• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.27

 No.2&6&9&17&19&20です。  質問者を独り占めしてもいけませんが 一点の主題のみ課題のごとく提出します。    ☆☆(回答No.19) つまり〔ピカソ作品について〕 美だと醜だとの両方の見方があることになります。  ☆ もしこのようであれば 回答No.17で      §2 あえて今 《真善美の一致》という主題について  を言っているのなら・言っているのだから そのピカソの評価は 《真善美の一致》と相い反するではないかとの声を聞きます。  そしてそれが じつはうまい表現で規定していただいた次の論点になると考えている主題であり 課題です。  ★(No.20お礼欄) しかしブラジュロンヌさんは、主観といっても、もう一段階上の主観を想定なさっているようです。つまり、「全体観」と呼んでらっしゃるものです。これがまだ少しわからないのです。  ☆ これはですね。課題というだけではなく ここからは我がままという意味での主観の問題になります。でも あえて提出いたします。  それは 同じくうまい表現で 名無しの二番さんが次のように言い当てておられる命題があります。それと軌を一にすると考えます。  ◆(名無しの二番さん=回答No.23) いかに人工と呼ぼうとも、結局は それも、大いなる自然界のなかのことであると思っています。  ☆ 言いかえると こうです。  ◆(上の言いかえ) いかに美醜の評価がまちまちであっても 結局はそれらも 大いなる自然のさらに大きな非自然の領域で あたかも真善美の一致のもとに 秩序の内におさまるものではないであろうか。  ☆ たとえば こうです。  ★★(趣旨説明) シャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。  ☆ このとき ボドゥレールもこのアンチテーゼのみに留まってはいないであろうという見方を持ちます。  《美についての古代の規範》は 人間に表象しうるものであればまったく別の話になりますが(つまり それは相対的な真実としての真や善であるにすぎませんから) 規範であるかないかが分からないような非自然ないし非経験ないし非思考の無根拠 これを想定として持ち出すというからくりです。  もしこのような非経験の真理を 真善美の一致の究極に 想定として 据えているとしたなら ボドゥレールの反措定は 《反》でありながらも その先に何ものか・一切が総合されてあるテーゼを見据えていると言っても それほど牽強付会なお話でもないと思います。そう見なければならないこともないとともに そう見ても構わないところの自由度があると考えるのです。  さらにじつは そう見ない場合 つまり総合としてのテーゼを見据えない場合 この場合にもけっきょくは大いなる自然のさらに大きな非自然として その――無神論としてのごとくの――やはり総合テーゼは想定していると考えられるからです。  要するにかんたんに言って ボドゥレールが 古代の規範に対するアンチテーゼから《美は刺激的であればよい》として提起したひとつの命題は さらになおその先に大きな命題が控えていると見ることも出来るのではないでしょうか?   これはけっきょく 真善美の一致という究極の命題がはじめにありきから出発したであろう? と反論されること請け合いですが わたしとしましては そういう見方がいちばんなじみがよい。こう考えています。  何だかいたちの最後っ屁のごとくなってしまいましたが 《主観》を出来る限り広く取ってもらって 自己満足の見方を表わすまでとして おゆるしいただければさいわいです。

noname#130919
質問者

お礼

>いかに美醜の評価がまちまちであっても 結局はそれらも 大いなる自然のさらに大きな非自然の領域で あたかも真善美の一致のもとに 秩序の内におさまるものではないであろうか。 >ボドゥレールもこのアンチテーゼのみに留まってはいないであろうという見方を持ちます。 サドなどのリベルタンは真善美とは口にしませんが、自然の秩序の中には、どのような悪行も、凌辱も収まるのだとラディカルに言っています。モラルだとか、何だと言っても、自然は何も禁じていないではないか、と『ジュスティーヌ・または美徳の不幸』で強姦者は少女にいって聞かせるのです。 こうした自然に対する把握の仕方は、当前十九世紀に流布していたクリシェであったと思われます。ボードレールは晩年まで、サドを読んでいなかったようですが、サディスティックな行為に関心があったことは事実とみなしてよいでしょう。おそらく間接的に人から聞くという形ではあったにせよ、かなりの時間を費やして考えたのでしょう。本がすぐ手に入る現代の我々はいかに恵まれていることか!と思わざるをえません。 ともあれ、この件にご関心があれば、ジョルジュ・ブランの『ボードレールのサディズム』を参照されるのが、一番よいかもしれません。サルトルが革新的なボードレール像を提出したことを受けて、それに対して応答した論考です。サルトルの『ボードレール』を読んでおかないと、ちょっと前提となる議論がわかりにくいところはありますが。 アンチテーゼのみに留まってはいない――というのは、その通りでしょう。サンテーゼの所在は結果がどこにあるかを考察することは、その論者の関心に応じて変わるとは言えそうです。 私としては、「美とは常に奇矯なるものである」という定式が開いた異文化理解のあり方に、そのひとつがあると考えています。ただブラジュロンヌさんが求めているのは、もっと主観という問題に関するサンテーゼなのでしょうね。ボードレールは主観と客観の二つが含まれるように芸術はあるべきだと述べていました(「哲学的芸術」)。ここに糸口がありそうな気がしますが、ここはボードレールの設問ではありませんから、深入りは避けておきます。イタチっ屁とおっしゃるからには、これで一区切りということなのでしょうから。 それにしても、ブラジュロンヌさんのBaudelaireの表記は仏語の発音どおりですね。ひらがなからしても、音声と表記を一致させることを追求なさっているようだと思えます。

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