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ポスト宗教、今何を信じて生きるか?愛と真理?

絶望は死に至る病だと、キルケゴールが書いたと言います。 限界状況は現代も至る所にあります。 神は死んだとニーチェは言いました。 サルトルは「人間は自由の刑に処せられてる」と言いました。 では現代人はどうすればいいのでしょうか? マルクスの共産主義もそう言う様には行かない様です。 今を生きる現代人は何を信じて生きればいいのでしょうか? あれか、これか? 愛と真理を追求すれば 人口爆発も乗り切れるのでしょうか? 宗教も限界を感じる今 何を信じて生きればいいのか 誰もがわかる言葉で 端的に ぜひ端的に よろしくお願いしますm(_ _)m

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  • ベストアンサー
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

他者の言葉を理解するというのは聡明でなくては出来ないし、努力も必要だろう。図書館中の本を読みあさって勤勉につとめた人というのはそれだけで尊敬できるものです。そうやって勤勉に努力を重ねる人であるから、誰かの為に生きることも叶うのではないでしょうか。過去現在を問わず、発された一句一句には、込められたものがあります。 何を信じればいいのかという問いでしたね。徳永英明なら夢だというでしょうか。 自分という回答も既出ですね。難しいことですが、人を信じるというのはどうでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

むむ 人を信じる。 人間を見た という質問もしたことがあります。人間は今まで良いこともし悪い事もして来ました。 その人間を。人を信じる。至難の業ですが 最も大事なことですねえ。 図書館の本を読みあさった事は尊敬します。僕には無理でしょう。 しかし彼は僕が自分の考えを書いたら 急に人が変わった様に 悪態をつき始めたのです。 その彼を信じる 或いはア・ホナさんを信じる。 信じると言う事は賭けですね。裏切られる事もあると思って信じるしかありません 私はア・ホナさんを信じています。ガリゾウさんやブラゲロンヌさんも 他の人も信じています。嗚呼 しかし ウリガダイさんは僕を信じてはいません 全くのバカ 井の中の蛙 ボケ、カス、ナスビの類と思っていらっしゃる様です 僕がウリがダイさんを信じたら・・・つまりは僕の否定 死を意味するでしょうね。 難しいことです。 どうも大変ありがとうございます☆

yuniko99
質問者

補足

ぼくらのぼくらのウリガダイさんは いつもぼくらの疑問に答えてくれる 何でも知ってるウリがダイさん みんなのみんなのウリガ大先生 万歳!万歳!万歳!!わ~~~い ウリがダイさんに質問しよう^^ きっと天国がやって来る☆彡 ウリガダイ大先生 私は貴方を心から信じています♪゜・*:.。. .。.:*・♪

その他の回答 (16)

回答No.17

はじめまして、創価学会の会員です。人間の可能性、自分の生命の内部の可能性を信じれば良いのではないでしょうか。現代に効力を発揮する日蓮大聖人の仏法によって確かに存在していたのだけれど表すことができなかったという仏界の生命を呼び現すというのは実行する価値あることだと思っています。今の時代は学会は強い折伏は行っておりません、宗教の話の前に人間としてどれだけ信用してもらえるかが勝負です。非常識では話を聞いてくれる訳ないのです、哲学などの探求がお好きでしたら日蓮大聖人の御書を読まれてみてはいかがでしょうか?ただ漢文で書いてあるので最初はかなり難解に感じてしまいがちです、仏は3世を見るのですが日蓮大聖人の場合は人間を超えた神通力という超能力的な見方ではなく道理を通してみていきます、今 不幸な人でも社会を他人を良く変えようという人間にはかならずそれ相応の結果が出る、自分の事だけしか考えない生き方では若い強いうちはよくても結果は悪いからそんな生き方はしてはいけないのですよ、という具合です。他宗派に厳しいのはこういう理論が裏側にあるのです、相手はその信仰によって救われたい幸せになりたいと一生懸命に拝むけれど悪い宗教では拝むほどに不幸になってしまう事は日蓮という人は全ての経文を調べて知っている、知っていながら言わないようでは無慈悲であるから命の危険を覚悟してでも本当の事を言おうというのが立正安国論などの時の権力者への諫暁です。

yuniko99
質問者

お礼

これはどうもご丁寧にご説明ありがとうございます 創価学会も人の幸せのためにやってるのだという事は存じております 教職者や病人が多かった時代など 切に求め助け合う気持ちhが学会を支えていたのでしょう 私も宮沢賢治を尊敬しておりますので法華経にも少し興味があります。 日蓮上人が迫害されながらも本門本尊、本門題目、本門戒壇を唱えられたと聞きます その様な生き方が仏教の理想を実現するのだという考えをけして否定はしません ただ私は哲学の徒なので 信じると言う事は積極的ではありません 分からないから信じるのであって 分かる様にまた疑います。 時の権力者にガンガン意見を送っていますが 全くスルーされており 私の考えが役に立ったと思える節はありません。 今の政権は平和へのアプローチが当たり前すぎる つまり間違っています 共産主義が暴力革命で失敗したように 武力で平和は守れないのです 戦争がエスカレートすれば穴二ついや人類壊滅の可能性もあります。 なんで今まで中国や北朝鮮ともっと平和外交して来なかったのか? アメリカに守ってもらってヌクヌクと豊かさを欲しいままにして来た その反省に立たねばなりません。 と言っても焼け石に水にもなりません。とほほ まあ死ぬまで己の信ずるところを述べ続けるしかないでしょうね。 どうもありがとうございます。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.16

>誤った宗教が殆どという現実を「宗教も限界を感じる今」と表現したのです。 では、誤っていない宗教もあるはず。 それは、人間の可能性を開き、より人間としての生活を可能にするものです。 しかし、人間は己の概念から正しい宗教だと言っても、否定し、退け、実践をしようとはしない。 世界各国で、多くの民衆が実践し、結果を残しているのに。 以前、戸田第二代会長は仰っていました。『真面目に実践して、統計を取ってみれば歴然と結果は出る。』と。 西洋の哲学者、思想家は自己のベースに西洋的宗教があり、それを基に思考をしています。 もし彼らが、真の宗教に出会っていたならば、世界はどうなっていただろうか?? 鎌倉時代の幕府の連中が、もう少し利口な人間であったら、今頃日本はどうなっているのであろうか?? それよりも、金も物も安易に手に入るようになった現代において、宗教を邪とし、己の命の迷いに苦しんでいる人間をどう見るのだろうか??

yuniko99
質問者

お礼

私は哲学も宗教から学ぶ事があるのではないかという質問もしました。 しかしハッキリ言うと 良い宗教はあっても 誤ってない宗教はありません。 宗教とはそういうものです。分からない事も「全て分かった」と真実のが宗教です。 哲学は無知の知です 己が如何に分かってないかを知ることが基礎です。 仏教などでは「悟ることもない」等とも言われますが。 創価学会は結構言いますからねえ。折伏の有り様は有名です。 創価学会の友達もいるので言いたくはないですが 公明党は自民党の案を通してしまったではありませんか あれは如何なものか? 迷いに苦しむ人を導くのはいいですが 私も強引に引き込まれそうになりました 題目唱えさせられて 助けてくれ~~~という感じでした^^ どうもありがとうございます。

回答No.15

>では現代人はどうすればいいのでしょうか? 空観(くうがん)を持つことです。 >今を生きる現代人は何を信じて生きればいいのでしょうか? 空観(くうがん)もったら次に仮観(けがん)を持つことです。 >あれか、これか? 空観(くうがん)と仮観(けがん)をもったら最後には中観(ちゅうがん)を得ることです。 >愛と真理を追求すれば 人口爆発も乗り切れるのでしょうか? いいえ。 >宗教も限界を感じる今何を信じて生きればいいのか 誰もがわかる言葉で 端的に ぜひ端的によろしくお願いしますm(_ _)m 宗教に限界を感じるまえに、まずは実際にお釈迦様の教えを勉強してみることをお勧めします。

yuniko99
質問者

お礼

お釈迦様の教えを勉強して 空観 仮観 中観を持つわけですね 宗教にもまだまだ見所があるというわけですか 成る程 どうもありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.14

萎え萎えなのは歳をとった所為でしょうか、病気になった所為でしょうか、本当にそのまま死を迎えて良いのでしょうか。 大言壮語する事なく自分を大切にし、できる事、小さな事でも良いから、それをなす。 大きなサイズの名画もあれば、小さなサイズの名画もあります。しかしもう描くのはやめたのだと、筆を折るならそれは放棄です。はっきり言って、自分を棄てるような人に、人助けなどできないと思います。何故なら助けを必要としているのは本人の方じゃないですか。休みもありです。ゆっくりでも良いのです。自身の人生を諦めないことです。諦めなくて良かったと、思えるような人生にしてください。

yuniko99
質問者

お礼

すみません ご心配まで頂きまして。 さいきんの考えに「自分を大切にできない人が、他人を大切にできるはずがない」 というのがありますが 僕は必ずしもそうは思いません 僕はでくのぼう精神なので 自分の事は二の次でいいと思います 生きていられればそれでいいです。何としても世のために尽くしたいのです 母性本能も利他、自己犠牲ですが、僕もそう在りたいと思っています。 どうもありがとうございます。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.13

>宗教も限界を感じる今、、、 限界を感じるほど、実践したのか?? 人間が存在する以上、必要不可欠なのが宗教ではないのか。 まぁ、誤った宗教が殆どな世の中ではあるが。

yuniko99
質問者

お礼

誤った宗教が殆どという現実を「宗教も限界を感じる今」と表現したのです。 どうもありがとうございます。

回答No.12

 ゆにこさん 野次馬でごめん。  創造神なら ただの自慰行為ではないの? 気休めに過ぎません。  認識論を披露している姿は いたいたしい。こちらが 恥づかしくなるんです いつも。何の意味もないことを よくも並べてすましていられるなと。一度ならず もうかかわらないと決めたのですが それでも 目にするからには おかしい。唯識論的観念論だと言えば そのように最高で言えるのかも知れないけれど 中身は 雲のかなた。  大先生には わたしの質問に回答してみてはとうながしてやってください。

yuniko99
質問者

お礼

大先生に私が兎や角言える義理ではありません どうぞご自分の立てた質問に答えて貰ってください それとも答えることを拒否することができるのでしょうか? ブラゲロンヌさんの質問の宗教何とかに長文を書いて 答えるボタンを押したら 消えてしまった事がありました PCがおかしかったのでしょうか? 勿体無かったなあ どうもありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.11

"何を信じて生きればいいのか 誰もがわかる言葉で 端的に ぜひ端的に"       ↑ 自分で創り出す以外に方法はないと 思います。 信じるモノは何か。 それを自分で創造するのです。 自分こそが創造神なのです。

yuniko99
質問者

お礼

流石 上手い 座布団八枚^^ そうですよねえ 自分で信じるものを作り上げられたら それに越した事はないですねえ これはいい答えだと思います どうも大変ありがとうございます。

回答No.10

(1989年に出した自費出版物の巻末の「新ルネッサンス宣言」を) ───人間中心性の回復・人間的感性の復権─── 1. 我等は、認識する個体である。 2. 我等の生存は、意志の結果であり、幸福の追求としての本質を持つ。 3. 幸福とは、認識に於ける意志と、その達成の認識により成る。 4. その個体的追求は、生存と認識に於いて為される。 5. その環境的対応は、生存は生産として、認識は学習として現れる。 6. より大なる学習は、より大なる社会的生産を可能にする。 7. また、より大なる生存に於いて、より大なる認識は可能になる。 8. これらの過程の認識とその意志化は、最大の生存と最大の認識に於ける、完全な充足を実現する。 9. それらの統一的計量は、認識の深まり及び有効エネルギーの不可分な指向として、反エントロピーとして求められる。 10. 反エントロピーとは、宇宙の起源としての、絶対無=無限不確定性の潜在(有限)たる認識の自我仮説性(時間性~進化)の定性化である。 11. 潜在的認識可能性に対する相補的環境は、その認識の有限性による相補性の非自覚化により、他律的対象(=時空仮説)化する。 12. その他律的環境への反エントロピーの敷延は、自己矛盾として生じる環境を、その先入たる仮説的時空性に於ける個体的有限性を、超越する意志化により補償するものである。 13. 換言すれば、真理の限界は、愛により補完され得る。 14. 先述の要素との対応に於いて、真理とは認識の深化であり、愛とは社会的生産への意志に他ならない。 15. 宇宙の原理的本質は、自我成立の為の相補であり、そこに於ける完全な自覚に基づく完全な意志は、真の環境としての無限性=完全な自由を保証される。 16. この、利己と利他、あるいは唯物と唯心を包含した、完全な“自己”完結的過程には、金や地位といった外的価値、また主義・宗教他いかなる権威も介在し得ない。 17. 我等は、愛によって真理を成し、真理に於いて愛を為し、而して幸福なるべくのみ存在するものである。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 と思う所と ?(はてな)と思うところとありますねえ かなり気合が入ってる気はしますが 言葉の意味も私の使い方と違うところもあります しかし今回 愛と真理 と言う事で、この宣言を紹介して下さった事に感謝したいと思います。 どうも大変ありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.9

ある王の言葉に、私はたとえ裏切られようとも、その人を信じた自分自身を裏切らない、故に私は信じる。と言うような台詞のあったのを思い出しました。 王道とはどういうものかを語っているように思います。 ユニコさんは(本当は)どのようでありたいのか、自分自身に問うてその答えを見出したなら、何に頼らずとも、真っ直ぐ歩いて行けるのではないですか。

yuniko99
質問者

お礼

私が真っ直ぐ歩くか、千鳥足で歩くかではありません 私は生きていても死んでもいいのです どうせ何時かは死ぬんだから。 問題は人間を不条理や悩み迷い苦しみから救えないかと言う事です。 その為だけに生きてきました。お陰で独身で病気です 私は王ではなく 底辺の人間ですから それなりの生き方をします 何とかならないか 考え考え日が暮れる。。 どうもありがとうございます。

回答No.8

補足に回答する。 「随分と哲学者を並べ立てるが、それはみんな昔の人が考えたこと、今の日本のあなたが考えたことじゃないじゃないの?」 ・・・・・その言葉は、そのままあんたにお返しするよ。 だったら、どうしてあんたはキルケゴールがこう書いていました、とか、ヤスパースが限界状況といっていましたとか、ニイチェが「神は死んだ」といっていましたとか、サルトルは「人間は自由という刑に処せられている」と言いました、だなんて、知りもしないのに、「随分と哲学者を並べ立て」たりして質問するのか? 「それはみんな昔の人が考えたこと」じゃないのか? 私に対する批判は、自分にそのまま跳ね返ってくる。 それを「天に唾をする」という。 「自分の頭で考えた哲学と、図書館中を読み漁った哲学と、どちらが未来を切り開く可能性があるのか? それは分からないよ」 ・・・・・というが、あんたみたい哲学書を読まずに、自分で考えた自分勝手のデタラメを哲学と勘違いするよりも、私みたいに蔵書を2万冊持って、毎日哲学書を読むことを日課として日々哲学書と格闘している人間の方が、少なくとも、あんたのようにデタラメを言っていることに比べたら、よほどましだ。 「温故知新」という言葉がある。 過去の哲学を学び、過去の哲学者が何を考えたかを知らずして、どうして未来を開くことが可能だというのか? 哲学をやるというのは、過去の哲学者が何を考えたかを知って、現在を知り、それを未来に生かすことです。 そのために、みんな哲学をやっているのではありませんか? 過去の哲学者の書いた古典を、逐一、一つ一つ解釈する、それ以外に哲学する方法はありません。 そしてそのようなことをしているのは今のところ大学しかありません。 私はカント学者の中島義道が、どのように哲学の講義をしているか、それを本で読みましたが、サルトルならサルトルの著作を一行づつ読み上げては解釈し、学生と質疑応答していました。 たった1頁を解釈するのに1週間もかかっていました。 あなたにそんな哲学の講義を受けた経験がありますか? 私は昔カント全集をそろえて隅から隅まで読み、理解するのに10年間かかりました。 哲学を学ぶということは大変な歳月が必要なのです。 毎日、毎日、哲学書と格闘して、哲学書と対話して、こう言っているけど、それは間違いなのではないか、と思ったり、ああ、そういうこともあるのかと新たな発見をしたり、そういうことを繰り返しながら、哲学を学んでゆくのです。 私はヤフーの知恵袋で、学生さんが大学の課題として出された問題が質問されると、詳しく回答して教えてあげています。 誰も回答できない問題を私が一人で回答しています。 だから学生さんから感謝されて、とても助かりました、とお礼をもらっています。 たしかに、昔の人の言ったことには違いありませんが、それだって学生などは知らないのです。 それを私が教えているのですから、役に立っているのではありませんか? 私はキルケゴールもニイチェもサルトルも詳しいですよ。 詳しいから、学生さんの質問に詳細に回答できるのです。 「ポスト宗教、今何を信じていますか? 愛と真理の、あれか、これか?」 ・・・・・なんて少女雑誌のキャッチ・フレーズや、また、ハーレクィン・ロマンスじゃあるましい、そんな甘ったるい質問をするなんて、あんたはよほどボケているんじゃないか? 今のイラクを見ろ! 今の時代ほど、宗教が盛んな時代は無いし、宗派対立があって宗教戦争をしている時代はこれまで一度もない。 ポスト宗教どころではない、宗教の真っただ中じゃないか? そんな質問するあんたは、世間ずれした、世界情勢も知らない、アンポンタンか? もっと、その空っぽの頭で、目をかっぽじって、世界を見たら? どこがポスト宗教なのか?

yuniko99
質問者

お礼

この回答消えませんねえ。 故人の跡を求めず、故人の求めたるところを求めよ。 何で哲学をするのに本を読み漁らなければならないのですか?それが分からない。 自分で考えられないのでしょうか? 存在は内容がなく無に等しい?何という結論だろうか?何かを勘違いしてるんじゃないのか? まるで点の面積を求めて 無に等しい と言ってる様なものだ 神は死んだ。答えの出せない 難しいばかりで殆どの人を救えない哲学群は死んだのだ。 本当に人間が如何に生き、如何に存在するか、と言う事を苦しむ人々を救うべく 人口爆発の世界をどうするかの答えを導くべく 新しく考える。 文句があるなら対案を示してください。人口爆発や戦争からどうやって人間を救うのかを哲学せよ。 >私はヤフーの知恵袋で、学生さんが大学の課題として出された問題が質問されると、詳し>く回答して教えてあげています。 >誰も回答できない問題を私が一人で回答しています。 >だから学生さんから感謝されて、とても助かりました、とお礼をもらっています。 成る程。 どうもありがとうございます。

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