• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

Mokuzo100nennの回答

回答No.46

>きっと何かお気に障ったのですね。ごめんなさい。 サイコロさん、謝らなくちゃあならないのは此方です。原質問である審美の問題など語る資格が無い頑固爺ですが、サイコロさんが丁寧にお相手してくださったもんだから、ついつい図に乗ってしまって。 真面目な学究肌のサイコロさんに対しては、相手を見てモノを言わなきゃいけないところ、枝葉末節で絡んでくる酔っ払いの様なことになってしまい、反省してます。 以後、もう少し言い方を考えてモノ申すように努力しますので、今後とも、できれば無視することなく、軽くお相手いただければ幸甚に存じます。 >あんたの話しは、裏付け資料が在るんかね、 この場を借りてCyototu先生の質問にお答えしたいのですが、私の論法は文献学者とは全然違って、裁判所に出頭した弁護士のようなもんで、自分が主張したいところを補強してくれる事実を探して、持ってきて、後付けで、客観的な装いをしているけど、所詮自己主張ですねん。トップダウンの仮説-検証型と思っていただければうれしいですね。その点、その主張の客観的事実の裏付けはあるか?なんて、先生の奥方は優秀な裁判官向きだねぇ。 文献学を気取るわけじゃあないけど、一応、参考文献はあるよ。 ○「ラブホ」の経営学―この道40年の第一人者が明かす、驚異の大儲け法 統計は出ていなかったと思うけど、どの顧客セグメントを大切にせにゃイカンかは書いてある。 もう少々説明させてただきますが、そもそも審美学の本質から逸れてラブ・ホテル学に突っ込んじゃった原因は、サイコロさんの 「エロスに関してですが、私の思うに、フランス人の方が日本人よりは、遥かに真面目なのです。」という主張があって、その裏付けの一部として、「たとえば、フランスにはラブ・ホテルがありません。」があったので、この点に反応ちまったんです。 フランスに日本の様な専門のラブ・ホテルが無い理由は、一見普通のホテルがその目的に利用されるからであって、一方の日本には、とくに主要なラブ・ホテル立地である郊外の国道沿いには、フランスで普通の安宿が無いからなんですよ。都市部のラブ・ホテル事情は少々ことなりますけど、後述。 随分昔の話になるが、パリの東駅の近くの安宿に泊まったことがあります。 ドイツから鉄道で南下して来る友人(男性だよ!)と合流するために、同じ貧乏旅行の私が、パリ東駅の近くの、安宿を手配しておくことになったんだね。今にして思えば男が二人で泊まる宿じゃあなかったんだけど、そのときは右も左も解らないから「安い」をキーワードにして宿を決めた。宿の部屋は広めでベッドが二つあるけど、浴槽が無い。浴槽が無い程の安宿だけども、その広めの浴室にはビデというモンが付いていましたね。いまでこそ、ウォシュレット王国の日本ですが、当時の日本人学生はビデなるものを知らんかったね。後でその用途を知ってから、我々男子学生二人が泊まった宿は連れ込み宿だったことが分かった(笑)。 つまり、パリ東駅の近くってのは、日が落ちれば街娼がうろつくような地域で(少なくとも当時)、その界隈で安い宿ってのは、連れ込みだったんだね。確かにラブ・ホテルとは呼ばないし、オテル・ダムールとも言わねぇが、れっきとした連れ込みでさぁね。 「(エロスに関して)フランス人の方が日本人よりは、遥かに真面目なのです。」に関しては、半信半疑ですが、「フランスにはラブ・ホテルがありません。」は、その根拠として不十分だと思うんですよね。 改めて主観的なことを申し上げれば、サイコロさんが付き合っているフランス人はエロスに関して日本人よりも遥かに真面目だとしても、その人達のエロスに関して真面目な側面がパリをしてラブ・ホテルを不成立にしている訳じゃあないと思います。 翻って、東京や大阪の都市部では、2人で使えるシティー・ホテルは一泊素泊まりで2万円+税・サービス。一泊1万円以内で泊まれるビジネスホテルは超狭い部屋にシングルベッドひとつですね。そこで、2人分の部屋を一泊じゃなくて、2時間~3時間だけ使って7000円ポッキリというのが日本の都市型ラブ・ホテルのレゾン・デートルですがな。 で、ホテル経営側からみると、普通のホテルは24時間当たり最大で1泊の料金で、実際は満室率なる1.0未満の係数を掛けた金額が売り上げになるわけだけども、ラブ・ホテルの方は時間制だから24時間中に3組が使ってくれれば7000円x3組=21000円になります。安普請でもシティーホテル顔負けの商売ができるんですね。 審美学の議論からは大分遠くに来てしまいましたが、下半身からの日欧比較文化論ってのも面白そうですね。

noname#130919
質問者

お礼

見事な弁論ですね。恐れ入りました。いえ、どうぞご遠慮なく。木造百年さんのお人柄もわかってきましたから、そんなに恐縮しないでください。 >エロスに関してですが、私の思うに、フランス人の方が日本人よりは、遥かに真面目なのです。 思えば、私もかなり言い切りました。個別の事例であるという以上のことは言いようがないはずのことを、一般論にしてしまったわけです。日本人を貶める気はありませんでした。お許しください。またおっしゃるように、私と交際があるフランス人は、結構、偏りがあるかもしれません。確かに街中には無頼漢のような若者もいますね。 木造百年さんのおっしゃることは、説得力がありますし、面白かったです。でも、世代の違いというべきか、一点見落としてらっしゃらないでしょうか。恋人を伴って、連れ込み宿に行きたいと思いますか。この「恋人」というのは、お付き合いするかどうかもわかっていないが、肉体関係だけとりあえず持ってしまったというような仲のことです(若者の言葉だと厳密には「恋人」とは呼ばないでしょうね。セックス・フレンドなどと呼ぶでしょう)。 今の若者は贅沢ですから、無理というものですよ。まぁ高校生から二十歳あたりならともかく、もう少し歳をとると不可能というものです。「もう少し歳をとって」もセックス・フレンドとは何なのだろうと思うかもしれませんが、私は暗澹たる気持ちがしますが、周囲を見回しても、そうした風潮が事実なのでどうしようもないとしか言えないです。 ともあれ、となると、ちゃんとしたホテルに行かないとなりません。パッと思いつきで、泊らせてもらうわけにはいかないでしょう。したがって予約をしないとならないわけです。あらかじめ準備を要すると、そう簡単に、その場の思い付きで行動するわけにはいかなくなるでしょう。よほど、よい住居に住んでいれば、そこに呼んで連れてくればいいわけで、話は別でしょう。また、四十歳を過ぎて収入が安定していれば、少し割高になっても、ホテルにパッと入ってしまっていいかもしれませんけれども。 >宿の部屋は広めでベッドが 二つあるけど、浴槽が無い。 余談ですが、フランスは全般的に浴槽がないです。画家のレオナール藤田がパリで浴槽のある住居に住んでいて、当時は特に贅沢で、モデルの女性が入浴に来て、口説くのに便利だったという逸話があるほどです。ちなみに私の住んでいるところもないです。浴槽がある住居は日系の不動産会社が紹介してくれるところで、月の家賃が、十万円前後です。物凄く高いのです。口説けるような部屋に住んでいる人は、一握りだと思いますよ。 さて、ではフランス人は恋人とどこで愛し合うのか。アラン・レネの映画「恋するシャンソン」で、主人公の男が情事の場として年上の友人のアパルトマンを借りるのだけれど、私は最初、この意味がわかりませんでした。ホテルに行けばいいんじゃないか?と思っていたのです。いや、しかし、フランスにいて意味がわかってきました。要するに、ある程度、身持ちのいい家の若者が情事を行うような場所はないので、それなりに小奇麗な部屋を貸してもらったということなのです。 >審美学の議論からは大分遠くに来てしまいましたが、下半身からの日欧比較文化論ってのも面白そうですね。 そうおっしゃっていただけて、ホッとしております。歓迎しますので、どうぞまたよろしくお願いします。

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