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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

cyototuの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.41

今回は、木造さんとサイコロさん両方に質問がある。 先ず、木造米虫さんから。#43の回答、米虫さんの文章も論理も何時読んでも歯切れが良くて判り易い。あたしもまた感心させられて、家の婆さんにあんたの意見を紹介したんだ。家の子供達(と言ってももう疾っくに独立しているんだが)に言わせると家の婆さんが一番頭が良いんだそうだ。あたしの世間知らずは定評が在る。だから、私も正直、いつも婆さんの方が上だと思っている。そしたら、婆さんはあんたの意見に反対した。婆さんが直ぐにインターネットで調べたら、ラブホテルの利用者は圧倒的に若いのが多いと出て来たそうだ。あたしが調べたわけじゃないんで責任持てないが、どうもあんたの言うような既婚者が利用者の大半だというわけではないと婆さんが言ってた。 そこで米虫さんに聞きたいんだが、あんたの主張はどれだけの資料に基づいて言ってんのかね。あんたの論理はいつもいきなり本質を突いていて、さらに凄く判りが良い。あたしの経験じゃ、そんなのが一番危険だね。もしかしたら、もう少しであたしも騙されそうになっのかもしれない。そして、もしかしたら、あんたはいつもそんな判りの良い論理で、若いのを煙に巻いて来たんじゃないかって、そんな気がした。だから、判り易い論理は恐いってのが、あたしの持論だ。あんたの話しは、裏付け資料が在るんかね、それとも、論理的な思索から出て来たもんかね。誤解しないでね。これあんたのこと褒めてんだから。 次に、サイコロさんに質問。あたしは木造米虫さんとは違った意味であんたの文章に感心させられている。物理屋ってのは、一瞬でその論述に現れる概念の間に直感的に序列を付けてしまう。まあその直感は経験から養われて来るもんだ。そして、その序列で余り重要でないと決めつけてしまったことには注意を向けない。だから、その重要だと思わなかったことに対する論旨が不透明でも、それを透明にしようなんて考えないで打っちゃって置く。そして、序列の上位の物だけに神経を集中してそれを透明に表現しようとする。そうじゃなくちゃ、ごちゃごちゃになちゃって、物理屋は自分で何を言っているのか判んなくなちゃうんだと思う。ところが、あんたのやり方を見ていると、どうもそんな序列を付ける前に提出された概念を一つ一つ論理的に明確にしているみたいだね。そして、明確になってからきっと序列を付けているみたいだ。私から見ると、それは凄い才能だ。あんたはもと数学に興味があったと言ってたが、数学ではあらゆる概念が全て平等に重要で、概念の間に優劣がないから、数学屋さんは物理屋のようなやり方は山師みたいだと思ってんだと思う。もしかしたら、そんなあんたの嗜好がそんな才能を醸し出しているんかね。それとも、そのやり方は、あんたの個性ではなくて文献学をやる人間の条件なのかね。 さて本論に行くことにして、木造さんが言っているように、私にもエロが芸術だなんて考える奴は本来日本にいなかったような気がしている。ところが毛唐文化に憧れ、奴らのやってることは何でも重要なんだなんて考えてしまう、時々いる西洋かぶれした学者もどきが、「フランス人はエロスは芸術だと言っている。きっとそうなんだろう。俺はフランス語が読めるから、それが読めないその他の日本人よりもずっと文明に近いんだ。だから、俺にはフランス人の言ったことが判るんだ」なんて気になって、エロス芸術論を日本に輸入して売り込もうなんてしているんじゃないだろうね。別な聞き方をすると、エロス芸術論は輸入された物の考え方なのか、それとも、そんな毛唐どもの話を聞く以前からすでに日本人の誰ぞやがそれに近いことを論じていて、それと毛唐どもの意見を比較見当して、芸術とは何ぞやと論じているのかどうか。その辺りが知りたい。 まあ、世の中には外国人から教わって初めて解った物もないわけじゃないから、別に輸入しちゃ行けないってこたないが、何をもって美と言うかなんてことを、一々外国人から教わらなくちゃなんない民族ってのは、何だか寂しい気がするからね。文化が違えば美だって違って来るってえのは、当たり前のような気がする。だから、もし日本人に西洋人と接する前からエロス芸術論を唱えている輩がいなかったとしたら、そんな議論では、人間とは何ぞやなんて論じているわけではなくて、西洋人て何ぞやとか、フランス人て何ぞやと言うことを論じていることになりかねない。それを日本人が知りたがっても、それはそれで個人の趣味として結構だが、あたしは「あたしは誰でしょう」なんて考えながら年取って行きたいもんだ。 これ結構真面目な質問だから、あたしの言葉使いは気にせずに教えて下さいね。

noname#130919
質問者

お礼

1 猪突先生、どうもありがとうございます。まず私の性格的な問題かどうかについて。文献学というのは、いわゆる減点法で採点がされます。というのも、自然科学と違って、最後の結論に価値はあまりないからです。そうも言えるかもしれないという程度のことは、資料など無くても、誰にでも直感で言えるのです。そうではなくて資料を読みこんだ上で、浮かび上がってくることを示すのが文献学の醍醐味ではあるのです。 >エロス芸術論を日本に輸入して売り込もうなんてしているんじゃないだろうね。別な聞き方をすると、エロス芸術論は輸入された物の考え方なのか、それとも、そんな毛唐どもの話を聞く以前からすでに日本人の誰ぞやがそれに近いことを論じ ていて、それと毛唐どもの意見を比較見当して、芸術とは何ぞやと論じているのかどうか。 猪突先生まで、そうおっしゃるとは、よほど私は議論の仕方を失敗したと見えます。ある程度わかりきっていると思ったので、議論を省略していましたが、まず西洋美術でも、新古典主義までは、劣情と美は分けて考えられていました。ヴィンケルマンは、ヌードとは人間の根源を明らかにするものであり、見ることで心が落ち着くものでなければならないとしています。ここで「エロ=劣情」は問題にも入りません。同じ考え方はゴーティエら高踏派にも引き継がれています。 新古典主義に照らし合わせると、実は日本の方が、エロに関してかなり寛容です。葛飾北斎などの巨匠にしても、春画を描いており、かなり際どいものです。蛸と交わっている女性の姿とか、こちらはエロスというより、ポルノというべきものです。西洋人からしてみると、日本的な美術こそ、退廃的だったでしょう。次の記事は北斎の春画の絵を示そうと検索していて見つけましたが、それ自体はgoogleですぐみつかるので、面白い記事を優先して紹介します。本当かどうかはさておき、日本の方が大らかだったことを示す例ではあります。 http://homepage3.nifty.com/time-trek/else-net/topics-08-1-13.html さて、ヴィンケルマンなどが理屈では、理想を語っているが、実際のところはどうだったのでしょう。ここからが学者の仕事です。アングルの「オダリスク」は新古典主義の作品ですが、果たして、完全に美を表現しているのでしょうか。やはり美女のヌードを見たいという欲求がないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Jean_Auguste_Dominique_Ingres_005.jpg またクレザンジェの「蛇にかまれた女」は、蛇の毒にのたうちまわっているのが表向きの説明ですが、鑑賞者は女がエクスタシーに達した姿を描いていることは百も承知であったといわれます。 http://www.kyuhaku.jp/roji/roji_yn-12.html この調子で、新古典主義の理論の蔭に隠れて、実は裏では春画と同じような意味で芸術が愛好されていたということもあるのです。しかし劣情も美にまで昇華する場合もあります。二十世紀の例をあげてみましょうか。たとえばクリムトのダナエはどうでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gustav_Klimt_010.jpg あるいはエゴン・シーレ。 http://image.blog.livedoor.jp/kajison777/imgs/8/1/8109f706.jpg バルテュスは少女の裸体を描いた作家であり、ロリコンといえば、そうなのです。しかし普通の「エロ」と異なることは一目瞭然でお分かりでしょう。 http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/3004 バルテュスは最後の奥さんが日本人であったように、日本に強い影響を受けているのです。紹介したサイトの下には、和服の女性のヌードが出てきます(「黒い鏡を見る日本の女」)。 ホルスト・ヤンセンは北斎の春画に強い影響を受けています。 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2007/04/post_dbf2.html ただ残念ながら、うまく資料をダイレクトに提示できるサイトはないです。 (補足へと続く)

noname#130919
質問者

補足

2 さて、こうやって考えてみると、西欧美術において新古典主義という建前はあったが、それ以後は、その裏にあったものがおおっぴらに出てきたと言えます。そしてその呼び水として、日本の春画が大きな役割を果たしているということも留意しておいてよいでしょう。つまり日本は、必ずしも西欧に教えられるばかりではなく、「エロ」に関しては、先端を行っていたのかもしれません。むしろ逆なのです。 ただ日本人は北斎にせよ、何にせよ、エロは審美の問題として真面目に扱うべき対象だとはみなさなかったとは言えそうです。私も春画が審美的によいなどという話をした近世の学者など聞いたことはありません。実際、北斎の春画に関する出版物は、近年のものが大半でしょう。だから西欧の芸術家が騒ぎ出して初めて、「ああ、そうか、これもいいんだ」という風になったと思えます。逆輸入と言えますか。 しかし最後にお断りをして起きますが、エロを美とみなそうとする推進者は私ではないんですよ。私は仲間内では、かなり堅い方なのです。私も微妙なのです。お礼欄で示した例などは、とても有名な話で、特に私の見つけてきたものではありません。いや、むしろ本当にこの話をしたいのなら、ポルノと烙印を押されているが、実は私個人の主観によって美しいと思われるものを見つけないと説得力がないでしょう。ただ私はそういうものは興味がないのです。むしろ美に関して公平ではありたいという希望の方が大きいのです。

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