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「部落差別」教育って必要?

塾で教えている中学生が、 「部落差別についての勉強があった。僕はそんな事知らんかったし、知りたくもなかった。知らなければ差別する事もないのに、知ってしまったら、ついそんな目で見てしまう。僕はそんな差別とかしたくないのに。知らないほうが良かった」 と言いました。 私もそう思います。私は別の県から引っ越してきて、今住んでいる県の部落地域は知りません。あることすら想像しませんでした。 知らない人が増えれば、自然となくなったりはしないのでしょうか?私のように、外部から来た人間は部落地域を知らないし、この中学生のように10何年間この県で生きてきて、それでも知らないのです。やはり、「部落差別」教育は必要なのでしょうか? 見てそれと分かるハンデを持った人を差別してはいけない、と教育するのは分かります。しかし、部落は、ここから部落地域ですという看板も何もなく、知っている人だけが分かるものですよね。 未だに差別意識を持っている人はいるでしょう。しかし、一般的な「差別はいけない」という意識を持った今の子供たちは、その差別意識を持った人に「部落差別」を言われても、はねのける事ができるのではないでしょうか。 私は、前記の中学生の発言に、どう答えれば良かったのでしょうか?また、「部落差別」教育は、必要なのでしょうか?

みんなの回答

回答No.78

「部落差別」教育を、してはいけません。 なぜならこの問題を正しく把握し、理解し、子供たちを指導できる教師がいないからです。全くいないとは言いません。でも、教師数百人に一人くらいしかいないのではないでしょうか?もしも、ひとつの学校に最低一人でもいれば、こんな議論にはなっていないかも知れません。「部落差別」教育をしている教師自身、問題を正しく把握していないか、この話しが子供達の心にどのような波紋を残すかを理解できないでしょう。しかし教師を責められません。これは難しいことです。

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回答No.77

(以下はもちろん私の個人的な考えです。) 同和教育は必要です。 「教えてもらわなければ知らないですんだ。余計なことをするな。誰も何も言わなくなればいつか同和問題は消滅する。」納得できるような理屈に聞こえますが、こんなこと絶対にありえません。この世の中がそんなに甘く単純なものであれば何も苦労はいりません。 ほとんどの回答者の方が、部落差別を他の差別問題と同列に語っておられますが、部落差別の実態を知り、「他にもこんな差別がある」「私もこんな形で差別を受けたことがあるわ」と同列に並べた後に出てくる感想は何だと思います?「ああ、被差別部落に生まれなくて良かった」です。この差別の成り立ちは他の差別と全く異質のものであり、無くすことのできる種類の差別だと考えます。その手法は教育しかありません。 偏見をもった大人からの言い伝えや、片方の側面からのみ書かれた書籍などから差別の実態を知るのは危険です。勉強すればいろんな事がわかります。勉強すれば、何十年のこの差別は「なくなったこと」として教育しないで、差別がなくならなかった歴史があることもわかります。勉強すれば、すでに被差別部落に対する援助的法律も収束していることがわかります。教育も小・中学校の時に受けたのと、大人になってから受けたのとは感じ方が違うのは当然です。常に、一生勉強しつづけなければならないのでしょう。 同和問題は差別されている人達が抱える問題なのではなく、差別する側の問題です。そして、国連など世界から、日本の恥部として認識されている問題です。はじめて部落差別の教育を受けたときに、みなさんも「信じられない、いまだにそんなことがあるなんて」「根拠のない差別なんて理解できない」と衝撃を受け怒りを感じたことでしょう。その本能を大事にして現実を知っていただきたいと考えます。

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  • Mrsdonald
  • ベストアンサー率29% (33/113)
回答No.76

あくまでも私個人的な意見ですが、部落差別の教育そのものは不要な気がします。うまくいえませんが、社会的弱者への差別をなくす教育は必要だと思います。 こんなひどいことがあったんだよ。と言う話を聞かせる前に、同じ人間で、命の尊厳は同じという教育が必要だと思います。 私自身、親の出身地で私や私の親もとやかく言われたことがあります。 私の父が大手銀行に借り入れを申し込んだところそこの支店長に「何でそこの出身のお前に金を貸さなきゃならないんだ」みたいなことを言われたそうです。条件は満たしていたそうで、即刻その銀行のはす向かいにあった、別の大手銀行に預金をすべて移してすぐにお金を借り入れることができたそうです。ここでいう大手銀行とはどちらも初期の都銀5行(7行でしたっけ)に入っている銀行でした。 また、そこの出身地の生徒は悪いと恩師は言い「あなたはいい子だけどね」と言われました。とても、悲しい経験です。だからといって、自棄になったり、どこぞに訴えたりとかしたくないんです。余計に相手に「やっぱり」と思わせたくないから。自分の見方が偏見だったと気づいてもらえるように、私は私らしい中で誠意を持って相手と関わりたいのです。 難しいのですが、人を平等に、公平にみる教育が必要なのだと思います。部落問題だけではなく、人はいろんなことで人を差別します。思い込みや偏見が過去あった言う話しよりも、思い込みや偏見で人をみる恥ずかしさや、公平平等に人をみる尊さを教える教育の方が必要だと思いました。 答えになっているでしょうか?

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  • toncho
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.75

あまりに反応が多いので、重複する意見だとは思いますが・・・。 「知りたくもなかった。知らなければ差別する事もないのに、知ってしまったら、ついそんな目で見てしまう。」 私もそう思いました。小学校で「にんげん」という教科書を使って道徳の授業で同和について習った時の印象です。 「なんて酷いことがあったんだ!」という憤りと一緒に、「知らない者には、知らせなければ、なくなるんじゃないの」感じました。 でも、やはりそれは違うと思います。 同和だけではなくて、世界中には、いろいろな形の差別がありますよね。 人権のことを大小言うのはおかしいとは思いますが、一番大きな差別は男女差別ではないかと思います。 世界の人類を2種類に分けて差別し合う、という点が、一番大きい、最後の最後まで残る差別なんじゃないかと思うのです。 同じ顔、同じ言葉、同じ宗教、同じ階級、同じく健康、それでもまだ「違う」と言われるのが、性別の違いです。 体の構造が違う、生理が違う、ライフサイクルが違う、最近では脳の働きが違う、などと、「科学的」な説明があとからあとから出てきます。 理解しあう為の研究ならいいのですが、その研究結果をもって「だから女は違う」とも言われてしまうのです。 考える機会がなければ、「男と女は違うから違うのだ!」で済ませてしまうでしょう。 別の例では、うつ病や不登校児。 よく知りもしない人が、決めつけてあれこれと言います。 際限がないほど、いろいろな種類の差別があります。ひとつの差別がなくなっても、人間は(主流にいたい人は)なにかあげつらって差別するものなのでしょう・・・。 同和問題に限って言えば、知らなければ、差別せずに済むでしょう。 でも、知らせなければ、差別に対する免疫は養われません。 世界の色々な問題についての考えも、差別がわからない分薄っぺらくなるでしょう。 痛みに共感することのできる心を育てていくことしか、解決方法はないのではないでしょうか。 その為には、人の境遇を知って自分の心が痛むという経験をするしかないと思います。 「知りたくなかった」と感じた気持ちこそが、差別をなくしていく為の、大事な一歩に違いないと思います。 「ついそんな目で見てしまう」自分を見つめることが大事です。私も、「ついそんな眼で」と思うことが、いまだに 度々あります。 今すぐ、たちどころに公平な人間になれ、ということではないはずです。 「知らない、考えない」ことではなくて、「もやもやとした気持ちがしてしまう自分」と向き合い続けることが、差別をなくすただ一つの道だと私は思います。

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回答No.74

未だもって、差別を知らずに一生過ごせる世の中になっているとは思えません。間違った形で、大人になって知るよりは、正しい形で、教えることが大切なのだと思います。 不要の方が、仰る意見は、総じて、正しく教わったのに正しく身に付いていないことが原因のように思えます。(大きな口を叩いて、すいません。) 同和教育は、差別の存在を「知ること」ではなく、差別をしない「心を涵養すること」です。 主として知識を授ける教育という現場において、これが大変難しく、必ずしも上手くいかなかった場合もあるでしょう。 37年にわたる行政施策においても、問題がなかったとはいえません。最近「行政は効率的に予算を執行すべき」という思考が出てきましたが、これまでの行政は、割り当てられた予算を使うことに重きがおかれてきました。このことが、逆差別を生む原因にもなりました。 同和に巣くう人も確かにいます。しかし、私たちは、同和以外の利権(政治や行政が係わる権益)に依存している人々がもっともっと沢山いることを知っているはずです。にもかかわらず、同和だけに特別な「ねたみ」の感情を抱いていることに気がつかなければなりません。 同和教育や同和施策は、「心」の問題に「知識」と「お金」で対応して来ざるを得なかった、過去における悲惨な実態がありました。少なくとも「お金」については、改善されてきた現在、「心」の問題の解決が必要であり、それは、やはり、教育をより所にしなければならないのです。

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  • ti-cyan
  • ベストアンサー率18% (2/11)
回答No.73

私は現在20歳後半なのですが、私が小学生のとき受けた同和教育と同じような教育をしているなら必要ないと思います。というのも、私は京都に住んでいるので、同和問題というのは有名(?)だったのかもしれないですが、私自身は全然知りませんでした。それがある日道徳の時間に「同和っ子」とか言う資料を読まされ感想を書かされました。しかも同和の説明なしに。私は童話の誤植と勘違いし、夢見がちなこの話なのか?とぼけたことを考え間抜けな感想を書きました。家に帰ってから母親に本当の意味を教えてもらい恥ずかしい思いをしました。こんなあほな勘違いをするのは私ぐらいかもしれませんが、ちゃんとした説明なしの同和教育が今も続いているなら意味がないことだと思います。

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回答No.72

この問題には差別を受ける側にも「寝た子を起こすな」という考え方があるのは事実です。 ただ反対側の人間が不要論を言うのは、やはり教育が必要だと言う事を証明していると思います。 仮に知識が全く無い人が、結婚問題や住宅問題などの人生の岐路でこの問題に接した時、しっかりした知識や信念が無ければ「一応敬遠しておこう」という結論になります。 それは差別に荷担すると言う事なのですが、当人は「良くわからない」事を理由に「差別とは違う」と言って顔を伏せるでしょう。 新しい迷信が生まれる一方古い迷信がなくならない様に、ネガティブな情報はしぶとく受け継がれていきます。 迷信を信じて損をするのが当人であれば、自業自得ですが他人に害が及ぶとすれば、それはしっかりと公的な教宣により根絶する必要があります。

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回答No.71

これは難しい問題ですねえ…。 地域によっては不要とも言えるし、必要とも言える様な。 私の生まれ育った地域は全く部落差別などない世界 (ただ、田舎だったので新旧の住人差別、例えば100年以上前から住んでいる人は偉い、ここ数十年以内に越してきた人は新参者、みたいなものはあったようですが…) でしたが、京都に越してきて、同世代の人が部落差別的な発言をしていたのに大変驚きました。 今の子供たち、と言ってもどこに住んでどんな環境で育ってきたのかによって、全く変わってくると思います。

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  • redspace
  • ベストアンサー率40% (90/221)
回答No.70

 私も中学校の時に部落差別のことを教わりました。(10年以上前ことなのでうろ覚えですが)  はっきり申し上げて、必要ないことだと思います。  既に部落という言葉が定着してそれが私の生活では「普通」に使われている言葉なので、今更差別だのなんだので変更しろと言われても結構無理があると思います。  それこそ、部落差別だ~と騒いでいるほうが差別・偏見に繋がると私は思います。  むしろ、地元の人間での会話では必然的に部落という言葉が出てしまいます。(集会場のことを部落会館と呼んでしまったり…)  若年層ならば差別偏見をなくそうということでこのような教育があってもいいかもしれませんが、20代以降の世代ではそれを徹底するのは不可能があると私も思います。(部落差別を知らない人も結構いると思われますので)

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  • tomoyomu
  • ベストアンサー率42% (14/33)
回答No.69

 小学校のとき、毎年1回、同和教育機会があり、同和関係の映画を見て、それから教室へ戻って先生の話だか、作文だかがあったと記憶しています。  小学校5or6年のときの先生は、 同和教育には2種類の考え方がある。 ひとつは、積極的にこういうこと(映画や道徳の教科書に載せて)をして解決してゆく方法。  もうひとつは「寝た子を起こすな」を言う方法で、そもそもそんなことを知らない子供がほとんどなので(埼玉県)不必要な知識を与えて、差別を与える側の人間を作るなという考えだそうです。  小学生にそんなことを言う先生もちょっと変わっていますが、私は今でもよく記憶しています。  どちらがいいかは分かりません。  そういう差別ですが、自分の原因でないものに対する差別ですから、それは止めるべきだと思います。たとえば目の不自由な人や、片足のない人などは、別に自分で目が見えなくなりたいとか、足がなくなったほうがいいと思ってそうなった(した)人はほとんどいないと思います。仕方なくそうなっているのだと思います。そういう場合、被差別部落に生まれた人もそれと同様だと思います。    太っているとか、勉強ができないとかは程度によりますが、本人の努力が足りないので差別の対象になってもよいと思います。  私は個人的にはそう考えています。

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