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美しさは外にあるのか中にあるのか

美しいものを見て美しいと感じるのは、見ている対象が美しいからではありますが、 同時に見ている人の側にも美しさが無ければ感じ得ないのではないでしょうか。 つまり、内面的に美がなければ見えているそれが美しいのかどうか分かるはずがないと思うのです。 これは道徳的なことではなく、現実的に人の内面において美が無ければ外部の美との共感はありえないのではないかということなのですがどうでしょう。

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  • ベストアンサー
  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.3

ANo.2です。 物の中の美しさ・美しい物というのは観る側が気付かなかったとしても元々ある、ありうるのだと思います。 「内にある美」とおっしゃっていますが、正確には美として観賞する心、美として享受する気持ち、ではないでしょうか。 最初から理想としての「美の観念」があるのではなくて、気付かされる物、起こされる物として発達するのではないでしょうか。 ですからおっしゃるように自分が大事と思う価値が相手にわからない状態、価値として共有できない状態はありうると思います。 自分と誰かが共有できないとしたら残念な事ですがそれよりも「共有などできるはずもないものなのだ」というふうに心を閉ざしてしまうのがもっと怖いと思います。 優れた作品は美の観念的説明ではなくて、自分が美しいと感じたその物とか、物質として美しい状態を作ろうとしているように見えます。物として実在しうると作家はわかっている、実在させようとしているから決断に苦しんだり選択を躊躇したりするのだと思うのです。 美とは好みでしかないと思うのは、美が人間の中の観念でしかないという考え方だと私は思います。それでは作品として存在させようという動機がとても薄弱な物になってしまうと思うのです。 美術・芸術の目的は美ばかりではないかもしれませんけども。

shift-2007
質問者

お礼

>物として実在しうると作家はわかっている、実在させようとしているから決断に苦しんだり選択を躊躇したりするのだと思うのです。 作者は内なる美を作品として残そうとしているということでいいでしょうか。 夕焼けの美しさを共有することができても、それを絵にしたものの美しさを共有できない理由になるでしょうか。 >美として観賞する心、美として享受する気持ち その心の状態とはどのようなありようなのでしょうね。

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回答No.4

数学的な美というものがあります。 数学者は数式や、あるいは数そのものを「美しい」と語り、時に音楽や詩の美しさにそれらをなぞらえます。 数学者がそうしたものに美という言葉を使い、数学的思考や数式に美学的喜びを感じる一方、数学的素養の無いものには、残念ながらそうした美学的感動をそれらに感じることが出来ません。 こうした、数学的な美というものもここでは考察の対象となるのでしょうか?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 数学的な美というのもあるでしょうね。 ここでは、何に対して美を感じるかよりも、美を感じるということは人の内面的にどのようなことがおきているのかということが主題となります。

  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.2

おっしゃる通りと思います。 相互作用というか。どちらにもあると認めるのは大事でしょう。同じ事の裏表というか。 例えばイタリアのデザインにあこがれる日本人にも実は同じ物が流れているのだろうなとも言えると思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すると内にある美が失われれば、外にあるそれが美しいかどうかも分からなくなるということになりましょうか。 怖い話です。

  • eeb33585
  • ベストアンサー率18% (283/1495)
回答No.1

確かにそうですね。 先天的・後天的いずれにしても、美に対する基準を予め持っていて、 何かを見たとき、その基準に照らし合わせて美しい・美しくないと判定していると思います。 うちの奥さんに 「何か絵を描こうと思うんだが、かぼちゃとスイカのどっちが良い」と聞いたら、 「どっちも食べられないから描かなくて良い、しいて言えばスイカのほうが良い」 我々夫婦の美に対する基準の違いを思い知らされました。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 すると、内なる美とは何ぞやということになりそうです。 >どっちも食べられないから描かなくて良い やはり女性は現実(現物)主義なのですね。

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