• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.18

 No.2&6&9&17です。  §4 間奏曲として 前置きです。  いやぁ おまえの考えを述べよと――しかもほとんど感性の問題として扱っている主題領域について 述べてみなさいと――要請されるのは 回答者冥利に尽きます。ありがとうございます。とともに どうか割り引いて受け止めてください。  §5 ピカソについて――《美は主観》説とのかねあいで  ★ まず以前、ゴッホはよいが、ピカソはわからぬとおっしゃっていましたね。その差は何でしょうか。  ☆ これは ほかの二つのお尋ねとも関係しますが 作品を見て分からぬ ということです。それだけのことになります。  ☆☆(回答No.6) 1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。  ☆ この結果 ピンと来ない。分からない。そしてたとえばゲルニカなら――その後 幾何学模様がうつくしいかなと感じたものの ほかに牛やら頭やらがいっしょにあるからにはやはり―― どうも全体として うつくしくない しっくり来ない。と見た。  まったくこれだけのことになります。  ★ これはブラジュロンヌさんの感性にピカソが訴えかけてこないというだけのことであって、ピカソの作品が劣っているということではない、という風に考えてもいいのでしょうか。というのも、ピカソもゴッホも自らの主観を表現していることには変わりないからです。  ☆ ゲルニカなら この絵が好きになる人はいるのかなぁといぶかしむわけです。理論としてではなく ただの気持ちとして。でも これまで サイコロさんと チャオポルポさんご夫妻と もうひとりこのQ&Aでピカソ関係の質疑応答の中に 見ていると力強さを感じるという評言があり つごう四人の方が 感動の経験を訴えています。  わたしは 三人いれば その観賞結果が一般的だと見てよいと思っていて ピカソも美の作品を残していると認めざるを得ません。  ということは 《美は主観》ですから はっきり言ってピカソの作品はおかしい 美ではないという鑑賞結果も――この OKWave の質問にはずいぶん多くの声が届いているのを確認したのですが―― 一般的だと見なします。  つまり 美だと醜だとの両方の見方があることになります。  ★ あるいは、ピカソの作品が訴えかけてこないとは、すなわち、彼の主観が劣化しているということなのでしょうか。というのも、ブラジュロンヌさんは認識されたものを表現するにあたって技巧の問題は無いとお考えなのですから、表象されたものは直接、その人物の内面を示すことになるでしょう。しかしそうであるとすれば、ある作品を判断する際には、審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。  ☆ 技巧の問題をいま措いておいて:  ★ 表象されたものは直接、その人物の内面を示すことになるでしょう。  ☆ とそのまま思います。  ★ しかしそうであるとすれば、・・・審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。  ☆ なると思います。ただしこれは 人間には分からないのです。自分の内面のことすら 分かったものではありません。  でも実際問題として《内面のあり方が作品に反映するであろうと人はしばしば見るであろうし そこから人間性を値踏みするような見方にまで傾くことも無きにしも非ず》ではないでしょうか?    でも基本的には 分からないのだと思います。自分のことすら分からないということと そしてその人の内面にあるものごとは ひょっとすると誰かほかの人から受けとめたもろもろの心理の動きであるのかも知れません。自分の悩みや欲望であるのではないかも知れないということ。これらのことから決定的に分かるものではないと考えられるからです。  ★ 技巧  ☆ は どうなんでしょう? セザンヌがリンゴを見たとおりには描かないで鑑賞のときどう映るかの観点から勝手に描いた。この技巧は セザンヌの主観ということでよろしいでしょうか? ほかの画家はそれを盗んだのでしょうが もともとは技巧の問題が一人歩きするのではなく 一人の主観から現われたとすれば 《美は主観》仮説はまだ持ち堪え得ましょうか?   あるいは 筆をいろんなふうに工夫するというのも 技巧なのでしょうが それも画家の主観から出て来ると見ることができましょうか? 必要は発明の母のごとくに。  ゴッホが暗い色から明るい色に変えたのは 技巧でもありつつ それはただ単に北から南の土地へ移って その主観に明るい感覚が印象されたからと言いきれましょうか? 浮世絵もその技巧のもとは 誰か一人の画家の主観から出たものということでよいでしょうか?

noname#130919
質問者

お礼

丁寧にありがとうございました。喜んでいただけて、私も嬉しいです。ピカソのことは、納得いきました。まさに「ゲルニカ」という作品それ自体が、美と醜という区分が解体された作品の好例だと言えそうです。「美しいか否か?」と聞かれたら私は「美しい」と答えるでしょう。しかし前に回答した時も、私は力強いとか、迫力があるという表現を優先したと思います。こうした刺激を好ましいと感じるか否かは、個人の感覚によって違うと言えるでしょう。 >審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。――なると思います。ただしこれは 人間には分からないのです。自分の内面のことすら 分かったものではありません。 これは少々宗教的ですね。人間にはわからず、神のみぞ知るということでしょうから。それこそ非思考の庭と、ブラジュロンヌさんが呼んでいるものでしょうね。 技巧に関しては、複合的な理由があると私は考えています。流派の作った様式があるのですから、常に技巧=主観とは言えないでしょう。浮世絵になると、その全部を主観だということはできません。ただし自分の内面を表現するにあたって、何が最も適切かを試行錯誤するということがあるでしょうから、技巧を分析することによって主観へとアプローチすることができるでしょう。それが最も自然な形でできるものが、主観を十全に表現した作品だと言えないでしょうか。あまりこの書き方では、ブラジュロンヌさんからのボールへのお答えになっていないかもしれませんが。

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