わたしは愛である 道を歩んで行けるか?

このQ&Aのポイント
  • わたしは道であり、真理であり、命である。イエスは言われた。
  • 神がその昔モーセに自分の名を明かしたときの《わたしはある》を引き継いでいるものと考えられます。
  • 非人称の誰かが自分は道だと言ったというのなら人間は何と名乗ればよいか?
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《わたしは愛である》で 道を歩んで行けるか?

 ▲ (ヨハネによる福音書 14:6 ) ~~~~~~  イエスは言われた。    「わたしは道であり、真理であり、命である。  ▲ (KJV John 14:6) ~~~~~~~~~~  Jesus saith unto him,    I am the way, the truth, and the life:  ▲ 14:6  ~~~~~~~~~~~~~~~  λέγει  αὐτῷ  ὁ  Ἰησοῦς      Ἐγώ  εἰμι  ἡ  ὁδὸς  καὶ  ἡ  ἀλήθεια  καὶ  ἡ  ζωή  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは・つまり《わたしは道であり、真理であり、命である》は  神がその昔モーセに自分の名を明かしたときの《わたしはある(エフヱ―)》を引き継いでいるものと考えられます。  ▲ (出エジプト記 3:14) 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ(エフヱー アッシェル エフヱ―)」と言われ  ☆ 《存在》が 《真理・生命・道》と表わされた。つまりところが このように一人称のワタシで語ったとしても じつは 神が《〈わたしはある〉 それがわたしだ》と名乗ったときと同じように このワタシは 非人称なのである。なぜなら ワタシと言っていても 人間ではないのだから。  ここで 《真理と命》とは ひとまづ措いておきます。《道》を取り上げます。  つまり 非人称の誰かが・つまりそのナゾの何ものかが 自分は道だと言ったというのなら では人間は 何と名乗ればよいか? というのが この質問の主題であり問いです。  たたき台があると 話がすすみます。そこで   ○ わたしは愛である。〔と人間が語った〕。  という事態を取り上げます。これは 非人称ではありません。自己紹介のような文であり命題です。  すなわち――話をすすめるための論理を飛ばしている嫌いがありそのことを自覚していますが―― もしひとが《わたしは愛である》と言って おのが人生なる道をあゆむ ということがあり得るか? それでよいか? を問います。  ここは 聖書の系譜として問うていますが それに囚われずにお考えを述べてくだされば さいわいです。  すなわち論点ないし焦点は 《非人称》による表現を人がおのれの血とし肉とした場合 どうなるか? どう自己表現するか? にあります。非人称の表現なる《 Es denkt. (それが考える)》を超えたいという魂胆です。  愛とは スサノヲ市民のおのが自治ないし自己経営のことです。

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回答No.2

またあんたかな? 若者がナザレのイエスの元を訪れて聞いた。 「私は救われることが出来るでしょうか?」 イエスは言った 「富み栄える者が天国に入る事は ラクダが針の眼を通るより難しい」 若者は蹌踉としてして去った。 彼には巨万の富があったのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 どういう話ですかいな? 質問とどういうつながりがありますか?  ご回答をありがとうございます。  たとえば 趣旨説明の初めに引いたくだりは イエスの次のことばから始まっています。  ▲ (ヨハネによる福音書 14:1) 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。  ☆ そのイエスの話の中からたとえば次のくだりを取り上げましょう。:  ▲ (ヨハネによる福音書 14:12-14) ~~~~~~~~~  12: はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。  13: わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。  14: わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

その他の回答 (8)

  • na22me
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回答No.9

イエスキリスト時代の当時は「わたしは道であり、真理であり、命である 」とキリスト本人が言うしか無かったのでしょうね 本来なら 祭司や立法学者がキリストを受け入れたのなら 其処から広がるが キリストを広めるのが目的じゃ無いので 一種の「宣伝カー」の役割をイエス自身が起こしたのでしょう・・ そして 現代になり キリストと名乗らなくても 次第に 神の国になって行くので 今回のキリストは 自ら名乗りを挙げない

bragelonne
質問者

お礼

 という話はしていないのです ここでは。  いいですか?  《キリスト》なる言葉ひとつを取ってもそれはすでに 神の問題です。神学であり ふつうの社会生活の中での会話とは違った特殊な話になります。  したがって 《わたしは道であり真理であり命である》といった神そのもののかかわる表現を避けて――いっさい避けて―― ふつうの言葉だけで しかもその神学内容と同じことが言い表わせないか? これが問いです。  そういう気遣いをする必要のない時代に入っているのだというのなら そのように回答すべきです。  もっとも結論だけをポンと出して その説明はけっきょく出せないまま ずっとやり取りをつづけたかたちになっています。不本意であるなら 中身を明らかにすることがおのれの名誉のためにも大事でしょう。  ご回答をありがとうございました。

回答No.8

これだけは言っとこう。 私は私である。 このオカマ臭い控えめな自覚をぶっ飛ばして、 俺は俺だー。 こういう事である。 おもに喧嘩を仕掛けることにある。 あんた~、 この期に及んでまだよぼよぼとジジ臭いこと言ってるよ。 無駄なことよしなよ。

bragelonne
質問者

お礼

 わからん。わい。  ご回答をありがとうございます。

回答No.7

こんにちは。 ☆☆ 《存在》が 《真理・生命・道》と表わされた。つまりところが このように一人称のワタシで語ったとしても じつは 神が《〈わたしはある〉 それがわたしだ》と名乗ったときと同じように このワタシは 非人称なのである。なぜなら ワタシと言っていても 人間ではないのだから。 ◇三人称の”ワタシ”ですか。 であるとするならば、 個別的存在ではない、一般者としての”ワタシ”、普遍者としての”ワタシ” ということになるのですかね。 あるいは、 egoとしての”ワタシ”ではない、egoとして語られる”ワタシ”ではなく、 現存在としての”ワタシ”、ナマの”ワタシ”。 この二つの線になるのではないでしょうか。 普遍者とのして”ワタシ”ならば、アートマンですわね~。  ▲ (出エジプト記 3:14) 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ(エフヱー アッシェル エフヱ―)」と言われ の”わたし”は、 実存っぽい響きを持っているように思いますが、普遍者としての”ワタシ”なのでしょう。 そして、 真実在であるとするならば、「ある」や「存在する」としか語ることしかできないでしょうね。 ~~~~~~~~   ○ わたしは愛である。〔と人間が語った〕。  という事態を取り上げます。これは 非人称ではありません。自己紹介のような文であり命題です。  すなわち――話をすすめるための論理を飛ばしている嫌いがありそのことを自覚していますが―― もしひとが《わたしは愛である》と言って おのが人生なる道をあゆむ ということがあり得るか? それでよいか? を問います。 ~~~~~~~~ アートマンとしての”ワタシ”ではなく、 肉体を有した”ワタシ”、つまり、「人間の内に愛はある」となるのでしょうか。 神さまに”愛”なんて感情はないでしょうから、 神の現われとしての現象やハタラキ、作用の中に愛はある、 と言った方がいいのかもしれませんが。 ちなみに、 ここで言っている「愛はある」は、肉体を有した我々が「愛として感じる」の意味であって、 普遍としての愛があるや、そのような愛を感じるといった意味ではないです。 ヨハネの第一の書4:16の「神は愛なり。God is Love.」には抵触するので、 クリスチャンの方からクレームはつくのでしょうけれど・・・。 ですが、 ここで語られる《愛》は、地上の、つまり、肉体を有する我々の《愛》ではないので、この問題もなんとかクリアーできますかね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。    ◇ ~~~~~~~~~~~~~  三人称の”ワタシ”ですか。  であるとするならば、  個別的存在ではない、一般者としての”ワタシ”、普遍者としての”ワタシ”  ということになるのですかね。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ げんみつに言うと 《一般者としての”ワタシ”》という解釈は むつかしいでしょうね。  人間としての一般性と 非人称(非知)とは 別だと考えられます。経験事象と非経験の場とです。  《普遍者としての”ワタシ”》――これは 《霊我:アートマン》のこととしてなら 相当するものと思われます。  経験的なことがらとしての《普遍者としての”ワタシ”》もあり得ますね。自然本性が 残念ながら 朽ちるべき存在であることといった普遍性なるワタシ。  あぁ ずばり言ってありました。  ◇ 普遍者とのして”ワタシ”ならば、アートマンですわね~。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ○ わたしは愛である。〔と人間が語った〕。   ・・・  アートマンとしての”ワタシ”ではなく、  肉体を有した”ワタシ”、つまり、「人間の内に愛はある」となるのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。そうです。スサノヲ市民のおのれをめぐる自治です。意志行為です。  ◇ 神の現われとしての現象やハタラキ、作用の中に愛はある、 / と言った方がいいのかもしれませんが。  ☆ もちろんそういう場合も考えられますが ここでは そのような非人称(=非知)をふくむ表現を避けるわけです。きちんと完全に避ける表現で しかも非人称表現の中身を表わすことが出来るか? という問いです。  いちいち《 Es denkt. (それが考える)》といった表現であれこれ詮索していても始まらないのではないか? という発想からです。    ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ちなみに、  ここで言っている「愛はある」は、肉体を有した我々が「愛として感じる」の意味であって、  普遍としての愛があるや、そのような愛を感じるといった意味ではないです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ でもそれを避けます。というのは 《神の現われとしての現象やハタラキ・・・》というふうにすでに神を持ち出している場合は避けるという意味です。  考えてみれば どう表現してもそれは むしろ神に到る補助線であるしかない。のかも分かりません。でも その補助線だけで表わすことは 可能か? が問いです。  《神》を持ち出さない。そして 非人称表現としても神のことを言うかたちを採らない。という条件です。  ◇ ヨハネの第一の書4:16の「神は愛なり。God is Love.」・・・ここで語られる《愛》は、地上の、つまり、肉体を有する我々の《愛》ではないので、この問題もなんとかクリアーできますかね。  ☆ ですから 愛を 意志行為のことだとだけ規定します。意志による自己経営です。  すなわち  ◇ ヨハネの第一の書4:16の「神は愛なり。God is Love.」には抵触するので、  ☆ というごとく 《おのれの自治》と規定しても 愛と言ってしまえば神への補助線に成ることは成るのだと思います。けれども それでも補助線のみで表わすという方向性です。《わたしは 〈わたしは愛である〉というヱクトルですよ》と表現しています。  ひとりの人間にとって 愛とは おのが身と心との自治行為である。と規定したら どうなるか? です。  慈悲も慈愛も 抹香臭いでしょう。と思ってです。

noname#207067
noname#207067
回答No.6

一応、追加です。 ~~~~~~~~~~ ayam ātmā brahma Brihadaranyaka Upanishad 4.4.5 "The Self is Brahman" tat tvam asi Chandogya Upanishad 6.8.7 et seq. "Thou art that" ("You are Brahman") Brahman http://en.wikipedia.org/wiki/Brahman ~~~~~~~~~~~ > Aatman(霊我)=  aham (人なるわれ) これは、めんどうなことになりそうなので、 他のもウィキペディアから引用してみました。 ayam ātmā brahma Brihadaranyaka Upanishad 4.4.5 "The Self is Brahman" こちらのほうが、アートマンとブラフマンが出てきます。 tat tvam asi は、 チャーンドーギヤ・ウパニシャッドのほうに出てきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~  ayam ātmā brahma  Brihadaranyaka Upanishad 4.4.5  "The Self is Brahman"  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《 This aatman 〔 is 〕 Brahman. 》でしょうか。  この梵我一如は けっきょく神を想定したあとの信仰においてその中身を想像して得られる観想です。  抹香臭いように思います。  経験思想として どう表わすか? を問います。  ご回答をありがとうございました。

noname#207067
noname#207067
回答No.5

~~~~~~~~~~ aham brahmāsmi Brihadaranyaka Upanishad 1.4.10 "I am Brahman" I am as eternal as Brahman Brahman http://en.wikipedia.org/wiki/Brahman ~~~~~~~~~~~ ウィキペディアの梵我一如の英語のページを見たときに 梵我一如 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 Tat Tvam Asi http://en.wikipedia.org/wiki/Tat_Tvam_Asi tat tvam asiで、これはブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドに出てこないのでは と気になっていたけど、ウィキペディアのBrahmanのページに aham brahmāsmi  Brihadaranyaka Upanishad 1.4.10 とか出典が書いてあって参考になりました。 出てきますね。梵我一如。失礼しました。 ですが、 SAT大正新脩大藏經テキストデータベース http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ 大正蔵を梵我一如で検索してもなかった。 私はブラフマンである。 わたしは道であり、真理であり、命である。 ウパース。 ウパーサナー。 ウパニシャッド。

bragelonne
質問者

お礼

 ○ aham brahmāsmi : 私はブラフマンである。  そして  ○ tat tvam asi (” that thou art.”)    ☆ この《きみ( tvam; thou )》は誰のことか? 何のことか?  ・ tat ( that )・・・tvam ( thou ) __________________  ・ Brahman(神) =  Aatman(霊我)  ・ Aatman(霊我)=  aham (人なるわれ)  ところで これらの命題は 《わたしは道であり、真理であり、命である。》と同じようにあたかも非人称が主語となっていると考えられます。  さいごの解釈例であるところの:  ・ Aatman(霊我)=  aham (人なるわれ)    これは 半分 人間的であり経験的なものごとを表わしています。つまり 誰にもブッダター(仏性)がやどるといった想定のことを言っています。が まだ 抹香臭いように思います。  そこでという質問になっています。  ご回答をありがとうございました。

  • kurinal
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回答No.4

こんばんは。 >「愛とは スサノヲ市民のおのが自治ないし自己経営のことです。 」 そう。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。賛成票ですね。  ありがとう。  ご回答をありがとうございます。

  • na22me
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回答No.3

あなたには 何を言っても 知識だけで考える癖が付いてるので 解き明かす順番だけ書いて置きますね 善悪知る木の実とは 何なのか  そして 蛇とは何なのか サタンとはルーシェル ルーシェル→エバ→アダム カイン→アベル イエスキリスト降臨 霊的復帰 新しいキリストの再臨 霊 肉 共に復帰

bragelonne
質問者

お礼

 だから このいま すでにそのすべては成った。と言ってるんです。  このいま・ここなるわたしに成った。  なぜなら 信仰の問題だからです。非思考ということは 無時間ということです。非時間と言ったほうがよいでしょうか。  ですから そのことを表わすには ひとが どう名乗ったり自覚したりすればよいか? と問うています。    愛を おのれの自治として定義すれば 経験的な意志行為のことですから 《わたしは愛である》は 上滑りはしません。  信仰は 上滑りも下泳ぎもなく 雲をつかむような話ですから 《わたしは 道であり 真理であり いのちである》だけでは 分かりにくいのです。そしてあたかもオシエを他人におしつけているような恰好になってしまいます。それゆえです。  ご回答をありがとうございました。  なお ルシフェールですよ。どうでもよいことですが。

  • na22me
  • ベストアンサー率13% (22/158)
回答No.1

可哀想に ・・・ 知識だけ取り入れたから 真実が見えないだけ きりすとの使命は 唯一つ 「原罪」を除去する為 「わたしは道であり、真理であり、命である」は その前の 堕落性本性の取り方を教える事の意味・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  もし  ★ きりすとの使命は 唯一つ 「原罪」を除去する為  ☆ であったとすれば 《わたしは道である》という言葉を――それは 人間イエスの発言というよりは神キリストのであると考えられるからには―― 人間が言う表現に言い直してください。こういう問いです。どうでしょう?  ちなみにわたしの考えでは 《原罪》は初めから――アダムとエワのエデンの園のときから――なかった。というものです。  エワとそしてアダムが 人間の自由意志ということについて知る話において ヘビがその自由度を引き出すというかたちを採って描かれた。したがって いつか・つまりやがてキリストの人間としての登場のときに このヘビのハタラキをめぐってそれを消すという物語も描くかたちにせざるを得なかった。だけだというものです。  ★ 堕落性本性の取り方を教える事  ☆ という解釈が 或る意味で為され得るかたちの《へび》の物語だという意味です。  cf. 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  じつは このときの考えは まだふるいものです。わざとそれをも出しました。いまの考えは 次です。  【Q:感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7401704.html  聖書においてその初めから 新約聖書におけるイエスの磔の終わりに到るまで ヘビの問題・ヘビなるハタラキの克服の物語がつづられています。けれども それは もともと何もなかった――ヘビをたまたま〔いわゆるサタンないし悪魔として〕登場させたものですから これを最終的に始末しておかねばならなかった。そういう物語として結着をつける必要があった。だけであるというものです。

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    絶望は死に至る病だと、キルケゴールが書いたと言います。 限界状況は現代も至る所にあります。 神は死んだとニーチェは言いました。 サルトルは「人間は自由の刑に処せられてる」と言いました。 では現代人はどうすればいいのでしょうか? マルクスの共産主義もそう言う様には行かない様です。 今を生きる現代人は何を信じて生きればいいのでしょうか? あれか、これか? 愛と真理を追求すれば 人口爆発も乗り切れるのでしょうか? 宗教も限界を感じる今 何を信じて生きればいいのか 誰もがわかる言葉で 端的に ぜひ端的に よろしくお願いしますm(_ _)m

  • 終に頭に来た(悟った)?

    存在が価値であり、目的であり、意味であり、意義であり、正義であり、愛の目的です。 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー(物質を含む) 人間は存在を目指す、永遠に。存続 永遠と続く。 人間は存在することに意義がある。 人間は精神である。精神は性質である。性質は物質とは独立して真理に則して現れる。 悟った(真理を知った)人間が神の子である。 神が宇宙のエネルギーと真理である様に似せて 人間は体・脳・環境等の物質(エネルギー)と性質である精神である。 (人間は脳と精神である) イエスも釈迦も真理を悟った(一部)神の子であった。 仏も神も実は同じような意味。 物質の性質が心(精神)を成している訳ですから 唯物論と唯心論は統合できる。 エントロピーはコントロールできる。引力と循環と秩序をコントロールして永遠を目指そう。 ブラックホールは蒸発しない のでは?  ビッグバンとは 超巨大なブラックホールの特異点の爆発だったのでは? 我々は 神の実験? 奇跡の星地球に奇跡の存在人間精神(命に宿る)が発生。これが神の奇跡。 しかし 神はあまりに残酷だ 何故だ?何故こんな残酷な事させたのか? 以下略。どう思いますか?存在や神について?

  • アガペーとフィリアはそんなに違いがありますか?

     ヨハネによる福音の次のくだりで アガペーないし動詞のアガパオーとそして フィリアないし動詞のフィレオーが使い分けられているのでしょうか? その解説をしてくださる方は いますか。  すでに死後において復活したイエスが ペテロらと話しています。ペテロに向かって 《わたしを愛しているか》と三度たずねています。二度目までは《アガパオー》を用い三度目には《フィレオー》で表わされているようです。  ちなみにペテロは 三度ともフィレオーで答えています。  この事情について何か特別なことがありましょうか?  ▲ (ヨハネ福音21:15-17) ~~~~~  15: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/15   食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、   「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛している( ἀγαπᾷς με アガパース メ)か」  と言われた。ペトロが、   「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε フィロー セ)ことは、あなたがご存じです」  と言うと、イエスは、   「わたしの小羊を飼いなさい」  と言われた。  16: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/16  二度目にイエスは言われた。   「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( ἀγαπᾷς με )か。」  ペトロが、   「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことは、あなたがご存じです」  と言うと、イエスは、   「わたしの羊の世話をしなさい」  と言われた。  17: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/17  三度目にイエスは言われた。   「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( φιλεῖς με フィレイス メ)か。」  ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。   「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことを、あなたはよく知っておられます。」  イエスは言われた。   「わたしの羊を飼いなさい。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  まとめ: イエス・・・・・・・・・・・・・ペテロ     _________________  一度目:ἀγαπᾷς με―― φιλῶ σε       lovest thou me ――  I love thee       (KJV)      わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している(新共同訳)  二度目:ἀγαπᾷς με――φιλῶ σε       lovest thou me?――  I love thee      わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している  三度目:Φιλεῖς με――φιλῶ σε        Lovest thou me?―― I love thee      わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している  ☆ 質問者に成案はありません。したがってたたき台はありません。  分からないなりに思うことは:  ( a ) 三度問いかけることが重要なのではないか? 内容が確立する〔ため〕という意味において。  ( b ) だから アガパオーとフィレオーとはどちらでもよいのではないかという見方ですが それにアガペーは 人間のチカラでおこなえる愛ではないとすれば なおさら どちらでもよい思われます。  ( c ) でももしふたつの語に違いがあるのなら キリスト・イエスは そのことについて何らかのかたちで留意するようにとうながす意味で使い分けた恰好になっているのかも知れない。  ( d ) ただし イエスらが実際にはギリシャ語で話すことはなかったであろうから あくまで物語として聖書記者はそのように表現の使い分けをおこなった。  以上ご教授ください。

  • 自己愛が叶うだけの人生

    子供のころから、自分の居心地の良さ(自己愛が叶うこと)だけを無意識のうちにも求めており、そのためなら他人の気持ちは考えずに生きてきました。 (他人のことを考えずに生きてきたことも、最近自覚しました) 年を重ねた分だけ器用にはなりましたが、それは今も変わらず、冷酷さも増してしています。 冷酷というのは、人の命をも見殺しにできる冷酷さです。 (殺すことは、ありません。殺すというのは、相手に何らかの興味なりを持っていたり、殺すこと自体に興味がなければ、しないと思われます。私は、そこまでの興味すらないのです。) もし自分と利害が対立する人間が、助けないと命を失う可能性のある状況になり、自分一人がその場に居合わせたとしたら、私は気づかないふりをしてその場を去るでしょう。 自己愛を叶えることだけを求めて生きている、冷淡で冷酷な人間なのです。 最近、そのような観点から、自分と家族を見るようになりました。 人を見殺しにするところまではいきませんが、自分の居心地の良さが大事なのは、私の父や姉も同じです。 父や姉は、自分の居心地の良さが、自分の家族よりも大事です。 母は、自分の居心地の良さより、家族や身内を大事にする人です。 自分の居心地の良さ(自己愛)を何よりも大事にし、手に入れる人生は、頑張れば可能なのかもしれません。 でも、もし生まれてくる際に、天使のような存在から、 「あなたの人生は、困難もありますが、学びも多く、自分の望むものが得られるでしょう。なお、あなたが人生で得られるものはすべて、(あなたが求めたものは、あなたが自己愛ゆえに求めたものであるから)自己愛が叶うだけのものです。」と言われたら、そんな人生、わざわざ生きなくてもいいかも(生きるのも大変だし)・・と言ってしまうような気がします。 ファウストについて書かれた本を最近読みました。 著者は、ファウストが努力してやまぬのは、自我の可能性の追求、我欲の充足、永遠なる自己存在の確認のため・・・つまり「野心」のためであり、「世のため人のため」という意識など微塵もない、と書いていました。 それを象徴するかのように、自身が取り組んできたユートピアの建設中の音に聞こえた音は、実は悪魔の命令によって人夫がファウストの墓を掘っている音でした。 ファウストと同じで、世のため人のためという気持ちは、私にはありません。 自分の望んできたもの、望んでいるものが、すべて自己愛だと気づいてしまった今では、自己愛が叶うだけの人生はむなしく感じられます。 でも、私は母のような人間にはなれないのです。 世のため人のためという気持ちが、ないからです。 世のため人のためにするべきことと、自己愛とを天秤にかけなければならない状況になったとき、前者を選ぶことは私にはできないでしょう。 世のため人のためという気持ちが自然発生的に生まれない人は、そのような気持ちを持つことは努力をもってしても、できないだろうと考えていますが、どうでしょうか?

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。