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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?)

友のために自分の命を捨てる・・・愛

このQ&Aのポイント
  • 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
  • 聖句から分かるところによると、友のために命を捧げることは最も偉大な愛だとされています。
  • イエス自身も友のために命を捧げることを実践し、その行為は愛の表現とされています。

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noname#194087
noname#194087
回答No.5

質問題から、三浦綾子さんの「塩狩峠」を思い出しました。 峠を逆走する機関車を、身体ごととめて自死した主人公の生き方は、 「友のために命を捨てる愛」だったんじゃないでしょうか。 「友」は特定の友ではなく、全ての隣人でしょうか。 主人公はクリスチャンで、実話をもとに書かれた小説のようですね。 小説の冒頭にある、聖書の言葉が印象的でした。 一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、 もし死なば、多くの果を結ぶべし。 (新約聖書 ヨハネ伝 第12章 24節) 麦で思い出しましたが、 子供の頃、義農作兵衛の話(四国)を聞いたことがあります。 江戸時代の飢饉で、餓死者多数。 作兵衛も餓死寸前でしたが、枕袋の麦種は食べずに残しました。 翌年、その麦種が蒔かれ、多くの命が救われたという話です。 宗教家でも哲学者でもなく、キリスト教的にどうなのかわかりませんが、 このような自死は、残された者のなかに生きているような気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 dr24 さん こんばんは。はじめまして。ご回答をありがとうございます。  ふたつの実例を出していただきました。  ◆(三浦綾子:塩狩峠) ~~~~~    http://www.zusi.net/meisaku/siokari/miura.htm  塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある険しく大きな峠である。    明治四十二年二月二十八日の夜、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめた。偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野は殉職、乗客は救われた。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  (1‐3) ・・・はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ありましたね。はっきりとした実例であるようです。  うたがうとすれば――哲学は何ごとでもうたがうことから始まりますから―― もし列車がそのままあとずさりして行ったらどうなっていたか? やがて来る次の列車と衝突してしまうでしょうか?  長野氏も生きて欲しかったのですが ほかに方法はなかったでしょうかねぇ。なかったのでしょうねぇ。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~   (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  ~~~~~~~~~~~  ☆ という疑いあるいは公理も もはやかすんでしまうということでしょうか。  もうひとつの実例があるのですね。  ◆(ヰキぺ:作兵衛) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E5%85%B5%E8%A1%9B  享保の大飢饉で松山藩は深刻な飢饉に見舞われた。特に筒井村の被害は甚大で、多くの餓死者を出た。  作兵衛も父と息子を亡くし、自身も飢えて動けなくなってしまった。  村人は作兵衛が麦の種もみを俵に詰めて枕にしているのを見て、それを食べることを勧めたが、作兵衛は聞かず、「農は国の本である。種は農の本である。わずかの日生きる自分が食べてしまって来年の種をなくすわけにはいかない」と、言い残して飢え死にしてしまった。  村人たちは作兵衛の残した種籾で次の年を乗り切ったという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 作兵衛も生き ほかの村人たちも生きる方法を模索しなければならないでしょうね。基本は。  どうなんでしょうね。  (お茶をにごすかたちにて すみません)。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄のあと したためます。  dr24 さん あらためましてこんにちは。  さて ここでは質問者は――質問者の役目を果たすためだと思っているのですが―― 言ってみれば悪魔の役を引き受けてさらに問い求めをつづけたいと思いました。  (あ) 《塩狩峠》の主人公の長野政雄は キリスト者だったようですが かれはそのように《後退し始めた客車を身を投げ出して 止めようとした》のは 聖句《友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》を知っていて その言葉どおりを実行したか?  (い) 《線路の上に身を投げ出せば 列車は止まる》と考えたか? そう思って実行したか?  (う) 線路の上に 列車を止めるによい石を見つけてそれを置くといったことは考えなかったか? ほかの方法はなかったか? 考える時間がすでになかったか?  (え) まさかかれが 《身を投げ出して列車を止めることが出来れば 死んだとしても おれは災害を防ぎ皆を助けることが出来るからには 英雄である。へっへ。》などと思うことはないだろうが 果てさて その最後の瞬間にかれ長野政雄は いったい何を思ったか? 何を思ったとあなたは考えるか?  (お) 列車が止まって被害をこうむらずに済んだ乗客らは この結果を見知って どう思ったか?  (か) 松山藩筒井村の作兵衛たちは 飢饉に際して そこら中にある食べられるものはぜんぶ食べるということをこころみたか? 魚は獲れなかったのか? 田んぼや川の蛙でも田螺でも 草でも森の木の皮でも 食べることをこころみたか?  (き)  ▲ 《村人は作兵衛が麦の種もみを俵に詰めて枕にしているのを見て、それを食べることを勧めたが・・・》  ☆ というように とうぜん 人びとは《共生》を図ったはずである。もう なすすべはなかったか?  (く) ★ ~~~~~~   江戸時代の飢饉で、餓死者多数。   作兵衛も餓死寸前でしたが、枕袋の麦種は食べずに残しました。   翌年、その麦種が蒔かれ、多くの命が救われたという話です。   ・・・   このような自死は、残された者のなかに生きているような気がします。   ~~~~~~~~~~   ☆ 単純に尋ねるのですが 《残された者たち》は それぞれどういう思いを持ったのでしょう? 《負い目》を感じることは なかったか?  (け) 負い目を感じることになると誰かさとく前もって予測した場合には 作兵衛をして 殴ってでもけんかをしてでも その種籾を食べるようにさせた。か?   (こ) 自分も生きおまえも生きるという道を模索するのが 絶対命令であるかないか?

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その他の回答 (22)

回答No.13

補足にて失礼します。 *質問者さまの(4)の問いが、 私をしてちょっと不穏な(?)書き手にしてしまいました。 「ありがた迷惑」とおもうような「人」のためには、 はなから死なないと考えていいのではないでしょうか。 「友」であるならば、友の死をそうとってはいけない、と。 友の死とともに精一杯生きればいい。 それしか「報い」ようがないです。 *太宰治は「走れメロス」の最後で、いろいろな「しがらみ」を超えて、 もっと「大きな」もののために「走る」と書いていたと記憶します。 大いなるもの(前便では、それを理想と言ってみました)に没入して、 メロスは「前をはだけて」しまいl、最後に、小さな娘さんにそれを指摘され、 おおいに照れていたように思います。太宰特有の「含羞」です。 それは「大いなるもの」に触れたとする「自尊(おもいあがり」への「含羞」です。 *ヨハネ福音書では、 「友」とは「私の命じることを行なう」者のことと、 「私」は「イエス」でその「父(大文字)」がたぶん「神」である、と いわば定義されているようです。(15章14節) とすれば、「友」のためとは「神」のためということでもあるようです。 聖書のような「古典(伝承)」は、近代のような「作者」がいないだけでなく、 それを「聞いていた」民衆自体に若干の「作者性」があって、 むずかしいです。 「友」とか「神」が実際は何を指すかもはっきりとは分からないところがあります。 *わたしの「友」の「定義もどき」は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』から学んだものです。 アリストテレスは「徳」のひとつとして「友情」を論じていますが、 それとて、当時の民衆の理解領域において成立していた「友情観」が土台にあってのことです。 聖書のこの一節で「友(フレンド)」となっているのは「敵」に対する「友」という意味域で言われているのかもしれません。 いずれにせよ、当時の民衆のメンタリティーに届かない語は選ばれていないでしょうし、 ギリシャ思想からの影響といっても、いちがいに的外れとは断じ切れないとも。 *分身は他人であるのは―― 他人とは、都会の喧噪のなかにいる名も知らない人のことでも、テレビにうつる下品なタレントのことでもありません。 そういう人はどうでもいい人です。 「他人」が「他人」であるとは―― たとえば「わが娘」のなかにこそ「私にとっての他人」が潜んでいます、 私には及びがたいという「領域」こそが「他人」なのだということです。 どうでもいい世間のひとは「他人」ですらありません、「他人以前」です。 *ギリシャ的な発想では、「友情」には格別の重みがあります。 ですから、質問者さまのような「疑問」はあまり感じないです。 それをギリシャ風に解いてみたかったですが、前便では失敗でした。 これくらいで失礼します。 お礼は要りません――長文のお礼に、また補足するのは嫌ですから(苦笑)。

bragelonne
質問者

お礼

 (二件の回答のどちらかが削除されるおそれがありますので こちらにも書き込みを載せます)。  めざんふぁんさんと名乗っておられるだけに わが子を凍死から守った父親の話が注目されたのでしょうかさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  このスレッドとして質問者から独り言を述べます。  アリストテレスについては 分かりません。中庸なりデュナミス・エネルゲイアなりエンテレケイアでしたかなりの概念をひととおり覚えてなんとか人さまについて行こうかとしていますが  ★ アリストテレスは「徳」のひとつとして「友情」を論じていますが、  ☆ については つけ刃をすることはうっちゃって うまく反応することが出来なくてもうしわけありませんとお伝えします。  ★ それとて、当時の民衆の理解領域において成立していた「友情観」が土台にあってのことです。  ☆ これは 《愛》がふつうの生活日常の考えや振る舞いに根差しているといった見方に通じていると見てもよろしいでしょうか。  ただし  ★ 聖書のこの一節で「友(フレンド)」となっているのは「敵」に対する「友」という意味域で言われているのかもしれません。  ☆ これは――アリストテレスを別としてですが―― あくまで旧約聖書の時代のことだと考えられます。  民族の中では互いにはらからとして 平等にあつかわれても一たんよそ者となると 殺し合いにまで容易に発展しかねませんから モーセの律法のもとでは。  言いかえると 《友ないし となりびと》というのは もう民族なり国なりの境界はなくなったことを意味するはずです。  あっ そういう意味では 聖書における愛は いくらかストーカーまがいのねちっこさが見られるかも知れません。《例外》をみとめませんから。  ★ ~~~~~~  いずれにせよ、当時の民衆のメンタリティーに届かない語は選ばれていないでしょうし、  ギリシャ思想からの影響といっても、いちがいに的外れとは断じ切れないとも。  ~~~~~~~~  ☆ ユダヤ人のあいだのナラワシだけではなく ギリシャ人のあいだのそれも 或る種の仕方で考え方の土壌になっているのではないかということですね。分かりました。     *  さて もし〔必ずしも適切ではありませんが ねばりづよさという意味において〕ストーキング行為に近い内容が《愛 あるいは となりびとになること》にあるとすれば この愛は――自分をよく思ってくれている人をよく思ってもたいしたことはないのですから―― 憎み合う相手をあたかも自分のごとくによく思いよく振る舞うことを確かに言おうとしているようです。  と思って ご回答を読んでそのご見解を読み解こうとするとき 聖書の愛における《ストーキング行為性》が となりあう人びとに向けて割り振られるとするなら それは ヨコへのストーカー行為ですが どうも めざんふぁんさんの場合には あたかもタテ関係におけるストーカー行為であるように思われました。  こうです。すなわちたとえば  ★ 太宰治における《大いなる理想 / 大いなるもの》  ☆ を 不必要にならず必要なかぎりでよく問い求めるといった・内面へのストーキング行為が そうだとすれば うかがい知られるからです。  内面におけるタテ方向でのねばりづよさ ではないでしょうか?  となり人に成ることは ヨコ関係におけるねばりづよさです。     *  ★ ~~~  太宰特有の「含羞」です。  それは「大いなるもの」に触れたとする「自尊(おもいあがり」への「含羞」です。  ~~~~~  ☆ タテ方向におけるいと高く気高きものへのあこがれは へりくだって恥づかしそうに主張するということでしょうか。  ヨコ関係における《隣り合わせ ないし要するに おつきあい》は 堂々と積極的に高ぶりのもとにおいてさえ しかもすっぽんのごとく食い下がることさえ仕出かす愛です。      *  ▲(ヨハネ福音15:9-11) ~~~~  9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。  10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。  11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 任意に区切って引きましたが ここで注意をせねばならないことがあると考えます。  ちょうどタテとヨコとの方向性の捉え方にかかわっているはずです。   ○ タテの方向性    ・父なる神      |    ・子なる神    あるいは    ・神(父と子と聖霊)      |    ・ひと    さらにあるいは    ・子なる神=キリスト      |    ・イエスなる人   ○ ヨコの方向性    ・イエス――弟子たち――人びと一般  ☆ すなわち引用句では イエスが《わたし》と自称して語っていることに間違いないわけですが それでは  ▲ 9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。  ☆ というとき この《父》と《わたし》とは 父は神であると分かっていますが 《わたし》は 人間イエスかそれとも子なる神キリストか〔あるいは 両者の一体となったキリスト・イエスなる存在か〕 これをはっきりさせる必要があると思われます。    イエス・キリストが《わたし》とそして《あなたがた》というとき それは タテの関係かそれともヨコのそれか?  《わたしの愛にとどまりなさい》というその愛とは ヨコ関係かそれとも顔を赤らめて言おうと思えば《いと高きにいます大いなるもの》とのタテの関係なのか? もし後者ならその愛はすでに 人間の思考や能力や努力を超えていると言わねばなりません。そのゆえです。        *  ★ ~~~~  「他人」が「他人」であるとは――  たとえば「わが娘」のなかにこそ「私にとっての他人」が潜んでいます、  私には及びがたいという「領域」こそが「他人」なのだということです。  どうでもいい世間のひとは「他人」ですらありあません、「他人以前」です。  ~~~~~~  ☆ この定義ないし説明は分かりましたが ここでも《ヨコ関係への罪のないストーカー行為》は打ち捨ててしまうことはないわけです。  《他者》というのは   (あ)その相手の内に自分と同じ考えや行為の形式が見て取れたときのその内容を言うのか。あるいは  (い) むしろそのように共通の心的内容を別としてそのほかの・いまだ分からない何かを想定し予期するその内容を言うのか。それとも  (う) これら(あ)および(い)の両方をまとめて言っているのか。  だと思いますが (い)を特に取り立てて 言わば人間の人間性の中にも潜むかに考えられるナゾ――容易にはほかの者からは《及びがたいという領域》――を言おうとしておられるようです。  つまりは この《他者》にしても 聖書記者たちの記したところでは ヨコにどこまでも伸びて行けということのようなのです。  へびのごとく しつっこく それでも はとのようにおとなしくですが  ★ ~~~~  *分身は他人であるのは――  他人とは、都会の喧噪のなかにいる名も知らない人のことでも、テレビにうつる下品なタレントのことでもありません。  そういう人はどうでもいい人です。  ~~~~~~~  ☆ というような人たちを一人残らずふくむということのようなのです。  それでは。いつかまたお会いするかも知れません。

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回答No.12

補足にて失礼します。 *質問者さまの(4)の問いが、 私をしてちょっと不穏な(?)書き手にしてしまいました。 「ありがた迷惑」とおもうような「人」のためには、 はなから死なないと考えていいのではないでしょうか。 「友」であるならば、友の死をそうとってはいけない、と。 友の死とともに精一杯生きればいい。 それしか「報い」ようがないです。 *太宰治は「走れメロス」の最後で、いろいろな「しがらみ」を超えて、 もっと「大きな」もののために「走る」と書いていたと記憶します。 大いなるもの(前便では、それを理想と言ってみました)に没入して、 メロスは「前をはだけて」しまいl、最後に、小さな娘さんにそれを指摘され、 おおいに照れていたように思います。太宰特有の「含羞」です。 それは「大いなるもの」に触れたとする「自尊(おもいあがり」への「含羞」です。 *ヨハネ福音書では、 「友」とは「私の命じることを行なう」者のことと、 「私」は「イエス」でその「父(大文字)」がたぶん「神」である、と いわば定義されているようです。(15章14節) とすれば、「友」のためとは「神」のためということでもあるようです。 聖書のような「古典(伝承)」は、近代のような「作者」がいないだけでなく、 それを「聞いていた」民衆自体に若干の「作者性」があって、 むずかしいです。 「友」とか「神」が実際は何を指すかもはっきりとは分からないところがあります。 *わたしの「友」の「定義もどき」は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』から学んだものです。 アリストテレスは「徳」のひとつとして「友情」を論じていますが、 それとて、当時の民衆の理解領域において成立していた「友情観」が土台にあってのことです。 聖書のこの一節で「友(フレンド)」となっているのは「敵」に対する「友」という意味域で言われているのかもしれません。 いずれにせよ、当時の民衆のメンタリティーに届かない語は選ばれていないでしょうし、 ギリシャ思想からの影響といっても、いちがいに的外れとは断じ切れないとも。 *分身は他人であるのは―― 他人とは、都会の喧噪のなかにいる名も知らない人のことでも、テレビにうつる下品なタレントのことでもありません。 そういう人はどうでもいい人です。 「他人」が「他人」であるとは―― たとえば「わが娘」のなかにこそ「私にとっての他人」が潜んでいます、 私には及びがたいという「領域」こそが「他人」なのだということです。 どうでもいい世間のひとは「他人」ですらありあません、「他人以前」です。 *ギリシャ的な発想では、「友情」には格別の重みがあります。 ですから、質問者さまのような「疑問」はあまり感じないです。 それをギリシャ風に解いてみたかったですが、前便では失敗でした。 これくらいで失礼します。 お礼は要りません――長文のお礼に、また補足するのは嫌ですから(苦笑)。

bragelonne
質問者

お礼

 めざんふぁんさんと名乗っておられるだけに わが子を凍死から守った父親の話が注目されたのでしょうかさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  このスレッドとして質問者から独り言を述べます。  アリストテレスについては 分かりません。中庸なりデュナミス・エネルゲイアなりエンテレケイアでしたかなりの概念をひととおり覚えてなんとか人さまについて行こうかとしていますが  ★ アリストテレスは「徳」のひとつとして「友情」を論じていますが、  ☆ については つけ刃をすることはうっちゃって うまく反応することが出来なくてもうしわけありませんとお伝えします。  ★ それとて、当時の民衆の理解領域において成立していた「友情観」が土台にあってのことです。  ☆ これは 《愛》がふつうの生活日常の考えや振る舞いに根差しているといった見方に通じていると見てもよろしいでしょうか。  ただし  ★ 聖書のこの一節で「友(フレンド)」となっているのは「敵」に対する「友」という意味域で言われているのかもしれません。  ☆ これは――アリストテレスを別としてですが―― あくまで旧約聖書の時代のことだと考えられます。  民族の中では互いにはらからとして 平等にあつかわれても一たんよそ者となると 殺し合いにまで容易に発展しかねませんから モーセの律法のもとでは。  言いかえると 《友ないし となりびと》というのは もう民族なり国なりの境界はなくなったことを意味するはずです。  あっ そういう意味では 聖書における愛は いくらかストーカーまがいのねちっこさが見られるかも知れません。《例外》をみとめませんから。  ★ ~~~~~~  いずれにせよ、当時の民衆のメンタリティーに届かない語は選ばれていないでしょうし、  ギリシャ思想からの影響といっても、いちがいに的外れとは断じ切れないとも。  ~~~~~~~~  ☆ ユダヤ人のあいだのナラワシだけではなく ギリシャ人のあいだのそれも 或る種の仕方で考え方の土壌になっているのではないかということですね。分かりました。     *  さて もし〔必ずしも適切ではありませんが ねばりづよさという意味において〕ストーキング行為に近い内容が《愛 あるいは となりびとになること》にあるとすれば この愛は――自分をよく思ってくれている人をよく思ってもたいしたことはないのですから―― 憎み合う相手をあたかも自分のごとくによく思いよく振る舞うことを確かに言おうとしているようです。  と思って ご回答を読んでそのご見解を読み解こうとするとき 聖書の愛における《ストーキング行為性》が となりあう人びとに向けて割り振られるとするなら それは ヨコへのストーカー行為ですが どうも めざんふぁんさんの場合には あたかもタテ関係におけるストーカー行為であるように思われました。  こうです。すなわちたとえば  ★ 太宰治における《大いなる理想 / 大いなるもの》  ☆ を 不必要にならず必要なかぎりでよく問い求めるといった・内面へのストーキング行為が そうだとすれば うかがい知られるからです。  内面におけるタテ方向でのねばりづよさ ではないでしょうか?  となり人に成ることは ヨコ関係におけるねばりづよさです。     *  ★ ~~~  太宰特有の「含羞」です。  それは「大いなるもの」に触れたとする「自尊(おもいあがり」への「含羞」です。  ~~~~~  ☆ タテ方向におけるいと高く気高きものへのあこがれは へりくだって恥づかしそうに主張するということでしょうか。  ヨコ関係における《隣り合わせ ないし要するに おつきあい》は 堂々と積極的に高ぶりのもとにおいてさえ しかもすっぽんのごとく食い下がることさえ仕出かす愛です。      *  ▲(ヨハネ福音15:9-11) ~~~~  9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。  10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。  11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 任意に区切って引きましたが ここで注意をせねばならないことがあると考えます。  ちょうどタテとヨコとの方向性の捉え方にかかわっているはずです。   ○ タテの方向性    ・父なる神      |    ・子なる神    あるいは    ・神(父と子と聖霊)      |    ・ひと    さらにあるいは    ・子なる神=キリスト      |    ・イエスなる人   ○ ヨコの方向性    ・イエス――弟子たち――人びと一般  ☆ すなわち引用句では イエスが《わたし》と自称して語っていることに間違いないわけですが それでは  ▲ 9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。  ☆ というとき この《父》と《わたし》とは 父は神であると分かっていますが 《わたし》は 人間イエスかそれとも子なる神キリストか〔あるいは 両者の一体となったキリスト・イエスなる存在か〕 これをはっきりさせる必要があると思われます。    イエス・キリストが《わたし》とそして《あなたがた》というとき それは タテの関係かそれともヨコのそれか?  《わたしの愛にとどまりなさい》というその愛とは ヨコ関係かそれとも顔を赤らめて言おうと思えば《いと高きにいます大いなるもの》とのタテの関係なのか? もし後者ならその愛はすでに 人間の思考や能力や努力を超えていると言わねばなりません。そのゆえです。        *  ★ ~~~~  「他人」が「他人」であるとは――  たとえば「わが娘」のなかにこそ「私にとっての他人」が潜んでいます、  私には及びがたいという「領域」こそが「他人」なのだということです。  どうでもいい世間のひとは「他人」ですらありあません、「他人以前」です。  ~~~~~~  ☆ この定義ないし説明は分かりましたが ここでも《ヨコ関係への罪のないストーカー行為》は打ち捨ててしまうことはないわけです。  《他者》というのは   (あ)その相手の内に自分と同じ考えや行為の形式が見て取れたときのその内容を言うのか。あるいは  (い) むしろそのように共通の心的内容を別としてそのほかの・いまだ分からない何かを想定し予期するその内容を言うのか。それとも  (う) これら(あ)および(い)の両方をまとめて言っているのか。  だと思いますが (い)を特に取り立てて 言わば人間の人間性の中にも潜むかに考えられるナゾ――容易にはほかの者からは《及びがたいという領域》――を言おうとしておられるようです。  つまりは この《他者》にしても 聖書記者たちの記したところでは ヨコにどこまでも伸びて行けということのようなのです。  へびのごとく しつっこく それでも はとのようにおとなしくですが  ★ ~~~~  *分身は他人であるのは――  他人とは、都会の喧噪のなかにいる名も知らない人のことでも、テレビにうつる下品なタレントのことでもありません。  そういう人はどうでもいい人です。  ~~~~~~~  ☆ というような人たちを一人残らずふくむということのようなのです。  それでは。いつかまたお会いするかも知れません。  

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  • kurinal
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回答No.11

門外漢ですが。 >「ありがた迷惑」 神との関係は「1対1」で、他者は「(へ)」だとか。

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  まづは くりなるさん ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・他者は「(へ)」だとか。  ☆ の《「(へ)」》って 屁の河童のへですか?  ★ >「ありがた迷惑」  ☆ との関連としてですよね。  そして  ★ 神との関係は「1対1」で  ☆ すよね。このとき 神とわたしの関係は じつに 他者とわたしの関係と同じことになると捉えています。  その他者にあっても わたしの中にある《神とわれとの関係》が そっくりそのままあると思われるからです。  こういう内容だったでしょうか?  

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回答No.10

参考にはならないかもしれません。 私は俗人です。 聖書が「きらい」なのは、どうにでも読めるからです。 ――彼女はボクをばかにした、 ――ってことは、ボクに惚れてるということ、 この論理(ストーカーの)が聖書です、 jこういえば、世の(ヨーロッパの)信者は目をむくでしょうけれど、 なぜ、人はこれほど愛に飢えるのか―― それは、自分は根源的に愛されない存在であるとの裏返しであり、 それをどうエレガントに表現するかにつきていると私には思えます。 さて、質問ですが、 「友のために死するのが最高の愛」 かいなかでした、 では逆に それ以上の愛があるのかとの詰問とみなしうるわけです、 先日、北海道で「幼い娘の為に凍死」した父親がいました。 あの父親は、たぶん、(死ぬ瞬間に救出のサイレンでも聞こえていたら、自分は死んでいくけれど)最高の笑みをうかべて死んでいったろうと思われます。 だから、娘さんは、何もなやまないでいいです、父とはそうしたものですから。 それは「愛」というような、ごたいそうなものじゃないんじゃないか、 それは、ただそうするしかなかった、それ以外のことが思いつかなかった。 さて、「友のために死する」ですが、 友とは、私の考えでは、どうも、「私の究極の他人でありながら、私の分身」であります。 そのために「死する」、とは 友の死とは、すなわち、私の死です(友が分身であるなら)、 ですが、北海道のおとうさんのように、 いろんなご託をのべずに、黙って死んでいくことと、 (娘さんは分身なのだから当然と思うでしょうか) (でも究極の他人であるともみなせます) そうではなく友のためにという「大いなる理想」(太宰治がきらったことですが)のために死を覚悟せよ、 という人間存在の根本にある責めを問うているのでしょう。 ですが、ここでは、 ではだれの為に「死ぬ」のが、尊いのかという、 選別の思想を指摘してみたいです。 私たちが自分の死を捧げるのは、だれの「ため」なら云々かんぬん、 確かに、よく考えれば、 (娘や息子のためではなく)友のために死ぬ のが理想(えらいの)かもしれません。 ですが、それを強いるその心性が私には、 最初に述べたように、うっとおしいです。 参考にはなりませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 めざんふぁんさん こんばんは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  ★ 先日、北海道で「幼い娘の為に凍死」した父親がいました。  ●(9歳・一人娘温め続けた父親、凍死…北海道) ~~~~  http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0304/sph_130304_3312252578.html  最低気温氷点下6度、最大風速15メートルの暴風が吹き荒れる中、父親は幼い娘の命を守り抜いて息を引き取った。  道警遠軽署によると、湧別町の漁師・岡田幹男さん(53)と夏音(なつね)ちゃん(9)は2日午後4時頃、暴風雪の中を軽トラックで自宅を出た後、行方不明になった。同9時35分頃、車は自宅からわずか約500メートルの町道で発見。そして3日午前7時過ぎ、車から300メートル離れた牧場の敷地内で雪に埋もれた2人が見つかった。  ジャンパー姿の岡田さんは倉庫の扉と自分との間にスキーウエアを着た夏音ちゃんを入れ、抱き締めるように覆いかぶさった状態で発見され、後に凍死と確認。夏音ちゃんは意識があり、捜索隊の問い掛けに泣き声を上げたが、軽度の凍傷のみで命に別条はなかった。  車が動かなくなった後、助けを求めるために最寄りの農家を目指して歩いたが、ホワイトアウト(視界が雪に覆われ、方向感覚を失う状態)となった現場で、豪雪に行く手を阻まれたものとみられる。  湧別漁業協同組合によると、岡田さんは2年前に病気で妻を亡くし、夏音ちゃんと2人暮らしをしていた。両親も既に他界しており、家事と仕事を男手一つで両立。40代半ばになってできた娘を宝物のように大切にしていたという。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 次のような見方をなさっている。  ★ ~~~~  あの父親は、たぶん、(死ぬ瞬間に救出のサイレンでも聞こえていたら、自分は死んでいくけれど)最高の笑みをうかべて死んでいったろうと思われます。  だから、娘さんは、何もなやまないでいいです、父とはそうしたものですから。  それは「愛」というような、ごたいそうなものじゃないんじゃないか、  それは、ただそうするしかなかった、それ以外のことが思いつかなかった。  ~~~~~~~  ☆ 夏音ちゃんは 心配も悩みもしなくてよい。ですね。  かまくらをつくることは出来なかったかなぁというのは 少し前に悪魔の役をした余韻であります。  ★ 友とは、私の考えでは、どうも、「私の究極の他人でありながら、私の分身」であります。  ★ ~~~~  友のためにという「大いなる理想」(太宰治がきらったことですが)のために死を覚悟せよ、  という人間存在の根本にある責めを問うているのでしょう。  ~~~~~~~  ☆ ここらへんは うまく読み解けなかったところです。  (あ) 《究極の他人である》者が 《わが分身》である。ですか? むつかしいですね。ただただ むつかしいように思います。  (い) 誰もが――いわゆる《関係の絶対性》において例外なく―― 《互いにとなり合っている》というようなことでしょうか?  (う) 《大いなる理想》かどうかを措いて考えますが 《人間存在の根本にある責めを問う》。ですか?  これも むつかしいのですが これは なぜ《責め》が人間にあるのだろう? という問いを持っての分かりづらさです。    ★ ~~~~  ではだれの為に「死ぬ」のが、尊いのかという、  選別の思想を指摘してみたいです。  私たちが自分の死を捧げるのは、だれの「ため」なら云々かんぬん、  ~~~~~~  ☆(え) 上の(い)では 《選別》はないと見たのですが その解釈は的をはづしましたか?  ★ ~~~~  確かに、よく考えれば、  (娘や息子のためではなく)友のために死ぬ  のが理想(えらいの)かもしれません。  ですが、それを強いるその心性が私には、  最初に述べたように、うっとおしいです。  ~~~~~~   ☆ ということは 聖書の思想についての批判となりましょうか。    すなわち  ★ ~~~~~  聖書が「きらい」なのは、どうにでも読めるからです。  ――彼女はボクをばかにした、  ――ってことは、ボクに惚れてるということ、  この論理(ストーカーの)が聖書です、  こういえば、世の(ヨーロッパの)信者は目をむくでしょうけれど、  なぜ、人はこれほど愛に飢えるのか――  それは、自分は根源的に愛されない存在であるとの裏返しであり、  それをどうエレガントに表現するかにつきていると私には思えます。  ~~~~~~~~~  ☆ ちょうど直前に次のような《愛》の定義が投稿されました。  ◆(回答No.9) ~~~  身内というか 隣人というか  喉が渇いたといえば 水を汲んできて飲ませてやる  お腹がすいたといえば 自分のパンをちぎって食べさせてやる  それが愛でしょう  ~~~~~~~  ☆ これと同じような規定が 聖書にもあると応えました。  ▲(マタイ福音25:35-36) ~~~  35:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、  36:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《牢にいる》というのは別かも知れませんが 要するに生活日常における《おつきあい あるいは 思いやり》 これを言っていますし これが基礎としていちばんだと言おうとしています。    ですから 《エレガント》ではないとしても 夏音ちゃんのお父さんと同じ《愛》がしめされており それは決して《ストーカー》の愛も論理も説かれてはいないように感じます。  ただ  ▲ 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ☆ については 読み解きあぐねています。  こんな感じでお応えすることになりました。(一時はどうなることかと思いつつ読んでいましたので)。

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noname#189751
noname#189751
回答No.9

ついに・・・ ばちあたりな あばうとは 聖なる言葉に(×)ばってんをつけてしまった きっと大きなばちがあたるにちがいない 友よたすけてくれ・・・ ごめん こんばんわ。 ちょっと真面目になろう・・と思って (〇)らしきものに書き変えてみた 友のために自分の命を捨てること、それは極限をおいた他には成し難い愛である 友のために自分の命を捨てること、それは信じ残しゆくものへの愛の深さを語る(一つ) こ-ゆう凸凹がいいと思っている なぜかというと 道路は常に凸凹だから 事実は概念に優先する という現実主義からいうと 真っ平な道路はないんです 理想という平坦は虚言でしかない・・となってしまう 身内というか 隣人というか 喉が渇いたといえば 水を汲んできて飲ませてやる お腹がすいたといえば 自分のパンをちぎって食べさせてやる それが愛でしょう 見ず知らずの人でも 被災して困っていると聞けば 古着や毛布でもよかったらと送ってやる お金もなくて困っていると聞けば 小銭にでもよければと募金してあげる それも愛でしょう そ-ゆう小さな実践にこそ本当の愛がある そ-した足元も忘れて >これ以上の愛はない・・・という言葉 おかしくありませんか? 愛とは 愛する こと 好きだとか、助けたい だとか思っているだけじゃ愛にならない 実践なんですよ 愛 に する がつかなくちゃ 愛にならない 実践してこそ 愛とは 量りえぬものと知ることができる そんな気がします。 理想は聖者におまかせいたしましょう ちっちゃくコツコツと 愛といえるほどでもない愛を せいぜい憎まれない程度に ばかといわれない程度に それでいいんじゃないかな~ >友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 映画でよくでてくるシーンですね こ-ゆう極限状態を作りださないこと の方が大切です そのためには何が必要か 小さな愛なんじゃないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 まづ  ★ ~~~~  身内というか 隣人というか  喉が渇いたといえば 水を汲んできて飲ませてやる  お腹がすいたといえば 自分のパンをちぎって食べさせてやる  それが愛でしょう  ~~~~~~~  ☆ このとおりだと思います。《となりびとに成る》ことだと思います。  と何より先に確認しておきつつ ごあいさつ申し上げます。ご回答をありがとうございます。  道端に半死半生のすがたで横たわっていた人を 自分は旅の途中であるゆえ 旅籠屋につれて行って 資金をそこの主人にあずけて介護を依頼した。  このお話でじゅうぶんだと思っています。《愛》として。  ★ ~~~  そ-ゆう小さな実践にこそ本当の愛がある  そ-した足元も忘れて  >これ以上の愛はない・・・という言葉  おかしくありませんか?  ~~~~~~  ☆ まぁ いま上の《死にかけている人の介護》の話も 同じくイエスが語っているということですから この《これ以上の愛はない》という表現の話だけに限られているということではないわけです。という全体としての見方は あり得ます。  ★ ~~~~~  理想は聖者におまかせいたしましょう  ちっちゃくコツコツと  愛といえるほどでもない愛を  せいぜい憎まれない程度に  ばかといわれない程度に  それでいいんじゃないかな~  ~~~~~~~  ☆ この個所の趣旨は じつは聖書にあると思います。  ▲(マタイによる福音書 25:31-40) ~~~~  34:そこで、王(=神)は右側にいる人たちに言う。   『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。  35:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、  36:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』  37:すると、正しい人たちが王に答える。   『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。  38:いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。  39:いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』  40:そこで、王は答える。   『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』  ~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち  ★ ~~~~~   >友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  映画でよくでてくるシーンですね  こ-ゆう極限状態を作りださないこと の方が大切です  そのためには何が必要か  小さな愛なんじゃないでしょうか。  ~~~~~~~~  ☆ と指摘される同じことが語られている。その上で・そのほかに 《友のためにうんぬん》も語り出されている。こういう恰好なのです。  分かりにくいですよね?

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noname#189751
noname#189751
回答No.8

こんばんわ。 答えというより感想なんですが・・ >友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 文章がどうも平坦に感じられます 別なところに主題があって、付け足しの言葉のように思うのはいけないことでしょうか? 或いは、平坦に、平明に書く必要があるという事に何らかの理由があるのではないのか? それはもしかしたら、宗教的文章という洗脳的な要素をもったものなのかもしれない 宗教文学ではなく、単なる宗教的文章、宗教的言葉として、奥行きを求めない読み方の方が返っていいのかもしれない・・ そうでないと、別な解釈をしなければならなくなる・・ といったところなんですが 悪くいえば >これ以上に大きな愛はない という言葉が虚しく感じられます 愛というものを限定してしまっているような感じがする また、さらに悪口が許されるならば この文章は、公案じみた逆さ言葉という解釈もできます これ以上の大きな愛はあるまい・・ どうなんだ? あるのなら言ってみろ・・ 言えまい。 という問いかけです 命を捨てる愛 それ以上の愛はない という平坦な表現をそのまま受け止めるのも正解の一つでしょうし 果たして真実の愛とは そうした一つの究極の形が至上であることを超えたものなのか?と疑うのも、別な正解なのかもしれない 愛とは言葉で表すことができる、という立場なら 「これ以上に大きな愛はない」となるでしょうし 愛とは言葉を超えたもの、という立場なら  愛とは量りえぬもの となるのでしょう さて、どちらをとりますか? 素直に洗脳されてみますか それとも・・ 私はひねくれているので 古典という一ページは素晴らしく、大切にとっておくべきとは思うが 愛とは自らが体験した分だけしか真実にはならない とすれば 量りえぬもの の一部が 知ることのできる愛である という立場に立ってみたい 私は平坦な表現に (×)ばってん です 愛を説く聖者よ お許しあれ・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  文脈のもんだいは No.3で出ました。次のように書きました。  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~  見てみますと このヨハネ福音15:13の文脈は 基本的には   ▲(ヨハネ福音15:17)  互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。  これを伝えようとしているくだりであるようです。そして《ぶどうの木》のたとえが出て来ています。イエスと人びととが一本のぶどうの木として一体になっているというかたちです。木から離れないようにということと そしてぶどうの木につらなって 人びとは互いに愛しなさいと伝えている。  そしてその《愛》とは 《友のために自分のいのちを捨てることほどの大きな愛はないのだ》と明らかにしている。   ~~~~~~~~~~~~~~~  文脈はそうとしても さらに 表現の形式の問題がある:  ★ 宗教文学ではなく、単なる宗教的文章、宗教的言葉として、奥行きを求めない読み方の方が返っていいのかもしれない・・  ☆ これは おもしろいと思います。  じっさい 表現の形式は 独特のものがあると言えばあるように思います。  《たとえ》が多いですし――《たとえ》で語っていると伝えていつつ その伝え方がさらになおタトエであるようにさえ見えます―― あるいは逆にまさにおっしゃるように 即物的な表現と言いますか 言葉どおりの意味しかないような形式もあるかと思います。(感覚的な捉え方に過ぎないかも分かりませんが)。  ★ ~~~~  といったところなんですが  悪くいえば  >これ以上に大きな愛はない  という言葉が虚しく感じられます  愛というものを限定してしまっているような感じがする  ~~~~~~~~  ☆ わたしもまさにこの表現に 意味の取りにくさを感じています。  なんで《友のために命を捨てること》を例に出すのか?  たしかにそこで人生が終わってしまうかたちなので 例示としては 出したほうがよいと思われますが それを《この上ないもの》と単純に言ってしまってよいのか? などなどです。  ★ ~~~~  また、さらに悪口が許されるならば  この文章は、公案じみた逆さ言葉という解釈もできます  ~~~~~  ☆ ん? これは思いつきませんでしたね。  ★ ~~~~  これ以上の大きな愛はあるまい・・  どうなんだ?  あるのなら言ってみろ・・  言えまい。  という問いかけです  ~~~~~~~  ☆ たしかに こういうふうに言えるかも分かりません:つまり 死んでしまうのだから もうそのあとでは 《愛》を行動で示そうにも かなわなくなっている。そういう意味でも 《この上ないもの》であるかも知れないと。  でも これだと(つまり わたしの解釈だと) 最高・最大の例になるかどうかは 判定していないことにもなります。よくありません。  ★ ~~~~  愛とは言葉で表すことができる、という立場なら 「これ以上に大きな愛はない」となるでしょうし  愛とは言葉を超えたもの、という立場なら  愛とは量りえぬもの となるのでしょう  ~~~~~~~  ☆ これはですね。これは ほとんど躊躇せずに 後者はない。ですね。  むろん《愛とは言葉を超えたもの、という立場》はあり得ますし 言うならば そのとおりです。《神の愛》は そうなのだと見られます。でも たぶん・感覚としては 《愛とは量りえぬもの となる》ようなかたちで語ることは ないような感じを持ちます。  《たとえ》は 一本のぶどうの木について 幹がイエスで 枝が弟子たちや人びとであるといった単純なかたちで物語るものと思われます。から。      ★ ~~~~  愛とは自らが体験した分だけしか真実にはならない とすれば  量りえぬもの の一部が 知ることのできる愛である という立場に立ってみたい  ~~~~~~  ☆ これはですね。上に述べたとおり――わたしの感覚では―― それが内容としてマチガイであると言うのではなく(じじつ そういうふうに言える命題であるはずです) 何て言いますか 論文や理屈を語るという形式は あまりないように思うからです。  もともと神とその信仰という 雲をつかむような話をしているのですから そこからさらに抽象的な表現を重ねることは しない。意識的にも避けていると思われます。  タトエですが 具象的に語ります。分かりにくい場合もありますが 意味が定まるように だいたいは 語ります。  わたしの結論は 出ていません。さだまった見解は持てていません。  ご回答内容についての反応は 次のようになります。一般論としてなら 受け容れますが 聖書の語りとしては 少なくとも表現形式にかんして 感じが違うように思います。理由説明が出て来ないのですが。  ★ 奥行きを求めない読み方  ☆ これはありうると思います。ひとつの候補とします。  わたしの趣味による判断に落ち入ってしまいましたが。

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noname#194087
noname#194087
回答No.7

こんばんは。 あまり哲学的でない回答に、コメントいただきありがとうございます。 >もし、列車がそのままあとずさりして行ったならどうなっていたか? 仮定の結果については、いろいろな物理的条件が絡むと思いますので、実際どうなっていたかは・・わかりません。線路の状況、後続車両があったのか、当時の無線や連絡状況など諸々。 (あ)~(お)ですが、小説を読んでのことですので。 その瞬間について、小説では以下のように書かれています。 「..たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。」 そして、純白の雪の上に信夫の鮮血が飛び散った。 小説の本質から感じたことを、No5で書いた次第です。 >作兵衛も生き、ほかの村人たちも生きる方法を模索しなければならないでしょうね。基本は。 その通りだと思います。 「美談」で終わらせるのではなく、背景(餓死者を多く出した藩の悪政)にも目を向けることが大切だと思います。 (か)~(こ)については、村人たちも説得したようですが、限界があったのでしょう。もし、当時、解決策があったとすれば、全国で大飢饉などなかったのでは。未発達な文明で、生産性など歴史的制約もあったかと思います。 余談ですが、「ギノー(義農)みそ」という味噌があります。 地元では、この味噌を使っている家庭が多いです。店頭に扱っている商品が多いのと、祖母・母世代が使っているので馴染みがあるからなのでしょう。 子供の頃、「義農作兵衛」の話を聞いた時、作兵衛さんが残してくれた麦からできた味噌なんだなと思いながら食べました。 今の時代にも、語り継がれているのは、作兵衛さんの遺志を引き継いだ農民たちがいたからではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 dr24 さん こんばんは。補足要求にきちんと答えてくださってありがとうございます。  《作兵衛さん》についてのご批評 同感です。  ★ 「美談」で終わらせるのではなく、背景(餓死者を多く出した藩の悪政)にも目を向けることが大切だと思います。  ☆ と賛同してもいただきました。  ★ 余談ですが、「ギノー(義農)みそ」という味噌があります。  ☆ このお話も よい感じですね。  ★ 今の時代にも、語り継がれているのは、作兵衛さんの遺志を引き継いだ農民たちがいたからではないでしょうか。  ☆ たいていは やはり《ひとり》の人間から始まるというようことなんでしょうか 画期的なこととしては。  《塩狩峠》  ★ 仮定の結果については、いろいろな物理的条件が絡むと思いますので、実際どうなっていたかは・・わかりません。線路の状況、後続車両があったのか、当時の無線や連絡状況など諸々。  ☆ たしかに当時の鉄道事情を踏まえて考えねばならないでしょうね。  ★ ~~~~~  その瞬間について、小説では以下のように書かれています。   「..たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。」 そして、純白の雪の上に信夫の鮮血が飛び散った。  ~~~~~~~  ☆ 心の中の思いは 読者に想像させるようなかたちにおいても 作者は書いているようですね。  こう言うと 変なこだわりをいつまで持ち続けているのだ? となじられましょうが たとえばよさそうな石を線路の上に置くという手はなかったか? なんですけれど そうすると 客車がひっくり返りますね。それも 被害をおよぼすかも知れません。  じつは 次のご感想については まだお応えを表わしかねています。  ★★(回答No.5) ~~~~~  小説の冒頭にある、聖書の言葉が印象的でした。    一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、    もし死なば、多くの果を結ぶべし。     (新約聖書 ヨハネ伝 第12章 24節)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ かなしい場合は うまいご返答が見出し得ないでいます。  たいへんありがとうございました。  ご投稿で 引き締まりました(わたしだけかも)。  なお No.5の補足欄における補足質問は あたらしい問いとして みなさんに向けても発していますので よろしかったら 広くご回答をお寄せくださるよう願いたいと思います。

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回答No.6

ブラジュロンヌ様 No.3の補足欄の 《信仰》について 必ずしも明確に遠藤は説明しているとは思えないところ これが 批判の対象になるように思います。 ですが 遠藤周作の「私にとって神とは」という本に中で、遠藤周作は 「信仰とは90%の疑いと10%の希望である」と述べています。 私はこの考えは受け入れません。疑いをもたず、子供の様に素直になることをイエスは聖書で語っていますから。 また、この本の中で、遠藤周作は 「無意識の奥にキリスト教でいう魂、神が働くところであってそこが人間の中では一番大切。仏が働いたり、キリストが働くのは、意識の世界でなく心の奥底」 と語っています。 にわか知識ですが、仏教では「アーラヤ識」なる無意識の考え方があるみたいですね。 私は遠藤周作はキリスト教の教義と仏教の教義をなんとか融合させ、カトリック信者ですが、日本におけるキリスト教のありかたを模索したのではないでしょうか? この本は対談集ですから「信仰とは90%の疑いと10%の希望である」という言葉も遠藤周作が本心ではなく、キリスト教に偏見を持つ人々に受け入れやすいように、わざとそのように表現している可能性もあると私は推測し、遠藤周作の信仰心がどのようなものだったかは、わかりかねます。 睡眠不足は明日に疲労がひびくのでもう寝ます。

bragelonne
質問者

お礼

 いくなーとんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  遠藤周作論ですね このご回答内容は。  わたしの批判の焦点は 《信仰》が《思考に非ず》だという主題をめぐってです。  遠藤は――そしてかなり一般にも―― 信仰が《思考ないし想像あるいは観想〔でしょうか〕》によって捉えられるといった理解を持っているのではないか? ここに焦点を当てています。  ヒラメキということを持ち出せば それは《思考や想像と直接にはつながらない。もしくはそういった人間の知性を超えている》と思われますから 認めざるを得ないとも考えますが 《神ないし真理ないし聖霊》の存在を 人間の能力と努力によって 証明することは出来ない。このような見方をわたしは しています。そこからの批判になっています。  たしか『私にとって神とは』だったと思いますが イエスの最後の言葉である《わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたまいしや》は 詩編( Psalmos )における一節から採られた句であるということを そこで初めて知ったことを思い出します。遠藤には そのことをおそわりました。    さて    「信仰とは90%の疑いと10%の希望である」  この説明は わたしも受け容れません。《疑い》は《思考や想像》だからです。(希望は かたちのないものが希望だとすれば 《非思考》に近いかも知れません)。  ★ 私はこの考えは受け入れません。疑いをもたず、子供の様に素直になることをイエスは聖書で語っていますから。  ☆ というご見解については 同じ理由で必ずしも受け容れられません。気持ちとして分かりますが なぜなら 《疑い持たない》ことも 《疑う》ことと同じく 《人間の知性や努力による》という内容になっているからです。  詭弁だと思われたなら 反証して欲しいのですが 《子供の様に素直になること》も――じっさいそのとおりなのですが―― そのように努力して成ることではない とすれば 話の筋が違う。こう考えます。  つまりは 《信仰――非思考の庭――》がわが心にあたえられ成るということ これは そのまま非思考であり 言わば無根拠です。そのあと 《子供の様に素直になる》のだと見るからです。  無根拠というのは むろん信仰にあっては《聖霊のハタラキによる》ということですが 一般に哲学としては 非思考・無根拠と言うとよいと考えます。     *  キリストは人間の《永遠の同伴者》であるという説明も その説明によって知性をめぐらし生活日常におけるしっかりとした努力の積み重ねなどによって――つまり人間の能力と努力とによって――《信仰が成る》というものではない。順序がぎゃくである。  遠藤は 父性と母性ということを言っています。いまの《同伴者》という概念は どちらかと言うと《母性》にかかわります。西洋のキリスト教を日本人向きに仕立て直したと言っていますが 日本人には この母性のイメージに合わせて説明するのがよいと考えたようです。  (もっとも マリア信仰とも言うべき情況は 西欧にもほかの国にも見られますから・つまり《厳父というような父性》を取り立てる文明においても マリアの母性に親しみを感じる傾向もむしろふつうに見られるようですから その点にも触れておきますが)。  ★ 私は遠藤周作はキリスト教の教義と仏教の教義をなんとか融合させ、カトリック信者ですが、日本におけるキリスト教のありかたを模索したのではないでしょうか?  ☆ たぶんけっきょく遠藤の仕事としては いわゆる《キリスト教》という組織宗教およびそれを土壌としてのように築かれたキリスト教文明について 日本と西欧(フランスなど)との比較対照をした。ということではないでしょうか?  わたしの言いたいと思っていることは 洗礼を受け教会組織に属しているかどうかで 《信仰者》であるかないかを分けることは 無意味だということです。        *  ★ 無意識 / アーラヤ識  ☆ これについては すでに《無意識》というそれとして独立した脳の部位があるとは実証されないということが明らかにされています。  ○ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98  § 5 広義の無意識と潜在意識   ・・・「意識でない領域」の存在は確実であるとしても、主観的に把握されるそのような領域について、客観的な記述や説明が行えるかというと困難である。  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《意識していない状態・ないし潜在意識また意識下》ということは ふつうの心理状態であってふつうに用いて構わないわけです。またそういう意味で 無意識と表現しても構わないはずです。  たとえばムイシキが人〔の自我や超自我〕に逆襲するといった理解は 通用しないのだと考えます。人は《その心理ないし精神を意識していないイドなる欲動なり超自我なりあるいは自我なりと分析したとしてもそれらの全体としてのけっきょく実存》として 特には自由意志を中軸としたその意志行為として 生きている。こういうことだと理解します。  (ムイシキが単独分立することはないのと同じように 《自我》なり《超自我》なりといったそれぞれ単独にはたらく機能があるというのは 幻想だと考えられます)。  遠藤周作にしろマザー・テレサにしろ まだまだ語り足りないでしょうが 主題や課題が浮かび上がるとともにそのつど取り上げて行けばよいと思います。

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回答No.4

急いでおり、確認をじっくりせずに、投稿してしまったので、私の回答が言葉たらずで、高慢のような回答文脈と誤解されているかたが、いらしゃったらすみません。顔が見えず、これが嫌で、ネットというコミニュケーション手段は私は好きではありません。 質問欄が英語と?語で書かれていたので、あまりにも難しく、bragelonneさんの投稿の意図を確認するのが先の投稿でした。 私は神学者ではないので、専門的なことは良くわかりません。私のような素人が、自由に自分の意見を述べていい投稿の質問?なのかという確認が、先の投稿の趣旨です。 私は、自説を立て、哲学で飯を食おうなどという野心はありません。ただ、私にとって考えることは遊びでもあり、苦痛でもありますが、とにかく趣味の素人です。 私も、マザーテレサのことをどこまで、理解しているかわかりませんが、神様の啓示を受け、インドでひとりで活動し、共感をよんで、人が集まり、死んだ後、現在も活動が続いているということ。彼女が戦争の中に踏み込むと砲弾がやむという逸話。 そんな行動をしている人が吐いた言葉だからこそ、なおさら人の心を打つのだと思います。私はすごい行動力の人だなと肯定しております。 たぶん私が同じ言葉を言っても、説得力がありません。 ちなみに先の「大切なのはとれだけたくさん(偉大な)のことをしたのではなく、心をこめたかです」で()になっているのは、私は原文を知らず、日本語訳でいろいろ訳されているからです。 ということで、原文を知らないとやはりいけないかなと、思いますが、私はギリシャ語の聖書を読めるわけでなく、哲学的な詳しい回答はできません。 ちなみにbragelonneさんのお礼の宿題に頭を痛め、カラータイマーが鳴ってます。 自分の言葉に出来るまでしばらく(数日かかるかも)お待ちください。頭痛い、Mかも?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  とりあえずかんたんにお応えします。(またあとで考えたりします)。  この質問は 単純です。  《命を捨てる》ことをしてもよいのか? です。  《愛》と言われているが それでよいか? です。  そして そのときには 《友のために》と条件づけられています。つまり実際問題として この《ために》というのは どういうことか? 単純な解釈でよいのか?   けれどもみづからすすんで死に就くというのは ゆるされていないのではないか? とも問うています。

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回答No.3

ブラジュロンヌ様 急ぎの用事があるので、まだ、お礼欄を熟読してませんが、この命題の質問を考える時、注意しないといけないのは、ギリシャ語の聖書をラテン語か英語かはわかりませんが、訳者日本語に訳したと言うことです。 ギリシャ語には愛と言っても ストルゲー(家族愛) エロース(性的な愛) ファリア(友愛) アガペー(神の愛) があるそうです。私はこのくらいしか知りませんが。 キリストの愛をアガペーとすると「キリストの友」とは「人類」のことで、神ではなく人間が人類のために死ぬなどと大きなことははたしてできるか? 私は、そのあたりは、話しが見えやすいように、あえてごちゃごちゃに回答しております。 マザー・テレサが言ったように 大切なのはどれだけたくさん(偉大)なことをしたかでなく、どれだけ心を込めたかです。 の精神の方が私には心に響きます。 また、沈黙の中であえてページ数を書いたのは、小説ですから、前後関係が見えないと、どのような場面でこの言葉を使ったかということを示すためです。 命題のこの言葉も、聖書の文章の前後関係が見えないと、良くわからないかもしれないと思いますが、補足かお礼にて、この考えについて、どのように認識すれば良いか、ご提示していただければ幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 いくなーとんさん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 命題のこの言葉も、聖書の文章の前後関係が見えないと、良くわからないかもしれないと思いますが、補足かお礼にて、この考えについて、どのように認識すれば良いか、ご提示していただければ幸いです。  ☆ 痛いところを突かれました。  文脈をしっかりと確認していません。まづ質問に挙げました。  それは 《いのちを捨てる》という表現じたいが確定しているとするなら それはよほどの文脈の特殊性によるのでない限り それほど意味が変わるとも思えなかったから〔とコトをあせったことから〕です。  見てみますと このヨハネ福音15:13の文脈は 基本的には   ▲(ヨハネ福音15:17)  互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。  これを伝えようとしているくだりであるようです。そして《ぶどうの木》のたとえが出て来ています。イエスと人びととが一本のぶどうの木として一体になっているというかたちです。木から離れないようにということと そしてぶどうの木につらなって 人びとは互いに愛しなさいと伝えている。  そしてその《愛》とは 《友のために自分のいのちを捨てることほどの大きな愛はないのだ》と明らかにしている。    ですから 文脈によってそれほど意味合いが変わってくるとも思えないのです。どうでしょう?       *  遠藤周作については 申し訳ないですが その書いたもののほとんどを読んでいます。むろん忘れているところもあるわけですし 解釈がもうふるくなった場合もあるかも知れません。まぁ ですけれど 遠藤の信仰論は 想像の――それとしては観念の――神であると言ってマチガイないと思っています。  むろん 反駁を期待します。       *  ★ ~~~~~   マザー・テレサが言ったように  大切なのはどれだけたくさん(偉大)なことをしたかでなく、どれだけ心を込めたかです。  ~~~~~~~  ☆ マザー・テレサについては わたしはくわしいことは知りません。知ろうと思わなかったし 知っておかねばならないという情況に置かれたことがなかったからです。  ただ覚えていることは――いつも何に対しても 辛口批評が続きますが―― マザー・テレサの言わば業績を聞いたり知ったりしたとき どういうことをまづ思い浮かべるか? という問いを発したなら どう答えますか?  わたしが なんとなく残念なのは かのじょがその生涯の仕事をとおして 《キリストの神に栄光を帰した》というような印象がうすいことです。マザー・テレサとしての・あるいはひとりの人間としてのやれるところを示して 人間としての・またはテレサという特定の人の栄光をあらわした。のではないか? もしそうだとしたら どこかまださびしいものがただよいます。  わたしの持つ印象は これだけです。ほかにはありません。        *  ★ キリストの愛をアガペーとすると「キリストの友」とは「人類」のことで、神ではなく人間が人類のために死ぬなどと大きなことははたしてできるか?  ☆ これは そういう問題点もあるわけですから そしてただし 行論の過程でその途中において考慮すればよいかとは思っています。  そして趣旨説明欄では (3-5)(3―6)あたりでちらっと触れています。              *  《キリスト》と《われわれ人間》との違いにかんして 先ほどのマザー・テレサの命題にもかかわっている問題を提起してみます。   ● (マザー・テレサ) 大切なのはどれだけたくさん(偉大)なことをしたかでなく、どれだけ心を込めたかです。  とは言うものの たとえばイエスは 次のように弟子たちに向けてわれわれ人間の持ち合わせることになる能力についておしえています。いまの文脈の中からになります:  ▲(ヨハネ福音 15:15) ~~~~~~  もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。  僕は主人が何をしているか知らないからである。  わたしはあなたがたを友と呼ぶ。  父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 《友》と呼ばれるに到る。とは言えそうです。  しかも マザー・テレサは《どれだけたくさん(偉大)なことをしたかでなく》と言ってはいますが  ▲ (ヨハネ福音 14:12) ~~~~~  12: はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、≫もっと大きな業を行うようになる≪。わたしが父のもとへ行くからである。  13:わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という聖句もあります。イエス・キリストが父なる神のもとに行ったときには――十字架上にこの世を去ったときには――  ▲ わたし(=イエス・キリスト)を信じる者は、わたしが行う業を行い、また、≫もっと大きな業を行うようになる≪。  ☆ そうです。ゆえに テレサ氏を必ずしも そのままでは信用しかねます。  つまり《イエスが生前に果たしたわざよりもっと大きなわざを イエスに属する者たちは おこなうようになる》と言っています。そしてこれは むろん そのワザもどのワザもみな キリスト・イエスとそして父とのふたりから送られて来る聖霊のチカラによるものと考えられます。  なんでテレサさんは われらのわざをちぢこませたのでしょう?  ちょっとえらそうに以上のように反応します。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ● (遠藤周作のキリスト観) ~~~~~~  ガリラヤで育ち エルサレム城外で殺された 痩せた 手脚のほそい男。犬のように無力で 犬のように殺されながら 息を引き取るまでただ愛だけに生きた男。  彼は生前 現実のなかで無力であり ただ愛だけを話し 愛だけに生き 愛の神の存在を証明しようとしただけである。  そして春の陽ざし強いゴルゴタの丘で死んだ。  それなのに彼は弱虫たちを信念の徒に変え 人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく 人間の永遠の同伴者と変っていったのである。・・・  (遠藤周作:キリストの誕生 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の永遠の同伴者》であることに 不都合はないと考えます。  信仰の成立とともに 時間はみづからにとって《永遠の現在》として成る。あるいは 永遠の現在が成る。過去時も未来時もすべて このいま・ここなるわたしに収斂しておさまるといったかたち。  このことは 信仰にあって《キリストが人間にとって永遠の同伴者となる》ことにひとしいと思われる。  問題は キリストは――あるいは同じことで聖霊は―― 人にとって《永遠の同伴者》であるが 《永遠の同伴者》という概念が 神であるわけではなく 永遠の同伴者であることによって 人は神を信じるというものでもない。と思われることである。  《信仰》について 必ずしも明確に遠藤は説明しているとは思えないところ これが 批判の対象になるように思います。      *  ▲(ヨハネによる福音書 15:13) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ☆ の《愛》は 英訳は love ですが ギリシャ語原文では アガペー( ἀγάπην =アガペーの対格)です。

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    聖書は神の著作物であるとされます。それゆえなのか、内容は大変に深いものがあります。その深さに気づけばいいのですが、多くの人は浅い理解のままで、「これが聖書だ!」と決めつけて しまっているように思います。私は、西洋哲学・神秘学の多くが聖書の部分解釈の結果であるように感じています。 例をあげましょう。 ニーチェの超人哲学ですが、多くのクリスチャンが彼の超人思想を、反キリスト的だと見做しますし、彼個人も「神は死んだ」と叫んでいます。 私は、彼の超人思想も聖書思想の断片だと思っています。新約聖書を読みますと、イエスの弟子が沢山登場します。例えば聖ヨハネですが、彼はイエス様に出会う前までは漁師である父の手伝いをしていた、ごく普通の人ではなかったかと思われます。そんな彼がイエス様に見い出され、人間が変わった。彼は後に「ヨハネによる福音書」を書いていますが、この福音書はとてつもなく霊的に深い書物です。聖霊の導きがあったとはいえ、このような書物を書く人は、私にはとても凡人だとは思えません。まさに超人だと思います。 新約聖書では、弟子たちのとてつもない変貌(「超人化」あるいは「キリスト化」だといっていいもの)が、さりげなく語られています。人は超人になることが目的ではないからでしょう。超人になって、神と隣人に奉仕することが目的だからだと思われます。 人は、全能の神由来の「いのちの息」を持っています。その特性は、私の想像ですが、いのちの息とは本来「永遠性・超人性を持ち、愛に満ちた」ものであったと思います。ですから、イエス様によって罪が赦された者は、いのちの息が本来持っている特性を回復するのではないでしょうか。 以上、ニーチェの超人思想と聖書の関係を述べましたが、他の哲学でも聖書の断片的な解釈をしているように思われるものが沢山あります。それを単に批判的に忌避するのではなく、聖書解釈の新視点と見て、聖書を深く知る手掛かりにすることも大切な作業ではないかと思います。

  • (やっぱり愚問?)「本能」が次のように聴こえる。

    クリスマスソングに「本能」  1999年に発表された椎名林檎の「本能」は案外クリスマスソングに良いかもしれない。  新約聖書の「ヨハネによる福音書」の著者のヨハネは古代ギリシャ語が堪能で、これは、それを母国語としていた者にしか書けなかっただろうと言われている。  ちなみに、このヨハネは洗礼者ヨハネや使徒ヨハネとは別人で、黙示録のヨハネとも別人である。伝聞で福音書を書いたようだ。  他の三つの「共観福音書」と異なり、ヨハネのものは独自の雰囲気がある。  これは、彼がギリシャ思想を受け継いでいたことに原因がありそうだ。ギリシャに一般的にあり、「万物は流転する」のヘラクレイトスが定式化した、ギリシャの「ロゴス信仰」の影響が福音書にも出ている。  ロゴスというのは言語とか理性とかという意味を持っている。  理性への信仰が福音書の最初から書かれている。日本では、江戸時代頃に「初めに賢きものありき」などと訳されたようだが、 (新共同訳聖書 ヨハネの福音書冒頭) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。  これは要するに、キリストをロゴスの化身と見なすヨハネの感覚である。  福音書家ヨハネがキリスト教の傍流かというと、そうともならなかったようである。ヨーロッパの歴史は中世でもギリシャからの流れを受け継いでいただろう。  ロゴスの対義語はなにかというと、大雑把にはパトスと言える。パトスは感情のような意味を持つ。キリストの受難は英語ではパッションだが、これは語源はパトスである。ロゴスを光とすると、パトスは優しくもあるような闇の豊穣といえるかもしれない。あるいは闇の中には悲痛なものもあるかもしれない。  キリストは受難しただけではなく、そこから復活したことが尊いとされている。これはロゴスの勝利という宗教体系であろう。  千数百年後、モダニズムの始祖デカルトは生涯をかけてロゴスを追及した。近代の科学技術の追求も宗教と違った形でロゴスを求めたことに他ならなかったと思う。  デカルトは自分の死を悟った頃、遺作として情念論を著した。デカルトは元来、……パトスは外部からの刺激により身体の内に起こるもので、受動的なものなのだが、精神それ自体とも錯覚される、……それをロゴスで統制してパトスを主体化する事が必要で、ロゴスが能動的なものである。  ……というようなことを主張していたのだが、死という現実に対しては、そう構えているわけにもいかなかったかもしれない。  さて、そこからまた数百年後の椎名林檎の「本能」だが、 「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」 と始まる。これはキリスト教のファンダメンタリストからすると、まさしくパンクロックであろう。新約聖書には初めからあるというのだから。  曲調は短調で愛惜が感じられる。理性とか言葉というものの死があったとしたら、それを愛惜する曲調である。 「約束は 要らないわ  果たされないことなど 大嫌いなの  ずっと繋がれて 居たいわ  朝が来ない窓辺を 求めているの」  「約束」を男女の結婚のようなこととして想像することもできるが、それにしてはこの曲はあまりにも悲劇的な香りがしすぎる。  言葉とか理性の死と、そういったことが約束していたものに関する愛惜として捉えるべきかと思う。 「終わりにはどうせ独りだし  此の際虚の真実を押し通して絶えてゆくのが良い」  「虚(から)の真実」とはなにかと考えると、これはパトスに他ならないだろう。それは闇の豊穣というより悲痛さであろう。  十字架上のキリストの「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」という言葉があった。これは古来からキリスト教徒には認めがたい不可解な言葉とされていた。「神よ、なぜ私を見捨てたのか」ということだからである。(たとえばイスラム教はこの言葉とともに「精霊」がキリストを離れたと見なし、彼を神の子ではなく一預言者として捉えている。)  だが、人が絶望のうちに死を迎えることが少ないといえるだろうか。努力とか、理性もむなしく、絶望というのは決して少なくはないだろう。  もしかすると、それは、言葉とか理性とかがあったから絶望もあったのかもしれないと考えることはできないだろうか。 「本能」(c)椎名林檎詞曲、1999