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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

Mokuzo100nennの回答

回答No.39

>たとえば、フランスにはラブ・ホテルがありません。 あのね、世界中どこでもホテルがある町にはラブ・ホテルは要らんのですよ。 日本の農村をドライブしているとね、畑の中にラブ・ホテル! ホテルも旅館もB&Bもないところにラブ・ホテルですね。 この村の主要産業は農業とラブ・ホテルですか?みたいな驚きですね。 フランスでは結婚した男女は自宅で夫婦の営みをするでしょう? 自宅の寝室で出来るんでしょう? 日本の農村では襖1枚隔てたとこで、祖父ちゃん、祖母ちゃんが寝ていて、若夫婦はどうすりゃいいの? フランスの家は石壁で寝室の音や声が漏れないでしょうが、在来木造日本家屋に老夫婦と若夫婦が住むのは大変ですよ。 老夫婦にお迎えがきて世代交代するころには、今度は思春期の娘や息子が襖1枚隔てて寝てるんだよね(笑) ですから、農業とラブホテルだけが産業、みたいな村のラブ・ホテルでは、既婚夫婦が上得意なんですよ。リピーターですね。 ただし、自分の家から一番近いラブホテルではなくて、軽トラックで走って、隣村のラブホテルのリピーターになる。 もちろん、夫婦でない男女も使うでしょうが、そんなことに目くじら立ててはいけない。 なんたって、夜這いとか足入れ婚が延々と続いてきたのが日本の伝統ですからね。 これは、日仏の住宅事情の比較分析(=社会学)であって、日仏のエロさ加減の比較(=芸術文化論)じゃあないんですよ。 住宅事情が改善して、老夫婦と若夫婦が別屋で住めるようになるとラブ・ホテルの経営は厳しくなると思いますね。 人気を維持するためには回転ベッドやミラーボウル、カラオケセットやハイビジョンTVを用意して、自宅の寝室とは差別化しないとお客は来ない。もちろん隣室との壁も厚くして30db位の遮音壁にしなくちゃダメ。 日本人は決して下半身マターを軽視しませんよ、むしろ歴史的に下半身の満足も重要視してきたと思いますよ。 でもね、日本で建築美を論ずるときに村はずれのラブホテルの建築美は俎上に乗らないの。 たとえ、シンデレラ城もどきであれ、地中海風の白亜の殿堂であれ、上半身で議論する時には歯牙にもかからない。 せいぜい文学の世界、永井荷風「四畳半襖の下張り」の世界かな。それでも依然として上半身で審美の議論をする対象ではない。日本では、下半身の事を大切しますが、審美の議論のときはにエロとかグロとかは無視するんですね。 ドイツでも上半身と下半身は厳密に区別しているでしょう。これが「文化」じゃないかな。 上半身と下半身の議論を一緒にするのはやはりフランス人独自の”学際的挑戦”なんでしょうか。

noname#130919
質問者

お礼

>これは、日仏の住宅事情の比較分析(=社会学)であって、日仏のエロさ加減の比較(=芸術文化論)じゃあないんですよ。 田舎の事情を踏まえてという返答ではありませんでした。きっと何かお気に障ったのですね。ごめんなさい。しかし都会だと、ラブ・ホテルの使われ方は、私が述べたことでそう間違いはないと思います。私はフランス人とこの問題を前に話してみたことがあるのですが、日本の恋愛事情にはとても驚かれたものです。村上春樹の小説の世界では、ラブ・ホテルが一つの重要な舞台になりますが、どうもフランス人には何をやっているのかが分からなかったようです。架空の世界だと思っていたとか。それくらいに違うのです。 おそらく、少し誤解があるかと思ったのですが、私は「エロ」の比較をしようとは思っていません。というのも日本語の俗にいう「エロ」とギリシア語の「エロス」の意味は違うものです。エロスは元々、合一を示す語で、決して淫らな意味はなかったのです。性愛にまつわるものを理解する枠組みには、日仏で差があります。エロス、エロティシズムなど平気でフランスでは連発しますが、私が驚いて「エロスはどのようなニュアンスでお使いですか?」と質問すると、実は政治的な含意であるとか、かなり複雑なのです。私が仏語の文献を訳しても、日本の一般の読者にわかるかどうかは、非常に心もとなく、形容詞を補うなど工夫するとか、別の訳し方をすることもあるほどです。 ただし、私としては、フランス=エロという図式には、なるほど日本では流布しているイメージですが、反対せざるをえません。変な話ですが、たとえば児童ポルノにしても法的に規制が厳しいのは、外国の方でしょう。また法規制という上辺のことだけではなく、フランスに来てみるとわかると思います。街中で、渋谷や新宿の繁華街のようなものはありません。また娼婦のような格好をしている女子学生というのもいません。日本の女子学生が留学してきて話すことになると、ちょっと恥ずかしいなと私は思います。東京と比較するとパリは、随分と地味なのです。と言ってもパリを過大広告する大量の記事が出ているので、あまりリアリティを持ってもらえないかもしれませんが……。 >日本では、下半身の事を大切しますが、審美の議論のときはにエロとかグロとかは無視するんですね。 確かに、従来、性愛に関する研究は、審美の研究と違う形で語られてきたかもしれません。しかし近年の日本の文学や芸術の研究の友人と話してみると、これは必ずしもそうとは言えません。ドイツにせよ、ヴィンケルマンのような新古典主義の始祖まで遡れば、それはそうなのでしょうが、現代においては必ずしも、そう言い切れないのです。 >でもね、日本で建築美を論ずるときに村はずれのラブホテルの建築美は俎上に乗らないの。 実際、従来はそうでした。しかし最近、そういう研究が出てきたようです。たとえば次の著作は、建築学的な視野からだそうです。 http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%AE%E7%A9%BA%E9%96%93-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4047033073 私は実は時間がなくて読んでいませんが、英米文学の第一人者の鬼のような先生が「研究テーマってもんは自由なんだねぇ」と感嘆していました。彼からのまた聞きですが、恋愛感情を高める内装は、異国情緒のものが多いのだそうで、文化比較の観点から研究されているのだそうです。ラブ・ホテルの内装も、前のお礼欄で書いた東京ディズニーランドの混淆した様子も、同系統に位置づける議論だとも聞きます。もしかしたら木造百年さんは、批判的な観点からご関心があるかもしれません。それにしても私に内容を語ってくれた先生は学会にも出かけて行ったそうですが、会場から出た質問は「どうやって内部を調査したのか?」というものだったそうです。リフォームの時に、業者に協力してもらったのだそうです。 以下の新書は、またそれとは別の方が書いたもので、建築学的な視野とは別のようですが、結構、売れているようですね。 http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166606207 また次のサイトにはインタヴュー記事があります。 http://www.j-cast.com/2007/02/04005265.html ただ日常会話のレヴェルで、年配の方とする話題として適当では無かったとは言えるかもしれません。「学際的挑戦」は、傷つきますよ。

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