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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.26

 周回遅れのランナーのピンボケ発言をします。お許しを。 絵画(造形物)は作者がいて 鑑賞者(買い手を含む)がいてなりたっているシステムと思います。作者はどんなものでも 意図があって創っているのです。売って金もうけしたい者もいれば 布教の手段として創るものもいれば あるべき美があるとして創る者もいれば 平和を訴えたい者もおり 千差万別であろうと思います。昔からです。クスコーの壁画、縄文土器 ギリシャの造形物 あるいは時代が下がり ルネサンス時代の数々の造形物、江戸時代の浮世絵近代のピカソまで 色々であります。作者は生活環境のなかで 相当に影響されて創作活動をしてきたと思います。  それに対して鑑賞者は いかに評価しているのでしょうか。この評価基準もまた千差万別であります。この千差万別は どこに起因しているのでしょうか。幼児の頃は 絵画と 美とは結びついてはいない。幼児の目に入る世界の一つであって 一つのコミュニケーション手段でしょう。美醜、喜怒、哀楽、好き嫌い、善悪、etcないまぜの情報が行き交っているのです。成長するに従って 美とはこんなものだ、美人画とはこんなものだ、と生活環境下で教えられ、やがて 教えられた通りの評価基準が出来上がるか 反面の評価基準が出来上がる かは別ですが 人固有の基準ができあがる と思います。 この固有の基準の個体差のバラツキはどの程度かということです。それと 関係するかもしれない実験をしたことがあります。40年程前ですが、適正な濃さの写真は個人によってどのように捉えられているか、の心理物理実験をしたことがあります。人物写真、風景写真 約200シーンを対象とし 1シーンごとに7枚の濃度の違う写真を用意します。一方 評価者として 18歳~50歳の男女30人をあつめ 評価の環境条件を固定して 個々独立に一枚ごとに評価し 統計データをみていくのです。するとランダムに選んだ10人の平均評価値、標準偏差と 30人平均評価値、標準偏差、は同一と見做せる相関があったと記憶しています。平均基準値の相関係数は0.9以上であったと記憶しています。つまり ランダムに10人をあつめれば 30人と同等の平均的評価基準値、標準偏差が求められるということです。30人以上の母集団で統計的に2倍の精度をあげる場合は900人以上の評価が必要となり そこまでの濃度の精度保証は写真再現性に問題があり 必要ないと判断できたと思います。 写真濃度の評価するには 実用上 ランダム10人の平均値でありバラツキで十分である ということです。要するにランダム10人の個差を考えておけば 世間多数人の個差として 実用的には問題ない答えを得ることが出来そうだ ということです。 後日 10年ほどのち、この実験結果は 実験参加の特別の30人の結果かもしれない と考え 評価者30人を別人にして総入れ替えして 前の実験とは無関係の18歳~50歳の男女を新たに選び 写真は前回使用したもの(保管は物理的、化学的に変化しないように最大の注意をはらった)を用い、評価実験の環境も同一にして 同様の実験をしました。結果は、30人の平均評価基準の相関係数は0.95以上であって ランダム10人で問題ない という結論も同様であったのです。 結局、この実験から 推定できることは 10年単位ぐらいでは 写真の鑑賞者の個差とか基準値は ランダム10人集めれば変らない ということでした。類推するに 絵画の評価も似たようにランダム10人集めれば実用上問題ないデータは期待出来10年単位は変らないのではないか といことです。なぜ変らないのか、10年たてば生活環境は変っていると思いますが 評価者の評価基準に影響を与えている生活環境は変化していなかったと思うのです。その生活環境は ある程度長期に渡っていると思われ 文化と言ってもいいと思うのです。 文化なら10年単位では変らない いや100年単位でも変らないとしても いいのではないか、と思うのです。つまり文化が背景にある と思うのです。  ギリシャ彫刻の美人像、スポーツの躍動する肉体像など とルネッサンス時代の造形物、あるいは現代においても 似たような造形物が評価される ということは 似たような背景文化がある と思うのです。日本の美人画は 平安時代、江戸時代、明治時代 と変わっていきます。背景文化が変わってきたということでしょう。 鑑賞者は 背景文化のなかで 美の評価基準をつくり 10人あつめれば その平均値、偏差も想定できる ということです。勿論 仮説であります。 以上 大変 失礼しました。

noname#130919
質問者

お礼

丁寧にありがとうございます。マーケッティングすれば、人に快感を与える法則のようなものを導き出すことはできるかもしれませんね。ブッシュは演説の前に、入念なマーケッティングをしたようです。CNNの特番などを見ていると、マーケッティングの力がいかに大きいのかを思い知らされ、少し怖くなります。 しかし快楽が美かといえば、少し違う点があるように思うのです。たとえば少なくても、電通を始めとする大手広告代理店のマーケッティングの研究所では、何を人が快楽と感じるかが調べつくされているでしょう。ただしCMが芸術的かといわれると、いいところもあるが、結局は心地よく消費されるだけだという気が私にはしています。ブッシュの演説も真や善とは無縁でしたし、また広告も真や善とは関係ないでしょう。これは今の中東情勢だとか、買ってみた商品の出来具合を見聞すれば、わかるというものではないでしょうか。 さて、マーケッティングの話しで私から横道にそれた雑談を。美術品の価格のつり上げは、S. N. バーマンの画商デュヴィーンに関するエッセイが非常に面白く書けています。それによれば、何でもデュヴィーンは中世イタリア絵画を最初に赤字覚悟で買い占めたのだそうです。中世イタリア絵画など数に限りがありますから、なるほど買占めようとすれば不可能ではなかったのでしょう。それから美術評論家のベルナール・ベレンソンを擁し、その価値を広告したのです。 ベレンソンの著作は非常に見事なものですし、何より、彼はサロンの名士でした。そのベレンソンがいうのだからと金満家がステータスに欲しがるのですが、こうなると、どうあってもデュヴィーンから買う他ありません。結果、元値の十倍に絵は跳ね上がりました。中世イタリア絵画というと、今では最も尊敬が払われるものですが、こうした裏事情もあったようです。 ものの価値を自分で判断する力がない金満家を愚かだというべきでしょうか。しかしベレンソンという一級の評論家の意見を傾聴しただけ、マシであるように私には思えています。今ではそういう買い方をする人は少ないのではないでしょうか。

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