社民党は拉致は無かった。と言ってました。 共産党は韓国の朴槿恵大統領が「日本の韓国人従軍慰安婦は20万人だ」と言って いる。として自民党を吊し上げていたのに、それが捏造だと疑わしくなったら我関 せずの態度です。 中国に対しても反日デモが天安門事件のように中国共産党への抗議となるかもしれ ない時に「それ見たことか、自民党はすぐに謝罪しろ」と言っていたのに沈静化 すると何も言わない。 敵の敵は味方になるとか甘い考えは日本を滅ぼす元だと言いたいです。 そんな小手先の手品に踊らされて本質を見極めない共産党や社民党は日本を滅ぼし たいのか。と思ってしまいます。 彼らに対してどう思いますか。 ご意見をお願いします。

  • 敵の敵は味方?

    味方でないにしても敵を叩く上では呉越同舟ともなりえるのでしょうか? 気が合う関係だと思っていたんです。良い感じのお隣さんです。 それなのに自分を敵だと喧嘩の練習までしました。 気が合わない奴がその向こうにいます。正直そいつはひどい奴です。 しかし、そいつの方が弱いです。強がってますが子犬がきゃんきゃん吠えてるようなものです。 近くの敵を挟み撃ちにするのは喧嘩の常道でしょうか?

  • 「くみする」は味方で、「くみしやすい」は敵?

    「与する」という言葉があります。 同意して味方になるとか力を貸すとか言う意味です。 「肩入れする」みたいなニュアンスですよね。 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%AF%A4%DF%A4%B9%A4%EB&kind=jn ところが、「与し易い」という言葉になると、 「相手としておそれるに足りない」という意味になってしまいます。 意味からみて、明らかに敵になってますよね。 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%AF%A4%DF%A4%B7%A4%E4%A4%B9%A4%A4&kind=jn&mode=0&jn.x=29&jn.y=15 同じ言葉のはずなのに、「~しやすい」という接尾語をつけるだけで、さっきまで味方だったのが敵になってしまいました。なぜこのようなことが起こったのでしょう? 「与する」と「与し易い」は語源が異なるのでしょうか? ご存じの方、教えて頂けると嬉しいです。

  • 「敵を欺くには先ず味方から」

    と言う言葉を聞いたことがありますが 仕事において使える場面はあるのでしょうか? 思い付きません。

  • 敵か味方か

    マスク氏は通信網を遮断した。マスク氏はロシアの味方か、 ウクライナの通信網を遮断、NATOの支援も空しくマスク 氏は裏切った。質問です。マスク氏は敵か味方か?

  • 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?

     ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう?  ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13  ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.  ・μείζονα  ταύτης  ἀγάπην  οὐδεὶς  ἔχει  ἵνα  τις  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  θῇ  ὑπὲρ  τῶν φίλων  αὐτοῦ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。  (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか?  (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか?   (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか?  (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか?  (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか?  (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。  すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。  これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。  (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。  ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11  ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。  ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep.  ・ Ἐγώ  εἰμι  ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλός    ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλὸς  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  ὑπὲρ  τῶν  προβάτων  ~~~~~~~~  ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど  《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  )で同じく表わされている。  よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか?  (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。  ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~  実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか?  (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか?  ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~  イエスは答えられた。   「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν  ψυχήν  σου   θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ)  と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」  (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか?  ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~  わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι  τὴν  ψυχήν  μου  つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。  ▲(同上 10:18) ~~~~  だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι  αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι  αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか?  (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか?  (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか?  以上よろしくご教授ください。

  •  畜馬の友 ~ 何がシェーンに起こったか? ~(寓話風の難問です)

     畜馬の友 ~ 何がシェーンに起こったか? ~(寓話風の難問です)    金持Aさんと貧乏Bさんが、二人一緒に馬券を買った。  Aさんにとっては小銭だったが、Bさんは全財産を賭けていたのだ。  馬券が外れたので、Aさんはタクシーで帰ってしまった。    Bさんが途方に暮れていると、金貸Cさんが少し貸してくれた。  それでまた馬券を買うと、また外れて、利息が増えはじめた。  BさんがAさんに電話しても、Aさんは着信拒否していた。    Aさんの代理だという弁護士Dさんが、内容証明郵便を送ってきた。  みると、AさんがBさんに金を貸したことになっている。  要するに、二人で買った馬券の半額を、返せというわけだ。    ちなみに、AさんとBさんは、幼なじみの同級生である。  Aさんは、なぜBさんを貶めようとするのか。  Bさんは、Aさんの裏切りが理解できないまま、自己破産を迫られた。   ── 《友情ある説得 Friendly Persuasion 19561125 America 19570104 Japan》 ──「人、その友のために己の命を捨つる。これより大いなる愛はなし」 (ヨハネ伝福音書 15:13 新約聖書)

  • ユダの福音書のキリストの復活について

    最近ユダの福音書について興味を持ち、色々調べているのですが、不明な点があったので質問させていただきました。 まず、ユダの福音書ではキリストの死について 体という牢獄の中から死ぬことによって解放されるという考えがなされています。 そのためユダはキリストに命じられ、キリストを裏切り、殺すわけですが、そこでなぜわざわざキリストが復活したのかがわかりません。 使徒であるユダにわざわざ命令して牢獄から解き放たれたはずなのになぜ戻ってきたのでしょうか?ユダの福音書自体、ユダがキリストを裏切るシーンで終わってしまっているため、続きは考察するしかありませんが、どうなったのかが検討つきません。 また、ヨハネ、ルカ、マタイ、マルコの福音書ではユダがキリストを裏切った直後、なんらかの形で命を落としているよう(事故や自殺など)なので死んだことは間違い無いと思うのですが、そうなれば死んだキリストと死んだユダの入れ違い(ユダが天の国に行けた場合)が起こると思いました。 もしそうならばユダはキリストに会うことなく死んでしまうことになると思います。 そもそもユダが死んだ理由(特に自殺)もよくわかりません。キリストに命じられたため裏切ったのに、なぜ自殺してしまったのでしょうか?周りの批判に耐えかねたのでしょうか。 もしも天国から我々の国にキリストが帰ってこられた時1番信頼していた弟子が自分のせいで自殺していたらどんな気持ちだったのでしょうか…(考え難いほど酷い話ですが) まとめると質問の要点は ・キリストは復活する意味があったのか(ユダの福音書において) ・また復活した理由は何か ・ユダが死んだ理由は何か ・(追加ですが)キリストはユダの死についてどう思ったか 僕自身キリスト教では無いので専門用語や詳しいことは知らないので分かりやすく教えていただけると嬉しいです。ご自身の意見でもいいのでみなさん教えて欲しいです。

  • 人間って敵か味方かの二つにしか分けられないのでしょうか?

    今年の春高校を卒業した18歳の男です。志望校に落ちてしまい、現在は予備校に通っています。地方予備校なので大体200人生徒がいます。 予備校には僕より一回り上の人もいたり、様々な人がいます。 そこで最近良く目に付くのが、何か事ある毎に相手に因縁つける奴です。 例えばたまたま肩や鞄が当たっただけなのに、ガンを飛ばして聞こえるように舌打ちをしたり、ひどい奴になると直接因縁をつけに行ったりする奴もいます。 これらの行為は不快極まりないのですが、実際良くある事でしょう。 私の友人にも、そういう事をする人が少数ですがいます。 しかし、私はうちの予備校にいるような、自分と同じ組織にいる人間にわざわざ因縁をつける奴を今まで見たことがありません。 例えば、今まで在籍していた中学高校で、同じ学年の人と肩がぶつかったり、目が合ったりしただけで、ガンを飛ばしたり舌打ちをしたりするような人は私の知る限り見たことがありません。(街で目が合った人に絡んでるヤンキー系の同級生とかはいましたが、それは知らない人相手です) そして、それが普通だと思っていました。 なぜなら同じ組織の人間なら街ですれ違った人とは違い、これから友達になる可能性のある人ですし、自分の友達の友達かもしれません。敵を作って得な事は何一つありません。 同じ組織にいる人間には、特に仲の良い友人もいれば、特に話したことない人もいます。 このように、自分と親しみの強いグループや、弱いグループこそいますが、僕は同じ組織にいる人を「仲間」とは思ってました。自分から好んで仲間の輪を乱すことは普通しないと思います。 ですが、うちの予備校の奴は僕の常識を覆す事を平然とやってます。 もう18歳にもなったら、同じ組織にいても自分と親しいグループ以外は全て敵だと考えたほうが良いのでしょうか。 もう「同じ組織にいるから一応仲間」とかいう変な仲間意識は持たないほうがいいのでしょうか? 例えば来年大学生になった時、同じ学科に40人人がいたとして、自分と仲の良い6人のグループが出来たとします。 高校までだと、残りの34人は「クラスメイト」として見てましたよね。 ですが大学になると、残りの34人は皆「赤の他人」もしくは「敵」という事になるんですか?