友のために自分の命を捨てる・・・愛

このQ&Aのポイント
  • 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
  • 聖句から分かるところによると、友のために命を捧げることは最も偉大な愛だとされています。
  • イエス自身も友のために命を捧げることを実践し、その行為は愛の表現とされています。
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《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?

 ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう?  ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13  ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.  ・μείζονα  ταύτης  ἀγάπην  οὐδεὶς  ἔχει  ἵνα  τις  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  θῇ  ὑπὲρ  τῶν φίλων  αὐτοῦ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。  (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか?  (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか?   (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか?  (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか?  (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか?  (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。  すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。  これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。  (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。  ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11  ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。  ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep.  ・ Ἐγώ  εἰμι  ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλός    ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλὸς  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  ὑπὲρ  τῶν  προβάτων  ~~~~~~~~  ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど  《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  )で同じく表わされている。  よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか?  (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。  ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~  実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか?  (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか?  ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~  イエスは答えられた。   「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν  ψυχήν  σου   θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ)  と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」  (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか?  ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~  わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι  τὴν  ψυχήν  μου  つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。  ▲(同上 10:18) ~~~~  だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι  αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι  αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか?  (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか?  (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか?  以上よろしくご教授ください。

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noname#194087
noname#194087
回答No.5

質問題から、三浦綾子さんの「塩狩峠」を思い出しました。 峠を逆走する機関車を、身体ごととめて自死した主人公の生き方は、 「友のために命を捨てる愛」だったんじゃないでしょうか。 「友」は特定の友ではなく、全ての隣人でしょうか。 主人公はクリスチャンで、実話をもとに書かれた小説のようですね。 小説の冒頭にある、聖書の言葉が印象的でした。 一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、 もし死なば、多くの果を結ぶべし。 (新約聖書 ヨハネ伝 第12章 24節) 麦で思い出しましたが、 子供の頃、義農作兵衛の話(四国)を聞いたことがあります。 江戸時代の飢饉で、餓死者多数。 作兵衛も餓死寸前でしたが、枕袋の麦種は食べずに残しました。 翌年、その麦種が蒔かれ、多くの命が救われたという話です。 宗教家でも哲学者でもなく、キリスト教的にどうなのかわかりませんが、 このような自死は、残された者のなかに生きているような気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 dr24 さん こんばんは。はじめまして。ご回答をありがとうございます。  ふたつの実例を出していただきました。  ◆(三浦綾子:塩狩峠) ~~~~~    http://www.zusi.net/meisaku/siokari/miura.htm  塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある険しく大きな峠である。    明治四十二年二月二十八日の夜、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめた。偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野は殉職、乗客は救われた。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  (1‐3) ・・・はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ありましたね。はっきりとした実例であるようです。  うたがうとすれば――哲学は何ごとでもうたがうことから始まりますから―― もし列車がそのままあとずさりして行ったらどうなっていたか? やがて来る次の列車と衝突してしまうでしょうか?  長野氏も生きて欲しかったのですが ほかに方法はなかったでしょうかねぇ。なかったのでしょうねぇ。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~   (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  ~~~~~~~~~~~  ☆ という疑いあるいは公理も もはやかすんでしまうということでしょうか。  もうひとつの実例があるのですね。  ◆(ヰキぺ:作兵衛) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E5%85%B5%E8%A1%9B  享保の大飢饉で松山藩は深刻な飢饉に見舞われた。特に筒井村の被害は甚大で、多くの餓死者を出た。  作兵衛も父と息子を亡くし、自身も飢えて動けなくなってしまった。  村人は作兵衛が麦の種もみを俵に詰めて枕にしているのを見て、それを食べることを勧めたが、作兵衛は聞かず、「農は国の本である。種は農の本である。わずかの日生きる自分が食べてしまって来年の種をなくすわけにはいかない」と、言い残して飢え死にしてしまった。  村人たちは作兵衛の残した種籾で次の年を乗り切ったという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 作兵衛も生き ほかの村人たちも生きる方法を模索しなければならないでしょうね。基本は。  どうなんでしょうね。  (お茶をにごすかたちにて すみません)。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄のあと したためます。  dr24 さん あらためましてこんにちは。  さて ここでは質問者は――質問者の役目を果たすためだと思っているのですが―― 言ってみれば悪魔の役を引き受けてさらに問い求めをつづけたいと思いました。  (あ) 《塩狩峠》の主人公の長野政雄は キリスト者だったようですが かれはそのように《後退し始めた客車を身を投げ出して 止めようとした》のは 聖句《友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》を知っていて その言葉どおりを実行したか?  (い) 《線路の上に身を投げ出せば 列車は止まる》と考えたか? そう思って実行したか?  (う) 線路の上に 列車を止めるによい石を見つけてそれを置くといったことは考えなかったか? ほかの方法はなかったか? 考える時間がすでになかったか?  (え) まさかかれが 《身を投げ出して列車を止めることが出来れば 死んだとしても おれは災害を防ぎ皆を助けることが出来るからには 英雄である。へっへ。》などと思うことはないだろうが 果てさて その最後の瞬間にかれ長野政雄は いったい何を思ったか? 何を思ったとあなたは考えるか?  (お) 列車が止まって被害をこうむらずに済んだ乗客らは この結果を見知って どう思ったか?  (か) 松山藩筒井村の作兵衛たちは 飢饉に際して そこら中にある食べられるものはぜんぶ食べるということをこころみたか? 魚は獲れなかったのか? 田んぼや川の蛙でも田螺でも 草でも森の木の皮でも 食べることをこころみたか?  (き)  ▲ 《村人は作兵衛が麦の種もみを俵に詰めて枕にしているのを見て、それを食べることを勧めたが・・・》  ☆ というように とうぜん 人びとは《共生》を図ったはずである。もう なすすべはなかったか?  (く) ★ ~~~~~~   江戸時代の飢饉で、餓死者多数。   作兵衛も餓死寸前でしたが、枕袋の麦種は食べずに残しました。   翌年、その麦種が蒔かれ、多くの命が救われたという話です。   ・・・   このような自死は、残された者のなかに生きているような気がします。   ~~~~~~~~~~   ☆ 単純に尋ねるのですが 《残された者たち》は それぞれどういう思いを持ったのでしょう? 《負い目》を感じることは なかったか?  (け) 負い目を感じることになると誰かさとく前もって予測した場合には 作兵衛をして 殴ってでもけんかをしてでも その種籾を食べるようにさせた。か?   (こ) 自分も生きおまえも生きるという道を模索するのが 絶対命令であるかないか?

その他の回答 (22)

回答No.23

ブラジュロンヌさん 私のアガペーに対し 「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス 織田信長」 のように反応しておりますが、 たしかに、この本の著者は、エロスとアガペーの両方を肯定した主張ですから、エロスは旧約聖書に2回しか使われず、新約聖書には使われていないと言うことを調べていなく、間違った聖書解釈かも知れませんね。 出だしは良かったのですが、中盤は性愛の論評であり、未成年者禁止かもしれません。 「エロスは旧約聖書に2回しか使われず、新約聖書には使われていない」という情報は先のローマ法王、ベネディクト16世教皇様の著書、 「回勅 神は愛」 カトリック中央協議会 が出版した現在におけるキリスト教を考えるにあたり正統書 「800円」ですから、お近くの教会にてご購入し、ご検討ください。 ところでブラジュロンヌさんは、既存の価値観をぶっ壊そうとしているところなのか、新しく創造しようとしているところのか、私はわかりかねます。 どちらも難しいですが、「破壊」より「創造」の方が数段難しいと私は思っております。 現在の日本は創造の段階で、日本中の日本人の知恵を出しあわなければ、うまくいかないと考えます。 私はひとりの人間であり無力です。それであるからこそ聖書のキリストの無力さに惹かれます。 「鳴かぬなら、眠ってしまえ ホトトギス 無力な私」

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。いろんなふうにヤジを飛ばされているわたしです。  まづは あらためまして あめんほてぷ2000さん 早速にさらなるご回答をありがとうございます。  そうですね。   インタムライズム  を創造しようと提案しています。ムラは 市町村です。国際的なムラムラの自由な連合制です。  アマテラス公民圏のお二階さんは 放っておいて・できるだけ邪魔しないでいて欲しいと願って あとは それぞれの国のムラとムラとが自由に自由に 文化や経済や共同自治などの分野で共同して住みよい社会をきづいて行こうというウゴキです。  ひとつのムラは国内外の数か所のムラと連携して 人びとの交流を活発におこなう。  企業とも提携して それぞれのムラを共同して安定成長させる。  互いのムラの議会に 互いに議員を送り合う。互選とする。そういう共同自治をおこなう。  ムラのオサ(長)(つまり市町村長)は 当番制がよい。ムラびと(市民)の中から 任意に当番で市長に就く。  もっといろんなコトが出来ると思います。自由に発展させていくとよいでしょう。  ラッツィンガー氏は 法王として名前が上がったときから どうもその目つきがおかしいと思っていました。  例のペドフィルの問題で おかしなことを仕出かしたようです。何の権威もないと思います。つまり ローマ教会そのものがです。  目に見えざる教会が――組織宗教色なしで―― インタナショナルなインタムライズムにおいて成って行くものと思います。   すでに死後に復活したイエスが ペテロと話しています。そこに アガペーないし動詞でアガパオーとそして フィリアないし動詞でフィレオーが出て来ています。イエスは三度同じことをペテロに尋ねますが 三度目には 言葉をアガパオーから フィレオーのほうに換えています。  ▲ (ヨハネ福音21:15-17)) ~~~~~  15: 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、   「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛している( ἀγαπᾷς με アガパース メ)か」  と言われた。ペトロが、   「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε フィロー セ)ことは、あなたがご存じです」  と言うと、イエスは、   「わたしの小羊を飼いなさい」  と言われた。  16: 二度目にイエスは言われた。   「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( ἀγαπᾷς με )か。」  ペトロが、   「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことは、あなたがご存じです」  と言うと、イエスは、   「わたしの羊の世話をしなさい」  と言われた。  17: 三度目にイエスは言われた。   「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( φιλεῖς με フィレイス メ)か。」  ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。   「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことを、あなたはよく知っておられます。」  イエスは言われた。   「わたしの羊を飼いなさい。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 アガペーの押し売りとは聞いたことがありません。

回答No.22

ブラジュロンヌ様 こんばんは 私なりに本を読んで調べてみました。 あまり哲学に深入りしすぎると私の信仰問題に関わるかもしれませんので、私もラストです。 私からの「アガペー」の投稿をお受け取りください。 この命題は、やはり「愛」とは?を原語で考えなくてはいけないと思います。 ギリシャ語のエロス(日本語でエロイ)は旧約聖書で2回しか使われず、新約聖書では、まったく使われてなく、アガペーという言葉を用いたところに、キリスト教の思想の土台があるようです。 もっとも、エロスはギリシャ文学の書物では、「生産的なインスピレーション」「命を実らせる愛」「神性への推進力」として使われたそうですが。 かなり噛み砕いた文庫本ですが、 アガペーの愛・エロスの愛 (愛の実践を考える) パピエル・ガラルダ著 講談社現代新書 から抜粋の受け売りです。 この本の著者はアガペーとエロスを エロスは愛を求める愛でありアガペーは提供する愛として定義し、両方必要との見解を述べ、行き倒れのサマリヤ人を助けるという聖書の場面を用い次のように主張を展開しています。 「アガペーは喜んで差し上げる、喜んでいただく、喜んで差し上げない人は差し上げる権利と資格を失うのである。迷惑をかけないように何も頼まない遠慮も、かえって喜んで大切にして下さる人の心を疑うような印象を与える時もある。自分が返せない恩を素直にいただくという謙虚さは、むしろその恩を下さる人をいっそう喜ばせる。」 震災の復興ニュースを見ていたら、「孤立死」というものが問題になっていて、この文章に考えさせられました。 情報提供いたします。「私のアガペーをお受け取りください」 ジョン・レノンの「Love]と「Imagine]を聴きながら考えら、ブラジュロンヌさんに、なにか、一休さんのようにひらめきがないですかね? Imagine there's no countries. It isn't hard to do. Nothing to kill or die for. And no religion too. You may say I'm a dreamer~♪ ジョンレノンが惚れたオノ・ヨーコさんを輩出した日本には、やはり、世界の中で何か違う、文化があるものと私は思います。日本人に生まれたことは誇るべきです。さてグローバル化の中での日本人とは?

bragelonne
質問者

お礼

 かえってむつかしくないですか?  あばうと72さん こんばんは。気にかけてくださってご回答をありがとうございます。  ▲ (アガペーについて)~~~~  ( a ) アガペーは喜んで差し上げる、喜んでいただく、  ( b ) 喜んで差し上げない人は差し上げる権利と資格を失うのである。  ( c ) 迷惑をかけないように何も頼まない遠慮も、かえって喜んで大切にして下さる人の心を疑うような印象を与える時もある。  ( d ) 自分が返せない恩を素直にいただくという謙虚さは、むしろその恩を下さる人をいっそう喜ばせる。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ずいぶんむつかしくないですか?  (あ) ( a )の《喜んで差し上げる》。そして相手となった場合 《喜んでいただく》。  《喜んで》とは どういうことか?  それは 主観として自分がそういう気持ちと心であると自信をもっていればよいことなのだろうか?  (い) あるいはむしろ 何も考えずに どうぞと差し出し 何も考えずに 受け取る。であろうか?  (う) 《喜んで差し上げない》 これもむつかしいですね。顔の表情は関係ないですよね? 言葉もそれほど関係ない。  《喜んで》がどういうことか分からないのだから 仕方がない。  (え) わたしはむしろ単純で 簡単に言って《互いにあたえる・あたえられるについての意志がそれぞれ固まり その意志表示をもおこなって相互に理解しあった》なら――つまり 互いに対等の立ち場に立って了解が成ったなら あとは モノやカネやサービスのやり取りがそのまま静かに行なわれるのであるなら―― それは 共生としての意志行為ですが 要素を取り出すならば そこに利他の中身がふくまれている。と見ています。  (お) 《差し上げるにしろいただくにしろ それらの行為をおこなう権利だとか資格だとかがある》という考えには なじみません。意味がわかりません。  (お-1) なぜなら 一般に贈与を受ける側は そのとき何がしかの《負い目》を追います。それが重荷になることさえあります。これを避けるには 両者が対等の立ち場に立って ごくふつうの日常の社会行為として やり取りを互いに合意の上でおこなう。というふうに持っていくしかないと思っています。  (お-2) 両者が互いに対等の立ち場にあれば ただただそういう人間でさえあれば そのほかに《権利も義務も 資格も三角も関係ない》と考えます。よ。  (か) ( c )の《遠慮》も《相手の心づもりに対する疑いなど》も 対等な合意があれば消えましょうし なければ・ないところにこそ いろんな憶測が芽生えまた飛び交うことになろうかと考えます。  (き) ( d )の《恩を差し上げる・いただく》 こういう発想も起きないと思うのですが? なぜなら あたえる側は その行為を《恩》だと思っているのでしょうか? おかしいと思いますよ。それこそ《利己》なる行為ではありませんか? 自分をよろこばそうとしていませんか?  (く) 《自分が返せない恩を素直にいただくという謙虚さ》。もし相手が《恩に着せようとまでは思っていないが それでも恩なのだという気持ちがある》と見えたときには もらう側の態度は決まっています。  そんな恩は踏みにじってやろうと思って その《恩》をもらってやるか。それとも ていねいにことわるか。どちらかではないでしょうか?  ▲ アガペーの愛・エロスの愛 (愛の実践を考える) パピエル・ガラルダ著 講談社現代新書  ☆ たぶんわたしも読んだと思います。ずいぶん昔のはずです。でも 何を隠そう 取っておこうとしなかった本です。  いつわりのない反応です。どうぞ再反論を寄せてください。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄で 回答者の方のお名前をまちがえてしまいました。  あめんほてぷ2000さん ごめんなさい。    しかも ご返答の中身が そうとう――ご回答者のほうから見ると―― いぢわるなものになってしまいました。でも こういうぶっきらぼうが わたしですので わるびれず お応えとさせていただきます。あしからず どうぞそのような文体に対しても取り組んでみてくださるようお願いいたしたいと思います。

noname#189751
noname#189751
回答No.21

ラスト です。 愛をこめて・・ 男というやつは寂しがり屋である 愛する者を 笑って送り出すことができない 何なんだ 俺は?・・ という後悔ばかりを考えてしまう お父さん 今までありがとう・・ 言うのが遅いじゃないか 言うんだったら もっと早く言え! (急にバトンタッチ だなんて冗談じゃない・・) だいたい なっ おまえはいつも・・ わがま・・・(ホロッ) 早く行け! 行きたいんだったら さっさと行け! お父さん 前向いて話そ~  泣いてんの・・ うるさい! とまあ 愛とは時に執着である それは 失うことの辛さを垣間みせる 与えただけの大きさが失われるという辛さ 愛の完結とは 男にとって寂しさに耐えることである 寂しさという 名誉勲章をそっと胸に飾ることである それは 命をかけて守った という名誉勲章なのかもしれない だから時々は 親孝行というか、そ-ゆうことをしてもいいんじゃないかと (催促のようではあるが・・) でもまぁ すこし経つと じっちゃ~ん お~い じっちゃ~ん なんだ~ といったことになってくる 小さな命が名誉勲章を片付けてくれるみたいだ そんなところで終わりに・・・ えっ 友はどうなった って・・ あ~ 忘れてた 大丈夫 大丈夫 あいつは頑丈なやつだから ちょっとや そっとでは壊れないから お互いに いつもそう思ってる そう思うことにしてる・・。 身近な愛の真実ってわるくない 大げさな愛の誇大広告よりましだ で いいでしょう 勝手だけど ラストにします ありがとうございました。 Bさん お元気で。 ・・・・・・・・・・・・ 普段は ほとんど使わない 愛という言葉 無理に使う必要もない 無理に言う必要もない 無理に言えば虚しい きれいなものを わざと きれいだと言ってはいけないように たやすく愛という言葉を言ってはいけない こちらから その大きさを決められないように 愛は生まれてくる 心の感じるままに感じ 心の命ずるままに行えばいい 愛という言葉を たとえ知らなくても 人は愛することができる なぜ ということもないまま 誰に教わらなくても 愛することができる だから これが愛だ という言葉は使わないようにしよう 愛という言葉を 押しつけちゃいけない 神様は きっと それでいいと言ってくれる いつも一緒にいる神様は それでいいと言ってくれる

bragelonne
質問者

お礼

 そうですねぇ。ときを俟ったほうががよいかも知れませんね。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  普段は ほとんど使わない 愛という言葉  無理に使う必要もない  無理に言う必要もない  ・・・  ・・・  神様は きっと それでいいと言ってくれる  いつも一緒にいる神様は それでいいと言ってくれる  ~~~~~~  ☆ ということでもあるでしょう。  ただ解釈をするときは そういうときでもあります。  ☆☆(No.20お礼欄) ~~~~   ★ ~~~~~~~~~~   そこには   いざ となればいつでも我が子のために命を投げ打つ・・という強さが秘められているといった感じもします   ~~~~~~~~~~~~   ☆ という意味を    ▲ 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。   が含み持っていれば よいと思いました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんなところでひとつ何かをおぼえた感じを持ちます。  ただし まだ全体としてピンと来ていません。  ヒラメキが欲しいところです。  ヒラメキの得られるようにという意味で 次のように言ってみましょうか。  ▲(イザヤ書63:19 または 64:1) ~~~  どうか天を裂いて降って来てください。  ~~~~~~~~~~~~  でも ときを俟ちましょうか。  もう少し開いていましょう。

noname#189751
noname#189751
回答No.20

終わんない・・・な >もともと相手の精神の境地をこちらが先取りして 言いにくいことですが 精神の低みに降りて行って その低みをめぐる対処の仕方を考えつつまた実際にその対処を模索し試行錯誤で実践しつつ・・・ ここにBさんの愛にたいする解釈を見たように思います。 >精神の低みに降りて行って  ここでしょうね 体ごと、身をもって降りていく という そこに見下す心はない 見下す心はないけれど やはりそうとは言いずらいものがある 馬鹿にするな いらぬおせっかい だと思われたくない だが そ-ゆう雑音を強行突破してしまうのが愛の強さなんでしょう 他者の低みは 我が低みである といった感じで 他者が他者ではない という愛は本物 実践をぬきにした愛はない だから そこから見ると >これ以上に大きな愛はない  という自慢話は空々しく感じられる 愛の実践とは こまごまとしたものだと思います こまごまとした中に愛の本質がある 母の愛が、こまごまとしたものであったように・・・ そこには いざ となればいつでも我が子のために命を投げ打つ・・という強さが秘められているといった感じもします 愛の一面をとらえて >これ以上に大きな愛はない  やはりおかしいでしょう 愛の可能性を誇大広告にしなくたっていい こまごまでいいんです 命を捨てるなんて言わなくたっていい 分かってることを なにも大げさに言わなくたっていい ・・・・・・・ やはり こ-ゆう話は疲れる・・ つい いらぬ力がはいってしまう 俺はバカか・・ ふ~っ (そうかもしれん) 今日は天気がいい 外の空気を吸ってこよう じゃ・・。 

bragelonne
質問者

お礼

 お早うさん。ご回答をありがとうございます。  ▲ (ハバクク書2:4) ~~~  たかめられたる  わがたましいも  ああ  ただしからず。  きよき人びとは  しんじることによって  生きる。  ▲ (詩編51:19) ~~~~~~~  神へのささげものは くだかれたたましい。  くだかれたこころと ないがしろに成り得たこころ。  神よ あなたは なきがごとくには見そなわしたまわない。  ▲ (ヨハネ福音9:39より) ~~~~~~~~~~~  どんでん返しもあるってことよ。  知らないと思っていたのに じつは見えていたのだった。  知っていると思っていたのに じつは見えていなかったものがあった。  人びとは 見よ。わがこころの変貌を。  われは あゆめ。精神の巡礼の旅路を。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~  そこには  いざ となればいつでも我が子のために命を投げ打つ・・という強さが秘められているといった感じもします  ~~~~~~~  ☆ という意味を   ▲ 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  が含み持っていれば よいと思いました。  質問は もう少し開いていましょう。

noname#189751
noname#189751
回答No.19

困った まとまりのないメモを置いてきたのが悪かった これではナゾではないか? おまえの言っていることは分からん・・けしからん ということらしい そう思うと そうかもしれない・・ と いや きっとそうなのだろう とか思ったりして 言いたい放題というのか 我ながら この無責任さに感心したりして・・・ ごめん、こんばんわ >過渡期における《にんげん》のあり方にかんする問題だと見ます。 結局、こ-ゆう問題に帰着するのでしょうかね 実は今日も考えていました 信仰における過渡期 そこにおける精神の変貌といったことです 信じている自分と 信じていない自分のありよう 信仰における自己の所在とは? このことは、各個人においてそれぞれ違うように思います。 Bさんが 過渡期 と捉えたことは鋭いと思いますよ そこにこそ、信仰の実際の姿があると思います 一律でない、愛に対する解釈もそこに含まれるのでしょう 解釈という概念は、一時の平坦性を持つ(平坦性を持つがゆえに概念だと思うのですが) けれども、それは変わりゆく心の一部でしかない 信仰とは、ある意味において変わりつづけるもの・・というようにも見ることができると思います やれ 神の絶対の愛だとか なんとかだとか・・・よく言いますが 言う方は常に変わりつづけている これが本当だと思いますよ 言っている当人でさえ気付かないうちに変わってゆく いつのまにか 信じる から 信じている になっていく 他者のようであった信じる自分が、自分になってゆく まあ 悪いことではないかもしれない 愛に対する解釈も変わってゆく 私がなんだかんだ言ったことも全部その中にあることです 間違ってはいないかもしれないが、すべてが正しいと言い切れる自信はないのです また、それでいいのかもしれませんね 普遍なるものに、人が完全な解釈を下すことはできないようにも思えます さまざまな拙い解釈を、それでも謙虚さをもって自らに言い聞かすとき 信仰の実りみたいなものがあるようにも思います 拙い と自分を謙虚に見るところに、神や仏は現れる そんな気がします。 以上、雑感となってしまいました いつもながらまとまりませんね やっぱり凸凹な感じです まあ 至上の愛 というもの 疲れますね・・・ それでは、また。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  整理します。  ( a ) 日常生活に根づいた基礎としての愛があることで あばうと72さん・質問者のわたしそして聖書との三者が 一致しています。  ★★(回答No.9) ~~~~  身内というか 隣人というか  喉が渇いたといえば 水を汲んできて飲ませてやる  お腹がすいたといえば 自分のパンをちぎって食べさせてやる  それが愛でしょう  ▲(マタイによる福音書 25:31-40) ~~~~  (端折ったかたちでの引用です)  ・・・  35:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、  36:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一人ひとりの現実生活は 縁起共生のもとにあると見られる。  ( b ) 《極限状態》をめぐる考え方で あばうと72さんと質問者のわたしとが意見の一致を見ています。  ★★(回答No.16) ~~~~  命を捨てる判断よりも 命を守る判断  命を捨てる愛よりも 命を守る愛  の方がいい。    ☆☆(趣旨説明欄) ~~~   (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  ~~~~~~~~~~~~~  ( c ) 前項の( b )の極限状態をめぐる考え方の場合に 次のように聖書は記す。  ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~  友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ~~~~~~~~~~~~~       *  ★ おまえの言っていることは分からん・・けしからん ということらしい  ☆ もしそうだとしたら ( c )についてどう見るかが 必ずしも明らかにされていない。かまたは ( b )のご見解によって ( c )の考え方は 低いということを明らかにされた。ということになると思います。       *  ★ ~~~~  信仰における過渡期 そこにおける精神の変貌といったことです  信じている自分と 信じていない自分のありよう  信仰における自己の所在とは?  ~~~~~~~  ☆ 《過渡期》には ふたつの次元があると思います。それぞれにふたつの側面もある。  ひとつの次元は 特にキリストの物語が 邪教として排斥されている段階において迫害を受けるのが ほとんどつねであるという情況にあって 権力の側が 一方にあるということ。  その後認められたあとの時代では 教会の権威が やはり一方の側にあるということ。  もうひとつは それら権力や権威に対する個人の次元です。いわゆる宣教と迫害の時代にしろその後の容認された時代にしろ 個人において見られる――信仰をめぐっての――《精神の変貌あるいは実存の推移》として この次元はあります。  個人に次元にとっては 教会ないし組織宗教と〔その組織内外の〕個人との関係において繰り広げられる交通過程が 重要になっているはずです。  これらふたつの次元のほかに ふたつの側面があります。  《わたし》が 信仰者となってその動態をあゆむ過程において 相手との関係が――特におのれの実存の変貌を伴なって――問題となるはずです。  したがって ワタシと相手とのふたつの側面があると考えられます。  その側面の存在を捉えるために極端な例を挙げるとすれば 信仰者であるワタシと未信仰者である相手とのあいだで すでにワタシはもはやほとんど何の変貌をも来たさない状態であり わづかに相手が少しづつ変貌をして行くといった事態になっている場合です。  実際には一般に どちらの側も確かに変貌を遂げるでしょう。つまり そのときどうしても我れとなんぢとのふたつの側があるということは 捉えておいたほうがよいと思われます。  それは   ★ ~~~~~  いつのまにか  信じる から 信じている になっていく  他者のようであった信じる自分が、自分になってゆく  ~~~~~~~  ☆ といった変貌の過程をたどるとわたしも考えるのですが その過程が およそつねに相手(複数)との関係において成り立ったかたちで 大きな影響をあたえられると思われるからです。  この《影響関係》については なかなか説明しづらいのですが そしてそれはきわめておごり高ぶった見地から言うことになるからですが:   つまり 信仰者は 相手のにしろ自分のにしろあるいは社会一般のにしろ 精神の低みに降りて行くという態度が採られると思われるからです。  それは ひとつに事後に現われる影響をすでに先取りしたようなかたちで その低みを精神の境地に含むことをおこなう。  そしてそういう影響関係は 前もって〔態度としてですが〕先取りしておかなかった場合にも 事後的に自分の精神の中におさめることになる。こう思われます。  こういった精神と精神との交通過程における影響関係は したがって 我れとなんぢとの両側面と 個人と組織等の権威との両次元と これらの交錯する構造において 実際の歴史をたどるものと思います。  そしてけっきょく問題は――つまりそこでの中核は―― 個人でありワタシでありその意志行為に収斂するものと思います。    この意志行為という中核は やがて自己を確立して来るものと思います。  ★ 信仰とは、ある意味において変わりつづけるもの・・というようにも見ることができると思います  ★ 愛に対する解釈も変わってゆく  ☆ といったように精神の変貌が見られると 一面では思います。  しかも その変貌は じつは――信仰の動態にあっては――もともと相手の精神の境地をこちらが先取りして 言いにくいことですが 精神の低みに降りて行って その低みをめぐる対処の仕方を考えつつまた実際にその対処を模索し試行錯誤で実践しつつ たどって来た精神の軌跡なのだと思われます。  すなわち 大胆に申せば 変貌を遂げつつ 信仰をめぐる意志行為は 存在および行為の中核として あまり変わらなかったという一面をも見せると思います。  つまり 変貌は あくまで我れとなんぢとの関係過程において 展開するものだと見ます。  もし《過渡期》ということに 現実味があるとすれば そういった問題が思い浮かびます。  抽象的に述べました。  

noname#195588
noname#195588
回答No.18

人身御供というのがあるわけです。 あとは自己犠牲とか。人柱。 なぜ人間をわざわざ犠牲にするのか わかりません。 かつては人身御供だったものが 人間の代わりに、動物や、物になったりと なっていくわけですが。 それで、別の質問の回答で ニルヴァーナを話題にしたわけですが 今更ながら、 なぜ禁欲主義的宗教は、生を憎むのか? と、まるでニーチェのような疑問が出てきました。 生物学にアポトーシスというのがあるようですが、 特定の人間が死ぬことで 集団全体がより良くなるという価値観でもあるんでしょうか? アポトーシス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9 宗教というのものが集団、コミュニティの作成や維持に関わっているとすれば なおさら。 出家者など、生産活動をしていない人間が自ら死ぬことで コミュニティの生産の問題を回避しているのだろうか? 消費、蕩尽。 などなど。疑問が出てきて調べ中です。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  生物学にアポトーシスというのがあるようですが、  特定の人間が死ぬことで  集団全体がより良くなるという価値観でもあるんでしょうか?  ~~~~~~  ☆ アポトーシスについては【Q:利他って・・・】のほうで出ました。  初めは なるほど《みづからが犠牲になって 他を生かす》という打ってつけの事例のように思いきや 違っていました。つまり 単位体の一部位が全体を生かすために自死をえらぶのと ひとつの単位体である人間が ほかの人たちの生きるために自死をえらぶのとでは 事情が違うのだと。  まさに  ★ 特定の人間が死ぬことで 集団全体がより良くなるという価値観でもあるんでしょうか?  ☆ と問わなければならない考え方でした。おかしい! わけです。  ◆(Q:利他って何ですか? 回答No.8お礼欄) ~~~~~   ☆ つまり《アポトーシス(細胞の自立的死)》ということについて 枯れ葉がみづから落ちてゆく場合だけではなく 落ちてでも落ちる前にでも枯れ葉として部分的に全体の生命のために しかるべき行動を起こし 《共生》を担う一環と成っているという場合。  つまりは《共生》という大きな命題(目的)のもとに その一環としての一部位をになって おのが自己表現を果たしている。そのときそれが担うハタラキは 《利他》ではないか? と。  そうですね。大前提として《共生》。個々の場合に《利己ないし利他》の互恵的な意志行為。こうなるでしょうね まづは。  それでももしその一部位の担うハタラキが アポトーシスのごとく《犠牲になる・ないし自死に到る》という場合には どう考えるか?   アポトーシスの場合には 自己がすでに何らかのかたちで《朽ちて来つつある》という事実があって しかもこれを自己が自覚している状態にありますね?  《朽ちつつある》ものが 朽ちて行くのは それほど問題になるとも思われません。そのときに《おのれの命を省みず ほかの人びとのために おのれのハタラキを果たす》と言っても それがどうして《利他》なる行為として分類されることになるか?   利他なる要素はあるけれども ひとつの《利他》というカテゴリを立ててそこに分類されるほどの内容は 必ずしもまだ成っていない。のではないか?  なぜなら 《朽ちる》ことは おのれの広い意味での〔負のかたちにせよ〕利己行為であり そこに利他の要素も見られる。ということのようですから。  ~~~~~~~~~~~~  よって  ★ ~~~~  今更ながら、  なぜ禁欲主義的宗教は、生を憎むのか?  と、まるでニーチェのような疑問が出てきました。  ~~~~~~  たとえば昔むかしの日本の神話。  ヤマトタケルが・・・:  ▲(ヰキぺ:ヤマトタケル) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%AB  § 4 物語 / 4.2 東征  相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が自ら命(ミコト=ヤマトタケル)に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。   原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母   読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも   訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……  弟橘姫は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。  (古事記の記事による)  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 長々と引きましたが よく分かりません。ヤマトタケルが チカラがまだ弱いという意味にしか思われず そのためにキサキが命を落とすというのが 理解しづらいです。  

noname#189751
noname#189751
回答No.17

おっとっと・・ 忘れものをしてしまった このちっちゃなメモを置いていきます。 >友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ブドウの木の話のつづきだったのなら ですが 人間の至上の愛を引き合いにして、人に宿る神の愛を讃えているようにもとれる でもこれは、「たとえ」だと思うんですね 神への信仰における実際は、また違っているように思えてならない 単純にこの言葉だけを拾って見れば 「捨てる」という語に、「捨てたい」という気持ちがあるようにも感じられる 命を捨ててしまいたい、何らかの動機のもとに捨ててしまいたい、という暗い気持ちがある 自爆テロではないが、現実への絶望から、命を捨てることによって救われたいという愚かな願望です 神の愛にまだ触れていない人間の悲しい姿 のようにも思える 神の愛の感得において、自己とは他者の一人であるはずです 神の愛を自らが受けているという自覚においては、自らを粗末にできるはずがない 自らを粗末にすることは、神の愛を粗末にすることだからです 自己を粗末にすることを神は望まない と思うんですね 絶望の中にあっても、命を大切にする 神からいただいた命を大切にする 信仰の支えとは、そうしたものではないでしょうか 命を捨ててはいけない そう呼びかける声に隔たりはないはずです その普遍さは 安易に、極限状況の愛を声高に叫ぶことをはるかに超えたもののように思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~  命を捨ててはいけない  そう呼びかける声に隔たりはないはずです  その普遍さは  安易に、極限状況の愛を声高に叫ぶことをはるかに超えたもののように思います。  ~~~~~~~~  ☆ これがわたしは言いづらかった。のです。悪魔の役を引き受けてといった前提をおいて そのあとでは結構何やかやと言っていますが。・・・  という問題点もあったわけです。あばうと72さん。ご回答をありがとうございます。  ★ 神の愛を自らが受けているという自覚においては、自らを粗末にできるはずがない  ★ ~~~~  絶望の中にあっても、命を大切にする  神からいただいた命を大切にする  信仰の支えとは、そうしたものではないでしょうか  ~~~~~~~~  ▲(パウロ:コリント人への第一の手紙4:7) ~~~~~  いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      *  ★ ~~~~~~  単純にこの言葉だけを拾って見れば  「捨てる」という語に、「捨てたい」という気持ちがあるようにも感じられる  命を捨ててしまいたい、何らかの動機のもとに捨ててしまいたい、という暗い気持ちがある  自爆テロではないが、現実への絶望から、命を捨てることによって救われたいという愚かな願望です  神の愛にまだ触れていない人間の悲しい姿 のようにも思える  ~~~~~~~~  ☆ ここでは 《暗い気持ち》を半分だけ擁護します。  現代においてはどうか考えてみなければなりませんが イエスのあと数世紀のあいだは 要するに《迫害》というわざわいに遭うことが多かったわけです。  抵抗はしても 相手を――緊急避難としては また どうだったか 考える必要があるでしょうが―― チカラによって打ち負かすまでにはすすまなかった。とすれば 戦時中に赤紙が来ればもう死を覚悟せねばならなかったというような情況として 或る程度は 分かるとは思うのです。  これは けっきょく迫害する側が どれだけ無茶をすれば 我れに還って 信教・良心の自由をみとめるようになるか。こういう問題です。  権力あるいは教会とてもその権威にものを言わせて あとの時代には 人びとを虐げました。そういう無法者が人間になるまでの過渡期における《にんげん》のあり方にかんする問題だと見ます。  でもこのように擁護し得るところがあるとしても それは この《友のためにいのちを捨てる愛》なる命題から派生する部分であろうと考えます。主要な内容ではないように思います。  ですから いったい何を言おうとしているのか? まだナゾです。

noname#189751
noname#189751
回答No.16

あと一言だけ・・・ 命を捨てる判断よりも 命を守る判断 命を捨てる愛よりも 命を守る愛 の方がいい。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。もろ手を挙げてうべないます。  まづは ご回答をありがとうございます。  つまり その精神においてわたしは わが身を投げて列車を止めることに けちをつけるようにして その前にたとえば石をレールの上に置くのはどうかとか。あるいは 蛙や木の皮は 餓死する前に食べたかとか。文句を言いました。  ので 全面的に賛成です。  まぁ どうしてもひとりの命を捨てることをもってしか皆が救われない情況を 聖句を至上と見るひとは言うでしょうけれど。  最後と言わず またどうぞ。

noname#189751
noname#189751
回答No.15

えっ え~いだ、 先生がすこし ひるんでいるうちに この際言ってしまおう ばってんの理由はまだある・・と 言わないより 言っておいた方がいいにきまってる >友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 お~~ イスラムの戦士よ アラ-の使者にこそふさわしい この愛をつらぬく者こそ英雄である 命を惜しまぬ者こそ英雄である 聖なる神に命を捧げよう 神を信じる同胞に命を捧げよう アラー アクバル! となってしまうのだ なってしまったその先に・・・ 爆弾をかかえて突っ込めば英雄になれる そして 貧しい家族に夢のようなたくさんのお金が入る・・ なんてこった 若い息子を失った母親の心は・・・ 英雄もお金もいらない・・・息子を返せ と なんてこった なにかが違ってる 海外の技術指導に行った人でさえ 命を落とす 肌の違いも言葉の違いも乗り越えて 一緒に笑った人が命を奪われる なんてこった 命を捨てることも 命を奪うことも英雄だという なんてこった なにかが違ってる 人を死に追いやる教えは 愛なんかじゃない 小さな愛を守ることのほうが大切だ (あ~ 言ったらなんとなくせいせいした) (先生に叱られるまえにお風呂に入って寝よう)

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~   (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにちなんだお話ですね。  《公理》とまで見ているのですが もしそうならば 普遍的な考え方の基準であるはずです。  ★ ~~~~~~  命を捨てることも 命を奪うことも英雄だという  なんてこった  なにかが違ってる  人を死に追いやる教えは 愛なんかじゃない  小さな愛を守ることのほうが大切だ  ~~~~~~~~   ☆ これが 正論ですよね。  そしてそのかたわらに 《友のためにいのちを捨てる・・・愛》なる命題がある。  そして回答No.5とNo.7の dr24 さんの示された《塩狩峠》や《義農作兵衛》の史実もある。  こういう情況だと思います。身を持って命を賭して人びとをすくったというコトを否定すべくもないのですが これらの史実を受け容れても あぁ なるほど 分かりましたとすっきりとした気持ちで言えるまでにはなっていません。  この質問は 純粋な(?)問いです。

回答No.14

ブラジェロンヌ様 こんばんは。 回答になってません。 泥沼です。 新聞のスクラップを見ていたら、2008年に「敵こそ我が友」という映画があったようです 題名に惹かれましたが、内容は元ナチス親衛隊の高官であった、クラウス・バルビーの生涯のドキュメンタリー映画だそうです、が、私は観ていません。 日経新聞2008.7.25夕刊よりです。 信仰は括弧に入れ哲学的にこの命題を解釈するには。 このような疑問が湧きます。 この映画の上記の論評で 敵の敵は友とあります。 しかし、「汝、敵を愛せよ」とイエスの教えを肯定すると 敵は友 では、愛の反対は? 憎しみ?孤独? 信仰を表現すると 神だから神である。 論理学ではトートロジー(注意 途中で挫折しました。・・・) 否定の否定は肯定 何とか牙城を崩したいですが、ご教授ください。

bragelonne
質問者

お礼

 やあ。サンクス・フォー・ジ・アンサー。  ▲(アウグスティヌス:神の治療) ~~~~~~~~  ところで治療は健康にいたる道である。  これと同じようにこの治療は罪びとたちを救いだし 健康を回復させるためになされる。  医者が傷口を縫い合わせるときは むやみにでなく 適切におこなう。そして傷の手当という実用だけではなく 見た目にも美しく見えるようにする。  それと同じように知恵の行なう治療は人間の姿をとることによって われわれの傷口に合わせてくださる。  ある傷にはそれに合ったものをまたある傷にはそれと反対のものをあてがうのと同じである。  身体の傷を治療する医者も 熱を帯びたものには冷たいもの 湿気のあるものには乾いたもの その他そうした類のもののように ある反対のものをあてがう。  ところが似たものをあてがう場合もある。丸い傷口には丸い絆創膏を 細長い傷口には細長い絆創膏をあてがい すべての肢体に同じものをあてがうのでなく 同じ形の傷には同じ形の布をあてがう。  このように神の知恵が人を治療なさるとき 治療するために ご自身をさし出される。医者みづからが薬になる。  だから人は傲慢のために高みから落ちたので  人を癒すために神が低くなられたのである。  蛇の知恵によって欺かれ   神の愚かさによって解放される。  けれども神はかの知恵と呼ばれているのに  神をなみする者にとっては 神は愚かであった。  そのようにかの愚かと呼ばれた方は   悪魔に打ち克つ者にとっては知恵なのである。  われわれは われわれが死ぬために不死の性質を悪用したのであるが  キリストはわれわれが生きるために死すべき性質をよく用いられた。  女性(エワおよびアダム)の腐ったこころから死が始まり  女性(マリア)の完全な体から救いが現われた。  神の徳を模範とすることによってわれわれの悪徳が治療されることは異種療法に属する。  女(ないし へび)に欺かれた者どもを女から生まれた者(イエスのこと)が  人びとを一人のひとが  死すべき者たちを一人の死すべき者が  死者たちを死によって解放されたのは  われわれの肢体や傷口に 傷と似た形の繃帯をあてがうのと同じである。  やりかけた仕事を私のように進める必要のない暇な方々がもっと熱心にお調べになったら これ以外にもいろいろ キリスト教的な異種療法や同種療法の症例が見つかることであろう。  (アウグスティヌス:『キリスト教の教え De doctrina christiana 』 加藤武訳 第一巻第14章〔13〕)  ~~~~~~~~~~~~~  ▲ 神をなみする者にとっては 神は愚かであった  ☆ というように キリスト・イエスが その《愚か》な手段として はりつけになって死ぬことは――《死者たちを死によって解放する》ことは―― 分かる。  (ただし 《自死》ではない。ポンテオ・ピラトの尋問に対して イエスは 抗弁している。高等法院の画策とそのチカラの前に屈したとしても 無実をうったえている)。  けれども《友のためにいのちを捨てる》とは どういうことか? その単純な理解でじっさいに行動したとしたら それは そのまま《この上のない愛》であるのか?

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    キリスト教では,自殺した人は地獄に落ちることになっていると思います. 一方,聖書には 友のために命を捨てる行為を賞賛する記述があります. 「友のために自分の命を捨てること,これ以上に大きな愛は無い.」ヨハネ福音書15:13, 「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました.そのことによって私たちは愛を知りました.だから,私たちも兄弟のために命を捨てるべきです.」ヨハネの手紙一3:16など この世での苦しみに耐えかねた二人が お互いのためを思いあって心中自殺した場合, 二人は天国に行くのでしょうか. それとも自殺の罪で地獄に落とされてしまうのでしょうか.

  • エホバの証人は 神を信じているか?

     表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。  その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。  次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。  ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18  新共同訳) ~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。  12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。  13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。  △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~  http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/nwt/%E5%90%84%E6%9B%B8/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/1/  11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。  12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。  13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち:  ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~  ▽ (1:13)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=1&t=KJV#s=t_conc_998013   οἳ  οὐκ  ἐξ  αἱμάτων  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  σαρκὸς  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  ἀνδρὸς  ἀλλ᾽ ἐκ  θεοῦ  ἐγεννήθησαν  ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God.  △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。  しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。  △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~   http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B/    はい,信じています。  イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6)  わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16)  わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28)  イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。:  (あ)  △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。  (い)   △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。   ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。  (う)  △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。  想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。  さしづめ以上を問います。どうでしょう。

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • ゲツセマネとは

     ゲツセマネとは  何なのでしょう?  ▲ (マルコ福音14:32-42) ~~~~~~~~~~~   一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。   そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。    ――わたしは死ぬばかりに悲しい。      ここを離れず、目を覚ましていなさい。   少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。    ――アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。     この杯をわたしから取りのけてください。しかし、     わたしが願うことではなく、     御心に適うことが行われますように。   それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。    ――シモン、眠っているのか。      わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。      誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。      心は燃えても肉体は弱い。   更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。   イエスは三度目に戻って来て言われた。    ――あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。      もうこれでいい。時が来た。      人の子は罪人たちの手に引き渡される。      立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  その後の十字架の死および復活は 推移としてそのかたちに関しては 割り合い 分かりやすいと思われます。その前に起こったこのゲツセマネの祈りにかんして ご教示をお願いします。  ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?   何故なら イエスは 自分勝手に(《自分から死ぬのだ》*) 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということが考えられるので。     * 《自分から死ぬのだ》:     ▲ (ヨハネ福音書/ 10章 18節) ~~~~~~      だれもわたしから命を奪い取ることはできない。      わたしは自分でそれを捨てる。      わたしは命を捨てることもでき、      それを再び受けることもできる。      これは、わたしが父から受けた掟である。」      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ この杯を去らせてください。  ☆ についても おしえてください。むろんこれは イエスが人間であるということを表わすと見た上でです。要するに イエスも 泣いたということ。ほかに意味が 考えられますか?  あと思うことは このイケニエは もういっさい必要がないということ。これを示したものと思われますが いかがでしょう?

  • 以下の文章の「lay」の時制は現在?

    以下の文章の「lay」の時制は現在? Greater love has no one than this, that He lay down his life for his friends. (John15:13) 現在であれば何故sが付かないのでしょうか。

  •  畜馬の友 ~ 何がシェーンに起こったか? ~(寓話風の難問です)

     畜馬の友 ~ 何がシェーンに起こったか? ~(寓話風の難問です)    金持Aさんと貧乏Bさんが、二人一緒に馬券を買った。  Aさんにとっては小銭だったが、Bさんは全財産を賭けていたのだ。  馬券が外れたので、Aさんはタクシーで帰ってしまった。    Bさんが途方に暮れていると、金貸Cさんが少し貸してくれた。  それでまた馬券を買うと、また外れて、利息が増えはじめた。  BさんがAさんに電話しても、Aさんは着信拒否していた。    Aさんの代理だという弁護士Dさんが、内容証明郵便を送ってきた。  みると、AさんがBさんに金を貸したことになっている。  要するに、二人で買った馬券の半額を、返せというわけだ。    ちなみに、AさんとBさんは、幼なじみの同級生である。  Aさんは、なぜBさんを貶めようとするのか。  Bさんは、Aさんの裏切りが理解できないまま、自己破産を迫られた。   ── 《友情ある説得 Friendly Persuasion 19561125 America 19570104 Japan》 ──「人、その友のために己の命を捨つる。これより大いなる愛はなし」 (ヨハネ伝福音書 15:13 新約聖書)

  • 西洋哲学と聖書の関係

    聖書は神の著作物であるとされます。それゆえなのか、内容は大変に深いものがあります。その深さに気づけばいいのですが、多くの人は浅い理解のままで、「これが聖書だ!」と決めつけて しまっているように思います。私は、西洋哲学・神秘学の多くが聖書の部分解釈の結果であるように感じています。 例をあげましょう。 ニーチェの超人哲学ですが、多くのクリスチャンが彼の超人思想を、反キリスト的だと見做しますし、彼個人も「神は死んだ」と叫んでいます。 私は、彼の超人思想も聖書思想の断片だと思っています。新約聖書を読みますと、イエスの弟子が沢山登場します。例えば聖ヨハネですが、彼はイエス様に出会う前までは漁師である父の手伝いをしていた、ごく普通の人ではなかったかと思われます。そんな彼がイエス様に見い出され、人間が変わった。彼は後に「ヨハネによる福音書」を書いていますが、この福音書はとてつもなく霊的に深い書物です。聖霊の導きがあったとはいえ、このような書物を書く人は、私にはとても凡人だとは思えません。まさに超人だと思います。 新約聖書では、弟子たちのとてつもない変貌(「超人化」あるいは「キリスト化」だといっていいもの)が、さりげなく語られています。人は超人になることが目的ではないからでしょう。超人になって、神と隣人に奉仕することが目的だからだと思われます。 人は、全能の神由来の「いのちの息」を持っています。その特性は、私の想像ですが、いのちの息とは本来「永遠性・超人性を持ち、愛に満ちた」ものであったと思います。ですから、イエス様によって罪が赦された者は、いのちの息が本来持っている特性を回復するのではないでしょうか。 以上、ニーチェの超人思想と聖書の関係を述べましたが、他の哲学でも聖書の断片的な解釈をしているように思われるものが沢山あります。それを単に批判的に忌避するのではなく、聖書解釈の新視点と見て、聖書を深く知る手掛かりにすることも大切な作業ではないかと思います。

  • (やっぱり愚問?)「本能」が次のように聴こえる。

    クリスマスソングに「本能」  1999年に発表された椎名林檎の「本能」は案外クリスマスソングに良いかもしれない。  新約聖書の「ヨハネによる福音書」の著者のヨハネは古代ギリシャ語が堪能で、これは、それを母国語としていた者にしか書けなかっただろうと言われている。  ちなみに、このヨハネは洗礼者ヨハネや使徒ヨハネとは別人で、黙示録のヨハネとも別人である。伝聞で福音書を書いたようだ。  他の三つの「共観福音書」と異なり、ヨハネのものは独自の雰囲気がある。  これは、彼がギリシャ思想を受け継いでいたことに原因がありそうだ。ギリシャに一般的にあり、「万物は流転する」のヘラクレイトスが定式化した、ギリシャの「ロゴス信仰」の影響が福音書にも出ている。  ロゴスというのは言語とか理性とかという意味を持っている。  理性への信仰が福音書の最初から書かれている。日本では、江戸時代頃に「初めに賢きものありき」などと訳されたようだが、 (新共同訳聖書 ヨハネの福音書冒頭) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。  これは要するに、キリストをロゴスの化身と見なすヨハネの感覚である。  福音書家ヨハネがキリスト教の傍流かというと、そうともならなかったようである。ヨーロッパの歴史は中世でもギリシャからの流れを受け継いでいただろう。  ロゴスの対義語はなにかというと、大雑把にはパトスと言える。パトスは感情のような意味を持つ。キリストの受難は英語ではパッションだが、これは語源はパトスである。ロゴスを光とすると、パトスは優しくもあるような闇の豊穣といえるかもしれない。あるいは闇の中には悲痛なものもあるかもしれない。  キリストは受難しただけではなく、そこから復活したことが尊いとされている。これはロゴスの勝利という宗教体系であろう。  千数百年後、モダニズムの始祖デカルトは生涯をかけてロゴスを追及した。近代の科学技術の追求も宗教と違った形でロゴスを求めたことに他ならなかったと思う。  デカルトは自分の死を悟った頃、遺作として情念論を著した。デカルトは元来、……パトスは外部からの刺激により身体の内に起こるもので、受動的なものなのだが、精神それ自体とも錯覚される、……それをロゴスで統制してパトスを主体化する事が必要で、ロゴスが能動的なものである。  ……というようなことを主張していたのだが、死という現実に対しては、そう構えているわけにもいかなかったかもしれない。  さて、そこからまた数百年後の椎名林檎の「本能」だが、 「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」 と始まる。これはキリスト教のファンダメンタリストからすると、まさしくパンクロックであろう。新約聖書には初めからあるというのだから。  曲調は短調で愛惜が感じられる。理性とか言葉というものの死があったとしたら、それを愛惜する曲調である。 「約束は 要らないわ  果たされないことなど 大嫌いなの  ずっと繋がれて 居たいわ  朝が来ない窓辺を 求めているの」  「約束」を男女の結婚のようなこととして想像することもできるが、それにしてはこの曲はあまりにも悲劇的な香りがしすぎる。  言葉とか理性の死と、そういったことが約束していたものに関する愛惜として捉えるべきかと思う。 「終わりにはどうせ独りだし  此の際虚の真実を押し通して絶えてゆくのが良い」  「虚(から)の真実」とはなにかと考えると、これはパトスに他ならないだろう。それは闇の豊穣というより悲痛さであろう。  十字架上のキリストの「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」という言葉があった。これは古来からキリスト教徒には認めがたい不可解な言葉とされていた。「神よ、なぜ私を見捨てたのか」ということだからである。(たとえばイスラム教はこの言葉とともに「精霊」がキリストを離れたと見なし、彼を神の子ではなく一預言者として捉えている。)  だが、人が絶望のうちに死を迎えることが少ないといえるだろうか。努力とか、理性もむなしく、絶望というのは決して少なくはないだろう。  もしかすると、それは、言葉とか理性とかがあったから絶望もあったのかもしれないと考えることはできないだろうか。 「本能」(c)椎名林檎詞曲、1999