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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

noname002の回答

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.32

子どもの頃から、あらゆる「毒」に触れて来ざるを得なかった私は、それらに対する恐れよりも、「レストランで食事を させてもらえない」といったことのほうが、よっぽど忌避したくなるのです(笑)その理由や原因が分からないと、「だって、ここレストランでしょ?違うの?」とイライラしてしまう(笑) さて、 見事に写真のような、たとえば、アクリル画の類を見ると、その思想性の表現だとかモチーフのことなんかよりも、驚くべき写実性の技術に対して、反射的に目を見張ってしまいます。 「グロッタ」趣味とか呼ぶものがあるそうですが、これは、自然を人工的に模したものですよね。 人工的なものをこそ、なぜ、「楽園」とすることが できるのか。 またも他のかたへの御返事からで、失礼かもしれませんが、、、 >この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです 人間というのは、「嘘」だからこそ安心して楽しめるということもあり、「嘘」には往々にして願望が含まれることもあり、だからこそ、積極的に「嘘」を求めもする、それもまた「真」ということかなと思います。 >美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破 >彼は美の要件を驚きであると定義 >驚きとは刺激があってこそです。 >「美とは常に奇矯なるものである」 >何の気なしに普段見ている夕焼けに対して、詩人が空想力を駆使して、刺激を見出したと考えられる 「奇矯」とは、要するに「普通」でないことですが、「普通」でない、という判断は、排斥行為に繋がりがちですし、それを受け入れるには「刺激的」、と感じるのは、感情が動いたということ、つまり、「感動した」ということですよね。もっとも、通常、違うニュアンスで用いられている言いかただとは思いますが。 まさに、哲学というものも、驚きが源であると言ったのは、ソクラテスだったでしょうか。 ボードレールには、太陽を、いろいろに評する ことばが出てくるのですね。今回、実に久しぶりに読み直してみて、気がつきました。ランボーの『永遠』を、ちょっと思い出したりもしました。 >「身の毛のよだつものに酔い得るのは強者のみだ」 これはですね、唐突でしょうが、横溝正史さんの、たしか、『鬼火』にも、そのあたりの心理の機微を描いた箇所があったと記憶していますが、「強者のみ」とは限らないようだとも思います。 >スタンダールは「美とは幸福の約束である」と述べています。これに対してボードレールは「美とは幸福の約束に過ぎない」と切り返しつつ… 私としては、「美」とは「幸福」そのものに入らせるものだと感じています。 ところで、「淫靡」ということに触れておいででしたが、No.8において申し上げました >>エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のもの >どうでしょうか、けっこう「精神修養」なのかもと思えるのですけども(笑)ひねくれているような人にとっては特にそうじゃないのかな?と。 すなおさがなければ、それは「刺激」という「毒」でしかないでしょう。 先頃、亡くなったジェーン・ラッセルの発言 「肉体は隠すから汚くなるもので、太陽の下では、さらせばさらすほど、きれいになるものよ。」 提示していらした『美への讃歌』の末尾は、こうですね? 「世界の醜さを、一瞬一瞬の重みを減らしてくれるのであるなら」 ならば、つまり、「世界の醜さ」「一瞬一瞬の重み」に耐えられないというのではありませんか? ~「天から来ようと、地獄から来ようと」~ ええ、「力」には関係ないことですね。 「だが本当の旅人とは、ただ出発のために出発する人々」 私に言わせれば、いくら目的を持っているつもりでいても、おのれが産み落とされたときのことを思ってみればよい、ということかと。それならば、「ただ出発のために」と言ったとて同じことではないかと。 また余談ですが、 それにしても質問者さまは、「専門的な文献をもっていない人を批判しても、私にとって何のメリットもないのですよ」とのことですが、この「Q&A」サイトで、質問者さまは、何を目的にしておられるのでしょうか。しておられないのでしょうか。とも思いました。「専門家」というのは、このサイトには、ほぼ、いないも同然、と、かねて聞いていますが、それ以上に、実は、必要ない存在なのだそうですけれど(苦笑) 毎度 散漫な回答で申し訳ないですが。。。

noname#130919
質問者

お礼

他人の回答に対して批判を浴びせないというのは、常識的だと思います。「原因が分からない」というのでは、私はとりあう気がありません。 私が全ての回答者と議論する気がないというのは、それは私の言葉に至らない点があったかもしれません。失礼しました。 では、この設問欄とは何なのか。レストランの比喩がお気に召したようなので、それになぞらえて説明すると、お店にもTPOがあるでしょう。静かに食事するためのお店で、居酒屋のように騒がれると、給仕は冷ややかに接することになります。その判断基準はお店によってまちまちです。ネクタイや革靴がなければ入店できない店もあれば、レディ・ファーストを忘れた時点で摘み出される店もあります。OKWaveの設問欄全てが「ファミリーレストラン」ではないと私は考えています。 さて、私の設問欄の場合、議論が続くためには、マナー良くお話になってくださるということが最低条件で、まとまった形で自説を展開することができるのが必要条件、文献を引けると上得意のお客様になるという考え方なのです。大学院のレポート以上の論述レベルを求めています。 私の対応がご不満のようですが、正直に言わせていただくと、あまりご回答の意味と意義が汲めないのですよ。たとえばジェーン・ラッセルの言葉にしても、何の関係があるのか、私にはよくわかりません。想像力を駆使すれば連想が働くかもしれないが、私には、あまり関係ないようにしか思えないのです。 ボードレールに関しては、引用しつつ反論しているらしい(?)のですが、断章形式ですから、まとまったお考えがあるようには読めていません。ボードレールの意見を代弁し、私の解釈が違うのではないかと述べているのでしょうか。それとも、ご自分の意見を述べるにあたってボードレールが意味のあることを言っているのでしょうか。こうした位置付けもはっきりしていないように思えました。それで扱いかねるのです。ただし「美への讃歌」の引用と考え併せると、次の言葉が主な論旨であると判断できました。 >人間というのは、「嘘」だからこそ安心して楽しめるということもあり、「嘘」には往々にして願望が含まれることもあり、だからこそ、積極的に「嘘」を求めもする、それもまた「真」ということかなと思います。 しかし、これでは真と虚偽の区別がつかなくなってしまいます。わざわざ弁じ立てる意味がないでしょう。本当に関心があるのなら応対しますが、「散漫」と謙虚にも自分で申告なさっている文体から判断して、雑談であるようですから、ご意見が違うことが明らかになったという程度で、終わりにしててよいのかなと思っています。

noname#130919
質問者

補足

あれから何を言っているのだろうかと考えていたのでした。「美への讃歌」ですが、どの訳を参照したかわかりました。しかし、誤解が生じてしまったのだなと思います。私がそのまま訳してみましょうか。 >L’univers moins hideux et les instants moins lourds ? >宇宙がおぞましいものではなく、瞬間がうっとおしいものでなくなるのであれば! →宇宙が華やかになり、一瞬が楽しくなるのであれば! 問題は「醜さ」とネットで訳されていた語です。hideuxは「ぞっとする」「忌まわしい」という意味であって、美醜に関係する「醜」を明確に概念化しうる語ではないのです。前からの文脈でいえば、ここでは「刺激がない、退屈だ」というのが忌まわしさなのです。何でもいいから、自分を陶酔させて、世の辛さを忘れさせてくれるものが欲しいというのです。しかしネット上の訳文を日本語の通り読めば、なるほどボードレールは美醜の区別をつけていると解釈できますね。うーん。

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