• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.19

 No.2&6&9&17&19です。  §6 作品のよしあしということ  ★ となると「私ならどうだろう」と芸術家に同調する形で、その作品が主観をどのくらいよく表現しているかを判断するということでしょうか。そうであるとすれば、芸術作品とは鑑賞者の心の内面を写す鏡だという位置付けになるように思われますが、いかがですか。  ☆ 《芸術家に同調する形》を抜きにして そしてあるいは《芸術家の主観をどのくらいよく表現しているか》という観点を持つこともなく ただそのまま見ます。  ☆☆(回答No.6) ~~~~~~  2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。  5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これだけです。ほんとうにこれだけです。  もし多少とも画家の人となりについて情報を得たとするならば   ★ 芸術作品とは鑑賞者の心の内面を写す鏡だという位置付けになるように思われますが、いかがですか。  ☆ というとき たぶん・おそらくそのように《鑑賞者としてのわたしの心の内面を写して 美を推し測った》のであろうと思うし またひょっとすると同じように画家の《内面を写して描いている》のかも知れないと思うことがあります。  ただ 鏡として絵画が おのれの心の内面のすべてを写していると思う作品は稀れでしょうし ゆがみや食い違いもあると思います。ほとんどつねにあるはずです。東山魁夷などは 多くの人の内面を写す大きな鏡になるかも知れませんね。(でも 推測です)。  かくして 作品のよしあしも すべて主観である。こうなります。  §7. 《無意識を引きずり出す・意識を記載する》ことと主観とについて  ★ 最後に主観の世界を表わしているというのなら、シュルレアリスム的な手法によって無意識を引きずり出してくる創作活動があるわけです。あるいはシュルレアリスムという流派とも外れて、自らの意識を記載する試みがあったわけです。主観をより直接的に表現するという点では、まさにブラジュロンヌさんの基準に当てはまるのですが、これについてはどう評価なさいますか。  ☆ アンリ・ミショーの事例について思ったところを述べます。メスカリンなどドラッグを服用する実験で 内面を見てみよう・引き出して表現をあたえようといったところでしょうか。  ▼ (メスカリン実験の巨人でフランスの詩人・画家のアンリ・ミショー)~~~  メスカリンを通じて全ての人は自分の中に「極めて重要な何か」を持っていることを発見した。  人間というものをもっと敬虔な態度で扱わなければならないということに気づいたからだという。  ~~~~~~~~~~~  ☆ ちょうどこの結果が あたかも作品の鑑賞の結果としてのようにあると思いました。  ☆☆(前掲) 2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。 / 5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。  ☆ つまり《全体》観ということが 重要だと考えます。  ▼ メスカリン実験の経験を表現しようとして、言語という媒体の限界を改めて強く意識することになったミショーは、この後に絵画に表現の重心を移した。  ☆ ということだそうですが 先の結論は得たということですから あたかもその実験が 絵画鑑賞に譬えられるひとつの体験であったと言ってもよいほどだと考えたのです。  ▲(アンリ・ミショー「みじめな奇蹟IIメスカリンととも」により)~~~  ・私の冷静さが、振動する無限世界の言語によって千度も冒され、無数のひだを持つ巨大な流動状の線の群によって正弦曲線状に侵蝕されるなかに、わたしはいた。  ・・・・、《眩しく目をくらませる》ということばにすぐ続いて、弾道のような何本もの長いナイフ 眩しく輝く何本ものナイフが、空虚の中を、すばやく耕す。  ・突然、一本のナイフが、突然千のナイフが、稲妻を嵌(は)めこみ光線を閃かせた千の大鎌、いくつかの森を一気に全部刈り取れるほどに巨大な大鎌が、恐ろしい勢いで、驚くべきスピードで、空間を上から下まで切断しに飛び込んでくる。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これらは あくまで部分であると思います。メスカリン体験というあたかも絵画鑑賞の中ではその作品の部分を見ているところであって最後の全体観は 初めに掲げられた結論であると。  シュルレアリスムが無意識を引きずり出した場合にも 個々の表象ではなく最後の全体観としての主観を問うべきだと思います。ひとつの最終的な判断として全体を見ているそれです。

noname#130919
質問者

お礼

>かくして 作品のよしあしも すべて主観である。こうなります。 そうですね。若干の差異はあれども、特に私から反論することはないように思います。というのも、ご自分の説を展開すると同時に、私の説をお認めになっていますから。対立関係という形ではなく議論してくださったことに感謝しています。しかしブラジュロンヌさんは、主観といっても、もう一段階上の主観を想定なさっているようです。つまり、「全体観」と呼んでらっしゃるものです。これがまだ少しわからないのです。 話は逸れる形ですが、アンリ・ミショーについて、少しお話します。単に絵を一枚示しただけというつもりですが、そのサイトにあった内容を検分してくださったのですね。どうもありがとうございます。 ミショーについて少し概観してみますと、私は思想家のドゥルーズがミショーについて示唆的にまとめた議論は鋭いと思うのです。それによれば、ミショーの造形の特徴はdevenir「何かになる」というものだというのです。 しかし「何かになる」といっても、常に「何かになり続ける」のであって、ある特定の最終的なフォルムをとりはしません。ミショーの語り手はその詩の中で、クジラになったかと思えば、クジラを殺す銛打ちになり、さらに転生して行きます。決して、留まることを知らないのです。常に何者かに変化し続けるということによって、何者でもないのです。 こうした流動性が、人間一般の主観に対応している、と考えてみても面白いかもしれません。そして、こうした造形は政治的な側面もあります。つまり人間の主体の流動性をシステム化して阻害するものとしてナチスのファシズムを位置付け、厳しく批判するのです。 « Immense voix »などはその顕著な作品です。

関連するQ&A

  • 音楽って何のためにあるの?

     っていう問いは成り立ちますか?  わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  音楽についての哲学ってありますか?

  • プラトン 存在論上の主張

    プラトンは個々の美しい事物のほかに美のイデアが存在するという主張のために、幾何学の事例を用いた論証を行ったそうですが… 物理的世界は大きさをもたない「点」、幅のない「直線」などを含んでいない。 幾何学の定理はそのような対象への言及を行っている。 幾何学の定理は真である。 したがって物理的世界とは別に、幾何学的対象の世界がある。 なぜイデアの存在を主張するために幾何学や数学が出てくるのでしょう?私は頭が悪いかもしれませんが、プラトンの言いたいことがさっぱりわかりません。 すみませんが、わかりやすく説明してください。

  • ついに20歳になり、選挙権をゲットしたのですが、私に本当の意味で権利などあるのでしょうか?私は投票すべきでしょうか?

    ついに20歳になり、選挙権を得ましたww。 ところで先日プラトンの『国家』を読み感動しました。 「民衆が政治をやるとどうせ衆愚政治になる、だって民衆は感情的で、自分の利益を追求するだけだから、 デマゴーグに引っかかりまくり、ではどうしたら政治をうまく行えるか、真、善、美のイデアを追い求める哲学者が行うしかない」 ということをプラトンは言っていたような気がします(よくわからないとこも多いのでかなりかみくだいた自己流の解釈です、間違ってたら教えてください)。 ワカランなりにえらく説得されました。 ついでに自分は明らかに衆愚だと思いました。 だって私の論理はいつだって感情的です(感情を廃して理性的であろうと努力しているときでさえ、あるいはそういう時ほどcfニーチェ)。 社会問題をきちんと判断できるだけの情報も持っていません。 たかだかニュース番組をほぼ毎日見ている程度。 政治に対して詳しくもないので、TVに出てる政治評論家の言うことをほうほう、と納得して聞いてしまいます。 でも多分、TVに出てお金もらってるってことは、メディアが嫌がる意見は言えてないってことですよね。 要するに私はデマゴーグに引っかかりまくりです。 どの情報がデマゴーグによるもので、どの情報がそうでないのか、判断のしようがありません。 さてはて、私は衆愚なので本当の意味で選挙に参加する資格などないのでは、と思いましたが、それでも投票するべきなのでしょうか? 長文失礼いたしました。

  • 哲学について

    『プラトンのイデア論について』の説明と『デカルトの認識の客観性について』についての説明が出来る方、返事待っています。これがテストの課題なのですが、自分は哲学を専門に勉強していないので、良く分かりません(>_<) なので初心者でも分かりやすい説明をしてくれると、尚一層良いです★(贅沢でしょうか・・)よろしくお願いします!

  • この文の和訳について

    こんにちは。 下の文の和訳聞きしたいのですが、よろしいでしょうか。 For Plato,art derives from an ideal,but its distance from that ideal makers it useless at best and possibly dangerous. 私の訳:プラトンによると芸術はイデア的なものに由来する、しかしそれ(芸術がイデア的なものに由来する事?)は、イデア的なものを作る人にはそれ(芸術?)は最も無用で、ひょっとしたら危険かもしれない、という事と遠ざかる。 ・特に聞きたい点・ (1)私は、「but its distance from」の「its」を「芸術がイデア的なものに由来する事」、「ideal maker it」の「it」を「芸術」の事かと思ったのですが、違うでしょうか? (2)「distance from that」の「that」は接続詞、その後の「ideal maker~」は名詞節、と考えたのですが、合っているでしょうか? (3)哲学の話なので、「ideal」を「イデア的なもの」としたのですが、これでいいでしょうか? (4)もっと自然な訳を教えてください; ご教授いただければ嬉しいですm(_ _)m 変な訳で申し訳ありません;

  • 美しさについて

    素朴な疑問です。 私は、花を見ると「美しい」と感動し、元気がでます。 美術館に行って、絵画を観ても「美しい」と感動し、元気がでます。 私は男性ですが、内面・外面含め、女性に対しても同じ心の動きかもしれません。 しかし、「美しい」ものを見ると所有したくなります。 いわゆる執着心と言えるでしょうか。 西洋哲学では、いわゆる哲学が「真・善・美」の追求と言われるように「美」を肯定しますが、 東洋的な仏教的な考えでは、いわゆる「煩悩」として「美」は否定されるのでしょうか? 回答をお待ちしております。

  • 人が おしえる・おそわるということは どういう事態か

     読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。つまり 真に似せる。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか。  先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力の場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。    そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。  まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか これです。つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立する。   これには もう少し 先もあります。  早い話が この質疑応答で 回答者が おしえるのではなく 質問者も ただおそわるのではなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか。  果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。

  • 私の気にしすぎですか?

    今授業で哲学の授業があります。 前期はチャレンジャー号などの技術者としてどうするかということを習い、後期は古代ギリシアの哲学的なことを習っています。 工学系の専門なので、前期はわかるんですが、後期の古代ギリシアの哲学は必要なんでしょうか? 古代ギリシアの哲学は、ソクラテス・プラトン・アリストテレス・ベンサム・ミルで、先生はやたら愛や恋について語るのです。ソクラテスは「恋に通じた人」で、美青年のアルキビアデスとの関係、プラトンの壮大な恋の話などなど・・・。また、アリストテレスの言葉に対する先生の解釈として、「芸術家やエンジニアが優れていると言われるのは、出来上がった作品がすばらしいというより、その人が持つ技能・働きがすばらしいからである。」と、プリントに書かれてあり、それは、先生の考えの押し売りじゃないかなぁって思うんですが。私は、哲学を始めて習うのでよくわからないのですが、必要なのでしょうか?また、先生が授業中にピコピコハンマーを持ってきて、注意をするときに、そのピコピコハンマーでたたくのはおかしいことですよね?

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 価値のシステムについて(権力かな?)

    たとえば、会社、「美人論」、「やさしさ」など、なんでもいいですが、そこには優劣を定めるような価値のシステムが存在すると思います。その、価値のシステムをわかりやすく説明できるかた、または、そういうものを研究している哲学者などはいますでしょうか。たくさんいると思うんですが、ちょっとぼくにはわかりません。もしよろしければ教えてください。よろしくお願いします。 「真・善・美」というよりは、世俗の価値システム。例えば、隣人との間の権力???関係?クラス内の優劣???など、の方向で考えていきたいです。質問分がわかりにくくてすいませんでした。